「ねぇ太公望、退屈じゃないのかい。那托の改造なんて、君にとっては見ててそれほど面白いことじゃないだろう?」
「いや、そうでもないよ」
 半ばぼんやりと物思いにふけっていた太公望は、我に返り、答えた。
「おぬしの言う通り、那托の構造云々に興味はないがな。考えることはいろいろある」
 三日前に蓬莱島に向けて発進して以来、崑崙山2は、かしましい喧騒に満ちていた。
 『歴史の道標』という存在を知った後、もとより活力の有り余った道士たちは、牧野における妲己との戦いがかなり消化不良だったことも手伝ってか、怖気づくどころか異様なまでに盛り上がっており、毎日何らかの大騒ぎを繰り広げているのである。
 司令官としては、彼らが意気軒昂であることはありがたいのだが、しかし、もとより血の気が多くて加減というものを知らない連中である。蓬莱島にたどり着く前に、この崑崙山2を壊されるのではないかと、やきもきさせられることが日に一再ではないのだ。
 だからといって、こうして工作室に疎開していたところで心配が減るわけでもないのだが、しかし他に静かに考え事をできる場所がほとんどないため、今朝から太乙真人が那托改造に取りかかったのをいいことに、改造の助言をすると称して太公望はここに入り浸っているのである。
「それならいいけどさ。さっきから何考えてるんだい?妙にぼーっとして」
「大したことではないよ」
 バイザーを下ろし、工具を操作しながらの太乙真人の問いに、太公望はあっさり応じる。
「那托がずいぶん成長したものだと思っておっただけだ」
「ああ」
 なるほど、と太乙真人はうなずいた。
 その様子を横目で見やって、太公望は続ける。
「正直、わしも天祥はどう説得しようかと思っておったのだよ。ああいう強い負の衝撃を受けた子供への接触は難しいものだ。それを、ああもあっさりと引き上げるとはな」
 いろいろ考えていたのに那托のおかげで無駄になった、と太公望は苦笑する。
 それに太乙真人も同調して笑った。
「確かにねぇ。那托が天祥くんを育てると言いにきたときは、私も驚いたよ」
 そして作業する手を止めて、彼は自分が作った宝貝人間を見下ろす。
 これまでにない大きな改造のため、那托は今、全面的に活動が停止している。意識がないのだから何を言っても問題はなかった。
「一応、この子にも自己成長能力はあるけどね。さすがに元が霊珠だから、人間の子供のようにスムーズな成長をするわけじゃない。アイデンティティーそのものが戦うことにあるせいで、どうしても精神構造が偏りがちだし……」
 苦笑しながら太乙真人は、自分の作品の欠陥を指摘する。
「自己同一性(アイデンティティー)、つまりこの世で生きていくための動機付けというのは案外難しくてね。通常の生物のように『生命活動が停止するまで生きること』と設定してもうまくいかないんだよ。宝貝人間は生存本能さえ持たない『モノ』だから、明確な命題……たとえば、戦うこととか、定められた対象を守護するとか、分かりやすい動機を与えないと、まともには動かない」
「なるほどな。ただ『生きること』だけでは、行動の選択肢が多すぎて判断不能に陥るか」
「そういうこと。命題が与えられて、初めて死を回避しようとする生存本能も生まれるしね。何か一つ、単純で分かりやすい選択基準が必要なんだ」
「──そう言う割には、おぬしはこやつをバランス良く生長させようと苦心しておるように見えるが?」
 ちらりと目線を向けつつ、太公望が揶揄するように問いかけると。
 太乙真人は何とも微妙な笑みを見せた。
「そりゃ私にも、作った責任というか、親心というものがあるしねぇ」
 バイザー越しに那托を見下ろしたまま、どこかほろ苦いような口調で言う。
「いくら戦うことが存在意義といったって、ただ敵を倒して破壊するだけじゃどうかと思ってしまうわけだよ。那托にしてみれば、殺していいものと駄目なものだけさえ教えてもらえば十分なんだし、その方が楽に決まってるんだけど」
 親心なんてエゴと紙一重だと、太乙真人は笑った。
「那托にとって戦う以外のことを覚えるのは、人間にエラ呼吸をしろというのと一緒で、苦しいし不自然だということは私も重々承知してるんだ。
 でも、せっかくこの世に生まれてきたんだから、戦いにだけ喜びを感じるんじゃ、もったいないと思ってしまうんだよ」
「……だから、代理母を求めて幼児期は殷氏に預けたわけか」
「そう。結果的に良かったのかどうかは分からないけど、それで那托は肉親への情を覚えてくれた。そして、君たちと一緒に戦ううちに、『殺したくない』『守りたい』という感情も明確に持つようになった」
「エラ呼吸ができるようになったというわけだ」
「それが正しいかどうかは分からないけどね。だってエラ呼吸する人間なんて、普通はありえないんだから」
 苦笑まじりの太乙真人の声に、しかし太公望は肩をすくめた。
「別に良いのではないのか? 人間が水中でも呼吸をできたら、それはそれで便利だろうよ。火を使った料理が食いたければ、水から上がれば良いだけのことだ。
 那托は情を覚えたために戦えなくなったわけではない。本能以外のもので敵味方を識別するようになっただけだろう」
「そういう言い方をされると気が楽だけどね」
「おぬしは考えすぎなのだ」
 兄弟子の葛藤を、太公望はあっさりといなす。
「確かに最初のうち、那托は訳の分からないものを理解しろと言われて困っておったが、今は違う。第一、こやつが情を覚えて悪いことなど一つもないぞ。天祥のことも、こやつがおったおかげで天祥は救われたのだ。そして、那托も天祥に慕われるのが嬉しくて、その信頼を裏切らぬために強くなりたいとおぬしに申し出た。
 今の那托は全部、自発的に行動しておって、しかもそれで幸せなのだ。おぬしが今更ぐじぐじ考える必要などどこにもあるまい」
「──何だか君の言い方は、私がものすごく馬鹿なように聞こえるんだけど。太公望」
「違うと言えるのか?」
 今のおぬしはただの馬鹿親だ、と太公望は胸をそらした。
「何も考えず闇雲に暴れていた奴が、誰かのために生きよう、強くなりたいと思うのは成長の証(あかし)だ。宝貝人間だろうが何だろうが、それは変わらぬだろうよ」
 きっぱりと言い切った言葉に。
 太乙真人は小さく口元に笑みを刻む。
 そして、バイザーを装着したまま、どこか感慨深げな様子で太公望を見やった。
「何だか、その台詞は那托だけじゃなく、どこぞの誰かさんについても語ってるみたいだねえ」
「は?」
 一見、脈絡のない発言を理解できず、太公望は目を丸くする。
「そういう子が昔、居ただろう? 他人にはこれっぽちも興味を持たずに、ただ自分が強くなることしか考えてなかった子が」
 言いながら、本格的に作業の手を休めて雑談する気になったのか、太乙真人はバイザーを上げる。
 漆黒のどこか悪戯っぽい表情をたたえた瞳が、太公望を見やった。
「ねぇ太公望。話は最初に戻るけどさ」
「……おぬし、全然脈絡がないぞ」
 発言の意図が理解できないまま、太公望は話の最初とは何だったかと、数分前まで記憶を巻き戻そうとする。が、それよりも早く太乙真人が続けた。
「さっきぼんやりしてたのは、別に那托のことだけを考えてたわけじゃないだろう?」
「は?」
「君が那托の成長に感心してるのは本当だろうし、この改造で大幅にパワーアップしたら、すごく役に立つのは決まってるけどさ。でも今、君が一番気にかけてるのは、ここにないスーパー宝貝のことじゃないのかい?」
 崑崙山2には現在、太公望の大極図、元始天尊から竜吉公主に譲られた盤古幡、那托に極秘に内蔵しようとしている金蛟剪の三つのスーパー宝貝がある。
 そして、この場にないスーパー宝貝というのが何をさしているのか、太乙真人の意図は明白だった。
「……何でおぬしは、そっち方面に話を持っていきたがるのかのう」
「持っていきたがるって、私がこの話題を持ち出したのはまだ二度目だよ」
 ようやく相手が何を言いたいのか理解して、呆れたように首をかしげた太公望に、太乙真人は反論する。
「だって、何のかんの言いながら君たちの関係はちゃんと進展してるみたいだしさ。やっぱりここは保護者として見守らなくてはという一種の責任感というか、何だか面白そうという只の野次馬根性というか……」
「簡潔に言え」
「つまりは、ただの興味だね」
「…………」
 一言で言い切った太乙真人に、太公望は軽く眉をしかめる。
 が、
「やっぱり、ああいうシーンを見せつけられるとねえ。お兄さんとしては冷やかしたくなるんだよ」
 という台詞を聞いた瞬間、驚きに目を見開いた。
「おぬし……」
「ちゃーんと見てたよ」
 にっこりと笑顔を向けられて。
 何ともいえない決まり悪さの入り混じった表情で、太公望は逸らした視線を彷徨わせた。

*                 *

 それは、崑崙山2の出発直前のこと。
 最上階の動力制御装置の傍で朝焼けを見ていた太公望のところに、楊ゼンがスーパー宝貝がまだ発見できないため、後から追うと連絡に来た。
 そして、宝捜しのついでに見つけたという復活の玉を四不象に渡した後、二、三短い会話を太公望と交わして。
 ふと哮天犬の背上で微笑した楊ゼンが、自分の口元に形の良い人差し指の指先をすっと滑らせたのだ。


 ──すぐにその仕草の意味は分かった。
 どうしようかと一瞬考えて。
 太公望の決断はすぐだった。
「スープー、楊ゼンに伝えておかねばならぬことがあるのを思い出した。悪いが先に皆の所に行って、あと十分後に出発すると言ってきてくれ」
「ラジャーっス」
 気のいい霊獣は主人の言葉に元気に返事をして、宙をすべるように離れてゆく。
 その丸い後姿を少しだけ見送り、
「楊ゼン!」
 そして太公望が、目の前の空を振り仰いで青年の名を呼ぶと。
 すぐに彼は哮天犬を崑崙山2に寄せ、身軽に太公望の前に降り立った。
 あの朝以来、楊ゼンはスーパー宝貝探しに専念していたため、二人が顔を合わせるのは丸二日ぶりだった。
 けれど今、互いの表情に疲労も不安も隠されてはいないことを間近で確かめて、二人はやわらかな微笑で相手を見つめる。
「太乙が割り出した蓬莱島の座標は聞いておるな?」
「ええ。すぐに追いつきますから、僕の出番も残しておいて下さいね」
「それは分からぬよ。何せ皆、元気が良すぎる連中ばかりだからのう」
「確かにね。じゃあ僕も出番を取られないように急ぎますよ。是非ともあなたには、六魂幡の真の威力を見てもらいたいですから。あれも十分に使いこなせれば無敵の宝貝ですよ」
「うむ。楽しみにしておるよ」
 いつもと同じ調子で言葉を交わし、小さく笑い合って。
 そして近づいた唇を、太公望は目を閉じて受け止める。
 ささやかな触れ合いで互いの体温を感じ、瞳を見交わしてくすりと共犯者の笑みを浮かべて。
「ご武運を」
「うむ」
 短いやりとりを最後に、再び楊ゼンはスーパー宝貝を探しに仙界の墜落現場へと戻ってゆき、崑崙山2も元始天尊や白鶴童子に見送られて発進したのだった───。

*                 *

「そういえば、おぬしもあの場にはおったのだったな……」
 太公望の声には複雑な困惑が入り混じっていた。
 あの時は見事に兄弟子の存在を忘れていた。というより、バイザー型の端末を装着した上、あさっての方向を向いて崑崙山2の操作に全エネルギーを費やしているように見えた太乙真人に、まさかこちらのやりとりを気にする余力があるとは思わなかったのである。
 だから、出発前の高揚感も手伝って、誘いかけられたままにあんな大胆な行動を取ったのだが。
「いたんだよ。君たちがあんまり新婚さんいらっしゃいな雰囲気だったから、野暮をする気にはなれなくて声はかけそびれたんだけどさ」
「はぁ?」
「だって、どう見たってあの場に第三者が割って入る余地はなかったよ」
「……そうだったか?」
 まったく分からない、と言いたげに軽く眉をしかめて、太公望は首をかしげる。
 その様子を太乙真人は興味深げに見つめた。
「ねぇ太公望。何だか君にしては、妙に落ち着いてないかい? 普段ならこういう時、思い切り慌てて必死にポーカーフェースで取り繕ってる気がするんだけど」
「そういえばそうだのう」
 思いがけないことを指摘されて、きょとんとした太公望は、そういえば、とうなずく。
 言われるまで気付かなかったが、確かに妙といえば妙だった。
 自分はこういう話題はひどく苦手で、誰かに話を振られても、いつもいつも戸惑うばかりでろくな対応ができなかったはずなのだ。
 なのに今は、少々困ったな、とは思うものの、不思議といつものような恐慌状態には陥っていない。
「どうしてだい?」
「どうしてと言われても……。単に慌てる気分ではないというだけで……」
 自分でも理由が見当つかず、更に首をひねる太公望に、太乙真人は微笑する。
「ねえ、太公望」
「ん?」
「一つだけ聞いてもいいかい?」
「……何だ?」
 掴み所のない笑みを浮かべながらの太乙真人の言葉に、少しだけ太公望は真顔になる。
 何でもない戯言(ざれごと)の続きのように聞こえて、こういう尋ね方をする時の彼は、大抵ひどく深い意味の言葉を口にする。
 それを知っている太公望は、注意深く彼を見つめた。
 が、そんなまなざしをものともせず、
「楊ゼンが好きかい?」
 本当に何気なく、さらりと口にされた問いかけに、太公望はまばたきする。
「───…」
 そして即答はせずに、自分の心の声に耳を傾けるような表情で、太公望はわずかに首をかしげる。
 それは太乙真人の言葉を吟味するようでもあり、また自分の心中の答えを探(さぐ)るようでもあって。
「──おぬしやあやつが言う意味での好き嫌いは、わしには良く分からぬが……」
 少しの沈黙の後。
 落ち着いた凛と透る声が、工作室に響く。
「……大切だと思うよ」
 わずかに目を伏せ、微笑を含んだような、大切なものを想うような穏やかな表情で。
 はっきりと、太公望は告げた。
 その答えに太乙真人は微笑む。
「やっぱり楊ゼンのおかげだね」
「うん?」
「君は成長したよ、ものすごく」
「そうか?」
「うん。君たち二人とも、封神計画が始まった頃に比べるとまるで別人だよ。楊ゼンの成長は君も認識してるだろうけど、君も同じくらい変わった」
「……そうかのう?」
 太乙真人の言葉に含まれる温かさを感じ取ったのか、同じ返事を繰り返しながらも、太公望はやわらかな笑みを浮かべた。
「だが……、確かにおぬしの言う通りかもしれぬな。こういうのを成長と言うのかどうかは知らぬが、昔に比べると、少しだけ余裕を持って自分や周囲を見ることができるようになった気はするよ」
「へえ」
「それに……」
 少しだけ言葉を続けることをためらうように、太公望はまなざしを宙に向ける。
 だが、そのまま不自然にごまかすことなく、ゆっくりと静かに声を紡いだ。
「近頃は昔のことを思っても……前ほどには辛いと感じなくなった」
 その言葉に、太乙真人はほうと目をみはる。
「それはすごいね」
「良いのかどうかは分からぬがな」
 自嘲するべきか安堵するべきなのか、選びかねた複雑な微苦笑で太公望は太乙真人を見やる。
 そして淡々とした口調で続けた。
「だが太乙、別にわしはさっき、楊ゼンのことを考えておったわけではないよ」
「そう?」
「うむ。あやつのことは放っておいても大丈夫だからのう。禁鞭も六魂幡もすぐに見つけて、使いこなせるようになったら即、わしらに追いついてくるだろうよ。
 あやつの性格から言って、開戦に間に合わぬなどということは、まず絶対にあるまい」
「……ご馳走様って言ってもいいかい?」
「だから、違うっつーに」
 どうしてもそこから離れようとしない兄弟子に、太公望は苦笑する。
 が、その顔を一瞬横切った陰りを太乙真人は見逃したりはしなかった。
「じゃあ何を考えてたんだい、太公望?」
 しかし、だからといって表情を変えることもなく、いつもとまったく同じ、どこかのんびりとした口調で問いかける。
 それを受け止める太公望も、その何でもないような質問に含まれているものに気付かないはずがなく。
 微苦笑が混じったような、微妙な表情で太乙真人を見返した。
「───…」
 しばらくの間、無言で相手の目を見つめて、太公望はすっとまなざしを遠くへ向ける。
「──何だかよく分からんがな、ざわつくのだよ。ここが」
 左手の親指で、自分の胸を指し。
「不安でも緊張でもない。なのに、何かざわざわしておる」
「──それを楊ゼンには?」
「ほとんど何も言っとらん」
「どうしてだい?」
「どうしてかのう」
 考え込む太公望の横顔からは、笑みは消えていて。
「言うほどのことではない。それとも、言うべきことではない。どちらを思ったのか……」
 自問する声は、少しだけ低い。
「太公望」
 その様子を見つめて、太乙真人は名を呼ぶ。
「君はもしかしたら、その理由に心当たりがあるんじゃないのかい」
 珍しくもその声には、あからさまに探る響きがあった。
 だが、太公望は淡く、不敵とも困惑とも取れるような微笑を口の端に浮かべ、太乙真人を振り向く。
「さあのう」
 短く答えて、また視線を宙に向ける。
「──手元にある手がかりは、まだほんの数かけらしかない。しかも、すべてが同じ絵を構成する切片かどうかも分からぬ。この時点で完成図を予想するのは無意味であろうよ」
「────」
 何とも表しがたい微笑めいた表情と共に、呟くように告げる太公望を、太乙真人はひどく考え深い光を浮かべたまなざしで見つめた。
 その視線に気付いて、太公望は振り返る。
「何だ?」
 まっすぐな瞳に、太乙真人もまた、目を逸らすことなく太公望を見返す。
「私たちは大丈夫だと思ってもいいのかい?」
「ああ。おそらくな」
 静かな、だが深い問いかけに、太公望は笑って軽くうなずいた。
「胸がざわついているのは『歴史の道標』に対してではない。もっと何か別のものだ。立場上、おぬしたちに影響をまったく及ぼさないというわけにはいかんかもしれぬが、おそらく、あくまでもわし一人の問題だろうという気がする」
「……そう」
 うなずいて、太乙真人はそれ以上の問いを控える。
 そして、軽く溜息をついて見せた。
「君もなかなか楽にはなれないね」
「……別に構わぬよ」
 重苦しいものに潰されそうな気がして、叫び出したくなる夜がないわけではない。
 けれど、決して辛いことばかりでもないのだと。
 太公望は、済んだ瞳で淡く微笑した。

*                  *

 ──ひどく笑い出したい気分だった。
 悲劇も過ぎると喜劇になるらしい、と太公望はどこか他人事のような冷めた思いで、己(おのれ)が目の当たりにしている現実を眺めた。
「どうした?」
 ──目の前にいるのは、己の闇だと名乗った。
「いや。もう笑うしかないと思ってのう」
 そして、こちらは光だと。
 本来の声質は悪くないのだろうに、聞く者に不快感を与えるかすれ方をした耳障りな声で。
「この状況で笑えるとは、てめぇも相当神経が太いな」
「どこがだ。こんな間抜けなことを口にできるそっちの方が、よほど図太かろう。わしの一体どこが光だというのだ?」
 挑発的な毒舌に、鏡の向こうの瞳がすっと細められる。
「てめぇはそういう台詞を口にできることが、どんなに傲慢か分かってねぇだろう?」
「分かっておるさ。おぬしの舐めた辛酸は、わしの不幸どころではあるまい。だが、わしがそんなお綺麗でいられたと思うのか?」
 確かに、光をろくに与えられずに長い年月を過ごした彼にしてみれば、ほんの微かな、蛍よりも淡い一筋の明かりでさえ眩しく見えるのかもしれない。
 だが。
 ──こんな闇にまみれた光があるものか。
 人々の優しさを辛く感じるしかなかったほど、この胸の裡には汚くドロドロとしたものしか詰まっていないというのに。
 ──そう。
 間違いなく自分は、どんな時でも、誰かを犠牲にする効率のよい策を、幾つも心の中で立てていた。
 いつでも一番先に思いつくのは、そういった非道な策ばかりで、けれどそれを実行する勇気はなかったから、何とか必死に誰も傷つかなくてすむような次善策を考えた。
 ──怖かったのだ。
 軍師たることを引き受けながら、これ以上、自分のために人が死ぬところを見る勇気などなかったから。
 いつも、わずかな犠牲ですむ効率の良い策を選べず、迂遠な作戦で結果的に味方を死なせた。
 それのどこに、優しさがあるというのか。
 どこが『いい人』だったというのか。
 ましてや、目の前の相手の行動も、結局は封神計画のためだったというのなら、自分たちの間にどれほどの差があるというのか。
 ──憧れるほどの価値が一体どこにある?
「────」
 改めて太公望は、目の前の半身を見つめる。
 けれど、いくら思考や行動が表裏一体であるとはいえ、自分のものではない器に入っている己の魂の半分は、やはり自分とは別のものとしか思えなかった。
 たとえ本当にかつては一つであったものだとしても、魂の形などもろい。長い年月をそれぞれに経てしまえば、環境に応じて変質しないわけがないのだ。
 目の前の存在は、明らかに自分とは異なる生物だった。
 彼がどう感じているのかは知らないが、こちらには焦がれるような思いは微塵もない。
 けれど。
 この数ヶ月、ずっと感じていたざわめきが、これ以上ないほどに今、強まっているのも事実だった。
 ざわざわ、ざわざわと。
 海鳴りのような遠い響きが、確かに何かを呼び、呼ばれている。
 心は目の前の相手を懐かしいとも恋しいとも思わないのに、魂だけがひどくざわめいていて。
 抗えないほどの引力で、長い間分かれていたものが元の形になろうと足掻(あが)いている。
 ──こんな結末が自分には似合うのかもしれない。
 半身の黒炭のような瞳を見つめながら、太公望はやはり他人事のように自嘲した。
 ──裏切るとも裏切られるとも思ってはいなかった。
 否、彼が裏切るようなことがあっても、それは仕方がないと思っていた。
 最初から信頼を得るのは難しいと思っていた相手だ。忠誠を誓ってくれているのは分かっていても、彼の信頼が買いかぶりとしか思えない様相を呈している以上、いつか愛想を尽かされても文句は言うまいと、ずっと思っていた。
 もうこれまで十分に……想定していたよりも遥かに封神計画に尽くしてくれているのだから。
 いつ、何があっても構わないと。
 その時の状況次第だが、受け入れられることなら全て受け入れようと。
 なのに。
 ──まさか自分が彼を裏切る羽目になるとは。
 あまりにおかしくて……、一番、己を買いかぶっていたのは自分だったのかと、傲慢な愚かさを笑うしかない。
 何一つ、嘘をついたつもりはなかったけれど。
 もう言い訳の言葉も見つからない。
 たとえ言い訳を思いついたところで、口にする気など微塵もないけれど。
 だから。
 ──許さずとも良いよ。
 嘘を言ったとは思わないから。
 あの約束は決して嘘ではなかったと、分かっているから。
 だから。
 許そうなどと思わなくてもいい。
 憎みたいだけ憎んでくれればいい。
 自分は裏切ることも厭わずに、この手を取るから。
 苦しまないで欲しいなどと、偽善に満ちたことは言わない。
 きっと心の底から苦しんでくれる、それくらいのことは分かるから。
 その苦しみも悲しみも、すべて憎しみに変えて、自分を恨んでくれたらいいと思う。
 ──まだ終われないから。
 何も知らない振りをして封神台に行けるような自分であれば、楽だったかもしれない。
 そして。
 すぐ側で見ていながら間に合わなかったと悲しませる方が、この残酷な現実を突きつけるより、よほど優しかったに違いないけれど。
 でも。
 道があるのなら、自分はそれを選ばないわけにはいかない。
 すべてを裏切っても、ここまで戦ってきた自分を……たった一つの夢を裏切ることだけはできない。
 だから。
 ──どうか、このエゴイズムを許そうとは思わないで。
 許そうとして苦しむ必要などないから。
 出会ってからの長い長い間。
 共に戦い、自分が死んだ方がましと思えるほどの幾つもの苦しみ悲しみの中で、いつでもその強さと優しさに支えられていた。
 沢山の約束も温もりも、どんなに優しかったか、すべてきちんと覚えている。
 こんなに醜く弱い自分に向けられた想いは綺麗すぎて、いつも辛いと思っていたけれど、本当は同じくらいに嬉しかったのだと、今になって気付いたから。
 もう伝えることはできなくても。
 たとえ魂が在るべき姿を取り戻しても、決して何一つ忘れたりなどしないから。
 ──本当は。
 このまますべてを投げ出して消えてしまえたなら。
 何一つ裏切らずに終われたなら。
 ──どれほど良かったか分からないけれど。

「融合しよう、王天君」

 ゆっくりと鏡に向かって太公望は手をさしのべる。
 あるべきはずの冷たい硝子の感触は、水面に触れた時のように他愛なくすり抜け、爪が長い他は己のものと寸分違わぬ指先が触れる。
 途端、これまでにない抑え切れぬほどの強さで、胸の奥が激しくざわめく。
 ──楊ゼン。
 心に焼き付いた面影さえも、波立つ水面に映った月のように激しく揺らめいて。
 合わせた手のひらから生まれた、まばゆい白い光の中に。


 世界が、溶ける。












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opening text by 「NOW AND THEN」 my little lover