「───…」
 宿営と酒宴の準備に追われ、沸き立つ周軍から少し離れて、ようやく一人になることができた太公望は思わず小さな吐息をついた。
 昨日の午後、太公望は九ヵ月ぶりに周軍の元へ帰ってきたのだ。
 太上老君を味方に引き込むという、旅の当初の目的は挫折したものの、とりあえず彼を見つけて好意的中立くらいは獲得できたし、何よりもスーパー宝貝・太極図を太公望は得ることができた。だから、戦力の増強という意味では一応、今回の冒険は成功といえるだろう。
 そうしてメンチ城攻防戦の最中(さなか)に帰ってきた太公望は、メンチ城守将の張奎・高蘭英夫妻を封神台に連れてゆき、聞仲の魂魄と会わせることで、彼らに戦うことの無意味さを納得させ、先刻メンチ城を開城させた。
 その後、改めて予定よりも帰参が遅れたことを全軍に向けて詫び、小休止の後、孟津で諸侯達と合流して殷との決戦を行うことを告げた太公望を、兵士たちはこぞって歓喜の声を上げて迎えた。
 のらくらしているように見えても、太公望が優れた軍師であることは既に誰もが知っている。幾ら太公望の右腕であり、天才道士と名高い楊ゼンに全権が委任されていても、やはりこの九ヵ月、周の兵士たちに一抹の不安もなかったとはいえないのだ。
 そして、兵士たち以上に太公望を信任している武王・姫発もまた、無事に太公望が帰ってきたことを喜んだ。
 だが、もともとお祭り好きな武王である。
 単に喜ぶだけにはとどまらず、せっかくだから帰還祝いとメンチ城攻略祝いを兼ねた酒宴を開こうと、まだ太陽が傾きかけたばかりなのに、全軍に命令を下したのだ。
 すると、ノリのいい周の兵士たちは即座に王命に従い、またたく間に宿営のための天幕を張るグループと酒宴の準備をするグループ、更には殷軍が撤退したメンチ城内を調べるグループに分かれ、作業を開始したのである。
 それと同時に、太公望は武王や仲間の仙道たちに取り囲まれ、この九ヵ月間のことを根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。
 四方八方から質問を浴びせかけられて、不承不承、太公望は太上老君を見つけ、スーパー宝貝・太極図を得て帰ってくるまでの大まかな経緯を至極簡単に語ったのだが、それで好奇心の強い彼らが満足するわけもない。
 彼らがとりわけ強い興味を示したのは、伝説の理想郷といわれる『桃源郷』と、元始天尊以外、誰も見たことのない太上老君その人についてだった。
 桃源郷の存在は、仙道たちの間でも伝承でしか知られておらず、彼らが興味を持つのは当然のことだった。
 が、太公望自身は、その桃源郷でさほどいい想いをしたわけでもない。
 むしろ半ば自業自得とはいえ、当の太上老君と邑姜のせいで、ろくでもないことの連続だったと言ってもよかった。
 そういう事情に加えて、もともとそういったサービス精神のない太公望である。
 早々に彼らの質問にうんざりしてしまい、冒険譚の語り役を四不象に押し付けて、その場を離れてしまったのだった。





 そして今、宿営地からやや離れた奇岩の林立する荒地を、太公望はゆっくりとした足取りで歩いていた。
 特に目的があって歩いているわけでもない。ただ、少し一人になりたかっただけである。
 そろそろ陽が地平線に近付きかけ、辺りは赤く染まり始めていた。
 太公望から見ると、ちょうど進行方向のやや右手に、朱く巨大な太陽が奇岩の間から見え隠れする。
 それを眺めて歩きながら、太公望は自分が三ヵ月間、面倒を見ていた桃源郷の羊たちのこと、そして、その後の六ヵ月間を過ごした羌族の村の羊たちのことを思い出していた。
 羊たちの記憶は、そのまま遥かな記憶に繋がる。
 数十年もの昔、まだ人間であった頃、幼かった太公望はこんな夕陽を見つめながら、毎日父や兄と共に羊を追って家に帰った。
 百数十匹の羊と馬、両親と兄と妹、そして村の人々が、呂望と呼ばれていたあの頃の太公望のすべてだった。
 羊の世話で明け暮れていた、幼い日々。
 それが、今はこれほどまでにも遠い。
「───らしくもない……」
 郷愁に駆られた自分を、ふと太公望は自嘲するように呟く。
 だが、桃源郷の霧の中で見た両親の幻影と、邑姜に押し付けられた羊の毛刈りのバイト、それに太上老君がいた羌族の村の光景は、太公望に失った過去を思い出させるのに十分だった。
 十二歳のあの日に全てを失って以来、太公望は崑崙山に上がってからも、ずっと幸せだった頃に帰りたいと思い、妲己を憎み続けた。
 だが、どれほど懐かしんでも──たとえ妲己を倒したとしても、もう二度とあの頃には戻れないのだと気付いて諦めたのは、いつの頃だったか……。
 七十年前に故郷と家族を失い、仙人界入りして人間であることを捨て。
 そして今、新たな故郷であった崑崙山さえも地上に落とした。
 結局、どこまでいってもあの日以来、自分の中には妲己を倒すという目的以外、何もないのだと太公望は思う。
 それだけのために、あらゆる物を投げ捨ててきてしまった。
 では、この先、もし妲己を倒して新しい平和な人間界を造ることに成功し、それでもまだ、この生命があったら。
 ──一体、何処へ行き、何をするべきなのだろう。
 目的を果たしたその後のビジョンが、どうしても太公望には描けない。
 そんな未来の光景は、今の自分には遠すぎる。
「あるかどうかも分からぬ先の事など、考えても仕方がないしのう……」
 第一、今の自分は、強大すぎる妲己をどうやって倒すかということだけで頭が一杯だ。
 余計な事を考えている暇はない。自分が死ぬ覚悟で戦っても勝てる見込みの薄い妲己に、それでも勝たなければならないのだから。
 そう思い、太公望は自分の事を考えるのを止める。
 と、ふいに奇岩の影が切れて、目の前に朱さを増しつつある太陽がまた現れた。
 先程に比べると、かなり地平線に近づいた夕陽を見て、はたと太公望は歩みを止める。
 振り返ってみれば、ずいぶん宿営地から離れてしまったようで、兵士たちの喧騒も、もう伝わってはこない。
 どうしようか、と太公望は少し迷った。
 宿営地を造り天幕を張る作業も、酒宴の準備も、大体一刻半ほどの時間がかかる。作業開始の時間から考えると、ちょうど日没直後くらいから酒宴は始まるはずだった。だから、現在の太陽の位置から計算すると、まだ半刻弱ほどは時間があることになる。
 酒宴が始まれば、今日の主役である太公望が人々に囲まれてしまうだろう事は想像に難(かた)くない。何のかんのいって、少年のような外見をした周の軍師は、年若い国王と並ぶ人気者なのだ。
 それならば、もう少し一人の時間を堪能しよう、と太公望は決めた。
 酒宴はもちろん嫌いではない。自分が酒を飲むのも、人々が楽しげにしているのを見るのも好きである。
 でも、今日はもう少しだけ、一人でいたかった。
 とはいえ、あまり宿営地から離れてもまずいだろうと、太公望はくるりと進む方向を変えて太陽に背を向け、そして、再びゆっくりとした足取りで歩き出す。
 乾いた地面に落ちる自分の長い影を、見るともなしに見ながら歩いていた太公望が、何気なく目を上げた時。
 それまで林立する奇岩の影以外、何もなかった視界に人影が飛び込んできた。
「────」
 ほんの二十メートルほど先にいるその人物の姿を見て取って、思わず太公望は足を止める。
 すぐに、それが誰であるかは分かった。
 だが、その名を呼ぶことも、歩み寄ることも、ましてや逃げることもできず、ただ呆然と太公望は突然現れたその人影を見つめる。
 どうすることもできずに固まってしまった太公望に、相手の方がゆっくりと近づいてきた。
 夕陽に照らし出された艶やかな長い髪が、さらりと揺れる。
「太公望師叔」
 四、五メートルの距離で立ち止まり、自分の名を呼んで微笑んだ彼を、太公望はなす術もなく見上げた。
 ──楊ゼン。
 呟くような小さな声で名を呼ぶと、唇の動きでそれを読み取ったのか、彼は微笑を深くした。





「こちらにいらっしゃったのですね」
 穏やかな笑顔でそう言われて、太公望はどうしようと思いながら小さくうなずいた。
 首尾よく四不象に桃源郷の説明役を押し付け、宿営地を出てきたのは、単純に一人になりたかったからではない。
 正直に言うと、『彼』から離れて、一人で考え事をしたかったのだ。
 どうしてもまだ、『彼』と平静に顔を合わせられる自信がなかったから。
 昨日、軍に帰ってきて、『彼』──楊ゼンとも九ヵ月ぶりに再会したのだが、太公望はどうしても、まともに楊ゼンの顔を見られなかった。
 戦いの最中はまだしも、状況が落ち着いてしまうと、九ヵ月も経ったのだからと幾ら自分に言い聞かせても視線を合わせることができず、周囲の人々にそれを気付かれて不審に思われる前に、楊ゼンのいる場所から離れたのだ。
 なのに、彼自身が追いかけてきてしまったらしい。
 そして今、目の前に立つ涼やかな青年の姿を見つめ、太公望はひたすら困惑し、焦っていた。
 さっきは顔を見られなくて困ったのに、今度は目の前の彼からどうやって視線を外せばいいのか分からないのである。
 別に、太公望は仙人界随一の美形と誉めそやされるその顔に見惚れているわけではない。
 太公望が考えているのは、どうすれば彼を傷つけずに視線を外すことができるか、という事だった。
 が、答えが出る前に、困りきったような色を浮かべて自分を凝視している太公望に楊ゼンの方が苦笑した。
「そんなに見つめられると、照れてしまいますね」
「──す、すまぬ。そういうつもりでは……」
 楊ゼンの言葉に、慌てて太公望は取り繕おうとするが、焦ってしまってまともな言葉が出てこない。
 そんな太公望を見て、いっそう楊ゼンは苦笑する。
 彼を目の前にして、らしくもなくうろたえている自分を感じ、太公望は頬に血が上るのを感じた。
 幸い、辺りは夕暮れが近づいており、しかも、楊ゼンから見れば逆光の自分の顔色はよく分からないだろう事が、せめてもの救いだと太公望は思う。
 とはいえ、外した視線をどこへ持っていけばいいのか分からず、落ちつかなげに彷徨わせていては、顔色が見えなくても同じ事だった。
 自分が焦りまくっているのを見抜かれているのだろうと思うと、太公望は本当に居たたまれない気分になる。傍に四不象がいれば、飛び乗ってこの場から逃げ出したいくらいだった。
 本当に、どうしてこんな事になってしまったのだろうと、せめて思考だけでも現実逃避をさせるかのように太公望は考える。
 ──きっかけは、九ヵ月前、楊ゼンに露骨な好意の意思表示をされたことだった。
 その時、楊ゼンにはっきりと「好きだ」と言われたわけではない。が、頬にキスをされたことで、彼が自分にただならぬ好意を抱いていることは、極度の恋愛音痴の太公望にも理解できた。
 しかし、太公望にはまったく恋愛に関する経験も免疫もない。頬に軽くキスをされ言い寄られた、それだけのことで、すっかりパニックに陥ってしまったのである。
 以来、太公望は楊ゼンから逃げ続けた。
 とてもではないが事情を説明できなかったため、四不象に不審がられながらも、徹底的に楊ゼンと顔を合わせるのを避けた。
 本当に、他にどうしたらいいのか分からなかったのである。
 そういう意味での好きだとか嫌いだとかいう事は、楊ゼン相手に限らず、これまでに一度も考えたことがなかったし、他人の恋愛沙汰に興味を持って観察したこともなかったから、こんな場合にどう対処すればいいのか、太公望には見当もつかなかった。
 もちろん、まずいやり方だとはその時にも感じていたし、今から振り返ってもそう思う。
 でも、どうしても、楊ゼンに面と向かい合うことができなかった。
 そうしてひたすら逃げ続けた太公望が、しまった、と本気で思ったのは、二十日近くが過ぎた日の朝、軍議に行こうと自室を出たところで楊ゼンに呼び止められた時のこと。
 こっそりと辺りを窺いながら部屋を出て、廊下を歩いていたところを呼び止められ、ちょうど今のように太公望は焦りに焦った。
 そんな太公望を見て、楊ゼンは困ったように微笑し、すみませんと言ったのだ。
 そして、もう何もしない、何も言わないから、逃げないでくれないかと。困らせるつもりはなかったのだと、楊ゼンは言った。
 その言葉を聞き、どこか切なげに笑う楊ゼンを見て、太公望は心の底から、マズったと思った。
 姑息に逃げ回っていた自分の態度が、楊ゼンを傷つけた……、と。
 誰かを好きになった経験がない上にパニックしていたから、それまで気が回らなかったのだが、想う相手に露骨に避けられて傷つかない者がいるわけがない。
 そんな当たり前のことにようやく気付いて、太公望は何とか言葉を捜そうとした。
 だが、何と言えばいいのか。
 ただ楊ゼンの顔を見上げたまま、これと言う言葉を浮かべることができなかった。
 が、せめて、逃げてすまなかったと──どうすればいいのか分からなかったのだということだけでも言おうと思った時。
 軍議に遅刻していた二人を侍従が呼びに来てしまい、太公望はタイミングを失ってしまった。
 だから、何となく軍議の最中も顔を合わせづらくて、それまでと同じように終わり次第、さっさと部屋を逃げ出してしまい、結局、その翌朝、楊ゼンには何も言わないまま、太上老君探しの旅に出てしまったのである。
 そう言うつもりではなかったが、いかにも気まずい現状から逃げ出すようで、どうしても面と向かって旅に出るとは言えず、置き手紙一枚を残すのが太公望には精一杯だった。
 そして、九ヵ月。
 桃源郷で羊の世話に夢中になっていても、夢うつつに太上老君と向き合い、太極図を使いこなすために修行を積みながらも、いつでも心のどこかに楊ゼンの存在が引っかかっていた。
 無事に帰ったら、彼にどんな態度を取るべきかと、ずっと考えていた。
 ───なのに、結果はこの体たらく。
 策士として名を馳せたはずの自分のあまりの情けなさに、太公望は穴を掘って埋まってしまいたくなる。
 が、個人的なことはともかく、自分の代理としてここまで周軍を引っ張ってきてくれた彼に何か言わねばなるまいと、懸命に自分を叱咤して太公望は口を開いた。
「あ──…、その……わしの居らなんだ九ヶ月間、軍師代理としてよくやってくれたようだのう」
 声のトーンが上ずってはいないかと気がかりだったが、楊ゼンは以前と変わらない穏やかな笑みを見せる。
「はい。とりあえずここまでは特に問題もなく進むことができました。懸念していた道士たちの力不足も、この九ヶ月間でかなりレベルアップを図ることができましたから、妲己は以下の妖怪仙人を相手にするくらいなら、さほど苦戦をしなくてもすむのではないかと思います」
 うむ、と太公望はうなずく。
「……六ヶ月前、邑姜に太上老君のところへ案内してもらう途中で、おぬしが蝉玉たちに稽古をつけてやっておるところを見たよ」
 そう言い、ちらりと目を上げると、楊ゼンは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そうでしたか。御覧になっていかがでしたか?」
「通りかかっただけで、そんなにじっくりと見ておったわけではない。……だが,その時はおぬしとナタクの実力と、他の道士たちの実力の格差がありすぎるとは……思った」
「ええ、ナタクは太乙さまのおかげでどんどん宝貝をパワーアップさせていますが、他の人たちはそうもいきませんからね。彼らが決戦までにどれだけ戦闘値を上げられるかが勝敗の鍵になると思ったので……。でも、近頃は彼らも随分、僕についてこられるようにはなりましたよ」
 太公望がやや小さな声で口にした遠回しの褒め言葉を、楊ゼンはあっさりと受け取り、そう答える。
 だが、その声がどこか嬉しそうな響きを帯びていたのは、太公望の気のせいだけではないだろう。
 そして楊ゼンの言葉を聞きながら、何となく太公望は意識過剰に陥っていた自分を恥じる気になっていた
。  楊ゼンがこうして普通に接しようとしてくれているのに、つい逃げ出してしまった自分の意気地の無さが情けない。
 そう思い、意を決して太公望は顔を上げる。
 正面から楊ゼンと視線を合わせるのは少々の度胸が要ったが、それでもきちんと彼の目を見返すことには成功した。
 そんな太公望を、楊ゼンは穏やかな表情で見つめる。夕陽に照らし出されたその瞳が、ひどく優しかった。
 が、視線を逸らしてしまわないように心を緊張させている太公望は、そんなことには気付かないまま、口を開いた。
「しかし、妲己三姉妹と戦うにはまだまだ足りぬだろう。張奎が言い残した『紂王に気をつけろ』という言葉も気にかかる。あやつらの実力アップに関しては引き続き、おぬしに一任したいのだが……良いか?」
「勿論です。どうぞ僕に任せて下さい」
 太公望の言葉に、楊ゼンは笑顔を見せる。
 その笑みに、太公望はどこかほっとしたものを感じた。
「うむ、頼むぞ」
 うなずきながらようやく、太公望も表情を和らげていつもの笑みを取り戻した。
 優しい風に薄氷が水になるように、ふわりと緊張が解けてゆく。
 楊ゼンを見上げていた太公望はややあってから、意を決したように彼に向かって足を踏み出した。
 ぱたぱたと近づいてくる太公望を見つめ、楊ゼンもまた、安堵したように微笑する。
 そんな楊ゼンの目の前で太公望は立ち止まり、自分よりも頭一つ背が高い彼を見上げた。その表情は以前と変わらぬもので、楊ゼンも優しいまなざしでそんな彼を見返す。
「皆の所に戻るぞ、楊ゼン」
「はい。太公望師叔」
 そうして二人は以前と同じように、太公望の半歩後に楊ゼンが従う形で、宿営地に向かって歩き出した。
 歩きながら、太公望は楊ゼンをやや振り返るような形で話しかける。
「本当に、おぬしは良くやってくれたようだのう。兵士たちが、九ヵ月も遠征してきたとは思えぬほど士気が高いのには感心したぞ。補給計画が上手くいっておるのだな」
「師叔が前回の遠征時に、兵糧や補給物資運搬用の道路を整えた結果ですよ。僕はそれを運用しただけです」
「わしは軍師として、戦をするために当然必要なことをしただけだ。今回、具体的な計画を立てたのはおぬしだろう」
 以前と何も変わらない調子で二人は言葉を交わしながら、この九ヶ月間の進軍状況と、これからの展開について話し合った。
「──それにしても、まさか師叔がスーパー宝貝を得て戻っていらっしゃるとは思いもしませんでしたよ」
 会話を交わすうち、ふと、楊ゼンはそう言った。
 穏やかな声には、毎度想像を上回ることばかりする太公望への賞賛が込められていたが、それに気付いたのか気付いていないのか、太公望はしれっとした調子で答える。
「まぁのう。老子に一緒に来ぬのなら、何か役に立つものをよこせと言っただけなのだが……」
「あなたという方は……。誰が相手でも、本当に変わりませんね」
 とぼけた顔で言う太公望の言葉に、楊ゼンは呆れたように嘆息した。
「褒めてくれておるようには聞こえんぞ」
「別に、けなしているわけではありませんけどね。でも、太上老君もずいぶん興味深い人物のようですね」
「ああ……」
 太公望は、思い出すように視線をやや遠くに向ける。
「計り知れぬ人物だったよ。もっとも、外見はわしと大差ないほど若いし、とんだ怠け者だったがのう。スープーから聞いただろうが、とにかくやる気が無くて、何千年も寝たきりという人物だ」
 それを聞いて楊ゼンは笑い出した。
「それでは、まるで昔の師叔のようですね」
「わしは、あそこまでひどくはなかったぞ」
「似たようなものですよ。修行するフリをして居眠りをしていると評判だったのは、一体どなたですか?」
「……ムカつく奴だのう」
 むくれた表情をする太公望に、楊ゼンは笑みを深くする。が、機嫌を損ねるのはまずいと思ったのか、すぐにそれをおさめた。
 そんな楊ゼンをちらりと見ながら、太公望は不意に思いついたように足を止める。
「師叔?」
「そういえば、戻る前に一つ、聞いておきたい事があるのだが……」
「何ですか?」
 楊ゼンは首をかしげた。
 もう既に、遠目に兵士たちが動いているのが見えるまでに周軍の宿営地は近付いてきている。
 その様子を眺めやった後、太公望は真剣なまなざしで楊ゼンの方に向き直った。
「先程も言ったように、わしは太上老君の所へ行く途中、おぬしが蝉玉たちに稽古をつけてやっているところを見たのだが……。あの時、道士たちの中に天化が居らんかったな?」
 その事ですか、と楊ゼンも真面目な顔でうなずく。
「ええ。天化くんは、余化につけられた傷が治る様子がありませんからね。無理をさせない方が無難でしょう。もっとも、今日のように敵との戦いともなれば、そういうわけにもいきませんが……」
「そうか……」
 低く呟いて太公望は表情を曇らせた。
 そのまま考え込むように口元に手を当てた彼を、楊ゼンは気遣うような表情で見つめ、口を開く。
「天化くんは色々ありすぎましたからね。今でもよく考え込んでいるようです」
「うむ。武吉も以前、そのようなことを言っておったよ。……母親と叔母を殺された上、師匠と父親にも同時に死なれてはな……」
「お袋と叔母さんはともかく、師匠も親父も覚悟の上だったって事くらい、俺っちは分かってるから大丈夫さ」
「天化!?」
 突然割り込んできた若い男の声に、二人はぎょっとして振り返る。
 いつの間に近づいたのか、黄天化がそこに立っていた。




「おぬし、いつの間に……」
「たった今さ。王サマが、そろそろ酒宴を始めるから師叔たちを呼んでこいって言ったから、探しにきたさ」
 何でもないような調子で、天化は言う。
 そんな彼を、太公望は何かを見極めようとするような目で見つめた。
 楊ゼンは口をはさむことなく二人の様子を見守り、しばらく三人の間にやや居心地の悪い沈黙が落ちる。
 やがて、低く太公望は彼を呼んだ。
「天化」
「何さ?」
 何でも無さそうな顔で、天化は太公望を見る。だが、タバコをくわえた彼には以前の闊達(かったつ)さがやや欠けていた。
 そして、その瞳にはどこか陰りがある。
「おぬしの気持ちは分からんでもない。だが、無茶をすることは許さぬぞ」
 瞳を見つめ、やや厳しい声でそう言った太公望を、天化は苦笑するような表情で見返した。
「師叔も心配性さね」
「……そういう訳ではない」
「じゃ、親父や師父のことの責任を感じてるさ?」
 ずばりと切り込まれて、太公望は黙り込む。
 その太公望の感情を消したポーカーフェースに、楊ゼンは見覚えがあった。
 仙界大戦で十二仙たちが聞仲によって封神され、普賢真人が自爆した直後、彼はこんな表情をして言ったのだ。
 ───わしには分かっておった、と。
 そう言って、淡々とした口調で自分を責めた。
 その言葉を聞いたのは四不象と楊ゼンだけであり、二人とも、他の誰にもそれを語りはしなかったから、天化も知っているはずがない。
 だが、勘の良い青年は、太公望がどんな考え方をする人物かということくらい、とうに分かっているらしく、一つ溜息をついてほろ苦い笑みを見せた。
「師叔のせいじゃねぇさ。悪いのは妲己だろ?」
 そう言って、天化は太公望と楊ゼンの背後にある朱い夕陽を見つめる。
「聞太師があんな風に意固地になっちまったのも、師父たちが聞太師に殺されたのも、親父が聞太師を説得するために死んだのも、全部妲己がいたからさ。妲己さえいなけりゃ、悪い事は何にも起きなかったさ」
 そう言いきった天化の瞳が夕陽を反射して、きらりと朱く光った。
 そんな彼を見つめて、太公望は低く言葉を紡ぐ。
「すまぬ、天化」
「もうやめるさ、師叔。身内を失くしたのは俺っちだけじゃねぇんだし、いちいちそんな事言ってたら切りがねぇさ。──じゃ、俺っちは伝えたかんな、二人とも早く戻ってくるさ」
 そして、天化はくるりと二人に背を向け、宿営地の方へ走っていってしまった。
 取り残された二人は、言葉もなくその背中を見送る。
 天化の姿が兵士たちに紛れて見えなくなっても、太公望は視線を動かそうとはしなかった。
「師叔」
 そのことを気にした楊ゼンが声をかけても、太公望は宿営地を遠く見つめたまま、動かない。
 そして、ぽつりと呼んだ。
「楊ゼン……」
「はい」
「道徳が……、わしらが魔家四将と戦った時に、言った事があるのだ」
 それは、もう随分前の話だった。西伯候・姫昌が逝去して、姫発が跡を継ぎ武王を名乗ったばかりの頃。
 金鰲島の妖怪仙人・魔家四将が西岐に攻め込んだことがあった。
 太公望の指示に従って楊ゼンたちが戦い、どうにか彼らを封神することができたものの、一般人にも多くの死傷者を出し、太公望たち道士も無傷だったのは楊ゼンだけで、ほとんどの者が重傷を負った。
 その中でも天化は、両手両足が千切れかけるほどの重症を負ったのだが、師匠である道徳真君に一時しのぎの治療を受けただけで、その傷を付けた魔礼青と再戦するために戦場に戻ってきたのである。
 その場にいた誰もが、彼の戦士としてのプライドの高さと気性の激しさに驚いた出来事で、楊ゼンでさえ、その闘志に感嘆と危惧を覚えずにはいられなかった。
 その事を思い出すかのようにゆっくりとした口調で、太公望は続ける。
「あの子は生まれながらの戦士なのかもしれない。勝ち目のない戦いでも向かっていこうとする。あの子のあの性格が、いつか命取りにならないかと心配している…、と道徳は言った」
 楊ゼンは黙って太公望を見つめ、次の言葉を待った。
「わしにはあやつの気持ちが良く分かるのだ。わしも妲己に一族を殺されて、妲己憎さに道士となり、そして妲己を倒そうと単身で禁城へ乗り込んだ。……おぬしにも、その気持ちは分かるであろう?」
「ええ……。僕も師匠が死んだ時、王天君を許せないと思いましたから……」
「そうだ。おぬしもあんな状態の身体で、王天君の元へ行って……。だが、おぬしは実力で王天君を倒して、無事に戻って来られた。わしは妲己に完敗したが、危ういところを武成王に助けられて、生き延びることができた。だが、天化は……」
 太公望は遠くを見つめたまま、顔を動かそうとはしない。ただ、淡々と言葉を綴った。
「勝ち目があろうとなかろうと、天化は妲己に向かっていくであろう。もちろん天化だけではなく、皆そうなのだ。誰もが妲己を憎み、大切な人の仇を取りたいと願っておる。だが、妲己はあまりにも強い……」
 感情の起伏のない声で呟くように太公望は言い、ゆっくりと顔を楊ゼンに向けた。
 大きな瞳がどこか自嘲するような表情をたたえて、楊ゼンを見上げる。
「禁城で妲己に囚われた時、武成王が助けて叱咤してくれなければ、わしはおそらく今、生きてここには居らぬ。武成王はわしの生命の恩人だ。
 なのに、わしは天化と天祥の目の前で武成王を死なせてしまった。そして今度は、天化まで死なせてしまうのかもしれぬ」
「師叔!」
 強い声で楊ゼンは太公望を呼んだ。
「何をおっしゃるのです!?」
 だが、太公望の表情は変わらない。
「考えてもみよ、楊ゼン。道徳たちが封神された時も、普賢が自爆した時も、武成王が斃れた時も、わしはただ、なす術もなく見ているだけだった。次もまたそうではないと、誰が言える?」
「師叔」
 反論しようとした楊ゼンを、太公望の自嘲に満ちた淡い笑みがさえぎった。
 滅多見せることのない、ひどく透明感のあるはかない微笑に言葉を奪われて、楊ゼンは太公望を見つめる。
 その瞳を見返してから、太公望は青い夕闇と朱い太陽の色がせめぎ合う黄昏時の空に、遠い視線を向けた。
「いつでもわしは人が死ぬのを黙って見ている。そして、いつでもわしだけが生き延びるのだ……」
 呟くように告げた、その横顔ににじむ悲しみと孤独に、楊ゼンはきつく拳を握り締める。
 一見、のほほんとしたなまくら軍師に見える彼の抱えているもの。
 誰よりも強く優しい彼の、奥底にあるものは。
 ──誰よりも深い悲しみと痛み。
「師叔……」
 呼びかけた楊ゼンを太公望は振り返り、自嘲めいた表情で、それでも笑みを浮かべる。
「すまぬのう、楊ゼン。おぬしとて仙界大戦ではずいぶん辛い思いをしただろうに……。おぬしからも、わしはいろいろなものを奪ってしまった」
「いいえ、何一つ師叔のせいではありません。僕がもっと精神的にも能力的にも強ければ玉鼎師匠は死なずにすんだのですし、父上は既に妲己に心を破壊されていたのですから。
 それに……僕の正体も、永遠に隠し通せるものではなかったでしょう。師叔が御自分を責める必要は、どこにもありませんよ」
 大きな瞳で、太公望は楊ゼンを見つめた。
 きっぱりとした口調と声で紡がれた言葉を聞き終えて、ゆっくりとその瞳がうつむく。
 そして、静かな声が低く、唇から落ちた。
「……すまぬ」
 これまでに何度も聞かされた太公望の謝罪の言葉に、楊ゼンはやりきれない、切ない想いを噛みしめる。
「……太公望師叔。あなたは決して『許せ』とは言わないんですね」
 その言葉に、太公望はぴくりと反応を示した。が、ちらりと楊ゼンを見ただけで、地平線に迫りゆく夕陽に目を向ける。
「何を許してもらうというのだ? 何一つ、許してもらおうと思う事など在りはせぬよ」
「誰にも? 何も?」
「無いよ」
 朱く燃える大きな太陽を見つめたまま、太公望は自嘲めいた声を出した。
「わしがわし自身を何一つ許せぬのに、他人に許してもらいたい事などあるものか」
「……では、あなたが御自分を許せる時は来るのですか?」
 よく通る静かな声に、太公望は少しだけ瞳を揺らす。
 だが、結局短く、さぁのう、と答えただけだった。
 夕陽を遥かに見やる太公望の横顔を、楊ゼンはどこかやるせない想いで見つめる。
 ──自らを傷つけることをまったく厭わない、この小さな姿。
 この、心の無数の傷口から血を流しながら、それでも毅然として立つ背中を抱きしめたいと思ったのは。
 遥か遠い未来を見つめ、あらゆる生命を守ろうとする横顔から目が離せなくなったのは。
 一体、いつのことだっただろう。
 そして、単なる愛しさに加えて、その姿に哀しさを覚えるようになったのは……。
 心と身体を切り刻むように生きる彼を、傷つけるすべてのものから守りたいと思ったのは、まだそれほど遠い過去のことではなかった。
「師叔、そんなに御自分を責めないで下さい。自分自身を傷つけても、得るものはありません」
 太公望は瞳を揺らしたが、何も答えようとはしない。
 ただ、遠いまなざしが、地平線に近づいてゆく眩(まばゆ)い朱金の太陽を見つめるばかりで、
「太公望師叔」
 絶対に自分を許そうとはしないその横顔に、楊ゼンはやりきれない痛みに突き動かされるように言葉を紡いだ。
「僕はあなたが心配なんです。自分を傷つけることを決して厭わないあなたを見ていると、僕は時々、どうしようもなく辛くなる……!」
「楊ゼン……」
 驚いたように太公望が振り返った。
 夕陽に照らされた大きな瞳に、楊ゼンははっとなる。
 ──今、自分が口にした言葉は……。
「──すみません、師叔。もう何も言わないと約束したのに……」
 九ヶ月前にあれほど太公望に逃げられ続けて、当面の間、想いを含んだ言葉は言わないようにしようと心に決めたはずだった。
 それなのに、またもや彼を刺激するようなことを言ってしまった自分を楊ゼンは悔やむ。
 つい先程まで真面(まとも)に顔も合わせようとしなかった太公望が、ようやく以前と同じように会話してくれたことで、つい理性の箍(たが)が緩んでしまった。
 想いはともかくも、忠実な右腕としての自分の方は、以前と変わらず受け入れてくれる様子を見せてくれたばかりなのに。
 いくら太公望がポーカーフェースの下の素顔を垣間見せたからといっても、付け上がっていいはずが無い。
「すみません……」
「いや……」
 だが、謝罪の言葉を繰り返した楊ゼンの耳に、少し戸惑ったような太公望の声が届いた。
 え、と顔を上げた楊ゼンを、太公望は困ったような顔で見返す。そして、視線を少し彷徨わせた。
「師叔……?」
「いや……だから、わしの態度も悪かったと思っておるのだ。その……どういう風にすればよいのか分からなくて、つい……」
 珍しく歯切れの悪い口調で、太公望は言った。
 その顔が本当の少年のように困惑しきってしまっているのを、楊ゼンは何か不思議な気持ちで見つめる。
 その視線をどう取ったのか、太公望はうろうろと視線を彷徨わせ、最後はうつむいてしまった。
「……あんなに逃げたりして、すまなかったと思っておる」
 うつむいたまま、ややくぐもった声で小さく言った太公望の白布で包んだ頭を見下ろし、ようやく驚きが解けた楊ゼンは、ふと口元に微笑を浮かべる。
「──もしかしたら、ずっと気にしていて下さったんですか?」
 そう問いかけると、ちらりと太公望は目を上げたが、すぐにまた視線を逸らせてしまう。
 だが、その表情から、自分の言葉が正鵠を射たらしいことを楊ゼンは感じ取った。
 それだけのことに、自分でも不思議なほど嬉しさと愛しさが込み上げる。
 嫌われてはいなかった、ただそれだけのことで。
 つい先程、太公望が自分に歩み寄ってきてくれた時よりも、ずっと深い安堵が胸に温かく広がり、その想いがそのまま、この上なく甘やかで優しい微笑となって秀麗な面(おもて)に浮かんだ。
 窺うようにまなざしを上げた太公望は、自分に向けられたその笑みの優しさに、驚いたように一瞬、大きく目を瞠る。
 が、嫌われていなかったことを知ってすっかり箍を緩ませていた楊ゼン自身は、太公望が自分の笑みに、ほんの瞬きほどの間ではあったが、意識を奪われたことにも気付かずに口を開いた。
「そう気になさらなくても良かったんですよ。僕が勝手にあなたを好きだと言っているだけなんですから。普賢師弟に焚きつけられた勢いであんな言い方をしましたが、気持ちを押し付けるつもりはありません」
「───…」
 まともに想いを告白されて、我に帰った太公望は困惑の色を深め、またもや視線をうろうろと彷徨わせる。
 その様子から、彼がこういう場面にまったく慣れておらず、どうすればいいのか分からないでいるのが手に取るように理解できて、楊ゼンは微笑を誘われた。
「いいんですよ、師叔。そんな風に困らないでくれませんか? あなたが困ると、僕まで困ってしまいますよ」
 笑みを含んだ声でそういうと、太公望は慌てたように楊ゼンを見上げたものの、自分を見つめる優しい瞳と視線を合わせることができず、また慌てて逸らした。
「……わしのどこが良いのだ?」
 ややトーンの高い声は焦っているのか、照れ隠しなのか。
 残照に照らされているために確認はできないが、太公望のやわらかな線を描く頬はきっと紅く染まっているのだろうと、楊ゼンは思った。
「どこが、と聞かれても上手く言えないのですが……、あなたに出会っていなければ、今でも僕は自分がつまらない、弱い存在だという事に気付かずに過ごしていたでしょう。玉鼎師匠以外の他人には心を開けず、誰も信頼することができないまま……。
 あなたに出会って、初めて僕は本当の自分を誰かに知って欲しいと思えたんです。あなた相手でなければ、そんな事は決して思わなかった」
 その言葉に、太公望は少し困った顔になる。
「本性を皆の前で現すことができたのは、おぬしの強さなのだし、それは玉鼎が育(はぐく)んだものだ。わしは別に……」
 だが、楊ゼンはかぶりを振った。
「あなたが僕を本当に信じてくれたからですよ。あなたが僕を信頼してくれたから、それを頼りに僕は一歩踏み出すことができたんです」
「……おぬしは、これまでずっとわしのために良くやってくれておる。信頼するのは当たり前のことだろう」
 特別なことをしているわけではないと、太公望は今ひとつ分からないような表情で言った。
 だが、太公望に理解できないのは仕方ないと、楊ゼンは思う。
 太公望にとっては、他人を信頼し信頼されることは呼吸するように当たり前のことなのだ。
 他人などどうでもいいと殻に閉じこもっていた楊ゼンとって、そんな太公望の存在がどれほど新鮮だったか、彼自身には決して分からないに違いない。
「僕にとっては、特別なことだったんですよ。それまで師匠以外の誰も信頼するどころか、興味さえなかったんですから。
……あなただけです。僕の心の壁をたやすく破って中に入ってきたのは……」
「────」
 やはり理解しかねる表情で、太公望は楊ゼンを見つめ返した。
 その様子に、楊ゼンは普賢真人の言葉を思い出す。
──心に関しては強いとか優しいとか、そんな事全然考えてないからね。他人と比較することもない。自分の思うとおりにやってるだけなんだ。
 その言葉通りだった。
 太公望は、常に計算高く人の心理を読むくせに、自分という存在がどれほど他人の心に影響を与えるかということには、まったく気がついていない。
 孤独という感情さえ忘れていた楊ゼンの心を、こんなにも救ってくれておきながら、当たり前のことをしただけだと不思議そうな顔をするのだ。
 それが愛おしい…、と楊ゼンは思った。
 抱えきれぬほどの悲しみと痛みを心に刻み、妲己を激しく憎んでいながらも、彼の魂は少年の頃のままに純粋で優しい。
 こんな存在に惹かれないはずがない。
「どこがいいとか、そういう事ではないんです。あなたの存在そのものが、今の僕のすべてなんですよ」
 そう言って、楊ゼンは限りなく優しい瞳で太公望を包み込むように見つめた。
 その甘やかな表情に、太公望の瞳が揺らぐ。
「太公望師叔、あなたが好きです」
 深い想いを込めた言葉に、太公望は少しだけ目をみはって楊ゼンを見つめ返した。
 だが、それもほんの短い間だけのことで、ふいと視線を落とし、
「──わしには良く分からぬ」
 やや小さな声で太古望は言った。
「どうにも過剰な言葉だが、おぬしが本気で言ってくれていることは分かる。だが、わしは恋愛感情で誰かを好きだと思ったことがないから、おぬしにも、どう答えれば良いのか分からぬ」
 いつもの気の強さはすっかり影をひそめた、途方に暮れた声と、まるで見た目通りの初心(うぶ)な少年のようなその言葉に、楊ゼンは笑みを誘われる。
 自然、声はやわらかなものになった。
「そんなに考えてもらわなくてもいいんですけどね。単純に、嫌か嫌ではないのか言って下されば十分です。嫌だとおっしゃるなら、本当にもうこれ以上何も言いません」
「────」
 楊ゼンの言葉に、太公望はうつむいたまま考え込む様子になる。
「…………嫌では…ない」
 長い沈黙の後。
 ごく小さな声で答えて、困りきった様子で太公望はちらりと楊ゼンを見上げた。反応を窺うかのような気弱な表情が、上目遣いの大きな目を可憐にさえ見せる。
 本人には自覚などあるはずもない可愛らしい表情に、楊ゼンは微苦笑を浮かべた。
「嫌われてないのなら、それでいいですよ。今はそれ以上を望んでませんから」
「今は?」
 上目遣いで楊ゼンを見上げたまま、太公望は不審げに眉を寄せる。
 だが、楊ゼンはどこか楽しげな優しい笑顔を返した。
「できるなら、好きな人には好かれたいと思うのが人情でしょう。妖怪だろうが人間だろうが、その心理は変わりませんよ」
「……わしには分からぬと言っておるのに」
 嫌ではない、と言っただけなのに、どうにも図々しい感じの楊ゼンに困っているのか呆れているのか、太公望の声は溜息をつくような調子だった。
 気の強そうな弓なりの眉も、眉間にしわを刻んだままである。
 そんな太公望に言い聞かせるように、楊ゼンは言った。
「誰かを好きになるのは、分かるとか分からないとかいう問題じゃないんですよ。気付いた時には、もう好きになってるんです」
「そんなものかのう……」
 どうにも理解の範疇外だというように呟く太公望だが、楊ゼンは意に介さなかった。
 太公望が並外れた恋愛音痴だということは、これまでに嫌というほど思い知らされているのだ。だから、『嫌ではない』という回答を引き出せただけでも上出来だと思う。
「太公望師叔、無理は言いませんから、とりあえず僕を避けないで下さいね。どうしても嫌だというのなら仕方がありませんが、あんまり露骨に逃げられるとさすがに傷つくので……」
 お願いなのだろうけれど、遠回しな嫌味にも聞こえる楊ゼンの言葉に、太公望は少し口元をへの字にする。
 だが、口に出しては、
「嫌じゃないと言ったであろう」
 と言っただけだった。
 それに対して、楊ゼンが言葉を返しかけた時。
「御主人───っ!!」
「お師匠さま───っ!!」
 という二重奏が、二人の耳に届いた。
 四不象と武吉の声だと理解するまでもなく、彼らがあっという間に二人の目の前に現れる。
「御主人、一体何をやってるっスか!?」
「天化さんが戻ってきてからかなり経つのに、まだお二人が戻ってこないって、武王さまが怒っていらっしゃいますよ」
 口々に言われて、思わず楊ゼンと太公望は顔を見合わせる。
 いつのまにか夕日は沈み、辺りは薄青い夕闇に包まれていた。目線を遠くに向けてみれば、宿営地に赤々と篝火が燃え上がっている。
「皆さん、もう待ちくたびれてるっス! 早く戻るっスよ!」
 生真面目な霊獣に急かされて、二人は宿営地に戻るために歩き出した。





 自分に桃源郷の解説役を押し付けて、こんな時間まで一体何をしていたのかと尋ねる四不象に生返事を返しながら、太公望はちらりと隣りを歩く楊ゼンを盗み見た。
 楊ゼンはいつもと変わらぬ涼しい表情で、武吉と言葉を交わしながら歩いている。
 この、天才と呼ばれるほど計り知れない実力を秘めた青年が、自分のことを好きだという。
 改めてそのことを思うと、太公望はひどく不思議な気分だった。
 妖怪である事が明らかになってしまったが、それでも彼の容姿や性格的な魅力に惹かれる者は幾らでもいるだろう。
 実際、楊ゼンが実は妖怪であったと知らされたのに、意外なほど崑崙や周の人々の態度は変わらず、太公望に軍師代理を押し付けられた彼が全軍を指揮することにも、何の疑問も持っていないようだった。
 だから、彼が恋愛をしようとしたら、それこそいくらでも相手はいるはずなのである。
 なのに、自分のことを。
 ──あなたが好きです。
 まだ耳に残る、甘い響きの声で紡がれた告白。
 嫌かと言われて、とりあえず嫌ではないと答えたけれど。
 確かにそれは、嘘ではないけれど。
 果たしてそう答えて良かったのだろうかと、太公望は自問する。
 こんな、彼の想いを全て受け入れるわけではないが、かといって拒絶しているわけでもない返事をして、本当に良かったのか。
 きっぱり拒絶した方が良かったのではないか?
 余計な期待を抱かせて彼を付け上がらせたり、傷つけたりするようなことになりはしないかと、今更ながらに太公望は思い悩む。
 だが、正直なところ、これ以上彼を避けて逃げ回るのもごめんだった。あれほど精神力を浪費するものも、そうそうない。
 更に、そうして逃げ回ったことで楊ゼンを傷つけたと思ってからは、本当に居たたまれない思いで眠れぬ夜を過ごした。
 思い出したくもないこの九ヵ月間の葛藤と自己嫌悪を振り返り、太公望は隣りにいる四不象にも気付かれないよう小さく溜息をつく。
 そして、仕方がないか、と諦めた。
 楊ゼンを傷つけたくないと思ったのも事実だし、嫌かと聞かれて嫌ではないと思ったのも事実。
 嘘の得意な自分が何故…と思うが、咄嗟に言い逃れを考えることもできなかったのだから、もう仕方がない。
 それに、嫌ではないと答えただけなのだから、困るほど楊ゼンが付け上がることもないだろうと、太公望は自分を強引に納得させる。
 と、先程目にした楊ゼンの微笑が、なぜか不意に脳裏に蘇って。
 太公望の心臓が小さく跳ねる。
 ──ずっと気にしていてくれたのかと。
 そう言って、信じられないほど彼は優しく微笑した。
 目にした瞬間、思わず息を飲んだほど甘やかに。
「────」
 顔立ちが整っていることは分かっていた。
 人の顔など、目と鼻と口がついていればいいだろうと思う自分でさえ時折感心してしまうくらい、秀麗な顔をしていることは知っていたけれど。
 あんな笑顔は知らなかった。
 ──あんなにも優しくて温かい……。
 まるで、こちらを丸ごと包み込んでしまうような。
「御主人、どうしたっスか?」
 突然、四不象に呼びかけられて、太公望は一瞬、心臓が止まりそうなほどに驚いた。
「あ……いや、何でもない。ちょっとよそ事を考えておっただけだ」
 そうごまかし、慌てて脳裏から彼の微笑を振り払おうとする。
 だが、何となく頬が熱を帯びている感じがするし、心臓の鼓動も常より早くなっているような気がして、急に太公望は落ち着かない気分になった。
 ──どれもこれも、全部あやつのせいだ。
 そう思い、八つ当たり気味に視線を横に向けると。
 武吉と言葉を交わしていた楊ゼンが、ふと顔を上げ、まなざしが合った。
 まずい、と太公望が思う間もなく、楊ゼンが瞳を甘く微笑ませる。
「────」
 が、それもほんの一秒か二秒のことで、楊ゼンはやんわりと極自然に視線を外し、再び武吉との会話に戻っていった。
「〜〜〜〜〜」
 そして太公望は、そんな楊ゼンに何を言うこともできず、何か悔しいような気恥ずかしいような感覚を持て余しながら、後はひたすら前だけを見つめて黙々と歩き続けた。
 そのうちに、宿営地の喧騒が大きく耳に届き始める。
 どうやら待ちくたびれて武王が許可を出したのだろう。兵士たちは既に、ちびりちびりと飲み始めているらしかった。
 そんな浮かれた雰囲気を漂わせ始めている彼らの間をぬって、太公望たちは本営に向かう。
「あーっ、ようやく来たわ!!」
 武王の天幕の前までたどり着くと、ひときわ高い蝉玉の声が三人と一匹を迎えた。
「おっせえよ! 何してたんだ太公望!! おめえがいないと乾杯できねえじゃねえかよ!!」
 よく通る張りのある声が、太公望を呼ぶ。
「すまぬのう、楊ゼンとこれからの打ち合わせをしておったら長引いてしまって……」
「そんなもん、酒飲みながらでもやれるだろ!?」
 人望はあるが奔放な性格で、国王と呼ぶより親分と呼んだ方が似合う武王は、乱暴な口調でそう言った。
 その言葉に、確かに素面(しらふ)で話すより酒を飲んでから話した方が、うろたえずにすんだかもしれないと、太公望は内心思う。
「師叔」
 甘い響きの声に呼ばれて振り返れば、楊ゼンがいつのまにか酒盃と瓶子(へいし)を手にしていた。
「どうぞ」
 差し出されるままに酒盃を受け取り、酒を注いでもらう。芳醇な酒の香りがふわりと漂った。
 ちらりと目を上げれば、またもや楊ゼンは甘やかに微笑み返す。それに何となく慌ててしまい、太公望は視線を逸らした。
「よっしゃ、始めるぜ!!」
 太公望と楊ゼンが酒盃を受け取ったのを確認して、武王が酒宴の始まりを宣言する。
 既に大半の者たち──特にお気楽な者の多い崑崙の仙道たちはかなり飲んでいたのだが、それでも張りのある声で告げられた乾杯に、兵士たちは一斉に唱和した。
 途端に宿営地が賑やかさを増す。
 その喧騒の中で、太公望は小さく溜息をついた。
 そして、そっと視線を走らせて一人の姿を探す。と、彼は穏やかな表情で韋護と何やら話していた。
「……まぁ、よいか」
 何がいいのか、自分でも良く分からなかったが、太公望はそう呟いて、くいと酒盃を飲み干す。
 それを目ざとく見つけた武吉が瓶子を手に駆け寄ってきた。
「お師匠さま、どうぞ」
「うむ、すまんのう」
 軽く礼を言って、太公望は酒を注いでもらう。
 そしてまた、酒盃を飲み干そうとしてふと見上げた先に、満天の星が輝き始めているのが目に留まって。
 何故か、再び甘やかな声が耳に蘇る。
 ───あなたが好きです。
 そして、多少のことでは動じない太公望が、思わず心臓を跳ねさせたほど優しく微笑んだ彼の瞳が、また脳裏に浮かび上がった。
 あんなにも優しい瞳で誰かに見つめられたのは、初めての気がする。
「………嫌では、ないのだがな」
「え? お師匠さま、何かおっしゃいましたか?」
 小さく呟いた太公望を武吉が振り返った。
「いや、何でもないよ」
 不思議そうな顔をする自称弟子の頭をぽんぽんと軽く叩いて、太公望は酒盃に口をつける。
 まぁよいか、と今度こそ本当に思った。
 その根拠は、やはり太公望自身にも分からなかったけれど。
 無数の星をちりばめた夜空の下で、周軍の酒宴はいよいよ盛り上がり、騒がしく宿営地の夜は更けていった───。






end







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opening text by 「goodbye, my friend」 鈴木祥子