風が吹いていた。
 さほど強い風ではない。だが、草木がそよぐには十分なだけの風が晴れ渡った空の下を吹き抜けてゆく。
 ───ここは、どこだった?
 ふと、意識がそんな疑問を形作る。
 ゆるりと頭(こうべ)を巡らせれば、蒼穹は見事なまでに鮮やかな青に輝いている。
 そして。
 眼下には、なだらかに起伏しながどこまでも続く、草原。
 ざあっと音を立てながら、吹き抜ける風に緑がざわめく。
 大海原のように、湧き立つ波がどこまでも果てしなく重なってゆく。
 ───ああ。
 その光景に、溜息とも吐息ともつかない声がこぼれた次の瞬間。
 意識は遥かな地平を駆けていた。
 もっと遠くへ。
 もっと速く。
 ───あの場所に。
 向かい風を巧みに受け止めるようにして、大海原のような草原を越え、どこまで突き進んだのか。
 やがてふわりと唐突に疾走が止まった。
 相変わらず、空は眩しく、遥かな足元では緑の波が流れてゆく。
 ここはどこだったか、と己が何を目指して駆けてきたのかも認識できないまま、そうして周囲を見回すよりも早く、
「あれ、珍しい人が来たようだね」
 のんびりとした声がかけられた。
「何年ぶり……っていうより、何百年ぶりかな?」
 若い、だが青年とは言い切れない不思議な響きを持った声だった。
 が、その響きの美しさをまるっきり損なう、欠伸(あくび)まじりの妙に間延びした口調に、変わっていない、と苦笑して。
「!」
 そして初めて、自分が苦笑したことに気付き、本能に突き動かされていただけだった自分が意志を持っていることに気付いた。
 ───ああ、そうか。これは……。
 自分が何者なのか。
 ここが、どこなのか。
 一瞬のうちにすべてを思い出して。
 浮かんだ表情は、ごくごく淡い、裡(うち)の感情の読み取れない笑みだった。
「かれこれ一千年以上になるか、老子?」
 意識を向ければ、自分でも意外なほどなめらかに声は出た。
 もっとも今は肉体を伴ってはいないのだから、音声が大気の振動を介して伝わっているわけではない。指向性を持った想念が、あたかも音声を耳にしたように相手に伝わっているというだけのことで、それは相手の方も同じだった。
 目の前の、自分と同じく宙に浮かんでいる相手には影がない。彼もまた、実体ではないのだ。
「そうだっけ?」
 しかし、緊迫感のかけらもない、欠伸まじりの声ならぬ声が、のんびりと答えてくる。
「そんなに寝た気は全然しないけど……」
「おぬしにとっては、一時間も千年も大した差はなかろう」
 そう告げて、小さく笑う。
 この期に及んでも、まだ笑うことのできる自分に少しだけ呆れ、一方で少しだけ誇りを覚えながら。
 すると、
「つまらない夢ばかり見ているからねぇ、眠っているのか起きているのか、自分でも分からなくなるよ。こうして君とまみえている私も、もしかしたらその辺りの羊の見ている夢にすぎないかもしれない。その方が世界にとってはずっと良いことだと思うけどね」
 彼もまた、ようやくはっきりと瞼を開き、わずかに面白がっているような表情を金色の瞳に浮かべた。
「しかし、久しぶりだね、王亦。それとも太公望と呼んだ方がいいのかな?」
 その言葉に。
 淡い笑みが少しばかり、深さを増した。





「こういう場合、やはり初めましてと言うべきなのかな、太公望」
「そうだのう。少なくとも、この姿で会うのは初めてなのだしな。わしも初めましてと言うべきかのう?」
「あんまり嬉しくないねぇ」
 あふ…と太上老君は小さくあくびした。
 その姿もまた、なかば風に透けて宙に浮いている。
 草原を吹き抜ける風の中で、意識体の二人が語り合っている様子は、もし見えるものがいれば異様な光景として映っただろう。
 だが、地表で草を食(は)んでいる羊たちも、その飼い主である村人達も、誰一人として空を見上げはしない。
 だから、どこかのんびりとそれらの風景を見下ろしながら、人ならぬ二人は言葉にならぬ言葉を交わしていた。
「でも、いくら夢渡りとはいえ、こんな所に来て大丈夫なのかい? あなたの記憶は、まだ当分の間は封印しておく予定のはずなのに」
「崑崙山に居る『太公望』の本当の時間は真夜中だ。熟睡して目覚めた時には、夢を見ておったことも覚えてはおらぬよ。これくらいの刺激で解けるような封印では、危険すぎて意味がなかろう」
「なら、いいけどね」
 本当にどうでも良いことのように太上老君はぞんざいに受け流す。
 そして、一つ小さく嘆息してみせた。
「でも、あなたが来たということは、本当にアレが始まるんだね。ちょっと前に『王亦』が金鰲に行った時は、まだ冗談ですむかと思ってたのに」
「たわけ。一つの星の運命が賭かっておるものを冗談ですませようとするでないわ」
「そう言われても……。私としては、どっちでも同じなんだよ。生物も無生物も、誕生すればいつかは消滅する。創造主が用意した脚本があろうとなかろうと、それに流されようと抵抗しようと、いずれ消えてゆく定めからだけは決して逃れられない。そこに意味を見い出そうとしても無理なんだ」
 欠伸まじりに、もぐもぐと太上老君は語る。
「植物の種が落ちた場所に芽吹いて花を咲かせ、枯れていくように、一旦生まれてしまったら、いつか心臓が止まる日まで生きる。生命というのはそれだけのものだよ。たとえ誰かの手のひらの上であっても、生命の行く末は変わらない」
「それはおぬしの意見であろう」
 吹き抜けてゆく風を見送るようにしながら、太公望は反論してみせた。
「それだけでよしとは出来ぬ者も多いのだ、この世界には」
「かもしれないね」
 太公望の言葉に、あっさりと太上老君は首肯する。  単に言い争うのが面倒なだけかもしれなかったが、流れに逆らうことを是としない彼は、不必要に肩を怒らせて論陣を張ることを根本的に好まない。
 それゆえに、この争いと柵(しがらみ)に満ちた欲望の渦巻く世界で、賢人と称されているのであり、また、あの計画の一翼を担うべく選定されたのだ。
 やる気のない性格をしているとはいえ、本来の実力は三大仙人の中でも筆頭格であり、また俗世界を捨ててしまった彼だからこそ、できる役割というものもある。
 だから、女禍をこの惑星から排除する計画を持ちかける時、王亦=太公望は真っ先に彼の元に身を寄せたのだ。
 どれほど世界にとって危険な異分子であろうと、太上老君の元に居る者に、他の仙道が手出しをすることは許されない。その不文律を知っていたからこそ。
 進んで彼を巻き込んだ。
「あなたも『彼女』も、そういう意味では最も往生際の悪い存在だよ。逆らわずにいれば、それですんでしまうものを、己の満足のために力づくで流れを変えようとする。実に性質(たち)が悪い」
「……普段は無駄に眠りほうけておるくせに、口を開くと嫌なことしか言わぬ奴だのう」
 辛口の批評に、太公望は小さく肩をすくめる。
「わしもあやつも、自分のしようとしておることが只の自己満足だということは知っておる。だが、そうせずにはいられぬものがあるのだよ。一定レベル以上の精神性を持ってしまった生物の業(ごう)と言えば、それまでだがのう」
「まったく迷惑な話だね」
「同感だ」
 ふう、と太上老君はついた。
 永久に芽の出ない種子に水をやるような不毛な会話に、多少の疲れを覚えたのだろう。次に出てきた言葉は、ここまでの内容には今一つ関係のないものだった。
「けれど、思っていたよりあなたは性格が悪いみたいだね、王亦」
「──否定はせぬが、突然、何だ?」
 脈絡のない、しかも決して褒め言葉とは言えない感想に、太公望は、しかし機嫌を悪くするでもなく問い返す。
「だって、以前のあなたと今のあなたは、まるで別人だもの。元始天尊も戸惑ってるんじゃないのかな。あの王亦が、こんなのになっちゃって」
「こんなのとは……おぬしも言ってくれるのう」
 文句を言いつつも、自覚はあるのか、太公望は軽く肩をすくめた。
 そして、青く光る空を見上げる。
「仕方がなかろう。こんな素のわしでは、元始天尊や通天教主はともかくも、あの燃燈を言いくるめることはできぬ。かといって、今時珍しくなった古術の使い手を計画に巻き込まなくても戦力が足りると思う程、わしは楽天家でもない。となれば、方法は一つであろうが」
「つまり、熱血漢で曲がったことが大嫌いな燃燈を言いくるめるために、いかにも始祖らしい雰囲気を演じてみせたというわけ?」
「その通り。あの『王亦』にさえ反論を試みたほどの男だ。人を食った物言いで本音を隠すのが習い性になっておるような本来のわしでは、説得するにも時間がかかる。桁外れに強烈な気を発しておる仙人を複数、それも長時間、同じ場所に集めておいて、不用意にあれの関心を引くわけにはいかなかったからのう。話を都合良く持っていくために、手っ取り早い方法を採っただけだ」
「正直だね」
「おぬし相手にごまかしても仕方あるまい」
 揶揄とも取れる太公望の言葉に、しかし太上老君は返事をしなかった。
 太公望もまた、それを気にすることなく続ける。
「いずれにせよ、もう計画は始まっておる。結末は、あやつが滅びるか、わしとこの星が滅びるか、そのどちらかしか有り得まいよ。今更、言葉を飾っても仕方がない」
「同族の内紛に、勝手に他所の星を巻き込まないでもらいたいものだけど……。まぁ、私は手出しはしないから、あなたたちの好きにすれば良いよ」
 あっさりとした、ある意味無情な返答に、太公望は小さく笑んだ。
「それで良いさ。わしがおぬしに頼んだのは、二つの『鍵』の保管だからのう。おぬしの性格が変わって妙に活動的にでもなられたら、かえって計画が崩壊する」
「まぁね。私も、これ以上面倒なことは御免こうむりたいし……。うるさくされるのは好きじゃないから、『鍵』がここにあることは誰にも言う気はないよ。元始天尊は薄々気付いてると思うけど……」
 そして、太上老君は長い袖に包まれた手をわずかに動かして、地表を示す。
「あそこ。一つ目の『鍵』は、ちゃんと生きてるよ」
 太上老君の手が指し示す先を目で追えば。
 地表に幾つも点在する白いフェルト張りの包(パオ)の一つから出てきた人影が、見える。
 それは、青い服を身に付けた小柄で華奢な女性だった。
「英…鈴……」
 軽く目をみはった太公望の唇から、小さな声が零れ落ちる。
 食い入るように上空から見つめるその先で、女性は裾にまとわりつく小さな子供に笑いかけ、何かを話している。
 この距離では言葉までは聞き取れないが、楽しげな子供の笑い声が風に乗って青空に高く響いた。
「元気…そうだのう」
「見ての通りだよ」
「あれは、英鈴の子供か……?」
「そう。今年で四歳になる。女の子だよ」
「……そう、か」
 うなずき、それでもまだ視線を外そうとしない太公望を、太上老君は深く光る金色の瞳で見つめる。
「あなたにも肉親の情はあるんだ?」
 そして出てきた言葉は、感情には乏しいもののどこか辛辣な響きを含んでいた。
 その声に、太公望はゆっくりと顔を上げ、太上老君を振り返る。
 深い色の瞳が、まっすぐに金の瞳を見つめた。
「──欺瞞だと言いたいか? 実の兄でもないのに、存在を気にかけるのは」
 かすかに笑みさえ含んだ声に、だが太上老君はのんびりと欠伸して答える。
「あなたを批判しているつもりはないよ」
 眠たげに目を閉じて、彼は続けた。
「ただ不思議なものだと思ったのでね。私が最初に会った時、あなたはこの星の生物の肉体をまとっていたけれど、中身はこの星の生き物ではなかった。期が熟すまで、何十億年とこの星に同化していたのにも関わらず。
 封神計画もそうだ。この星の生物の視点に立って立案されたものではない。あくまでも超越者として、あなたは我々を計画に巻き込んだ」
 太上老君の少年とも少女ともつかない中性的な音域の声は、遠く響き渡る晩鐘の音のような深みを持っている。
 あるいは肉声ではないからこそ生まれるのかもしれない微妙な響きを、太公望は静かに聞いた。
「王亦は人間の女の腹から生まれても尚、この星の生物とは異なっていたのに、抜け殻に魂魄が入り込んだだけにすぎない太公望が、何故そんなにも『人間』らしいのか、疑問に感じるのも当然だと思わないかな?」
「……なるほど」
 そして、太公望はうなずき、過ぎ行く風にゆるりとまなざしを向ける。
 初夏の空はどこまでも青く、眩しい。
「魂など、所詮変質するものなのだよ、老子」
 凛と揺るがない声は、静かに天と地の間に響いた。
「確かにわしは、長い時間、三人の同胞と共にこの星に同化していた。だが、その間の意識は希薄でのう。ありとあらゆるものの中に存在していた記憶はあるが、その一つ一つを思い出そうとしても夢うつつで、ひどく遠い。
 そして、『王亦』は生まれ出るのに人の腹を借りたものの、本質がこの星の生物でないために、本能的に違和感を感じ取った肉親に忌まれ、一定レベルまで成長すると同時に生家を捨てて、仙界へ向かった」
「……つまり、これまで人間としての感覚を学習する暇がなかったと言いたいの?」
「言い訳をさせてもらうのならばな。わしは、ずっとわしでしかなかった。真の意味で、この星の生物になったのは『呂望』が最初の経験だ。始祖としての記憶も能力もすべて封じ、ただの人の子として育てられたがために、仮初(かりそ)めに初期化されていた魂が人間の情愛を記憶してしまったのだよ」
 淡々と綴る横顔を、太上老君は感情の浮かばない瞳で見つめる。
「この星の生物としての思考や感情を、我が身を持って知ったために、計算外のことではあるが始祖としてのわしの本質は、多少ながらも変化してしまった。呂望となる以前の本来のわしが、この星に感じていたのは、一言で言うなら憐れみだった。人間が虫けらに感じるような……到底、対等とは言いがたい傲慢な感情だ。
 だが、今はもう、そんな冷めた思考は持てぬ。始祖としての意識はあるのに、魂に刻み込まれてしまった人間の情が邪魔をするのだ」
「──それは、あなたにとって良いことなのかな?」
「さあのう」
 吹き抜けてゆく風を受け止めながら、太公望は青空を見上げる。
「わしにとってはどうだか知らぬが……もしかしたら、この計算外の歪みは封神計画を変質させる結末になるかもしれぬな」
「計画を?」
 その言葉に、太上老君は小さく反応した。
 淡い色の前髪から透ける金の瞳を振り返って、太公望は微笑する。
「封神計画は超越者が立案したものだと言ったのは、おぬしであろう?」
「───…」
「女禍を排除するのは良い。だが、それ以外の部分が、な」
「それ以外?」
「うむ。少々気に入らなくなった所がある。もっとも、それを手直しできるかどうかは状況次第……もう難しいがのう」
 くすり、と笑って言葉を切り、太公望は天を仰いだ。
「いずれにせよ、なるようにしかならぬ。わしが勝つか女禍が勝つか……、知っておるのは宇宙の摂理だけであろうよ」
「随分と無責任なことだね」
 溜息をつくように、太上老君は感想を告げる。
「でも、あなたが始めた計画だ。あなたの好きにすればいいさ。私の中にある始祖の欠片もそう言っているしね」
「おぬしの中というと……軒袁(けんえん)あたりか? あれも他人の事情に深入りするのは嫌いな奴だったが」
 小さく笑って、太公望は地平線まで広がる青空を透かし見るように遠い目を見せた。
「さて、見るべきものは見たし、言うべきことは言った。そろそろわしは戻るよ」
「そう」
「いずれまた、おぬしの前に今度は実体の『太公望』現れるだろうが、いかんせん、ただの道士だからのう、能力を引き上げるのにも手間と時間がかかる。太極図を使えるようになるまで、適当に相手をしてやってくれ」
「面倒なことは嫌いだな」
「そう言うでない。昔、おぬしの怠惰スーツ用に生命維持装置の製作ノウハウを教えてやったであろうが。御礼代わりに一つ二つくらい、わしの役に立っても良かろう」
「……すっごく嫌だけど、仕方ないなぁ」
「ではな。計画の二つの鍵……呂氏の血族と太極図の守護はおぬしに任せたぞ」
「はいはい。それは分かったけど、太公望」
「なんだ?」
 目の前の相手に初めて口にされた己の名にも動じることなく、太公望は応じる。
 と、意図の捕らえにくい気だるい口調のまま、老子は続けた
「あの娘は時々、自分の子供に自分の失われた家族のことを語っているよ。あなたのことも、少し辛そうではあるけれど、とても懐かしそうにね」
「───」
 その言葉に。
 太公望は軽く目を見開く。
 そしてもう一度、地表に目を向けた。
 小さな蝶を追って草原を駆け回る幼子と、その子を優しいまなざしで見つめながら手際良く羊の世話をする女性の姿を、無言で見つめて。
「──感謝するよ、老子」
 それだけを告げて目を伏せ、意識を風に任せる。
 次の瞬間、その姿は太上老君の目の前から風に攫われたようにかき消えた。
「まったく、物騒な上にせわしない……」
 一人、空中に残された太上老君の意識は、小さく溜息をつく。
「宇宙の摂理とは所詮、調和の取れた天秤のようなものだ。一方にばかり傾くことはなく、一時揺らいでも長い目で見れば平衡を保っている。果たして女禍のしていることは、天秤を傾ける行為なのか、それとも平衡を保つ行為なのか……難しいところだね、伏羲?」
 呟きの最後は、欠伸にまぎれて。
「とりあえず、『鍵』は預かっていてあげるよ。その後のことは知らないけれど……」
 太上老君の姿もまた、大気に溶け消える。
 何も存在しなくなったその場所を、いっそう強い風が吹き抜けてゆき。
 眩しい空の下、地平線まで続く草原が、大海原のようにうねり、鮮やかにざわめいた。












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opening text by 「同じ海の色」 ZABADAK