綺麗な風景だった。
 地平線まで一面に青い草が広がり、吹き渡る風にさわさわとそよいでいる。
 空はどこまでも青く澄んで、雲一つない。
 見たことのない風景だ、と楊ゼンは思う。
 非現実の空間だということはすぐに見当がついたが、十天君の使う亜空間のような悪意は感じなかった。
 初夏の草原のような輝きと爽やかさに満ちた光景を眺め、一体どういう空間なのか、何故ここに居るのかを考えながら、周囲の気配を探る。
「いいロケーションだね」
 突然かけられた声に、心底驚愕して楊ゼンは振り返った。
「普賢師弟!?」
 最年少の十二仙が、そこには立っていた。
「何故、あなたが……?」
 思いもよらない存在に、混乱しかける思考をどうにか理性で押しとどめ、楊ゼンは問いかける。
「あなたは封神されたはずでは? 何故、こんな所にいるんですか?」
「君は、望ちゃんよりしっかりしてるみたいだね」
 立て続けに問われて、普賢真人は笑った。
 そして、何から話そうか、というように首をかしげる。
「今ここに居る僕は、ただの残留思念だよ。僕ちゃんに幾つか言っておきたかったことがあってね。それで、夢の力を借りてたった今、望ちゃんに逢ってきたんだけど、そのついでに君にも話をしておこうと思って」
 そう言って、周囲の風景を見渡す。
「ここは、君と僕の夢の空間だよ。だから、僕たちが話をするのふさわしい風景が自動的に選ばれてる。いい風景だと思わない?」
「僕に、あなたが話ですか?」
「望ちゃんのことだよ」
 常に絶やされることのない微笑で、普賢真人は幼友達の名を口にした。
 ───言われるまでもなく、楊ゼンにも見当はついていた。
 普賢真人が自分に話しをしようというのに、他の話題があるはずもない。そもそも、それ以外に自分たちの接点はないのだから。
「もう一度、きちんと頼んでおこうと思って。あのときの君の様子からすると、心配はなさそうだけど、僕にとって望ちゃんは大切な人だから」
「───…」
 普賢真人が口にしたのは、彼が聞仲に自爆を仕掛けた時のこと。
 その時、楊ゼン自身は、玉砕を覚悟した道徳真君に太公望を守るように言われ、総攻撃に加わるのを思いとどまって、代わりに太公望を抑える役に回った。
 十二仙が生命と引き換えに特攻をかけるつもりなのも、そして、太公望がそれを黙って見ていられる訳がないことも理解できたから、護衛など不要だと叫ぶ彼の肩を捕らえた。
 そして、それを見届けた普賢真人は、「たのんだよ、楊ゼン」という言葉を残して、もう二度と振り返らなかった。
 彼だけではなく、あの場にいた他の十二仙も。
 皆、真正面から敵だけを見据えて、散っていった。
 ───それが、太公望にとって、どれほど痛いことだったのか。
 十二神が封神され、普賢真人が自爆した時の太公望の衝撃を、共にいた楊ゼンははっきりと感じ取ることができたし、その後、彼が淡々と紡ぐ悲哀と自責の言葉も、この耳で聞いた。
 あの瞬間の太公望の呆然とした表情と、その後の何もかも自分で受け止めようとする沈痛な表情、そして静かな声が、どうしようもなく痛かった。
 だから、全てが終わった後で、少し一人にして欲しいと太公望が言った時、楊ゼンは何も……一言の慰めも言えなかった。
 ただ黙って、小さな背中を見送ることしかできなかったのだ。
 目の前で十二仙の殆どを失った上に、武成王までもが封神され、更に、心身ともにずたずたになった聞仲に自分の手でとどめを刺さなければならなかったことで、太公望がどれほど傷ついたのか、その目を見ただけで分かってしまったから。
 だが、その一方で、道徳真君が止めなければ、楊ゼンも玉砕覚悟の総攻撃に加わる気でいたから、自分の生命と引き換えに弟子や友人の命を守ろうとした十二仙の気持ちも理解できた。
 ───太公望は守られること、誰かを犠牲にすることを極端なまでに嫌う。
 敵味方に関係なく、人が死ぬということにひどく過敏に反応し、自分を責めて、とうに傷だらけの心を更に深く切り刻む。
 だが、そんな太公望の性格を分かっていながら、たとえ心を傷付けることになっても、その命を守りたいと思ったのは真実。
 だから、どちらの想いも、楊ゼンには等分に重かった。
「……君は分かっているんだね。僕たちの気持ちも、望ちゃんの気持ちも」
「──!」
 想いを見透かされて、楊ゼンは普賢真人を見返す。
 穏やかな普賢真人の瞳は、深く澄んでいるのに底が見えなかった。──否、底が見えないほどの深さで澄んでいる、と言うべきだろうか。
 その感じが、少し太公望に似ている、と楊ゼンは思う。
 人の心の奥深くを見つめている目。
 人の想いを信じ、何があっても守ろうとする潔さと強さを持つ目だった。
 そう感じた時、ふっと楊ゼンの肩から力が抜ける。
「───…」
 警戒を解いた楊ゼンに、普賢真人は笑いかけた。そして、風になびく青い草原を見つめる。
「あの時は他に選ぶべき策がなかった。望ちゃんを傷付けるのは本意じゃなかったけど……。さっき、望ちゃんにかなり怒られたよ。でも、真剣に怒ってくれるのが嬉しかったな」
「……太公望師叔と何を話されたんですか?」
「それは秘密。望ちゃんに聞けば、教えてくれるかもしれないけど」
 にっこり笑った顔は、今一つ掴み所がない。だが、次に見せたやわらかな微笑は、ひどく印象的だった。
「大事なこと、だよ」
 そう言って、普賢真人は微笑む。
 深い想いをうかがわせる声特徴、そして、その微笑だけで、普賢真人にとって太公望という存在がどれほどの意味を持つのかを、楊ゼンは理解できる気がした。
「それで君にはね、望ちゃんを守って欲しいんだ」
 やわらかに響く声で普賢真人は言う。
「望ちゃんは、どんなに辛いことがあっても絶対にくじけたりしない。生きることも、夢を叶えることも諦めない。この先、どんなに心と身体が傷ついたって、立ち上がって歩いて行ける。あんなに傷つきやすいのに、本当に可哀想なくらい強いんだよ。
 だから僕も、自爆なんていう望ちゃんが一番嫌う手段を取ることが出来た。望ちゃんはすごく傷つくだろうけど、それでも僕らの犠牲を受け止めて、きっと乗り越えていけるから。──でも、望ちゃんは他人のために一生懸命になり過ぎる。分かるよね?」
「ええ。師叔は自分が傷つくことを恐れない人です。……だから、僕のことも助けに来てくれた」
「うん。あの時、僕は止めなかったし、止める気もなかったけど、司令官としては無謀だし軽率だったよね。でも、ああいう望ちゃんだから皆が惹かれるんだよ。
 あれほど軍師としての才能があるのに、一方を救うために一方を見捨てるような冷徹な計算は、思いついても絶対に実行できないんだ」
 どこか遠くを見つめて言葉を綴る普賢真人の横顔を、楊ゼンは見つめた。
 その視線に応じるように普賢真人は楊ゼンに顔を向け、春の青空のように穏やかでありながら、強いものを秘めた瞳で、やわらかに見返す。
「だからね、そういうところを注意してあげて欲しいんだ。望ちゃんの優しさは、時として望ちゃんを致命的な状況に追い込む。
 ぎりぎりの所までは放っておいてもいいけど、戦局を見る眼を失うくらい情に流されているようだったら、はっきり言ってあげて欲しい」
「……でも、僕が止めても師叔は聞きませんよ」
 これまでにあった数々の場面を思い浮かべながら、楊ゼンは言葉を返す。
 常に勝算はあるのだろうが、太公望は敢えて自分が矢面(やおもて)に立つことがあまりにも多い。そのたびに一応、楊ゼンは警告して止めるのだが、いつでも太公望の気迫に押されて、その手を離してしまうのだ。
 だが、普賢真人は笑顔を見せた。
「止めても聞かない時は、大抵、何か勝算があるんだから、放っておいても大丈夫だよ。もし自分が間違っていると思ったら、望ちゃんは絶対に修正するから、とりあえず、まずいと思ったら言えばいいんだ」
 そうは言われても、今一つ、楊ゼンには自信がなかった。
 そもそもからして、仲間を信頼し、決して見捨てない太公望の人柄に惹かれているのだから、その部分が強調された場合、抗し切れないのは当たり前である。
 とはいえ、太公望が窮地に立たされるような状況は楊ゼンも見たくなかったから、努力します、としか言えなかった。
 その返答に普賢真人も、努力してね、と笑う。
「望ちゃんにそういう事を言えるのは、僕しかいなかったからね。僕がいなくなった今、この役をやれそうなのは君しかいないんだよ」
「……確かに」
 生き残っている崑崙山の仙道をずらりと脳裏に並べてみたが、確かに普賢真人の言う通りだった。
 敢えて言うのなら、ただの人間ではあるが、周公旦が有望というくらいだろうか。だが、周公旦は戦場に立つ人間ではない。
「責任重大ですね、これは」
「そうだよ。是非頑張って欲しいな。これで、あの望ちゃんの隣りに正々堂々と立てるわけだし」
「…………もしかして、それが餌のおつもりですか?」
 問い返すと、普賢真人はにっこりと笑う。
 ───やはり彼は、太公望のことを頼むためだけに来たのではないらしい、と楊ゼンは、当たらなくてもいい推測が当たったことに溜息をついた。
 そして、全く悪びれる様子のない普賢真人に言い返す。
「僕は、太公望師叔が西岐に赴いた頃から、ずっとお側にいるんです。師叔も僕のことを信用してくれていますし、今更あなたにポジションを譲っていただかなくても……」
「望ちゃんのは信用じゃなくて、信頼だよ」
 笑顔のまま、普賢真人は楊ゼンの言葉を遮った。
「でも、七十年近い間、望ちゃんの隣りに居たのは僕だから。その位置を譲るんだからね。君には頑張って欲しいんだ」
 頑張ってもらわなくちゃ困るんだよ、と楊ゼンには聞こえた。
 優しげな笑顔で、やたらと押しの強い普賢真人に、楊ゼンは内心、眉をしかめる。
「そんなに太公望師叔が大事ですか?」
「君も人のことは言えないんじゃない? 望ちゃんがどんなに凄いかなんて、隣りに居れば分かるでしょ?」
「………」
 かつて、太公望の名前しか聞いたことがなかった頃、楊ゼンは彼を大した道士だとは思っていなかった。
 元始天尊の直弟子として太公望の名は知れていたが、特に優れているという噂は聞いたことがなかったから、崑崙山の人々が評するまま、階級こそ彼の方が上であっても、実際の能力は自分の方が優れているのだろうと思っていたのである。
 だが、それはとんでもない間違いだった。
 最初にそれを思い知らされたのは、もう十数年前のこと。
 以来、飄々とした外見のうちに秘められた太公望の本質を知るたびに、彼に惹かれてゆく自分に気付いたのは、いつのことだったか。
 さすがに元始天尊の秘蔵っ子と呼ばれただけあって、太公望は道士として、軍師としての才も、目を瞠らせるものを持っている。
 けれど、何よりも人々を惹きつけてやまないのは、その人柄。
「望ちゃんみたいな人は、世界中探してもいないよ」
 きっぱりと普賢真人は言った。
「あんなに傷だらけなのに、あんなに綺麗で純粋な心を持っている人を、僕は他に誰も知らない。誰よりも優しくて、誰よりも毅(つよ)い。
 だから、望ちゃんと一緒にいる人は、誰でも望ちゃんを好きになるんだよ。望ちゃん自身は、そんなことに全然気付いてないけど」
 その言葉に、楊ゼンはふと引っ掛かるものを感じる。
「気付いていないというのは、御自分のことにですか?」
「うん。道士としての才能に関しては、自分の実力をそれなりに高く評価してるけど、心に関しては強いとか優しいとか、そんなこと全然考えてないからね。他人と比較することもない。自分の思う通りにやってるだけなんだ。本物なんだよ。
 本物だからこそ、道士としての才能も凄く高いんだし、皆が好きになるんだけどね。望ちゃん自身は好かれてるってことも、実はあんまりよく分かってないんだ。人に信じてもらうということは、すごく大事だと思ってるけど」
 最後の方は、苦笑しながら普賢真人は言った。
 それを聞いて、なるほど、と楊ゼンは思う。
 確かに、彼の言葉の通りだった。太公望は自然体でいるだけなのだ。どれほど戦いの場で詐術を用いることがあっても、太公望の本質に、嘘や作り物は一つもない。
「誰も敵(かな)わないわけだ……」
「敵うわけないよ。望ちゃんは本物なんだから」
 嘆息する楊ゼンに、普賢真人は笑ってうなずいた。
 そして、楊ゼンは目の前にいる普賢真人に対しても、さすがだな、と白旗を揚げる気分になる。
 『同期で仙界入りした親友』という強みを除いても、太公望という人物に対する彼の理解は深く、確かだった。
 そんな楊ゼンの思いに気付いているのかいないのか、普賢真人は穏やかな態度で言葉を続けた。
「でもね、本物過ぎて、困った所もあるんだ」
 吹きわたる風に髪を遊ばせながら、普賢真人は楽しげに苦笑する。
「あんなに老若男女を問わず好かれるくせに、全然、望ちゃんには自覚がなくってさ。てんで恋愛音痴なんだよ」
「恋愛音痴?」
「そう」
 くすくすと普賢真人は笑い出した。
「二つの意味でね。まず、自分が特別な意味で好かれているということに、かなり露骨に意思表示されても気付かない。信頼されることに対しては敏感なのにね。
 更に、誰かを特別に好きになるということがない。望ちゃんは仲間の全員、一人一人がそれぞれ一番に大切なんだ。順番なんかないんだよ」
「それは……」
「単なる晩生(おくて)の方が、まだマシだと思わない?」
 同意を求められて、楊ゼンは絶句する。
 これまでずっと太公望を見ていて、色恋沙汰に疎そうだとは思っていたのだが、それでは確かに晩生どころか、完全無欠の恋愛音痴だ。
 だが、改めて言われて見れば、思い当たる節が多すぎる。確かに、太公望は仲間の誰をも心底から信頼してくれていて、贔屓(ひいき)のひの字もない。
 言葉を失くした楊ゼンを見上げ、普賢真人は悪意の欠片もない笑顔で言う。
「君も苦労すると思うよ? とにかく望ちゃんは、疎くて鈍いから。まっさらな分、挑戦し甲斐はあるかもしれないけどね」
「……挑戦し甲斐って……」
「あ、でも、もう完璧にまっさらというわけじゃないね」
「え?」
 その前の台詞に気を取られていて、楊ゼンの反応は一瞬遅れた。だが、そんなことは意に介しもせず、普賢真人は笑顔で爆弾を投げつける。
「望ちゃんのファーストキスは、さっき僕がもらっちゃったから」
「──何ですって!?」
 思わず楊ゼンは声を上げる。
 しかし、普賢真人は全く動じない。
「六十年以上も傍に居たんだから、それくらいのことはね。これで望ちゃんは絶対に僕のことを忘れないし、僕も心置きなく消滅できるんだから、一石二鳥だと思わない?」
「思うわけがないでしょう! あなたという方は……!! 第一、師叔があなたのことを忘れると思うんですか!?」
「忘れるわけがないだろうね、何があっても」
 にっこり笑って、普賢真人は言った。
「望ちゃんは、誰のことも忘れたりなんかしないよ。でも、ああいう死に方をして、こんな形で思わぬ再会をした僕のことは、望ちゃんの意識に特別な形で残るよね」
 その天使のような笑みに、楊ゼンは自分が揚げ足を取られたことを悟る。
「だから、さっき言ったでしょ? 君も苦労すると思うよって。望ちゃんは勿論、生きてる仲間のことを優先するけれど、死んでしまった人のことも絶対に忘れないんだよ」
 天使の笑顔の下に隠れた無邪気な執念深さに、楊ゼンは唖然となった。
 一体、この執着と悪辣さは何なのか。
 十二仙の中でも最年少、七十年余りしか年齢を重ねていないはずなのに、二百年以上も生きている妖怪仙人の自分よりも、ナチュラルに老獪なのは何故だ。
「〜〜〜そんなに師叔がお好きですか!?」
 半分やっかみを含んだ嫌味を楊ゼンは投げつけたが、普賢真人に対しては無意味だった。
「勿論だよ」
 さらりと普賢真人は答える。続く声も、二人の間を吹き抜ける声のように、自然でやわらかい。
「でもね、僕は望ちゃんが幸せならそれでいいんだ。隣りにいるだけで、僕は十分楽しくて幸せだったしね。ずっと一緒にいるっていう望ちゃんとの約束を破ることにはなったけど、自分の生き方にも死に方にも満足しているよ。
 それでもキスをしたのは、さすがに未練があったからかな。封神計画がなければ、この先も永遠に隣りに居られたかもしれないんだから。こんな風に夢に化けて出てしまうくらいだから、僕は少し悔しいんだろうね」
 そう言いながらも、普賢真人の表情は晴れやかだった。
「だからね、楊ゼン」
 名前を呼び、笑いかける。
「君に、望ちゃんのことを頼みに来たんだよ。僕はもう、望ちゃんを手伝ってあげられない。だけど、僕の居た位置……望ちゃんにきついことも言える立場の人間は必要なんだ。それくらい、封神計画というのは大変なものなんだよ。誰も望ちゃんの代わりにはなれないけど、望ちゃんを支える人間は要る。
 もう一度言うけれど、楊ゼン、君にしか頼めない」
 普賢真人は微笑していて、声も瞳も穏やかだったが、楊ゼンが草原のざわめきを忘れるほどに真剣だった。
 その太公望と殆ど体格の変わらない、小柄な少年の姿の中に、哀しいほど透明で純粋な想いを楊ゼンは見る。
「望ちゃんは滅多なことでは本音を言わない。でも、君には時々こぼしてるみたいだから、君ならきっと対等に近い立場で望ちゃんを守って、助けてあげることができる」
 ───他には何もないのだ、と楊ゼンは知った。
 普賢真人の中には、太公望に対する優しい想い以外、何もない。
 十二仙としての立場と責任を完璧に全(まっと)うしながらも、本質では太公望を守り、助けるためにだけ、普賢真人はいた。
 だからこそ、楊ゼンの所に来たのだ。
 太公望を──その命と心と理想を守るためだけに、魂魄を封神されながらも残留思念という形で、夢を媒体にして。
「望ちゃんを頼むよ」
「はい、普賢師弟」
 はっきりと楊ゼンはうなずいた。
 それを聞いた途端、普賢真人が満開の嬉しげな笑顔になる。その表情に、楊ゼンも微苦笑を浮かべて小さく嘆息した。
「本当に太公望師叔が大切なんですね」
「うん。望ちゃんより大事なものなんて僕にはないよ。僕ちゃんのためになら、僕は何だってできる」
 照れもせず、誇らしげに普賢真人は笑った。
 そして、しばらく心地よい風に身を任せるように目を閉じる。
 どうしたのかと楊ゼンは思ったが、黙ったまま普賢真人の言葉を待った。
「……楊ゼン」
 やがて、普賢真人はやわらかい声で名を呼ぶ。
「君は死んじゃ駄目だよ」
「え?」
 楊ゼンが見返すと、穏やかな瞳がこちらを見つめていた。
「僕はあんな方法しか選べなかったけど、君は駄目だよ。いくら望ちゃんが毅くても、君まで死んだらどうなるか分からないから。
 今の望ちゃんは、本当に君のことを信じて頼りにしてる。君はこの先ずっと、望ちゃんにとって必要な存在なんだ。だから、もし君に何かあったら、最悪の場合、望ちゃんは自分自身や自分がしてることに致命的な疑いを持ってしまう。──そして、この戦争でそんな疑いを持つことは、そのまま死を意味する。
 楊ゼン。僕は何があっても、望ちゃんだけは死なせたくないんだよ」
 静かに普賢真人は続ける。
「望ちゃんは、何もかも覚悟してる。自分が敵を殺さなければならないことも、味方に犠牲が出ることも、自分が犠牲になることも。でも、仲間を失うことを仕方がないとは片付けられないし、誰かを自分の犠牲にすることも絶対に許せない。
 だから、あらゆる意味で望ちゃんを守るためには、大前提として、君は絶対に生き抜かなきゃいけないんだ」
「普賢師弟……」
 普賢真人の言っていることは、我儘な利己主義(エゴイズム)だとも言えた。
 語っていることは、あくまでも普賢真人個人の望みであって、守られたくないという太公望自身の意思など完全に無視しているくせに、楊ゼンにそれを叶えてくれるよう要請しているのだから。
 だが、そう言うには、あまりにも純粋で……哀しいほどに透明だった。
「こんな状況で、こんなことを言うのは卑怯だけど、君だけは望ちゃんを傷付けないで。この先も、犠牲になる人が沢山出るだろうけど、 望ちゃんはその度に傷付いて、全部自分で背負おうとするから。
 どんなに望ちゃんのためだと思っても、それしか方法が考えられなかったとしても、絶対に君自身まで犠牲にしたらいけない」
 真っ直ぐに普賢真人は、楊ゼンを見つめる。
 微笑していたが、それは今まで見せたことのない哀しげな微笑だった。
「生きていればこそ、大事な人を守り続けられるという事を忘れないで」
 ……これが、この人の本音なのだ、と楊ゼンは思う。
 あの時、普賢真人は自爆することにためらいはなかっただろう。だが、他に方法があるのなら、それを選んでいたはずだ。
 太公望の気持ちをこれほど大切にしている普賢真人が、他にどうしようもないほど、絶望的な状況だった。
 そんなことは彼自身も全部、分かっている。
 納得している。
 それでも普賢真人は、絶対に太公望を傷付けたくなかった。
 そして、叶うことなら、生きて、永遠に守り続けたかったのだ。
 たった一人の、あの奇跡のような存在を。
「約束します、普賢師弟」
 楊ゼンはうなずく。
 何よりも大切な人を託そうとしてくれる普賢真人の想いを、受け止めたかった。
「……ありがとう、楊ゼン」
 その楊ゼンの意志を感じ取ったのか、普賢真人の表情は花が開くようにやわらかくほころび、
「君なら、大丈夫だね」
 そう言って、嬉しげな笑顔になる。その表情に、楊ゼンも笑みを誘われた。
「あなたも不思議な方ですね。僕はいわば、あなたの恋敵ですよ。しかも不戦勝が決まっているのに、塩を送るんですか?」
 だが、楊ゼンの言葉に、普賢真人は軽く首をかしげる。
「あれ、不戦勝だとは限らないよ?あの望ちゃんが相手なんだから。望ちゃんは確かにつけ込む隙がいっぱいあるけど、あの性格だからね、一筋縄じゃいかないと思うよ」
「でも、断然有利だとは思いませんか?」
「それはそうかもしれないけどね。君は、望ちゃんとは違った意味で賢いし。僕は望ちゃんさえ幸せならそれでいいから、君がどんな戦略戦術を使おうと、何も言うつもりはないけど」
 太公望に匹敵するほどの頭脳を持つ相手の言葉に、楊ゼンは当然と思いつつも、恋敵の言葉に妙な気がした。というより、普賢真人の笑みに何かを感じた。
 人は、それを予感と呼ぶ。
「でもね、楊ゼン」
 案の定、普賢真人は楽しそうに言葉を続ける。
「望ちゃんの意思を無視して無体なことをするのだけは、絶対に許さないからね。そんなことをしたら、僕は祟(たた)るよ?」
「…………普賢師弟……」
 何を言うかと思えば、笑顔でそんな脅しをかけてくる普賢真人に、楊ゼンは苦笑するしかなかった。
 どんな非常識であれ、彼ならばやると言ったら本当にやるに違いない。それも、そうとうに陰険で陰湿な嫌がらせばかり、延々と仕掛けられ続けるのだろう。
 それは恐ろしい光景だったが、だが、想像すると、何故か理不尽に対する憤りよりも笑みが込み上げた。
「しませんよ、そんなこと。僕だって太公望師叔が大切なんですから」
 その言葉を聞いて、普賢真人は満足げに目を細める。
「いい心がけだね。その調子でいけば、あと五十年くらいで、キスくらいはできるんじゃないかな」
「五十年でキスですか……」
「望ちゃん相手なら、それくらいの覚悟でないと駄目だよ」
 少々うんざりした顔をする楊ゼンに、楽しそうに普賢真人は笑った。
 そして、いつもの上機嫌な表情で、真っ青に澄んだ空を仰ぐ。
 さわ……と、心地好い風が辺りを通り過ぎ、鮮やかな若緑の草が、風に吹かれてざわめき立った。
「そろそろ、いかなくちゃね」
 そう言って、楊ゼンに笑顔を向けた。
 楊ゼンも真っ直ぐに、普賢真人に向き合う。
「じゃあね、楊ゼン。望ちゃんを頼んだよ」
「はい。僕を信じて下さい」
「うん、信じることにするよ。……じゃあさよなら、楊ゼン」
 にこりと、普賢真人が笑った。
「さようなら、普賢師弟」
 楊ゼンが言った途端、どっと風が強くなる。思わず楊ゼンは目を閉じた。









 目を開けて、最初に見えたのは高い天井だった。
 目覚めたばかりの目には、窓から差し込む陽光が眩しすぎて、楊ゼンは目をしばたたかせる。
 仮眠時間は終わったのだ。
 一つ息をついて、楊ゼンは体を寝台から起こした。寝乱れた長い髪を、軽く手櫛で整える。
 そうしながら、ゆっくりと今見た夢を反芻した。
 耳にはっきり残っているのは、繰り返し太公望のことを頼んでいった普賢真人の声。
 一番大切な人の隣りを、楊ゼンに譲っていってくれた。
「さすが……あの若さで十二仙に選ばれただけある。凄い人だな」
 その器量の大きさに、今更ながら楊ゼンは嘆息する。
 対聞仲戦で、普賢真人の為人(ひととなり)の一端を垣間見たが、本当にそれは一端に過ぎなかった。
 今、夢で会った普賢真人も底知れなかったが、おそらくは楊ゼンが知り得なかった面が、彼にはまだまだあったのだろう。
 今回の戦いでは、師匠の玉鼎真人を含め、十二仙が十名も封神されてしまったが、その半数とは楊ゼンはあまり面識がなかった。
 今更どうしようもないことだが、顔と名前を知っている以上に知り合えなかったことを、楊ゼンは残念に思う。
 無限に近い生を生きる以上、つい何事にも急がず、先送りにしてしまう癖が仙人にはある。だが、平時なら死ぬ確立はゼロに等しいとはいえ、一度戦乱が起これば、仙人にも不死の保証はないのだ。
 死んでしまったら、もう何もできない。
 何も伝わらないし、伝えることもできないのだ。
 普賢真人が言ったように、大切な人を守ることもできなくなる。
 喜びも悲しみも、すべては生きていればこそ。
「死んだら終わり……か。そんな単純なことも、僕たちは忘れていたんだな」
 妲己や聞仲が強いと分かっていても、崑崙側の仙道にはどこか危機感が薄かった。十二仙でさえ……否、崑崙山幹部たる十二仙であったからこそ、彼らも聞仲を目の前にするまで誰一人として、死は覚悟していなかったのだ。
 それは、天才と称されてきた楊ゼンも同じ。封神計画の初期から参加していながら、張天君と対峙し、本性を現すまで、生命の危険など微塵も感じてはいなかった。
 たとえ仙道であろうと、死ぬ時は死ぬのだと分かっていたのは、崑崙山でただ一人。
 太公望だけだった。
「ツケを払わされたようなものだな……」
 人を超越し、無限の時間を得たと信じた、仙道の驕(おご)り。
 金鰲島の妖怪仙人の科学力を軽く見た、崑崙山の驕り。
 無意識の思い上がりは、大きすぎる犠牲と共に脆く崩れ去った。
「そして、その責任を負うのは、また太公望師叔、か。不甲斐ないにも程がある」
 ───もしかしたら十二仙も、あの時、そう思ったのかもしれない。
 だからこそ絶体絶命の場面で、太公望を死なせるわけにはいかないと普賢真人の自爆策に従い、今また、普賢真人が彼のことを頼みに現れたのかもしれないと、ふと、そんな風に楊ゼンは思った。
「──僕もしっかりしないとな。これじゃ師叔の片腕だなんて、恥ずかしくて言えやしない」
 低く溜息交じりに呟きながら楊ゼンは立ち上がり、自分の部屋を出た。





 久しぶりの西岐城は何も変わっていない。
 崑崙山と金鰲島が墜ちたため、確かに居候は増えたのだが、もともとが西伯候の居城だけあって広大だから、特に人が増えたという感じはしなかった。
 昨夜、西岐に返ってきたばかりの太公望と楊ゼンが、今後の打ち合わせを終えて自室に戻ったのは、夜明けだった。それぞれ昼頃まで仮眠を取る、ということになっていたが、正午までにはまだ少し時間がある。
 とりあえず、元始天尊の機嫌伺いにでも行こうかと廊下を歩いていた楊ゼンだが、その部屋に辿り着く前に、前方から太公望が歩いてきた。
「太公望師叔」
「楊ゼン、起きたのか」
「僕は今、目覚めたばかりです。師叔こそ早かったんですね」
「わしが起きてから、まだ半刻も経っておらぬ。おぬしとさほど変わらぬよ」
 何となく太公望に合わせて、楊ゼンは歩いてきた廊下を引き返す。
 もともと、用事があって元始天尊の部屋へ向かっていたわけではない。太公望が起きているのなら、そちらを優先するのが楊ゼンにしてみれば当然だった。
 そうして半歩下がってついてくる楊ゼンを見上げ、太公望は口を開く。
「楊ゼン、昨夜も言ったが、とにかく再進軍のための軍の再編成と、補給の計画を早く調(ととの)えなければならぬ。聞仲はいなくなったが、まだその部下や妲己が残っておるからのう。
 わしらが留守にしておった間、周公旦がよくやっていてくれたから、兵士の士気も揚がっておるようだが、完全に準備が調うまでは、わしは軍を動かしたくないのだ」
「そうですね」
「とにかく、おぬしにばかり仕事を押し付けてすまぬが、できるだけ作業を急いでくれ」
「はい、師叔。任せて下さい。必ず御期待に応えてみせますよ」
「うむ。頼んだぞ」
 そう言いながら廊下を歩く太公望を、楊ゼンはそれとなく観察した。
 目の大きな童顔に疲労の色はまだ残っているが、何となく、仮眠を取る前よりも表情が明るく見える。
 特に、見る者が見れば分かるほどに濃かった、その瞳に浮かぶ自責の影が少しだけ薄くなっており、仙界大戦以前の気負らない自然な表情が戻ってきていた。
 これは……、と楊ゼンは思う。
 間違いなく普賢真人が何かを言ったからなのだろうが、これまで楊ゼンが何と慰めても、太公望は大丈夫だから心配するなと笑うばかりで、結局、痛みを押し殺した表情が変わる様子はなかった。
 それは多少とはいえ一晩で変わられては、いくら普賢真人相手でもさすがに面白くない。
「──でも、本当によくお休みになられたようですね、師叔。明け方と全然顔が違いますよ」
 辺りに人気がないのを幸い、楊ゼンはそれとない調子で切り出した。
「そうかのう?」
「ええ。何か良い夢でも御覧になれましたか?」
 笑顔で問いかければ、太公望の表情がかすかに硬直する。それを見つめて、楊ゼンは言葉を続けた。
「実は僕も、先程休んでいる時に夢を見たんですよ」
「…………夢?」
 ほんのかすかに太公望の方が反応したのを、楊ゼンは見過ごさない。
「ええ。普賢師弟が出てきて……」
「──ちょっ、ちょっと待て!!」
 楊ゼンの口にした名前にぎょっとした表情を見せて、最後まで言う前に太公望は、手近な空き部屋に楊ゼンを引っ張り込む。
 ばたん!と後ろ手に扉を閉め、大きく息を一つ吐き出してから、太公望は顔を上げた。
「今、何と言った?」
「普賢師弟が夢に出てきたと言ったつもりですが?」
 にこやかな楊ゼンの答えに、太公望の表情が渋くなる。そして、少し視線を彷徨わせてから、再び大きな瞳で楊ゼンを訝(いぶか)るように見上げた。
「……あやつは、おぬしに何を言ったのだ?」
「おや、師叔こそ何を言われたんです?」
「────」
 にっこり笑って問い返すと、太公望は言葉に詰まる。
 まずい所を突かれて困る表情は、これまで度々楊ゼンも目にしているが、うっすらと頬が血の気を帯びて薄紅に染まっている、というのがポーカーフェイスの得意な太公望にしては珍しい。
 この人でも、そういう事をされるとこんな風になるのか、と思うと、楊ゼンの中に恋敵に対する嫉妬がむくりと置き上がる。
「普賢師弟が、あなたに何を言ったのかは知りませんが……」
 ゆっくりと一歩、楊ゼンは前に足を踏み出した。
 距離をぐっと詰められて、扉を背にして立っていた太公望は思わず身を引き、扉に背中を張り付かせる。
「楊ゼン……?」
「随分はっきりと反応しますね。あなたにしては珍しい」
 呆れ半分で、楊ゼンは苦笑した。
 普賢真人が恋愛音痴と評した通り、太公望は他人が接近しても、相手が敵でなければ、身構えたりするということは、これまでまず無かったのだ。
「これは普賢師弟に感謝しなければなりませんね」
 どうやら普賢真人のしたことは、鈍くて疎い恋愛音痴の太公望を、少しだけ敏感にしていってくれたらしい。
 後塵を拝する立場になった楊ゼンだが、鉄壁の恋愛音痴にひびが入っているというのなら、これはこれで悪くないのかもしれない、と思う。
 いくら意思表示をしても通じないのに比べれば、一挙一動に過敏に反応されて警戒される方が、まだやりやすい。
 とはいえ、やはり機先を制されたのは悔しいし、許しがたい。
 間近に太公望の大きな目を見下ろしながら、どうしようかと楊ゼンは思案を巡らせた。
「おぬし、何を考えておる」
 不穏な気配を感じ取ったのか、太公望が露骨な警戒を声に現す。
 言いながら、じりじりと逃げ出す方法を模索しているのが、手に取るように分かって楊ゼンは苦笑を誘われた。
「警戒なさらなくても大丈夫ですよ。あなたの意思を尊重すると、普賢師弟に約束しましたからね」
 そう言って、半歩ほど楊ゼンは体を引く。
 間合いが開いて、太公望がほっとしたように肩の力を抜きかける、その隙を楊ゼンは見逃さなかった。
「!?」
 素早く手を伸ばし、太公望の肩を引き寄せて、やわらかな頬に口接ける。
「楊ゼンっ!?」
 咎めるように名を呼ぶ太公望を見下ろした楊ゼンの髪が、さらりと肩から流れた。
「太公望師叔。確かにあなたの意思を尊重すると約束はしましたけど、でも僕は、普賢師弟ほど優しくも我慢強くもなければ、無欲でもないんですよ」
「何を……!?」
 大きな目を怒(いか)らせる太公望の顔が薄紅に染まっているのを、至近距離で楽しく鑑賞しながら楊ゼンは言った。
「六十年でキス一つというのは、僕にとってはちょっと控えめすぎるんですよ。執念深さは普賢師弟と同じくらいなんですけどね」
「〜〜〜〜!!」
 太公望は何か言いたくても言葉が出てこないといった様子で、しゃあしゃあと言ってのける楊ゼンを、怒りと驚愕と羞恥で赤くなった顔で見上げる。
 そんな太公望に極上の笑顔で笑いかけながら、楊ゼンは太公望の華奢な肩から手を離した。
「覚悟してもらいますよ、太公望師叔。恨むのなら、僕を焚きつけた普賢師弟を恨んで下さい」
 そう言うと、楊ゼンは扉を開け、太公望を置き去りにして部屋を出た。
 そのまま、進軍の準備を調えるために西岐情の廊下を歩き出す。が、頭の中では早速、今後の太公望攻略の策を練り始めていた。
 宣戦布告したからには、手を緩めるつもりはない。
 恋愛は先手必勝。特に太公望のような恋愛音痴が相手なら。
 とはいえ、普賢真人に約束した通り、太公望の意思を無視するつもりなど楊ゼンには毛頭なかった。欲しいのは形ではないのだ。太公望を傷つける気などない。
「……大丈夫ですよ。何があっても、太公望師叔のことは僕が守ります」
 もういない人に向け、楊ゼンは語りかける。
 ───たのんだよ、楊ゼン。
 優しい声の空耳が、楊ゼンの耳元をかすめて風にまぎれ、大気に溶け消えた。





end







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opening text by 「君の手のひら」 遊佐未森