ひとつ息をついて筆を置き、書き上げたばかりの竹簡に几帳面に並ぶ文字を眺める。
「これで補給計画は問題ないな。戦争が長期化しても十分やれる」
 低く呟いて墨が乾くのを待ち、巻き上げて卓の片隅の竹簡の山の一番上に積み上げる。
 そして、軽く伸びをして立ち上がった、その時。
 ───風が……。
 さわ…と涼やかな空気が、開け放ったままの窓から流れてくることに楊ゼンは気づいた。
 夜風に誘われるように窓の外に目を向けてみれば、もう随分と夜は更けているようで、初夏の青い闇が音もなく西岐城を包んでいる。
 窓からこぼれたほのかな光が、庭園の植え込みに陰影を形作っているのをしばらく見つめてから、楊ゼンは己に与えられた部屋の中を振り返る。
 灯火に照らし出された室内には、仮住まいということもあって、必要最低限の身の回りのものしか置かれていない。元々、西岐の気風は質実剛健を旨としており、家具も多くない上に目立った装飾もない室内は、殺風景といえば殺風景だった。
 そんな物の少ない部屋の中、窓際に置かれた寝台に楊ゼンは目を向ける。
 ───まったく疲れていないわけではない。
 今日もずっと朝から働き詰めで、泥のように眠りたいというほどではなくとも、寝台に多少の誘惑を感じる程度には疲労を覚えていた。
「───…」
 卓上の書類の山を振り返って、楊ゼンは小さく溜息をつく。
 何故、これほどまでにも忙しいのか。
 その原因はひとえに、楊ゼンの実質的な上司である、太公望その人にあった。
 殷周易姓革命と封神計画の要である彼は、現在、この西岐にはいない。来たるべき最終決戦に向けての戦力補強のため、三大仙人の一人・太上老君を探しに二日前、旅立っていったのだ。
 それは戦略上、やむを得ない行動であり、武王も承認したことではあったが、周としては、この重要な時期に彼の留守の間中、軍師のポストを空席にしておくわけにはいかない。
 なまじっかな人材では勤まらないその代役に選ばれたのは、当然のごとく、太公望の片腕として目されている楊ゼンであった。
 彼の出生が人外であることは、既に西岐の人々の間にも流布し始めていたが、太公望自身が置手紙で彼に全権を委任しており、武王や周公旦、南宮活らの重鎮もそれを認めたことから、表立ってその人事に反対する者はなかった。第一、人であれ何であれ、軍師代理として彼以上に有能な人材など、他に存在しなかったのである。
 こうして、これまでは補佐という形で太公望と分担していた軍務を、楊ゼンは単身で請け負うことになったわけだが、遠征計画の立案にしても実行にしても勝手は分かっており、一人になったところで今更戸惑うようなことは何もない。
 だが、しかし。
 片付けても片付けても終わらない膨大な量の仕事が、さしもの楊ゼンをも閉口させた。
 太公望は一見のらくらしているように見せながら、その実、軍師兼政治顧問として相当な量の仕事をこなしていたため、それが一人になった現在、その忙しさは冗談にならなかった。
 だから、疲れていないわけではないのだが。
「───…」
 なんとなく今すぐ横になる気にはなれず、少しの逡巡の後、楊ゼンはゆっくりと部屋の出入り口の扉に向かった。
 ……小さな音を立てながら扉が開いてまた閉じ、そして無人となった室内では、静かに燃える灯火が夜風に揺れていた。





 石造りの階段を上り詰めると、そこは西岐城の屋上だった。
 思った通り、一歩外に出た途端、涼やかな風が夜の帳(とばり)の中をゆるやかに吹き抜けてゆく。
 その涼しさ、静けさに心地よさを覚えながら、端の方に行こうと楊ゼンは足を踏み出した。が、数歩も進まないうちに、その足が止まる。
 誰も居ないだろうと思っていたのに、星明りに照らされた西岐城の屋上には黒い人影があった。
「太乙真人さま…?」
 良く見知った長身のシルエットに、楊ゼンは、ゆっくりと歩み寄りながら声をかけた。
「あれ、楊ゼン?」
 不思議そうな声で、太乙真人は肩越しに振り返る。
 その声に他者の存在を拒否する響きはなかったから、互いの顔が星明かりで見える距離まで楊ゼンは近づいた。
「どうしたんだい、こんな夜中に」
 太乙真人は、ほとんど目線が同じ高さの相手に、不思議そうに首をかしげる。
「それは太乙さまも同じでしょう。何をなさってるんですか?」
 外見年齢にも実際の年齢にもいささか似合わない太乙真人の仕草に、彼の心は老いるということを知らないのだろうかと、楊ゼンはささやかな疑問を感じながら問い返した。
 対して、太乙真人の答えは、内容も口調も屈託が無かった。
「私はさっき、ようやくナタクの修理が終わったからさ。一休みしてから寝ようと思って、ここに来たんだよ。君は?」
「似たようなものですよ。遠征のために補給計画を練っていたんですが、一段落したので風に当たりに来たんです」
「ふぅん。なんか大変そうだねぇ」
「太乙さまこそ、ナタクの修理には随分苦労なさっていたようですね」
 ねぎらいの言葉を返したのは、親愛の情からというより、格上の年長者に対する礼儀から出たものだった。
「うん。大変だったよ」
 だが、その言葉に太乙真人は軽く溜息をつき、肩をすくめるように両手を開いてみせる。
「何せ、崑崙山が落ちてしまったからね。機材を揃えて、作業台と工具を造るところから始めなきゃいけなかったんだ。そうこうしてるうちに、ナタクは早く直せって癇癪(かんしゃく)を起こすしさ──。
 あの子は、いつまでたっても私の苦労を分かってくれないんだよ。確かに、これまでなら数時間で修理できてたものが今回、十日以上かかってしまったのは事実だけどさ。でも、私でなければ、更に十倍以上の時間がかかったに違いないのに」
 誰かに聞いてもらいたかったのだろう、溜息まじりに延々とぼやく太乙真人に、楊ゼンはつい微苦笑を誘われた。
 実のところ、十天君との戦いによって徹底的に壊れたナタクを、よくこの短期間で修理できたものだと、楊ゼンも──珍しいことではあるが──ひそかに感心していたのである。
 また、彼がこの設備の整わない西岐城でどれほど苦心していたか、武吉や四不象などから感嘆と同情の入り混じった報告を毎日のように聞かされていたし、楊ゼン自身も何度か、その光景を目(ま)の当たりにしていた。
 だから、
「それどころか、太乙さまが居なければ、道具も何も無い人間界では修理さえままならなかったんじゃありませんか?」
 なんとなくいつもとは違って、当たりの柔らかい言葉が出る。
「そうだよね! やっぱりそう思うよね!? ……なのに、あの子はさ──。
 とりあえず修理自体は終わったけど、まだこれから宝貝のバージョンアップをしなきゃいけないんだよ。あの子の要求には際限がないんだから……」
 別段仲が悪いわけでもないが、普段は皮肉の応酬が多い楊ゼンからの珍しい賞賛に太乙真人は飛びつき、そしてまた、何度目か分からない溜息をついた。
 その様子に、再び楊ゼンは微苦笑する。
 ──太乙真人が宝貝人間・ナタクを手元に引き取ってからもう何年も経つが、未だに彼のこぼす愚痴は当初とまったく変わらない。
 しかし、ナタクが精神的に成長していないわけでもないのだ。近頃は、わずかながらも仲間意識や協調性の芽生えが、言動の端々から窺えるようになってきている。
 そして太乙真人の方はといえば、そんなナタクの成長のきざしを、会う人ごとに嬉しそうに吹聴して回っており、その親馬鹿ぶりも愚痴と同じく、まったく変化する気配が無い。
 結局、ナタクに対する太乙真人は、どこまでいっても過保護な親なのである。
 だが、その情愛の深さこそが、ナタクの精神的な安定や成長に繋がっているのも確かだった。
「──でも、君も大変だよねぇ。いきなり太公望に全権を任されてさ」
 ぶちぶちとぼやいていたかと思うと、太乙真人は唐突に顔を上げて楊ゼンに話題を振った。
「ええ。でも仕方ありませんからね」
 いきなりの話題の転換に、突然何を、という顔をしながらも楊ゼンは平然と応じる。
「太公望師叔が留守である以上、軍師役を勤められるのは僕しかいないんですから」
「相変わらず自信家だねー。まぁ、確かにその通りだとは思うけどさ」
 太乙真人は苦笑し、そして笑いをおさめて月のない夜空を見上げた。
 夜半すぎの豊邑の街には、既にほとんど灯りはない。西岐城の各所に灯された篝火や灯篭の炎と、天上の満天の星だけが世界を照らしている。昼間の賑わいが嘘のような、ひどく静かな世界だった。
 それを見つめながら、太乙真人は口を開く。
「太公望も結構、無茶ばかりするよね。仙界大戦が終わった途端、また休む間もなく走り回って、今度は一人で太上老君さま探しだなんてさ。あれじゃ、そのうち身体が持たなくなるよ」
「ええ……」
 その後姿に、なんとなくこれまでとは異なる雰囲気を感じながら、楊ゼンは応じる。
 それは不安や危険を感じさせるような類(たぐ)いのものではなかったが、どこか楊ゼンの神経に引っかかる、そういう口調であり、後姿だった。
「ですが、師叔は御自分の健康については、他人の意見を聞いて下さいませんから」
「困ったもんだよね」
 笑みを含んだ声でそう言い、太乙真人は楊ゼンに背を向けたまま──星明かりに照らされた街を見つめたままで、一呼吸おいて続ける。
「でも今、太公望がここにいなくて、私はほっとしているんだ」
「──え?」
 楊ゼンは、太乙真人の言葉の意味を咄嗟に掴み損ねた。
 十二仙の中でも太乙真人は、個人となった普賢真人についで、もっとも太公望と親しい仙人の一人である。そんな彼が、なぜ太公望の留守を喜ぶようなことを言ったのか、一瞬、楊ゼンは理解できなかった。
 だが、深く考えるまでもなく、太乙真人は淡々と答えを続ける。
「太公望は、人の心に敏感だからさ」
 そして彼は今までの笑顔とは違う、どこかやるせない笑みを浮かべ、楊ゼンを振り返った。
「十二仙がもう、私と道行しかいないなんてね。この間まで、会おうと思ったらいつでも皆に会えたのに」
「────」
 言葉もなく見返した楊ゼンの視線の先で、太乙真人はひどく静かな表情をしていた。
 先程までの、とても崑崙山幹部の一人とは思えないような愚痴を口にしていた余韻は微塵もなく、まるで冷たく澄んだ水をたたえた湖のように透徹した精神を顕(あらわ)にした存在が、そこには居た。
 そして、そのさりげなく紡がれた言葉は、核心を突きすぎていて──。
 楊ゼンは相槌を打つことさえ出来ずに、太乙真人を見つめる。
「……まさか十二仙が斃(たお)されるなんて、ね」
 そんな楊ゼンから、太乙真人はゆっくりと視線を逸らした。ややうつむいたその頬に、艶やかな漆黒の髪がさらりと落ちかかる。
「そんなことは、当の私たちでさえ誰一人、本気では思ってなかったんだよ。私たちが全員揃っていれば、妲己相手ならともかくも、聞仲一人くらい倒すのは容易(たやす)いと思ってた。……私たちは甘かったんだね。
 でも……太公望には、結末の予想がついていたんじゃないのかな。すべてが終わって……『すまぬ』と言われた時に、彼は全部分かっていた……、そんな気がしたよ」
 静かな声と口調で、太乙真人は言葉を続ける。
「太公望も……彼が責任を感じる筋のことじゃないのにね。みんな自分の意志で覚悟を決めたんだろうから、後悔なんか絶対してないはずだし、聞仲は本当に強かったんだからさ。科学力だって、金鰲と崑崙は随分差が開いてた。
 どうしようもなかったことなのに、あんなに自分を責めて……。頭が良すぎて、いろんな事が見えすぎてしまうのは、彼の責任じゃないのに」
 静かな夜風に乗って流れる太乙真人の言葉を、楊ゼンは無言で受け止める。
 何も言えることはなかった。
 言う必要はなかった、と言うべきかもしれない。太乙真人も、楊ゼンに返答や相槌を求めているわけではなかっただろうから。
 彼が語っているのは、現実。
 二人の前に──否、崑崙と周の関係者全員の前に厳然として聳(そび)え立つ、冷ややかな現実だった。
 既に崑崙山も金鰲島も落ち、十二仙のほとんども、十天君も通天教主も、聞仲も武成王も封神され、それでも残された人々は、悲しむ間もなく強大な敵と戦い続けなければならない。
 誰もが噛みしめている、この冷厳な現実の重さ。
 それを受け止めねばならない辛さも、それを誰よりも重く感じているのが太公望だということも、二人はよく分かっており──また、互いがそれを理解していることをも、暗黙のうちに了解していた。
「──私はね、まだ実感できないんだよ。君たちと違ってこの目で見たわけじゃないから、どうしても実感できない。
 ……今もここで、もう普賢も道徳も玉鼎も慈航も黄竜も、道行と私以外、みんな居ないんだと自分に言い聞かせてたんだけど……、そうしたら、震えがくるくらい怖くなってさ……」
 そう言って、太乙真人は自分の手を見つめる。
 崑崙一とその器用さを称(たた)えられている手は、今は震えてはいなかった。が、星明かりの下で冷たく青ざめているように見えた。
 楊ゼンはその手を見つめ、うつむいた太乙真人の横顔を見つめる。
「崑崙山に上がってから、もう千年近くが過ぎたけど、彼らがいるのがずっと当たり前だったから……。今更いなくなられてもね、戸惑ってしまうんだよ。
 ……こうして振り返ると千年や二千年なんてあっという間で、似たような日々の繰返しを積み重ねただけの大して意味なんてない時間だったのに……重いね」
 楊ゼンが視線を向けていることに気づいているのかいないのか、淡々とした口調で言葉を紡ぎ、太乙真人は見つめていた己の手を握り締めた。
 通り過ぎてしまった、遠い遠い何かを掴もうとするかのように。
 だが、そこには何もない。
「情けないね。本来、仙人は感情や執着を超越する為に修行を積むのにさ。崑崙十二仙だなんて名乗っていても、結局、感情を捨てることなんて出来やしない。
 人であった頃の記憶はとうに薄れてしまっているのに、こんな感情だけは、人間だった頃と同じに私たちを苦しめるんだ……」
 そして、太乙真人は顔をあげ、眼下に黒く広がる豊邑の街を見つめる。
「辛いのは私だけじゃないと分かっているけどね。私なんか、まだいい方だ。師匠である元始天尊さまも、弟子のナタクも無事なんだから。分かっているんだよ。……でも、やりきれないんだ……」
 そう言って、太乙真人は楊ゼンを振り返った。自嘲気味の微笑を浮かべてはいたが、それでも楊ゼンの目を正面から見つめる。
 そのまなざしに、楊ゼンは既視感を覚えた。
 ──それは、太公望が見せる瞳。
 ──そして、玉鼎真人や普賢真人や道徳真君が見せた瞳。
 崑崙の大仙たちに共通していたのは、この潔さ。
 十二仙を十二仙たらしめていたのは、才でもなく技でもなく、ただ、その心だった。
 弟子や友人への愛情と、自らの誇りのために、己の死からも瞳を逸らさなかった人々。
 彼らの中に一片の惰弱さも存在しなかったとは、楊ゼンは思わない。強大な敵を前にして、それぞれに恐怖も、命を惜しむ気持ちもあっただろう。
 けれど、誰もそれを表には出さなかった。
 彼らが最期に見せたのは、自らの宿命を悟った清々しいほどのまなざしだけだったのだ。
 そしてその瞳に、楊ゼンも、太公望も、あの場にいた道士たちは誰一人として逆らえなかった。
 瑕(きず)一つない金剛石のような煌めきを残して消えていった、崑崙十二仙。
 あまりにも潔かったから──それを見送ることしか出来なかったから、遺された者は、繰り返し問いかけずにはいられない。
 たとえば、もっと策は無かったのか、と。
 どうして自分にはもっと力が無かったのか、と。
 そして──決して言ってはならないことだが──あとほんの少しだけ、彼らが弱さや卑怯さを備えていれば、あんな犬死のような死に方はしなくても済んだかもしれない……、と。
 それが、彼らの生き様も死に様も否定する、遺された者の身勝手だと分かっていても、彼らの性格が違ったものであれば、また別の道が開けたかもしれないという思いが振り払えない。
 ──決して戻らないと分かっているからこそ。
 無様だろうが卑怯だろうが、どんな手段を使ってでもいい、生きていて欲しかったと願わずにはいられないのだ。
 それが、どんなに愚かだと分かっていても。
 もう二度と会えないことが……大切な人を失くしてしまったことが、悔しくて。
 鮮やかなまでに心に焼き付いた残像が、綺麗過ぎて。
 胸の奥深く──決して手の届かない処に、鈍く鋭く、やるせない痛みが波のように繰り返し打ち寄せ、潮が満ちてくるように染みてくる。
 どうすればそれを止められるのか、誰一人、答えを持たない。
 時間の流れと共に、いずれは何もかもが遠くなり、哀しみの抜け殻だけが残ることは知っていても、今はまだ、痛みは胸の裡に凝(こご)ったまま消える気配もなくて。
 ───ただ、悲しい。
「すまないね、楊ゼン。辛いのは君も同じなのに。むしろ、いつも太公望の傍にいる分、余計に感情を出せなかっただろう?」
「………師叔は他人が傷ついているのを見ると、自分を責めますからね」
 小さく笑いかけた太乙真人に、楊ゼンも微笑を返した。
 やはり、どこか自嘲めいた、やりきれない思いを含んだ淡い笑みだった。
 そんな楊ゼンを見て、太乙真人もうなずく。
「うん。どうしてあんなに責任感が強いんだか……。もっと楽にしていいのにね」
 夜空を見上げ、彼は嘆息するように言葉を続けた。
「せめて普賢が生きていればね。率先して犠牲になろうとするタイプだったから、自爆を選んだのも当然といえば当然なんだけど……。 でも、太公望にとって普賢は一番……というより唯一、素直に本音を言える相手だったから」
「普賢師弟……ですか?」
「うん」
 楊ゼンの声には微妙な響きが混じったが、太乙真人は、それには気づかぬように言葉を続ける。
「普賢は崑崙に上がって、太公望と同期で修行を始めた時から、ホントに太公望の事しか目に入ってなくてね。あんまりその様子があからさまだったから、こっちも直ぐに揶揄う気が失せちゃったくらい。
 だけどそのうち、いつも同じ笑顔しか見せなかった太公望が、ごく自然に笑うようになってさ。私たちもほっとしたんだよ」
 淡々と紡がれる言葉に、楊ゼンは少しだけ表情を揺らす。
「それまでの太公望は、どこか張り詰めた感じがあってさ。人当たりが良いように見えても、本当は誰にも心を開いていなかったから。普賢ってすごいなぁ、って皆で言い合ってたんだ」
 言いながら、太乙真人は遠くを見つめるような目をした。
 夜空の向こうにある何かを、探すように。
「本当に仲がよかったよ、あの二人は。どこか感じが似てて、まるで兄弟か何かみたいだった。普賢が十二仙に昇格してからも、それは変わらなくて……。
 あのまま永遠に、彼らはゆくんだろうと思ってたよ……」
 夜風に流れる静かな太乙真人の声を聞きながら、楊ゼンは自分の知らない、在りし日の太公望の姿を脳裏に思い描いた。
 太公望が妲己の非道のために一族を失ったあと、登仙したことは既に知っていたが、当時の彼がどんな子供だったのか、これまで楊ゼンは具体的な話を聞いたことがない。
 しかし、今でも太公望の心が深く傷ついたままであることは、度を過ぎるほど人々の死を毛嫌いすることからも分かる。
 それどころか、たとえ相手が敵であろうと妖怪であろうと、救えるものならば救おうとし、決して我が身を顧みようとはしない、優しすぎる現在の彼。
 その優しさが惨(むご)い過去ゆえのものだというのなら、ひどく哀しい……、と楊ゼンは思う。
 家族や友人を失うという、こんな身を裂かれるような痛みを幼くして知って。
 七十年前、自分の生命以外の何もかもを失った十二歳の彼は、真実笑うことも忘れて、何を見つめ、何を考えていたのだろう。
 そして、そんな彼の目に、普賢真人は一体どんな存在に映ったのか。
 純粋に……ただ純粋に太公望を思っていた、かの人の優しさは、傷ついた子供だった彼をどれほど癒したのだろう。
 ──ようやく楊ゼンは、なぜ普賢真人が太公望の唯一の親友だったのか、なぜ太公望があれほど心を許していたのかを、理解できた気がした。
 本当に、特別な相手だったのだ。
 そしてまた、普賢真人にとっても……。
「………普賢師弟は、自分を貫いたんですね」
 静かに低く、楊ゼンは言った。響きのいい声は、その裡の感情を見せない。
 太乙真人はそんな楊ゼンに視線を投げかけ、うなずく。
「しかも十二仙としての責任と、太公望を守るっていう自分の意志を両立して、ね」
 そしてまた、太乙真人は昏(くら)い夜の彼方に目を向けた。
「正直、そんなことが可能だなんて思わなかったな。よくやったと思うよ、普賢は。………いや、普賢だけじゃない、皆そうだね。道徳も……玉鼎も……。
 皆……よくやったと言ってやらなきゃいけないんだろうな……」
 太乙真人の声が、静かに夜の風に消えてゆく。
 その声を楊ゼンは、何か遠い謡(うた)を聞くように耳で追った。
 ──同じだった。
 決して癒せない悲しみではない。けれど、簡単に癒せるような辛さでもないから。
 今はただ、胸をえぐる痛みに唇を噛んで、立ち尽くすことしか出来ない。
 彼も、自分も。
「………守りたかったんです。あの方たちは皆……」
 口をついて出た低い声に、太乙真人がゆっくりと振り返る。
 静かに楊ゼンは言葉を続けた。
「普賢師弟も道徳師弟も、それぞれ大事な人を守るために命を賭けて……。玉鼎真人師匠も、父上も……」
「楊ゼン」
 名を呼ばれて、楊ゼンはゆっくりと顔を上げ、まっ直ぐに太乙真人を見返した。
 強い──どこか師父の面影を感じさせる瞳で。
「僕にそんな価値はない、と叫んで、嘆き悲しむのは簡単なんです。でも、それでは師匠のしたことが無意味になってしまう」
 楊ゼンの声は静かだった。
「あの時は一時の激情に駆られましたが、仇をとることも本当は意味がない。師匠も父上も、そんなことを僕に望んではいないでしょう。僕自身、復習を糧(かて)にするような生き方はしたくないんです」
「……確かに、今の君には似合わないね」
 その言葉に、楊ゼンはかすかに微笑する。
「ええ。かつての僕なら、そうしたかもしれませんけどね。コンプレックスを逆手にとって技を磨いたように、憎しみを利用して……。
 けれど、そんな修行がどんなに虚しいものか、もう知ってますから」
 太乙真人は静かな表情で、楊ゼンの言葉を聞いていた。
 ただ夜の風だけが、星明かりの照らす屋上を通り過ぎてゆく。楊ゼンのよく透る声は、その涼やかな風の中に静かに飲み込まれてゆくようだった。
「憎しみも恨みも、僕には必要ない。悲しみは悲しみのままに、ただ精一杯生きればいい。……口で言うほど簡単なことではありませんが……」
「……うん」
「それでも僕は、何があっても生き抜いて、幸せにならなくてはいけないんです。誰の為でもなく、二人が命を賭けてまで守ってくれた僕自身の為に……」
 気負いのない、だがきっぱりとした言葉の後、短い沈黙が落ちる。
 それを破ったのは太乙真人だった。
「──憎しみも恨みも要らない、悲しみは悲しみのままに、ただ生きればいい、か。
 そうだよね。私たちは不幸になるために生まれてきたわけじゃない。親も、子供を不幸にするために生み育てるわけじゃないんだ。結果的に不幸にしてしまうことはあっても……」
 呟くようにそう言い、
「きっと君の言う通り、玉鼎や君の父上が君に望んだのは幸せ以外に何もないよ。慈しんだ我が子に親が望むものなんて、他にあるわけがない」
 そして太乙真人は、友人の忘れ形見となった青年をまっすぐに見つめた。
「玉鼎はね、幼かった君を本当に一生懸命育てていたよ。大昔の玉鼎は、とにかく無愛想で付き合い下手で、取っ付きにくいタイプだったのに、君を育てているうちにすっかり変わってしまってさ。あの玉鼎が君の話をする時は、親馬鹿丸出しで嬉しそうで……。
 ホントに意外すぎて、最初の頃はみんな目を丸くしてた。何か天変地異でも起こるんじゃないかってさ」
 楽しかった思い出を懐かしむように、太乙真人は目を細めた。そして、そのままの表情で楊ゼンを見る。
 遠い日々の形見を、穏やかな瞳で。
「妖怪だろうが何だろうが、玉鼎にとって君は息子同然に可愛い弟子だった。私たちも、そのことをよく分かってる。だから、君は何一つ卑下する必要も、自分を否定する必要もないんだ」
「ええ」
 うなずいて、楊ゼンは地平線の際にまで輝いている満天の星に目を向けた
「僕は通天教主の息子で、玉鼎真人師匠に育てられた。その事実に恥じるべきことなんて、何一つなかったんです。
 崑崙山に預けられた事情が事情ですし、人間と妖怪が不仲なのも事実ですから、正体を伏せなければならなかったのは仕方ないとしても、僕が自分に流れる妖怪の血を嫌悪していたのは愚かだったと思いますよ。  僕は僕で、他の何者でもありえないんですから。もっと早く、気づかなければいけなかった」
 響きのいい声は静かだったが、奥底に強い意志を秘めて聞こえた。
「もう二度と、自分の愚かさや弱さのせいで誰かを失うようなことはしません」
「……君が本気で言うと、説得力があるねぇ」
 感心したように太乙真人はまばたきをした。
「でも、今夜は珍しく素直だけど、一体どうしたんだい?」
 問われて、楊ゼンは軽く肩をすくめる。
「素直なのは太乙さまもでしょう? あなたと同じ理由ですよ」
「……なるほど」
 楊ゼンの返答に太乙真人は苦笑した。
 ──他の誰にも……とりわけ太公望には言えないことだから。
 太公望とて馬鹿ではないから、十二仙らが自分の大切なものを守るために命を賭け、後悔などしていないだろうということぐらい理解している。
 だが、彼の感情はそれではおさまらない。
 遺された者の慟哭を知り尽くしているから、彼らを失ったこと、そして大切な人を失わせてしまったことで、自分を責め続ける。
 それが分かっているから、楊ゼンも太乙真人も、太公望にだけは何も言えないし、その一方で、彼の不在が気休めにもなるのだ。
 自分たちばかりでなく彼もまた、身内をなくして悲しむ人々のいない場所で一人になり、ほんの少しだけ心を休ませているのだろうから。
「天才だの十二仙だのの呼び名をもらっている以上、そうそう情けない本音は口にできないしね。君と同じ穴のムジナというのは、ちょっと不本意だけど」
 まったく同感ですよ、と楊ゼンは視線で答えた。
 苦笑しながら、太乙真人はそんな楊ゼンに向き直る。
「でも、君の調子が戻ってるみたいで安心したよ。でないと私たちも困るからね、特に太公望が」
 その言い方に、楊ゼンは少し不審げな表情で瞬きした。
「……どういう意味です? 確かに僕がいなければ、こちら側の戦力は半減するでしょうが」
「うん、それは勿論だけど、それだけじゃなくてさ。誰かが精神的にサポートしてやらないと、太公望の神経が本当に参ってしまうから。  私たちは絶対に、あの優しすぎる子を失うわけにいかないんだよ」
 やや意外な言葉に、楊ゼンは太乙真人の顔を見直す。
 だが、いつもの飄々とした表情ながらも、彼の目は真剣だった。
「……前から思っていましたが、随分、太乙さまは太公望師叔のことを気にかけていらっしゃいますね」
 単に疑問を口にしただけのはずだったが、心なしか楊ゼンの声が硬くなる。
「大丈夫だよ。君が太公望を大事にしてるのとは別次元だから」
 その声と台詞に何を感じたのか、太乙真人は肩をすくめた。
「つまりね、太公望は将来、崑崙山の要(かなめ)になる人物なんだよ。元始天尊さまは何もおっしゃったことがないけど、私たちは、太公望がいずれは十二仙の上に立つ存在だという事を最初から承知していたんだ」
 暗黙の了解というやつだね、と何でもないことのように彼はさらりと続けた。
「そもそも元始天尊さまが直々にスカウトに行くなんて、滅多にあることじゃないからね。そんなのは歴代の十二仙ぐらいなものだよ。
 だけど、今から七十年程前、十二仙の欠員は一人しかなかったのに、元始天尊さまがスカウトしてきた子供は二人だった」
 そう言って、太乙真人は右手の指を二本立ててみせる。
「その時点で、私たちは元始天尊さまの思惑が分かったんだよ。そして四十年後、予想通り片方が昇格して十二仙が揃った。
 君や他の道士たちは勘違いしてたみたいだけど、太公望より先に普賢が仙人の資格を取ったのは、彼の方が優秀だったからじゃない。
 確かに当時の成績は、普賢の方がやや上回っていたけど、彼が既に才能を百パーセント開花させていたのに対し、太公望は仙人級の力を身に付けていながら、なお潜在能力は未知数のままだったんだ。
 それを知っていたから、たった数十年しか修行していない、一見なまくら道士の太公望が、元始天尊さまの一番弟子として同格扱いでも、封神計画の責任者となっても、十二仙は誰一人文句をつけなかったんだよ。私たちにとっては全部、当然のことだったのさ」
「───…」
 初めて聞かされた話に、楊ゼンは言葉を失くした。
 だが、考えてみれば、封神計画の責任者である太公望に協力することに素直に応じなかった仙道は、宝貝人間・ナタクを除くと自分一人しかいないのである。少なくとも他の仙人級のものは全員、最初から太公望に協力的だった。
 師匠の玉鼎真人も、太公望の補佐を命じられて複雑な顔をしていた自分に対し、弟子のプライドの高さに苦笑しつつも、とにかく太公望に会ってみるように言っただけだったことを楊ゼンは思い出す。
 ───何故、彼が封神計画の責任者に選ばれたのか、会ってみれば分かるだろう。
 当時の楊ゼンは、その言葉に不承不承、従ったのだが、愛弟子の性格も、弟弟子の性格もよく知っていた玉鼎真人は、その後の展開など見通していたに違いない。
 悔しがることもできないほど、太公望に完璧にしてやられて帰ってきた自分を出迎えた師匠の笑みを思い出して渋い顔になる楊ゼンに、太乙真人が更に追い討ちをかけた。
「多少見る目のあるものなら、すぐに分かる事だよ。太公望は指導者として天性の資質を持ってる。だから、私たちは無条件で千年以上も年下の彼の指示に従うし、彼の判断を信じるんだ」
 そう言って、太乙真人は楊ゼンに笑いかける。その笑みは楽しげで、どこか人が悪かった。
 その表情に、楊ゼンは嫌な感じを覚える。そう言えば、少し前にもこんな笑顔を見たことがなかったか。
 ……そう、二十日ほど前に夢の中で……。
「だからね、君が心配することなんかないのさ。確かに、私も太公望のことは信頼しているし、昔から仲も良いけどね。単純に比較すれば、やっぱり我が子のナタクの方が可愛いよ」
 やや嫌な顔をした楊ゼンのことなど気にもせず、太乙真人は楽しそうな口調で続けた。
「でも、君も御苦労だよね。あんなに尽くしてるのに、太公望は全然分かってないみたいだしさ。誰が見たって、君が太公望を好きだなんてことは一目瞭然なのに。一番分かって欲しい相手が、一番分かってくれないんてねぇ」
「────」
 楊ゼンはただ無言で、嫌そうな顔を向ける。
 何も言いたくなかった。
 言えば、太乙真人をより楽しませることになる。そう分かっているから楊ゼンは口を閉ざし、ただ強烈に冷ややかなまなざしを送る。
 だが、余人なら思わず青ざめてしまうだろう楊ゼンの視線を受けても、一向に太乙真人は楽しげな言葉を止めない。
「それで楊ゼン、君は一体何をしたんだい?」
 さっきまでのシリアスな態度はどこに捨てたのやら、太乙真人はそう言って腕を組み、人の悪い笑みを浮かべた。
「いくら君のことを信頼してるといっても、この不安定かつ重要な時期に、片腕の君にさえ何も言わずに旅に出るなんて、不言実行・秘密主義の太公望とはいえ、ちょっとおかしいよねぇ。十二仙も欠けた戦力不足の今、太上老君さまを探しに行くというのを君が止めるはずないのにさ。
 ──君、太公望に何したの?」
 いかにも面白がっている表情で言われて、心底嫌そうに楊ゼンは太乙真人を見返した。
 これまで素知らぬ顔で会話していて、いきなりこの話題を振ってくるところが、彼の老獪さを如実に表している。
 若い外見と、どこか抜けた性格に忘れがちになるが、彼も間違いなく永い永い年月を生き続けている仙人であり、その人生経験は楊ゼンの比ではないのだ。良くも悪くも老熟していて、若い者をからかって遊びたいという年寄り根性も相当に強い。
 しかも、普段は隙がなくて、小憎らしい楊ゼンがからかう相手となれば、楽しさも倍増というところなのだろう。
「……何もしてませんよ」
「またまた。いくらでも相談に乗ってあげるよ? こう見えても君の五倍以上生きてるんだしさ」
 実に楽しそうな太乙真人に、楊ゼンは半眼を向けた。
「相談……、ですか? 何年経っても、ナタクとまともな関係を築けないあなたに? 一体、何を?」
 いかにも嫌味っぽい切り返しに、太乙真人は眉をぴく、と動かす。
 だが、楊ゼンの負け惜しみであることが分かっているせいか、大して気に障った様子はなかった。
「そうは言うけどねー。結局、ナタクは私のところに帰ってくるんだよ。でも太公望は……、ねぇ?」
「ナタクは他に修理してくれる人がいないから、帰ってくるだけでしょう」
「それだけじゃないことくらい、君も分かってるだろう? つまんない負け惜しみ言っても無駄だよ。──まぁ、何があったのか言う気がないんなら、これ以上は聞かないけどね」
 剣呑な雰囲気になる前に、あっさりと太乙真人は引き下がった。そして、やや毒気を抜かれた様子の楊ゼンに笑顔を向ける。
「───…」
 このあたりの呼吸の掴み方が彼は実に上手くて、好奇心が強い割りに、いつでも他人との距離をきちんと保っており、必要以上に相手の領域に踏み込むことは滅多にない。
 そのことは楊ゼンも承知していたのだが、いざ直面してしまうと、肩透かしを食らったような気分は否めなかった。
 しかし、そんな楊ゼンの気分には頓着する様子もなく、
「よく分かってるだろうけど、太公望は手強いよ。あんな可愛い顔をして、中身はひねくれ者の食わせ者だから。おまけに、今は封神計画に熱中してるしね。
 でも本質は情の深い子だから、案外ほだされてくれるかもしれないな。ま、気長にいくのが一番だろうね」
 そう言って太乙真人は、お気楽そうに笑った。
「私としても、太公望の傍には、やっぱり誰かついていてあげて欲しいしね。こう見えても、私は君のことを応援してるんだからさ。頑張って楽しませておくれよ」
 どこまで真面目で不真面目なのか分からないことを言うと、複雑な顔をした楊ゼンの肩をぽんと叩いて、横を通り過ぎていく。
「じゃあね、私はもう休むよ。おやすみ楊ゼン」
 そして、笑いを含んだ声でそう告げ、太乙真人は屋上を立ち去った。





「まったくあの人は……」
 星明かりの中に一人取り残されて、楊ゼンは溜息をついた。
 呟きながらかきあげた癖のない長い髪が、ゆるやかな夜風に流れて落ちる。
 楊ゼンが太乙真人と知り合ってから既に百年以上が経つが、未だに彼はつかみ所がない相手だった。飄々としていて、ボケているのか鋭いのか、いつも楊ゼンは判別に困らされる。
 明るくのほほんとした万年青年の彼もまた、遥かな時間を生き、様々な想いを通り過ぎてきた大人だということは、事在るごとに気付かされるのだけど。
 たとえば、今夜のように。
 ──実際、太乙真人には痛い所を突かれたのだ。
 一昨昨日(さきおととい)の朝、楊ゼンが目覚めてみれば、枕元に要領を得ない置手紙があって、窓の外を見ると、太公望が四不象に乗って西岐城を出て行くところだった。
 慌てて元始天尊の所へ事情を聞きにいけば、なんと彼は太上老君を探しに行ったのだという。
 しかも、太上老君は現在、所在不明でどこに居るかも分からず、見つかるまでにどれ程の時間がかかるか、また、もし運良く会えたとしても、味方になってくれるかどうかは分からないというのだ。
 これほど当てのない人探しも、そうそう在るものではないだろう。
 だが、それを承知した上で太公望が太上老君を求める気持ちは、楊ゼンにはよく理解できた。
 大勢の仲間を失い、仙界大戦で最も深い爪痕を心に残したのは、他の誰でもない太公望自身。
 彼が少しでも失った戦力を補い、そしてこれ以上の犠牲を出さないために、太上老君を味方につけることを思いついたのだということくらい、すぐに分かった。
 だから、確証のない太上老君探しに出たことを、楊ゼンは咎めようとは思わない。
 問題なのは、太乙真人が言った通り、楊ゼンには一言も事情を説明せず太公望が旅に出た、という事である。
 あの日の朝、まだ楊ゼンが寝ている隙に、『後のことは任せる』と書いただけの置手紙一枚を残して、太公望は四不象と出て行った。
 何故か。
 考え得る答えはたった一つだ。
「……逃げられたなぁ」
 くしゃりと前髪をかきあげながら、楊ゼンは溜息まじりに呟く。
 ──二十日ほど前、楊ゼンは初めて太公望に対して、はっきり好きだという意思表示をしてみせた。
 もっとも、それ以前に何もしていなかったわけではない。常にそばにあって行為を示していたつもりであるし、実際にこうして太乙真人にからかわれるほど、それはあからさまだったと楊ゼン自身も思う。
 だが、しかし。
 肝心の太公望には一切通じていなかったのだ。
 あまりの手応えのなさに首をかしげていた楊ゼンに、太公望は極度の恋愛音痴だとはっきり教えてくれたのは、太公望の親友であり、おそらく最大の理解者だった普賢真人だった。
 かの人は故人となったにもかかわらず、わざわざ楊ゼンの夢の中に現れて、太公望に関することについて細々(こまごま)とした忠告をしてくれ、ついで余計な事まで教えてくれたのである。
「─────」
 夢の中で聞かされた台詞と、そのときに普賢真人の天使のような笑顔を思い出して、楊ゼンは大きく溜息をつく。
 そのまま、その場に座り込みたいような気分だった。
 ───望ちゃんのファーストキスは、さっき僕がもらっちゃったから。
 その普賢真人の言葉に、鳶に油揚を奪われた楊ゼンは一瞬、かなり逆上した。
 だが、にこやかに我が道を行く普賢真人には、何を言っても無駄だったし、第一、彼が太公望にキスをしたからといって、楊ゼンが物申す権利などどこにもなかった。
 それに──普賢真人の正体が悪魔だろうが天使だろうが、純粋に太公望を想っていたことだけは、確かな真実だったから。
 結局、楊ゼンはかの人に対して、真面に文句も言えなかった。……言わせてもらえなかった、というのが正しいかもしれない。まぁ、それはともかくも、その場は引き下がって永久(とわ)の別れを告げたのだ。
 けれど、夢から目覚めてみれば、面白くないことには変わりなく、おまけに、太公望の様子も仮眠前までとは微妙に違っていたから、改めて楊ゼンは少なからぬ嫉妬を感じてしまったのである。
 だから、一つ目の報復として、自分も太公望の頬にキスをして宣戦布告、したのだが。
 それ以来。
 太公望の態度は、すっかり警戒しまくりの逃げまくり、になってしまったのだ。
 それまで行為の意思表示に極端に鈍かった太公望は、普賢真人と楊ゼンにキスをされた途端、反動で思いっきり過敏になってしまったらしい。
 それでひたすら敵から逃げ回る、というのも周の命運を背負う名軍師にしては芸がないが、それだけ恋愛に対する経験も免疫もないという事なのだろう。
 とにかく二人きりになるどころか、顔を合わせることさえ太公望は避け続け、同席せざるを得ない軍議も終了次第、楊ゼンがちょっと目を離した隙に逃走するという見事な逃げっぷりだった。
「………師叔の意思を尊重するって、ちゃんと言ったのになぁ。キスだって、頬に軽くしただけなのに」
 まったく聞く耳を持たず、警戒モードに入っていた想い人の態度を思い出して、楊ゼンは溜息をつく。
 もちろん楊ゼンも、恋愛に疎い太公望がパニックを起こすだろうということは、ある程度予測していた。
 が、それ以上に太公望の反応は強烈だったのだ。
 そもそも恋愛において常に言い寄られる側だった楊ゼンは、相手に逃げられた経験が一度もない。それなのに、初めて好きになった相手は、こちらの気持ちなどお構いなしに逃げてゆくのである。
 一体どうすればいいのか、恋愛沙汰には百戦錬磨だったはずの楊ゼンにも分からなくなってしまったのだ。
 所詮、一時の戯れをどれほど繰り返したところで、本気の恋愛には何の役に立たないということなのかもしれない。状況を改善しようにも、楊ゼンには太公望に話しかけるわずかな隙さえ見い出せなかった。
 そして、なす術もないまま想い人に露骨に逃げまくられ、さすがの楊ゼンも落ち込みたくなる日々が十日以上も続いて。
 もう駄目だ、と心底思ったのが、三日前の朝、太公望が自室の扉を細く開け、左右確認をしてからそ〜っと出るところを見てしまった時だった。
 攻略法を変えなければいけない、と楊ゼンは切実に感じた。
 こんな不器用な逃げ方しかできない太公望を、これ以上追い詰めるのはまずい…、と。
 子供のようなやり方で自分を警戒している、あまりにも色恋沙汰に不慣れな太公望を目(ま)の当たりにして、楊ゼンはあきれると同時に、あんなやり方で告白した自分に罪悪感さえ覚えてしまったのである。
 楊ゼンとしては、あの時、さほど過激なことをしたつもりも言ったつもりもない。だが、普賢真人とのキス以外、何の経験もないらしい太公望には、あれでも刺激が強すぎたのだろう。
 ──彼のペースに合わせてやらなければ、この調子では日常の会話さえままならない。
 そんな不吉極まりない予感に突き動かされて、楊ゼンは、そろ〜っと抜き足差し足で廊下を忍び歩く太公望を呼び止めた。
 すると案の定、彼は飛び上がるほど驚いて振り返ったのだ。





「太公望師叔」
「──!! よっ、楊ゼン!?」
「逃げないで下さい、師叔。これ以上は近づきませんから」
 すかさず逃げ腰になった太公望を、楊ゼンは三メートルほどの距離をおいて制止した。
 その声に太公望はひとまず逃走を止めたものの、まだ疑わしさと、少しの気まずさを混ぜた表情で楊ゼンを上目遣いに見上げた。
 その表情を見て、楊ゼンは苦笑とも自嘲ともつかない笑みをかすかに刻む。
「すみません、師叔。あなたを混乱させてしまって……」
「え……」
 謝罪の言葉を口にした楊ゼンに、太公望は表情を変えた。戸惑ったような色が顔にさっと広がる。
「もう何もしませんから。あなたが嫌なら、僕はもう何も言いません。だから、そんな風に逃げないで下さいませんか?」
「────」
 またもや突然な楊ゼンの言葉に、太公望は言い返す言葉を見失って、大きな瞳で楊ゼンを見返した。
 その瞳に困惑の表情を見て取り、楊ゼンは微笑む。
「本当に、師叔を困らせるつもりはなかったんです。あなたをこんな風に動揺させる気は……」
 響きのいい声に、太公望はうなずくこともかぶりを振ることもできずに、ただ困ったような表情で楊ゼンを見つめた。
 その表情がやけに無防備で、ただでさえ瞳が大きくて童顔なのが余計に可愛らしく見え、この十日あまりの間、会話を交わすどころか、まともに太公望の顔も見ていなかった楊ゼンは、思わぬ切なさが込み上げるのを覚えた。
 思わず、そんな顔をしないで下さい、と言いたくなる。
 時々……、本当に滅多にしかないことだが、太公望はこういう付け込みたくなるような、隙のある表情を見せることがあった。
 本人は間違いなく無意識なのだが、彼に懸想をしている者にとっては、そんな表情は想いを掻き立てられるだけの代物(しろもの)でしかない。
 だが、この場で想いを顔に出すわけにもいかず、楊ゼンは頼りなげな表情の太公望を抱きしめたい気持ちを抑え込み、彼の反応を待った。
 しかし、どうすればいいのか分からないと言いたげな太公望の表情は変わらず、西岐城の長い石造りの廊下で数メートルの距離をおいて、二人は互いに言うべき言葉を選べないまま、ただ見つめ合った。
 そして、沈黙に耐えかねたのか、困惑しきった表情で太公望がようやく口唇を動かしかけた時。
「こちらにおいででしたか!」
 と、聞き覚えのある侍従の声が二人を呼んだ。
「お二方とも評定の間にお急ぎ下さい。武王さまも周公旦さまも、既にお二方をお待ちになっておられます」
「すまぬ、すぐに行く!」
 背後を振り返り、慌てて太公望が答えた。
 そして、軍議に向かうために体の向きを変える寸前、ちらりと太公望は気まずさを混ぜた、どこか弱気な視線を楊ゼンに投げかけた。
 が、何も言わずにそのまま歩き出す。
 楊ゼンも少し距離を保ったまま、その後に続いた。
 後ろから見る太公望の小さな背中の線は、背後の楊ゼンを意識しているのか、どこか硬かった───。





 だが結局、その日も軍議が終わるとすぐに太公望は姿を消してしまい、楊ゼンが再び話しかける機会はなかった。
 そして、翌日早朝。太公望は太上老君探しの名目で遁走してしまったのである。
 楊ゼンとしては、もう溜息をつくしかなかった。
 一旦は強気に出たはずなのに、結局自ら退いてしまったのだから、自分の情けなさを笑うしかない。
 かといって、あれ以上太公望を困らせたくなかったし、避けられ続けるのにも耐えられそうになかった。
「好きなだけなんだけどな……」
 結局、太公望はまだ何も答えてくれてはいない。
 あの日の朝、侍従の邪魔が入らなければ、何か本音が聞けそうな感じだったのだけど。
 約二十日ぶりに太公望と正面から向き合ってみて、心底嫌われているという感じはしなかった。
 だが、嫌われてはいないにしても、あれだけ恋愛沙汰に疎い上に素直ではない彼が、簡単に本音を言ってくれる事がそうそうあるとは到底考えられない。
 なのに、その千載一遇のチャンスを逃してしまったのだ。
 軍議に遅れた自分たちが悪いに決まっているのだが、楊ゼンはあの侍従を本気で恨みたい気分だった。
 いささか憂鬱な気分で、楊ゼンは今夜、何度目か分からない溜息をつく。
 静かな西岐城の屋上を、涼やかな夜風がゆっくりと吹き抜けて、楊ゼンの長い髪をわずかに乱した。
 ……これまで何年も太公望の傍にいて、彼が本当に自分を信用してくれているらしいことは、楊ゼンも分かっている。
 いつでも太公望は『楊ゼン』という存在を受け入れ、認めてくれていた。
 そして、それだけで自分もある程度満足していたのである。
 好意を示しても反応がないことに首をかしげはしたが、封神計画を進めている今は、太公望も余裕がないのだろうと納得していた。
 だから、普賢真人さえ余計な事を言わなければ、絶対にこんな無様なことにはならなかったはずなのだ。
 それこそ、封神計画が終わるまで待つとか、もっとタイミングを計ることができたに違いない、と楊ゼンは思う。
 それなのに、現状はこれ。
 かの人が自身は想いを遂げた挙句に言った、『不戦勝だとは限らないよ』だの『苦労すると思うよ』だのという言葉が、まるで不吉な予言のように楊ゼンの耳に蘇る。
「いや、どちらかと言うと、予言というより呪いの言葉のような気が……」
 普賢真人の言葉の通り、現状は『不戦勝』とか『楽勝』という単語からは程遠かった。むしろ、『膠着状態』とか『後退』といった単語が相応しい。
 やむを得なかったとはいえ、自ら二歩も三歩も退いてしまって、これから新たな一歩をどうやって踏み出したらいいのか。
 どうすれば、現状を『戦略的後退』に変えられるというのだろう。
 前途の多難さを創造しただけで、楊ゼンは頭を抱えたくなる。何やら普賢真人の罠にはまったような気さえしていた。
 本当に、一体どうすれば太公望は振り向いてくれるのだろう…と、いくら考えても、もう溜息しか出てこない。
 『外見とは裏腹に、素直じゃなくてヒネくれている上に、頭脳も老獪で、理想に一途で責任感も強すぎて、おまけに恋愛音痴』
 太公望を形容する詞(ことば)を並び立てるだけで、眩暈がしてくるようだった。
「──でも、だからといって諦められるものじゃないしな」
 相当に厄介な相手を好きになってしまったという自覚は、楊ゼンにもある。
 ──だが、どうしても彼しかいない。
 誰よりも優しくて、誰よりも強い人。
 どんなに辛くても決して表には出さず、他人を傷つけないために自分を傷つけてしまう人。
 一度彼という存在を知ってしまったら、他のどんな人間も、鮮烈な太陽の輝きにかき消される真昼の星のようなものだった。
 彼しか、見えなくなる。
 それほど稀有で、絶対的な存在。
 初めて出会った時から、ずっと惹かれ続けてきた。
 本気で好きなのだと気付いた時から、彼の隣りに経ち、彼を抱きしめるために多少の苦労をすることくらい、最初から覚悟している。
 ………もっとも、敵はその覚悟を上回る手強さだったけれど。
 思わず、こうして止めどもなく落ち込んでしまいたくなるくらいに。
「案外ほだされてくれるかもしれないよ、か」
 先程、崑崙十二仙の生き残りに言われた言葉を呟いてみる。
 本当にそうならいいんだけどな、などとらしくもなく弱気なことを思いながら。
 ───そう、本当にらしくない。
 たった一人の存在に、笑顔を見せて欲しいなんて。
 これまで数々の浮名を流してきた男の思うことではないと、楊ゼン自身も思う。
 ……でも、声が聞きたい。
 屈託なく笑う姿を見たい。
 そして、もし許されるなら、あの奇跡のような存在を抱きしめたい。
 そう願う想いは真実だった。
「僕らしくもない……」
 そんな、自分の思わぬ純情ぶりを振り返って、楊ゼンは苦笑する。
 ──だが。
 自身でも気付いていなかっただけで、これが本当の自分なのかもしれない。
 ただ一人の信頼に応え、その人を守るために強くなりたいと思う、まるで人間のように不器用な生き物。
 それが、太公望に出会うまで知らなかった、本物の自分の姿なのだとすれば。
 こんな風に思い悩むのも、
「この上なく僕らしい……のかな」
 呟いて、もう一度楊ゼンは苦笑する。
 情けないとは思うが、太公望のことを想うだけで胸に満ちる、どこか甘やかな切なさは、まるで心の中に小さな明かりが灯ったような感覚にも似て、不思議なほど心地好かった。
 目を上げれば、月のない夜空に無数の星がまたたき、静かに下界を照らし出している。
 今ごろ、かの人は一体どこにいるのか。
「早く帰ってきて下さいよ」
 たとえ避けられまくって言葉を交わす機会さえなくても、同じ場所にいるのといないのとでは、こんなにも気分が違う。
 少年のようにそんなことを思う自分が少々気恥ずかしいが、つのる想いは抑えられない。
「本当に、本気であなたが好きなんですけどね……」
 小さく溜息をつきつつ、楊ゼンは目の前に広がる静かな夜の世界を、いつまでも見つめていた────。






continued on 2...







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opening text by 「Goodbye, my friend」 鈴木祥子