ずれこんでいた糧食輸送隊の到着予定が、更に一日遅れる、という連絡が届いたのは、メンチ城開城から十一日目の朝だった。
 ちょうど、その日の朝議を始めようとしたところに、伝令が飛び込んできたのである。
 伝令によれば、昨日雨に降られたことと、それによって出来たぬかるみに車輪を取られて脱輪した車が八台、横転した車が四台出たために進行速度が鈍った、ということだった。
「それで、怪我人は出なかったのか?」
 武王・姫発がそう尋ねると、横転した車に巻き込まれて足を骨折した者が二名いるが、命に関わるような怪我を負った者はいない、という返答が返る。
「そっか。そりゃ良かった。それで、その後は順調に進んでいるんだな?」
「はい。壊れた車の修理も昨日のうちに終了しましたので、明後日の昼頃にはこちらに到着する予定で進んでおります」
「分かった。お前はこのまま、ここで輸送隊が到着するまで休んでいていいぞ。夜通し馬を走らせてきたんだろう? 御苦労だったな」
 そうねぎらって、武王は会議室の扉付近に控えていた兵士に、伝令を宿舎の方に案内するように命じる。
 その様子を、太公望は何も言わずに見ていた。
 誰も、何も口出しをすることはなかった。
 武王の采配は兵士に対する心配りが感じられ、彼の父親の姫昌を思い出させる。彼が国王として十分に成長しつつあることを、伝令とのやり取りが会議室にいた人々に教えてくれた。
「しかし……」
 伝令が兵士に伴われて退出し、一同が姿勢を改めたところで太公望がぼやくように口を開く。
「これで、孟津の会合には遅刻が決定してしまったのう」
「気にするほどのことじゃねえよ」
 だが、あっさりと武王は言った。
「重役出勤って言葉もあるんだし、ちょっとくらい遅れて登場した方が主役らしくて、箔が付くってもんだろ。それよか、輸送隊が多少遅刻しても無事に着く方が大事じゃねえのか?」
 その言葉に、太公望をはじめとする一同は口元をほころばせる。
 武王・姫発は、姫昌が亡くなって跡を継ぐまで、政治や経済、軍事など統治に関する一切について、ほとんど何も知らなかった。それまでは、優秀な兄と弟に挟まれたお気楽な次男坊として、年がら年中、豊邑の繁華街で遊びほうけていたのだ。
 だが、長男・伯邑孝が妲己の手で惨殺され、姫昌が逝去して、西岐の統治者のお鉢は彼に回ってきてしまったのである。
 当初は『武王』の名に腰が引けていた姫発だが、しかし生まれて初めて責任ある立場となり、周囲に期待されることは、彼に何かを成すことの手ごたえと、それに伴う喜びを教え、見る見るうちに彼を変えていった。
 というのも、姫発が以前、放蕩の限りを尽くしていたのは性格もあるが、『何の責任も与えられていない』という逆説的なストレスによるところも大きかったのである。いわば、将来を期待される優秀な兄と弟を持った、次男坊の劣等感の裏返しともいうべき放蕩だったのだ。
 だが今は、皆が自分を見てくれ、自分に良い国王となることを期待してくれている───。
 それはプレッシャーにもなっただろうが、それ以上に、能力的には全く認められていなかった彼にとっては大きな喜びだった。
 加えて、もともと素直で闊達な性格であったことも彼を救った。
 自分が何も知らず未熟であることを認め、少しでも良い国王となるために必死で努力し、また自分を支えてくれる人々を心から信頼したのである。
 そして数年を経た今、彼は打倒・殷を唱える周の武王として相応しい人物になりつつある。
 彼を支える周の重臣たちにとって、これほど頼もしいことはなかった。
「おぬしがそう考えておるのなら良い。一日余分に兵士の訓練をする時間を得たのだと考えよう。南宮かつ!」
「はっ!!」
 太公望の名指しを受けた偉丈夫が、いかつい声を上げた。
「ちょうどよいから、わしの考案した新しいフォーメーションを今日明日で兵士に叩き込んでくれ。二日あれば何とかなるだろう」
「分かりました!」
「それから、楊ゼン」
「はい」
 今度は自分の左側に、太公望は顔を向ける。
「道士たちも徹底的にしごいてやってくれ。決戦は兵士たちで行うが、妲己との最終的な決着はわしらの手でつけねばならぬ。牧野の平原に着くまで、あと六日しかないのだ。貴重な一日を充分に活用してくれ」
「分かっています、太公望師叔」
「うむ」
 うなずいて太公望は再度視線を転じ、今度は補給担当者を呼んだ。
「明後日、輸送隊が到着したら迅速に物資の搬入と分配を行えるように、体制を整えておいてくれ。午後いっぱいで作業を終えて、夜は兵士たちが休めるようにしてほしいのだ。翌日の出発予定は朝早い」
「はい。現場のものには一通りマニュアルを配ってあります。今日明日中にもう一度、手順を確認させ直しましょう」
「うむ。頼んだぞ」
 その調子で、太公望は次々と指令を与えていった。
 どれもこれもが的確な指示で、細部にまで気配りが行き届き、この戦争は彼によって支えられ、行われているのだということを、その場にいた全員が改めて感じ取る。
 やがて、一通りの指示を出し終えて、太公望は一堂を見回した。
「あと、何かあったかのう」
「他の四大諸侯に、我々の遅参を伝えなければいけないのではありませんか?」
 楊ゼンの涼やかな声が、そう指摘すると、
「ああ、そのことがあった」
 太公望は、失念していた、という表情になり、そして武王を見た。
「武王、どうする?」
 突然訊かれて、彼は少し戸惑った顔をしたが、すぐに応える。
「連絡してやった方がいいだろ? 俺たちが遅れてくるのを知らないで、ぼーっと待ってたら殷軍に急襲される可能性があるんじゃねぇか?」
「その通りだ」
 意を得たりと、太公望はうなずいた。
「それに、連絡なしで会合に遅刻して、余計な心配をさせれば兵士の士気が下がる。すぐに伝令を出そう」
 そう決定を下して、太公望は朝議の終了を告げる。
「今朝の軍議は以上だ。輸送隊の遅れは仕方がない。決戦準備のための時間が一日増えたのだと思って、各自、時間を無駄にしないように行動してくれ」
「ああ。皆、頼んだぜ。太公望たちは妲己との戦いにかかりきりになる。人間同士の戦(いくさ)に勝つか負けるかは、現場のお前たちにかかってるんだからな」
「はっ!!」
 武王の言葉に気合のこもった返事をして、一同は解散となった。わらわらと各自が立ち上がる中で、太公望は南宮かつを呼ぶ。
「新しいフォーメーションを教えるから、覚えてくれ」
 そして、紙と筆を引き寄せ、さらさらと線を引き始めた。
 それを左右から姫発と南宮かつが覗き込む。
「まず、ここにこう展開して前進する。そして……」
 二枚目、三枚目、と変形の順番を追って図面が枚数を増やしてゆく。
「で、こういう形になれば、ここから更に必要に応じて、フォーメーションDにもフォーメーションFにも移行できるであろう?」
「なるほど!」
 感嘆の声を、武王と南宮かつが異口同音に上げた。
「さすがですな」
「どれもこれも、フォーメーションは全部連動させてるんだな」
「ひとつひとつが細切れでは、実際の戦では何の役にも立たぬよ。どんな状況にも対応できるよう、自由自在に陣形(フォーメーション)を動かすために考えるのが戦術というものだ」
 何でもないことのように笑っていう太公望を、二人は感心したように見つめた。
 そして、太公望は表情を改めて将軍を呼んだ。
「南宮かつ」
「はっ」
「孟津で他の諸侯の軍と合流するが、主力はやはり、わしらの十万の兵だ。他の軍はこれらのフォーメーションの邪魔をせず、補強するように配置する。だから、はっきり言って決戦の勝敗はおぬしにかかっておるのだ。大変だと思うが、間違いなく兵士が正確な隊列を組んだまま動けるよう、みっちり叩き込んでくれ」
「分かっております」
 重大な責任を与えられ、周の大将軍は頼もしげにうなずく。
 南宮かつは熱血で体育会系の男だが、武将としては非常に優秀だった。
 太公望が考案する戦略戦術を難なく理解する思考力、そして、それを戦場で実行するための統率力を併せ持っているし、武人としても武術に優れ、兵士の信望も厚い。
 故人となった武成王・黄飛虎には劣りこそすれ、彼もまた軍事面では得がたい人物だった。
「では、頼んだぞ」
 筆を置いて、新作フォーメーションを図示した紙をそろえて南宮かつに渡し、太公望は立ち上がる。
「わしは執務室におるから、分からぬことがあれば聞きに来るのだぞ」
 まだ図面を覗き込んでいる南宮かつと武王にそう言い置いて、扉を開け放したままの会議室の出入り口を出た。
 だが、執務室に向かうべく数歩進んだところで、太公望の足が止まってしまう。
「太公望師叔」
「楊ゼン……」
 長い髪の青年道士が、そこには待っていた。
「……どうしたのだ」
 優しい甘やかな色の瞳から、少しだけ視線を外して太公望は尋ねる。
「いえ、大したことではないのですが……。昨夕、師叔が道士たちの特訓の成果を気にしておられたので、どうせなら御覧になった方が早いのではないかと思ったのですが、いかがですか?」
「───…」
 まなざしを少しだけ伏せたまま、太公望は迷うような様子を見せた。
 が、それも短い間だけで、
「……いや、今日も色々とやらねばならぬことがあるのだ。せっかく気を遣ってもらったのに悪いが……」
 やや弱い口調で太公望はそう答える。
 その様子を、楊ゼンはかすかに切なさを底に秘めたような、でも優しい色の瞳で見ていた。
「いえ、構いませんよ。それでは、また夕刻、御報告に上がりますから」
「……すまんのう、楊ゼン」
 太公望は、そっと視線を上げる。
 どこか戸惑ったような大きな瞳が、楊ゼンを見つめた。と、ふっと瞳の色が揺れ、視線が外される。
「では、頼んだぞ」
「はい」
 そのまま太公望は、もう楊ゼンを見ないまま、廊下を立ち去ってゆく。
 その小さな背中が回廊に消えるまで、楊ゼンは無言で見送った。




 執務室兼私室の扉を閉め、太公望は溜息をついた。
「───…」
 らしくもなく、ややうつむいて肩を落としたまま、ぱたぱたと歩いて執務宅の椅子に座る。そうして、もう一度溜息をこぼした。
「──四日、か」
 ぽつり、と呟く。
 ───四日。
 それは、あの日からの日数だった。
 あの日──いわば、なりゆきで楊ゼンと他人ではなくなってしまった日から、太公望は、まともに彼の顔を見ることができなくなっていた。
 さすがに九ヵ月前のように露骨に逃げ回ったりはしないが、それでも先程のように一対一で話す時には、無意識に身構えてしまう。
「今から思えば、あの頃は気楽であったな……」
 九ヶ月前のことを思い出して、太公望は三回目の溜息をついた。
 あの時は、ただひたすら泡を食って逃げ回っていただけだ。
 でも、今は。
 状況が複雑すぎて、考えることも多すぎて。
 すっかり途方に暮れてしまっている。
 何が一番問題なのかといえば───。
 四日前の夜をちらりと思い出して、太公望はわずかに身を竦(すく)める。
 あの夜、楊ゼンは誰よりも太公望に近い位置に来た。
 それは、身体だけではない。それだけなら、もっと単純だっただろう。
 楊ゼンが手を伸ばして触れたのは、太公望の心の中だった。
 もちろん太公望も、何もかもをさらけ出したわけではない。だが、これまで決して誰にも言ったことのなかった本音……自分の中の一番弱い部分を彼にぶつけてしまった。
 夢に見たタイ盆の記憶が辛すぎて、抱きしめてくれた彼の優しさにすがってしまったのだ。
「………わしは、ずるい……」
 小さく、自嘲の声で太公望は呟く。
「いっそのこと……あやつを顔も見たくないほど嫌いになれていたら良かったのだがな」
 いっそのこと、楊ゼンに対して嫌悪感があれば良かった。
 そうしたら、あくまでも軍師として、封神計画の責任者として彼に接するだけにとどめて、プライベートでは遠ざけてしまえば、それですむ。
 だが、もし嫌悪感があるとしたら、それは楊ゼンに対してではなくて───。
 太公望は、自分をぎゅっと抱きしめるように腕に爪を立てる。
「わしは、おぬしが思うほど綺麗でも優しくもないよ……」
 自分の弱さを垣間(かいま)見ても、変わらない優しい瞳を向けてくれる彼に、この先どうしたらいいのか。
 ずっと考え続けているのに、まだ答えは出なかった。

*               *

 夜更けの城内は、さすがに人気が少ない。
 ようやく春めいてきたこの季節に鳴く虫がいるはずもなく、しんと静まりかえった回廊を歩みながら、楊ゼンは物憂げに長い髪をかき上げる。
 ───夕刻、今日一日の道士たちの特訓状況を報告に行った時も、やはり太公望は、まともにこちらを見ようとはしなかった。
 まったく視線を合わせようとしない、というほどではないが、時折目が合っても、少し戸惑うような表情になって逸らしてしまう。
 そんな状況は、あの日以来、既に四日に及んでいた。
 もっとも、最初からこんな具合だったわけではない。
 初めのうちは、どちらかといえば赤面しそうになるのを懸命に意識を逸らそうとしている、という感じだったのだ。
 だがそのうち、少しずつ表情が変わってきて、今ではひどく寂しげな、辛い思いを必死に抑えているような、どこか自嘲さえ感じさせる瞳を見せる。
 ───あの人のことだから、きっとまた、あれこれ考え込んでるんだろうな。
 そう心中に呟いて、楊ゼンは小さく溜息をついた。そのまま、何となく歩み止ってしまう。
 回廊の半ばでたたずんだまま、もう一度楊ゼンは溜息を繰り返した。
 また何か、自分自身を責めるネタを思いついたのだろうと思うと、どうやって太公望を宥めたものか、途方に暮れてしまいたくなる。
 そもそも、どうやって話を持っていったものか。
 以前のように避けられているわけではないから、話しかける機会はいくらでもあるのだが、このところ、何となく核心に触れるのをためらわせる雰囲気が太公望を取り巻いているのだ。
 この二、三日、他者のいないところで向き合う時はいつも、太公望の目はあの夜のように、痛みを必死にこらえているような陰りを帯びていた。
 その瞳の色を思い出して、楊ゼンはくしゃりと前髪をかき上げる。
「──そんなに悩まなくてもいいのに……」
 溜息と共に、小さな呟きがこぼれ落ちる。
 あの夜、太公望は、自分のためにそんな顔をするなと言ったが、その言葉をそっくりそのまま返したい、と楊ゼンは思う。
 とはいえ、本当に正直なところを言えば、太公望が自分のために悩んでいてくれるのが嬉しくないわけではなかった。
 だが、沈んで辛そうな瞳をした太公望を目にすれば、どうしても胸が痛む。
 やはり、好きな人には屈託なく笑っていてほしいと思うのだ。ましてや太公望は、辛いことや哀しいことをたくさん背負っている人だから、尚更に、そう願う思いは強い。
 本当に、どう話を切り出すのが一番いいだろうと、楊ゼンは思い悩みながら再び回廊を歩き出す。
 しかし今回は、太公望の沈んでいる原因がどこにあるのか分かっている分、四日前に比べれば、気分的には多少楽だった。
 要は、この自分との問題なのだ。
 だから、話を核心に持っていくきっかけさえあれば、太公望がどんな風に自分自身を責めていようと、いくらでも言葉を尽くして宥めることは出来るだろう。
 それに───。
 少し気になることがあるのだ。
 というより、確かめたいこと、と言った方が正しいかもしれない。
 ───師叔は、もしかしたら……。
 歩きながら、つい物思いにふけっていたため、楊ゼンは回廊を折れ曲がった先に人の気配があることに珍しくも気付かなかった。
「──楊ゼン…」
 聞き慣れた良く通る声で名を呼ばれるまで。
「太公望師叔……」
 夜の回廊で、思いがけない互いの姿を見い出して、二人は声もなく立ち尽くす。
「どうして、ここに……?」
 先に訪ねたのは楊ゼンの方だった。
「──星を見ておったのだ」
 問われて、ふっと視線を逸らし、太公望は夜空を見上げる。
「わしの部屋からは、東の空は見えぬから……」
 太公望の部屋はL字型であるため、北・西・南の三方に窓がある。だが、東の空だけは建物を出て回廊に降りなければ見えなかった。
 太公望が見つめる夜空の星を、楊ゼンも見上げる。
 春には珍しく、今夜は空が澄んでいた。冬の夜空ほどではないにせよ、星がよくまたたいている。しばしの間、いつもと変わらないように見える星を見つめて、楊ゼンは視線を太公望に戻した。
「何か……気になることでも?」
 星を見て吉凶を占うのは、誰でもやることである。だが、彼がそんな占いを気にするなどということはこれまでに無かった。
 だから、気になって尋ねたのだが、太公望は曖昧な表情になる。
「気になることはあるといえばあるし、無いといえば無い……」
「師叔?」
「所詮、占いなどわしは信じておらぬということだよ」
 そう言って、太公望は曖昧に微笑した。
 彼が一体、何を思い煩っているのか検討がつかず、楊ゼンはかすかに眉をひそめる。
 だが、何かを言う前に、太公望はゆっくりと振り返った。
「楊ゼン」
 静かな表情で、真っ直ぐに楊ゼンを見つめる。
「少し話をしたいのだが……時間はあるか?」
「──はい」
 突然の申し出に少々驚いたが、話をしたかったのは楊ゼンの方もだから、否やはなかった。
 楊ゼンがうなずいたのを見て、太公望は歩き出す。その小さな背中に、どこへ行くのかと問いかけもせず、楊ゼンは黙って従った。
 夜更けとはいえ、場内にはまだ起きている人間もかなりいる時間である。彼がどんな話をしたいにせよ、他人には絶対に聞かれたくない内容であることは間違いなかった。
 星明かりに照らされた回廊を歩き、階段を上って太公望の部屋にたどり着くまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。


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