陽光を受けて鋭くきらめく刃が、宙を一閃する。
 滅びゆく血脈と、新たなる人々の希望と。
 幾多の血と涙を踏み越えて。
 その瞬間、民の歓呼の中で一人の王が生まれた───。

*            *

   満月を過ぎて三分の二ほど欠けた月が、朧(おぼろ)に世界を照らしている。
 時折いたずらに雲が月光をさえぎる、くすんだ明るさの中で見る王城は、まるで廃墟のようだった。
 別段、禁城はそれほど酷く荒れ果てているわけではない。国は荒廃し切っていたが、朝歌の民衆たちは苛政(かせい)の下で暴動を起こす気力もないほどに虐げられていたし、周を中心とした革命軍も、結果的に禁城に攻撃はかけなかったから、城壁も何も傷ついてはいない。
 近年はさすがに人手が足りなくなっていたのか、それとも綱紀が緩んで目が届かなくなっていたのか、全体的な手入れは杜撰で、敷石の所々に草が生えていたりするが、それも多少目に付くといった程度のものだった。
 なのに、何故にこれほど自分の目には不毛な光景として映るのだろう、と太公望は考える。
 こんな真夜中近くの時刻では目覚めている者も少ないだろうが、開城以来連日、次から次へと人材や物資がこの城には流れ込んできており、昼間は殷の最盛期もかくやと思わせる賑(にぎ)わいを見せているというのに。
 まるで、世界で唯一つ残った廃墟に、ただ一人、取り残されたような気分になるのは何故か。
 朧月の下、青ざめた灰色の風景に、どうしようもない肌寒さを覚えて太公望は小さく肩を震わせた。
 ゆっくりと一歩、石畳に足を踏み出すと、コツ…と硬質な音が夜の静寂(しじま)に響く。
 それさえも、ひどく虚ろに聞こえて。
 辺りを押し包む漠とした寂寥感に唇を噛みしめ、また立ち止まる。
 わずかにうなだれたまま、幾許(いくばく)かの時が過ぎて。
「──のう……」
 月をかすめる雲に何度も影が薄くなり、そしてまた濃くなるのを見送った後、太公望はゆっくりと顔を上げ、欠けた月を見上げた。
「いつまで、そこにそうしておるつもりだ?」
 淡い月の光に溶けるようなその声は、だが意外にくっきりした響きを持って蒼い世界に染みる。
 それに応えるように、やや離れた背後でゆらりと一つの気配が輪郭を露(あらわ)にして。
 コツ、コツと規則正しい、落ち着いた足音が一歩ずつ太公望に近付く。
「すみません」
 低い声は、まるで月光そのもののように春の闇に透った。
「どう声をおかけしたらいいものか、少し迷ってしまいまして……」
 そう言いながらすぐ後ろまで歩み寄ってきた相手に、太公望はわずかに笑みを含んだ声で答える。
「それは口達者なおぬしらしくもない気遣いだのう、楊ゼン」
「口巧者のあなたに口達者と言われても困るのですが……」
 小さく苦笑しつつも、名を呼ばれた青年は振り返った太公望の前に立つ。
 朧な月に照らされた、夜の中でもなお寸分の乱れもないその姿を、太公望はかすかな微笑と共に見上げた。
 何があったのかとは聞かない。
 既に、仙道の身である二人が地上の王朝でなすべきことはほとんどなかったし、ましてや戦(いくさ)が終わった今、こんな夜更けに何が起ころうはずもない。
 危惧があるとすれば、殷の遺臣の造反くらいだが、少なくとも今夜の王都の気配は静かにまどろんでいる。
 だから、何のためにここに来たのかとは、太公望は片腕である青年道士に問わなかった。
 ただ、どういう表情をしたものか迷うような、曖昧な微苦笑を浮かべて自分を見つめる楊ゼンの瞳を見返し、そしてさりげなく視線を外して、つい今しがたまで見つめていた風景にまなざしを戻す。
 それに促されるように、楊ゼンもまた目の前の風景にまなざしを向けた。
 ──くすんだ月光の下で、灰色に青ざめた石畳。
 禁城内の修練場は、やはり廃墟のようにがらんとした姿を夜の中にさらしていて。
 しばらくの間、二人は無言のまま並んで同じ風景を見つめる。
 ──今を遡(さかのぼ)ること数日。
 易姓革命終結に先んじて、そこで燃え尽きた一つの生命があったことは、一部の人間と仙道しか知らない。
 『彼』のなしたことを大々的に広める必要性を、関係者は誰一人として見い出さなかった。否、残り火少なくなった生命のすべてを、唯一つに賭けた青年のことを語る言葉など、誰も持たなかったのだ。
 彼は滅亡への道を歩んだ王朝の犠牲者であり、新たなる王朝建設の犠牲者でもあった。
 そして、何よりも彼自身が心に抱いた理想の──アイデンティティーの殉教者だった。
 そんな存在を、どんな言葉で語れば良いというのか。
 皆が口数少なく打ち沈み、非業(ひごう)の死を哀しむ仲で、死に急いだ無謀を責める言葉も悼(いた)む言葉も、太公望は思い浮かべることができなかった。
 ただ、すまないと何度も何度も繰り返す呟きと。
 やはりこうなる運命(さだめ)だったのかと、意識の片隅から届く絶望に蝕(むしば)まれたささやきと。
 そればかりが、虚ろな心の中でこだましていて。
 これから何をなすべきか、どこへ行くべきかも分かっているというのに、どうしてもこの場から離れて前へと足を踏み出せない。
 この先にあるものに怯えているわけでも、すくんでいるわけでもない。
 けれど、己の背負った業(ごう)の重みが、何度も足を止めかけながらも、ここまで進んできた歩みを立ち止まらせる。
 目の前に突きつけられた、大きすぎる己(おのれ)の業が。
 次の一歩を踏み出す気力を奪うのだ。
 ──分かっていたのに。
 太公望は口を閉ざしたまま、目の前に広がる月光に青ざめた石畳を見つめる。
 ──こうなることは分かっていたのに。
 止められなかった。
 止めて、やれなかった。
 分かっている。
 きっと、彼は止められることなど望んでいなかった。
 あの時、あの場でもし横槍が入らず、引き止めることに成功していたとしても、彼が生き延びられた可能性も、本望を遂げることなく、ただ生き延びたことを悦んだ可能性も限りなく低い。
 そんなことは、考えるまでもなく分かっている。
 だが。
 それでも止めたかった。
 どんなに不本意であっても、何事もなく一夜をやり過ごし、生きて欲しかったのだ。
 なのに。
 間に合わなかった。
 あと、ほんの少し。
 あとほんの数分早ければ、救えたのに。
 彼自身がなすべきことをなし、納得できたところで、今頃はゆっくりと治療に専念させてやれたのに。
 なのに、自分は間に合わず。
 父も母も叔母も師も。
 すべて喪(うしな)わせた上に、彼自身まで。
 どんなに恨まれても、憎まれても。
 もう誰一人として、死なせたくなかったのに。
 せりあがる熱塊のような悲哀と悔恨と憤りの念に、太公望はきつく唇を噛む。
 と、
「──師叔は先程、僕を口達者だとおっしゃいましたけれど……」
 ふいにゆっくりとした低い声が、蒼く沈む沈黙を破って静かに紡ぎだされた。
「それは間違いですよ。僕は今、こうしてあなたの隣りにいても、何を言えばいいのか全く分からないんですから」
 その言葉に、太公望はすぐ斜め後ろに立つ青年を振り返り、大きな瞳をまばたかせる。
「言葉が何一つ、思い浮かんでこないんです。情けない話ですが……」
 曖昧な光を地上に投げかける月を見上げながらの静かな声に、太公望は、ああ、と思った。
 だから、先程声をかけるまで、彼は何も言わずにやや離れた所から自分を見守っていたのか、と。
 朝歌入城以来、毎晩のように自分がここに来ていることを知っていただろうに、何も言わなかったのは、そのためだったのかと納得して。
 てっきり、いつもと同じように、ただ気を遣ってくれているだけだと思っていた自分の勘の鈍り方に、ほろ苦い微笑未満の自嘲をにじませて、まなざしを伏せる。
「それはわしも同じだよ」
 カツン、と右脚の踵(かかと)で足元の敷石を鳴らし、太公望はやるせなさを含んだ声で続けた。
「いくら口巧者といわれても……そういうおぬしに、何をどう答えればいいのか、いくら考えても分からぬ」
 うつむいた太公望を見つめて、楊ゼンもまたほろ苦い笑みを口元に浮かべる。
「……こんな時に雄弁である必要はない、と思うんです。でも、それでも何か言いたいと思うのは……間違いなんでしょうか」
「さぁのう」
 問いかける楊ゼンの言葉に、太公望は物思うようにわずかに首を傾けた。
「だが……、何かを言いたいというおぬしの気持ちは、何となく分かる気がするよ。わしも──ずっと、言葉を探し続けていたような気がするのだ。
 何かを失くす度、失くしたものを惜しんで、己の無力を悔いて……なのに、それを言い表す言葉はどうしても見付からずに……」
「──もどかしいですね」
「うむ……」
 楊ゼンの言葉に、太公望もうなずいて。
 どちらも、自分と相手が周囲に思われているほど器用な性質(たち)ではないことをよく知っていたから、言葉を探そうとする無意味な行為は止めて、夜の中に立ちつくす。
 と、ふと楊ゼンが動いて己の肩布を外し、太公望の肩に着せかけた。
「冷えてきましたから……」
 ほのかに青年の温もりを残した白い絹に、楊ゼンを振り返った太公望は、自分を見つめる優しい瞳に大きな瞳をまばたかせる。
 そして、肩にかけられた白布の端をそっと握りしめ、うつむくようにまなざしを伏せた。
「温かいのう……」
 小さく呟いたその言葉と、横顔に。
「太公望師叔」
 何かに気付いた表情をした楊ゼンが、やや改まった顔で名前を呼ぶ。
「あなたが今、生きていらっしゃるのは罪悪でも何でもありませんよ」
「────」
「少なくとも僕たちは、あなたのことを必要としている──いえ、他の人達のことなどどうでもいい。僕にとって、あなたはなくてはならない人なんです」
「楊ゼン……」
 きっぱりと言い切られた言葉に、驚きをかすかににじませた瞳で、太公望は顔を上げて楊ゼンを見上げた。
「悔やむなとも哀しむなとも言いません。この短い間くらいは、これまで歩んできた道を後悔して、御自分を責められても構わない。
 でも、あなたを大切に思う存在が、どんな時でもいるということは忘れないで下さい」
 真摯なまなざしで太公望を見つめ、楊ゼンは静かに告げる。
 朧月の淡く揺らぐ光を受けて、青みを帯びた昏い銀色に見える宝玉のような瞳を、目をみはったまま見上げていた太公望は、二、三度まばたきしてから再びゆっくりと目線を伏せた。
「──おぬしは優しすぎるよ……」
 溜息をつくように、細い声でそう呟き。
 夜空を流れる雲に半ば隠れた月を見上げる。
「……あと……少しでいい」
 ひどく切ない、小さな声が夜の蒼い静寂に溶けてゆく。
「あともう少しの間でいいから……」
 今、この瞬間だけは。
 悔いて、哀しんで、立ち止まることを。
「はい」
 許しを請う言葉に、楊ゼンはうなずく。
 白布を羽織った太公望の肩は、いつもよりも更に小さく見えた。
 が、楊ゼンは、腕を伸ばせばすぐ届くところにある、その肩に手を触れなかった。
 そして、抱きしめない代わりに、ただ静かなまなざしを注ぐ。
 今はすべての優しさと思いやりを拒む、小さな背中を守るように。
 そのまま、静かに時間は流れ。
 少しだけ気がすんだかのように、傾きかけた月からまなざしを逸らして太公望が振り返るまで、二人は寄り添うことなく青ざめた世界に立ち尽くしていた。

*            *

   午過ぎの禁城は、穏やかな陽射しに包まれていた。
 荒廃しきった国を立て直すために、誰もが忙しく立ち動いているはずなのだが、城内の中枢部は時折、文官が書類の束を抱えて足早に回廊を通り過ぎるくらいで、皆、それぞれの執務室で書類と格闘しているのか、表面的にはひどく平穏だった。
 忙しさのあまり開かれたままのあちこちの扉の内をうかがいながら、この国はもう大丈夫だな、と太公望は一人ごちる。
 これだけ人々が一生懸命になっていれば、物事は悪い方へは進まない。たとえ、悪い方へ行きかけても、皆の力で修正することができる。むしろ怖いのは、その後、少し状況が落ち着いてきて、余裕が出てきた時だ。
 ほんのわずかに為政者の心が緩んだ隙をついて、謀略や反乱は国家の暗部から噴出してくる。そして、それは往々にして、簡単には収拾できぬ大乱へと発展しがちであり、王朝の寿命を縮める原因になりかねない。
 だが、それはもう少し先の話、既に仙道には関係のない──関与できない人間の問題だったから、太公望は物思いをやめて、またゆっくりと回廊を歩き出す。
 そよ…と辺りを吹き抜けてゆく、ようやく春らしくなってきた優しい風は、ひどくのどかだった。
 普段、太公望にまとわりついて離れない武吉や四不象も、地上の戦いが終わった今は、他の道士たちと共に城下の復興や食料の配給などのため、街中に出て懸命に働いている。
 片腕の楊ゼンもまた何か思うところがあって独自に動いているのか、日中は姿を見せないことが多い。
 だが、太公望はそれらのすべてに口を出さなかった。
 これまでの長い間、彼らは戦いのため、太公望の策を成功させるために、自由意志で行動することを基本的に禁じられていた。だから、いま一時くらいは、彼らがそれぞれ思うべきところに従って行動することを許してやりたいと、そう思ったのである。
 そして、太公望自身も、この数日はこうして単身、禁城内や、桃が花開き始めた庭園をふらふらとそぞろ歩いている。
 決戦を前にしていながら、あまりにも呑気に見えるその態度は、近々地上を──親しんだ人々の元を離れなければならないと分かっているからこその、ささやかな感傷の現れでもあった。
「──お?」
「よぅ、太公望」
 回廊を曲がった先に、手摺に寄りかかってくつろいだ様子の武王を見つけ、太公望は歩調を変えないまま歩み寄る。
「どうしたのだ? 邑姜は?」
「休憩だよ、きゅーけい。朝から数字とにらめっこで、脳味噌が煮え詰まってきちまったからな。邑姜は、今日は旦の手伝いに行ってる。なんか、書類がすんげぇ山になってるんだとさ」
「ほう」
 肩をすくめながら答える武王に、それは仕方がないことだろう、と太公望は思う。
 このところ、周公旦や邑姜の補佐もあって、ようやく本来生まれ持った有能さを発揮し始めた武王だが、何分、仕事が多すぎる。
 武王の執務宅に積み上げられた書類の山も呆れるほどの高さだが、もとより政務に堪能な周公旦の元には、更に数倍の書類が裁可を待っているのである。
 その周公旦が、武王の執務能力が落ちることを承知の上で邑姜を借り出したのは、せめて、急を要する事柄だけでも今日明日中に片付けたいという意向なのに違いなかった。
「ならば、おぬしも頑張らねばならぬだろう。弟や小娘がついておらぬと満足に王としての役目も果たせん、などという評判が立っては臣下が気の毒だ」
「わぁーってるよ。ちょっとだけ休憩だって言ってるだろ?」
 肩をすくめて苦笑し、武王はもたれていた回廊の欄干から体を起こした。
「ちょっと寄っていけよ、茶くらい出してやるからさ」
 そんな誘い文句に。
 微苦笑まじりの溜息をついて、太公望はうなずいた。




 武王の執務室は、かなり悲惨な有様だった。
 一応の仕分けはしてあるのだろうが、一目で間に合わせと分かる幾つもの簡素な卓に、書類が乱雑に積み上げられている。
 かろうじて巨大な執務卓の上だけは、ある程度片付けられ、書類を裁けるだけのスペースが作ってあった。
「悪ぃな、散らかっててよ」
「いや、構わぬよ」
 かつて、西岐を周と改め、国家としての体勢を整えつつ進軍準備をしていた頃の自分の執務室もこんな感じだったと、少しばかり懐かしく思い出しながら、腰を下ろした太公望は広げられていた巻物にちらりと視線を走らせる。
 一目で、城下と朝歌周辺の警備体制についての案件だと分かったが、口に出しては何も言わなかった。
「ちょっと待ってな」
 武王は部屋の隅に行き、暖房用の小さな火爐にかけられたままの鉄瓶を取り上げ、あまり器用とは言いがたい手つきで茶壷(ちゃこ)へと湯を注ぐ。
 作法も何もない、実に大雑把な茶の入れ方に微苦笑しつつも、太公望はそれを見守った。
「あんまり美味くねぇと思うけどよ」
「だが、おぬしが手ずから入れてくれた茶に文句を言ったりしたら、罰が当たるだろう?」
 軽口を言いながら、太公望は茶器を受け取る。
 大雑把な入れ方をされたにもかかわらず、口元に持ってゆくと花のような香りが鼻をくすぐった。
 一口飲むと、ほんのり甘く、茶の滋味が広がる。
「美味い茶だのう」
「葉っぱがいいんだ。邑姜が入れてくれるともっと美味いんだけどな。俺がやったんじゃ、こんな程度だよ」
 自分も茶器を持って執務卓の向かい側に腰を下ろしながら、武王が答える。
「だが、自分で茶が入れられるだけでも上等ではないか?」
 普通、よほどの趣味人でない限り、一国の王は茶の入れ方など知らないだろう。茶を入れる名人を側に仕えさせるのが、王たるもののやり方だ。
 だが、武王は茶器を手にしたまま、笑った。
「うちは親父や兄貴が好きだったからさ。細かい作法なんかは知らねぇんだが、兄貴たちが湯の温度がどうの、葉っぱの量がどうのって講釈してるのを聞いてたからな。それ思い出しながら、見よう見まねでやってるだけだ」
「ほう……」
「ガキだったから、茶の味なんてほとんど分かんなかったけどよ、親父や兄貴の入れる茶は美味かったと思うぜ」
 過去をいとおしむような表情でそう言う武王の横顔を、太公望は静かに見つめた。
 封神計画が始まってから十数年、彼が武王と呼ばれるようになってからは既に十年近くが過ぎようとしている。
 誰にも期待されず、やるべきことを見つけられずに放蕩に耽(ふけ)っていた青年の面影は、今の彼からはもう見つけられない。
 長兄の突然の死によって偉大な父の跡を継ぐことを強いられた次男坊は、時には苛立ち、周囲の重圧に押しつぶされそうになりながらも、良い王となるために必死の努力を続けてきたのだろう。
 青年から壮年へと近付いた今、頬がそげて精悍さを増した彼の面差しは、父親によく似ている。
 そこには、どんな困難をも乗り越えられるはずだと信じる、強い意志が息衝いていた。
「──それで、わしに何か話があるのか?」
 一杯目の茶を飲み干したところで、太公望はゆっくりと切り出す。
「この忙しい時期に、ただ休憩に付き合わせるためだけにわしを誘ったのではあるまい」
 穏やかに問いかけるようなまなざしを向けると。武王は小さく笑みを浮かべた。
「やっぱ、お前は勘がいいな」
 そして、片手の中で小さな茶器をもてあそぶようにくるりと回す。
 その様を見つめながら、太公望は続きを待った。
 武王の話したいことは、少なくとも国家の建て直しに関する事ではないはずである。数日前までならいざ知らず、そんな問いには、太公望はもう答えないことを承知しているだろう。
 では、何か。
 太公望自身を含む仙道たちの行く末についてか、あるいは太公望の血縁に関することか。
 そんな辺りだろうと見当をつけていると。
「こういうことは遠回しに言っても仕方ねぇからな……」
 そう呟き、武王は太公望を見やった。
「っつーわけで、単刀直入に聞くけどよ」
「うむ」

「お前、楊ゼンのこと好きなのか?」

「───な…にを……」
 あまりにも予想外の、しかも率直過ぎる質問に、太公望の心臓が跳ね上がる。
 呆然とするのが半分、焦りまくるのが半分の脳裏で反論する言葉を探すが、それよりも早く武王の声が追い討ちをかける。
「昨夜(ゆうべ)、外の修練場にいただろ? 俺が通りかかったのに、お前らは気付かなかったけどよ、そん時、お前ら二人を見てて何か、普通の関係じゃねぇなと」
 その台詞に、さっと太公望の頬に血の気が上った。
「そんなのはおぬしの勘違い……!」
「隠さなくてもいいって。伊達に遊んでねぇからな、そんなもん一目見りゃ分かる。つっても昨夜まで気付かなかったけどよ」
 お前もあいつも狸だからなー、とひどいことを口にするのも、太公望の耳にはろくに届かない。
 ごまかそうにも妙に確信を抱いている相手に何と言えばいいのか分からず、太公望は焦る。そもそも色恋沙汰は得意ではない、というより、つい先頃までは縁も何もなかった分野なのだ。
 咄嗟にポーカーフェースを作ることもできず、うろたえるばかりでどうにもならない。
 これでは、少し前に長い旅から帰還した折、楊ゼンと相対した時とまるで変わらないと、太公望は内心で歯噛みした。
 あの時はまだ、目の前にいる相手が当人だったから、やりようもあったが、今回は第三者である。
 一体どうすればいいというのか。
「──で、最初の質問に戻るんだが、あいつのこと好きなのか?」
「だから、それはおぬしの勝手な……」
「何でそうごまかしたがるんだ?」
 いかにも分からないと言いたげに切り返されて、太公望は思わずぐっと詰まる。
「ごまかしておるわけでは……」
「だから、無駄だって言ってるだろ? あれを見てぴんと来ねぇほど、俺は野暮じゃねぇよ」
 手の内の茶杯をもてあそびながら、武王は続けた。
「好きなら好きでいいんじゃねぇの? いつからなのか知らねぇけど、少なくともお前らは周囲に迷惑かけてねぇんだし」
「──…」
 だが、その言葉にも太公望は答えられない。
 そもそもがそういう問題ではない、と思うのだ。自分でもよく分からないところを問い詰められても、答えようがない。
「なんか素直になれねぇ理由でもあるのか?」
 押し黙ってしまった太公望に、武王は少し問いを変える。
「実は、どっちかが本気じゃねぇとか。まぁ、昨夜の様子を見た限りじゃ、そういう感じはしなかったけどよ。──お前、楊ゼンのこと好きじゃねぇのか?」
「──何故、おぬしがそんなことにこだわる」
 当たらずとも遠からずのような問いに、太公望はかすかに眉をしかめながら返した。
「何で、って言われてもな」
 だが、武王は軽く首をひねる。
「気になるから、としか答えようがねぇな。気になるから聞きたい、深い理屈なんかねぇよ」
「───…」
 武王の返答はあまりにも簡潔で、かえって反論する余地がなかった。
「で、どうなんだ」
 この分ではどれほど関係ないと突っぱねたところで武王は諦めそうになく、重ねられる問いに、太公望は己の不器用さを呪う。
 普段はのらりくらりと他人の言うことをかわしているくせに、こういう時に限って、どうすればこの場から逃れられるのか、さっぱり分からない。
 どうしてこうも肝心な時に、適当な嘘が思いつけないのかと、色恋沙汰にはてんで疎い自分の頭脳を恨めしく思いながら、渋々口を開いた。
「───どうと聞かれても……わしには分からぬよ」
 何故、こんなことを赤の他人に言わなければならないのかと口惜(くちお)しさに唇を噛みながら、太公望は続ける。
「あやつの方はともかく……、わしはこういうことは得意ではないからな。いくら訊かれても答えようがない」
 その返答に武王はわずかに眉を動かしただけで、別に驚いた様子は見せなかった。
「じゃあ、聞くけどよ」
 まだ諦めないか、と一瞬、心底嫌そうな顔をした太公望に構わず、武王は続ける。
「お前があいつと寝てるのは、なんか取引きでもしたからか?」
「な……!」
 思わぬ暴言に、太公望はかっとなって顔を上げる。
 だが、武王はそれに動じることはなかった。
「それが違うってんなら、好きだっていうのを振るのはかわいそうだと思ったとか? あと、あいつに弱みを握られてるってのも有りか」
「そんなわけがなかろう!」
 武王の言葉は、太公望自身のみならず、楊ゼンの想いまでを侮辱するものだった。
 そのことに、思わず後先を忘れて頭に血が上る。
 そんな太公望を面白がる様子もなく、卓に頬杖をついたまま、むしろ真剣な表情で武王は問いかけた。
「じゃ、何なんだ?」
「────」
 核心を突いてくる低い声に、太公望は唇を噛む。
 ──取引きでも憐れみでもないのなら、楊ゼンを受け入れる理由は何なのか。
 以前、楊ゼン本人にも問われたことがあるが、その答えが分かればこんなに悩んだりはしない。
 何故彼を拒まないのか、自分にとって彼が何なのか、ずっと自問自答を繰り返しているというのに。
「──おまえのそんな表情、初めて見た気がするな」
 揶揄するでもなくそう言い、武王は立ち上がる。
 楊ゼンほどではないにせよ、長身の彼が近づいてくるのを、太公望は表情を変えないまま見上げた。
「だったらさ、分からせてやろうか?」
 その言葉の意味が分からず、太公望は眉をひそめる。
「簡単だぜ。あいつと俺を比べてみな」
 何を、と言いかけた次の瞬間。
 すばやく伸びた手に二の腕を掴まれた。




「姫発…っ!」
 咄嗟に何が起きたのか把握できないうちに、椅子に座っていた体を引き起こされ、執務卓の上に仰向けに上半身を押さえ込まれる。
 我に返った……というより、状況を理解して新たな恐慌状態に陥ったのは、武王の唇が降りてきた時だった。
「嫌だっ!」
 触れんばかりに近付いた唇を、咄嗟に顔を背(そむ)けて避ける。
 が、それで露(あらわ)になった首筋に武王は唇を埋めた。
「──!!」
 その熱っぽい感覚に、これまでに経験したものとはまるで異なる、ぞくりとした悪寒が背筋を駆け上る。
 同意なく素肌に触れられるおぞましさに、太公望はここがどういう場所かということも忘れて、抗(あらが)いの声を上げた。
「止めよっ!!」
 両手を掴まれて卓に押さえつけられ、一回りも二回りも重い男の体重にのしかかられて、身動きらしい身動きはほとんどできない。
 否、いくら対格差があるといえども、所詮はただの人間と道士である。太公望が本気になれば、武王くらい簡単に押し退けられるはずだった。が、予想外の出来事に神経が恐慌状態(パニック)を起こしているのか、あまりの嫌悪感に体がすくんでしまったのか、もがこうにも四肢がほとんどいうことを聞かない。
「嫌だ…っ!」
 耳元からうなじを通り鎖骨の辺りまでを丹念に口接けられ、甘噛みするように貪(むさぼ)られて、激しい嫌悪感と共に吐き気が込み上げてくる。
 唇の熱も、肌をまさぐられる感触もたまらなく気持ち悪かった。
「止めよ…っ、姫発!!」
 悲鳴を上げるように制止を求めて叫んだ途端。
 すっと肌に触れる感触が引いた。
「いつも、あいつにこんな顔を見せてるわけじゃねぇんだろ?」
 真上から降ってきた低い声に、太公望は堅く閉じていた目を開く。
 と、苦笑を浮かべた武王が、落ち着いた瞳でこちらを見下ろしていた。
 そして武王は体を起こし、ついでに掴んだままの太公望の手首を引き寄せて、床に立たせる。
「これで分かったろ?」
 言いながら右手を上げ、太公望の首筋を手のひらでぐいとぬぐって。
「姫発」
 まだ呆然と瞳を見開いたままの太公望に、武王は笑みを向ける。
「さっさと自覚してやれよ。道士だって死んじまったら終わりなんだから、後から後悔なんかしねぇようにさ」
 そう言った言葉に、太公望はふと気付く。
 武王は昨夜、修練場で自分たちを見たと言った。
 しかし、あの場所にいたのはかなりの夜更け、既に城内が寝静まっていたはずの時刻だ。
 そんな頃合に何故、彼があんな場所に足を運んだのか。
「姫発、おぬしは……」
「俺のことはいいんだって」
 言いかけた太公望を、武王は笑ってさえぎる。
「お前は自分とあいつのことを考えろよ。あいつは本当に本気だぜ。見てりゃ分かる」
「姫発」
「一言言っておけば、もしかしたら引き止められたんじゃねぇかとか、後から考えるのは情けねぇもんだぜ」
 言葉もなく見つめる太公望のまなざしを避けるように、武王は視線を窓の外へと向ける。
 春の空は淡く霞みながら、どこまでも青く続いていて。
「色恋とかそういうんじゃねぇんだ。ちょっと前まで俺は、ずっと自分はお前が好きなんだと思ってたしな」
「……え」
「だから、『そう思ってた』んだって。ただ、誰かに甘えたかっただけなんだけどよ」
 ちらりと太公望を振り返って、武王は苦笑して見せた。
 だが、すぐにまた淡い色の空へと視線を戻す。
「──あいつはもっと違ってて……。放っとけねぇなと思ってた。何ていうか……あいつの気持ちが俺にはよく分かったからさ」
 低い声で、ぽつりと続ける。
「……悔しいぜ。俺はあいつに何もしてやれなかった」
 その鋭い横顔を、太公望は言葉もなく見つめた。
 そんなことはない、などという台詞は、口に出すにはあまりにも陳腐すぎて。
 どんな言葉も、この場には相応しくなかったから、沈黙を噛みしめるしかない。
 やがて、しばらくの沈黙の後、武王はいつもの顔で振り返る。
「だからよ、太公望。お前はこれ以上、後悔すんなよ。こういうこと口にするのは不吉だが、楊ゼンに何かあったとき、一言を言えなかったのを後悔するのは嫌だろ? まぁ、あいつはよっぽどのことがあっても、くたばりそうにはねぇけどよ」
 そう言って笑った顔に、太公望は瞳を伏せる。
「……確かにおぬしの言う通りだな」
 仙道であっても、いつ死が訪れるか分からないのは人間と同じ。
 そのことは、もう随分前に思い知ったはずだった。
「こういうことはよく分からぬし、苦手だが……考えてみるよ」
「まーだ分からねぇってのか」
 歯切れの悪い太公望の答えに、武王は呆れたように言いながらも笑う。
「何なら最後までやってやろうか? もっとはっきり分かるようによ」
「死んでも御免だ」
 戯言に眉をしかめ、言い捨てた太公望に、武王は更に笑った。
「まぁ、俺もこれ以上お節介して馬に蹴られたくはねぇしな。頑張って考えろよ」
「……おぬしにそんなことを言われるとは、思いもしなかったのう」
「人間ってのは成長するんだぜ。知らなかったのか?」
 呵々と笑う武王に、太公望は肩をすくめる。
「気遣ってくれるのはありがたいが、おぬしには遊んどる暇などなかろう。わしはそろそろ行くぞ。巻き添えになって旦や邑姜に説教されるのは御免だからな」
「薄情だな」
 言いながらも、武王は太公望を引き止めない。
 代わりに、執務室を出て行こうとする太公望に呼びかけた。
「おい、跡はつけてねぇから安心しろよ!」
 なにを、と振り返った太公望は、すぐにそれが何を指しているのかに気付いて顔をしかめる。
「たわけ」
 わずかに赤くなった顔でそう言い捨てて、太公望は武王の執務室を後にした。






 太公望が立ち去った直後。
 それとは反対側の回廊の角から歩み出た小柄な人影が、武王の執務室へと足を踏み入れた。
「武王、休憩時間は終わりですよ」
 両腕に書類の束を抱えた邑姜が、まだ窓辺でくつろいでいた武王に声をかける。と、ややうろたえたような風情で、彼は振り返った。
「何ですか?」
「いや……」
 言いよどんだ後。
「……タイミング、良すぎねぇか?」
 ぼそりと呟くような問いかけに。
 邑姜は運んできた書類を卓上で分類しながら、あっさりと答えた。
「あなたの声はよく透るんです。他の人が通りかからなかったから良かったものの……もう少し、やりようがあったと思いますよ。変な噂でも立ったら、どうするつもりだったんですか?」
「……一体、いつから聞いてたんだよ」
 さすがに決まりの悪そうな顔で、武王は前髪をかき上げる。
「太公望にゃ世話になりっぱなしだからな。これくらいのことはしてやらねぇとよ」
 そんな言い訳めいたことを口にしつつ、
「でもまぁ、聞いてたんなら手間が省けたか」
 気を取り直したように言って、武王は窓辺を離れて執務卓へと歩み寄る。
 そして、自分の椅子を先程太公望が腰を下ろしていた椅子──普段は邑姜が使っている椅子の隣りにまで持ってきた。
「武王?」
 一体何をする気なのかと眉をひそめた少女に、自分の椅子に腰を下ろして手招きする。
「いいから、ちょっとこっちに座れよ」
「休憩はもう終わりですよ。仕事はこの通り、まだ山積みなんですから」
「分かってるって。でも、今、俺は立て続けに振られて落ち込んでるんだぜ。こんなんじゃ能率は上がらねぇし、ちょっとくらい慰めてくれてもいいだろ?」
「───…」
 冗談めかした言いように、邑姜は眉をしかめる。
 が、どうにもこうにも今すぐ執務を再開する気はなさそうなのを悟ったのか、深く溜息をついた。
「私も忙しいんですよ。あなたの傷心に付き合って、のんびりしている暇はないんです」
 そして苦情を口にしながらも武王の隣りに腰を下ろす。
 が、
「あ、そうじゃなくてもっと深く腰掛けてさ」
 武王が注文をつけ、嫌そうな顔をしながらも邑姜は従った。
 彼女が深く椅子に腰を下ろしたのを確認して。
 武王はごろりと少女の膝を枕に横になる。
「武王!!」
「ちょっとの間だけって」
「ちょっとでも何でも、これはセクハラです」
「いいからいいから」
 自分の目元を隠すように顔の上に腕を置きながら、武王は邑姜の抗議をいなした。
「武王!」
「──戦争ってのは嫌なもんだな。誰かを殺すのも、殺されるのもよ」
 名を呼ぶ邑姜の声を無視して、武王は呟く。
「もう二度としたくねぇな……」
 その低い声に、邑姜は眉をしかめたまま、しかし口を閉ざす。
 軽口を叩きながらも、殷周易姓革命の中核として、武王はこの地上で行われた全ての戦いを見つめてきたのだ。
 『武王』の名を戴きながらも、彼は決して争いごとは好まない。仲間と共に楽しく過ごすのが一番好きな、ごく普通の青年だったにもかかわらず、主君に逆らう兵を率い、その生命を絶つ運命を強いられたのである。
 そんな彼に、目の前で繰り広げられた戦いの風景は、いかに血腥(ちなまぐさ)く映っただろう。
 そして。
 戦いの終止符を打つためとはいえ、一人の人間の首を刎(は)ねた刃の重みは。
 いかに彼の腕にのしかかってきただろう。
 だが、それは彼自身にしか分からない。
 他の誰もが知りえない、君主の悲哀であり、簒奪者の苦渋だった。
 ──うららかな昼下がりの執務室には、禁城内外のざわめきも届かない。
 ただ、ゆるやかに優しい春の風が通り過ぎてゆく。
「……邑姜」
 しばらくの沈黙の後、武王が少女の名を呼んだ。
「何ですか?」
「お前、もうちっと肉付けろよ。いくらなんでも細すぎ……」
 次の瞬間。
 少女は勢いよく椅子から立ち上がり、男を床に放り出した。












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