河が流れていた。
 とうとうとゆるやかに水は東に流れ、水面を渡る川風が前髪を吹き上げる。川幅は一体どれ程あるのか、対岸は見えない。
 視線を上げれば、空が眩しいほどに青かった。
 雲一つ、ない。
 ───ここは……。
 どこだろう、と太公望は思った。
 何か、見覚えのある風景だった。黄河中流域のどこかだと思うのだが、具体的な場所を考えれば考えるほど、分からなくなる。
 それなのに、痛いほどの既視感が胸を締め付けてくる。
「ここは……」
「どうしたの、望ちゃん」
「普賢!?」
 突然かけられたやわらかな声に、心底驚愕して太公望は傍らを振り返った。
 見れば、人二人分くらいの間隔を空けて、普賢真人は太公望が立っているのと同じ巨岩に腰を下ろしている。
 そして、いつもと同じ穏やかな笑顔で、太公望を見上げていた。
「どうしたの?」
 もう一度、問いかけてくる。
 そのやわらかな口調に何か安堵を感じながら、太公望は自分も岩に座った。
 だが、一体いつの間にこんな所に、しかも普賢真人と一緒に来たのか、いくら考えても思い出せない。今の自分たちは、昔のようにこっそり遊びに出かけられるような気楽な立場ではないのに。
「普賢……どうして、わしらはこんな所におるのだ?」
 悩んだ末、少々の気恥ずかしさと戸惑いを押し隠し、太公望は問いかけた。が、普賢真人は首をかしげるようにして、くすっと笑った。
「普賢?」
「ちょっと考えれば、直ぐに分かるよ」
「分からんから、おぬしに聞いておるのだ」
 薄情な返答をする友人を咎めるような口調で言っても、普賢真人はどこか楽しそうに笑っている。
「普賢」
「だから、考えてって言ってるでしょ?」
「考えても分からんかったから、言っておるのに……」
 教える気のないらしい友人を横目で見やり、太公望はぶちぶちと呟き始めた。
「今は、こうしてのんびりしておる暇などないのだぞ。さっさと崑崙山に戻らねば……」
 太公望は言葉を止める。
 自分が言った言葉の、何かが引っかかった。
「────」
 突然に込み上げる、強烈な不安感。
 呼吸が苦しいほどの感覚に、太公望は無意識に胸元に手を当てる。
 ひどく胸が騒ぐ。
 ───崑崙山は、今。
 激しい不安感に、気分が悪くなるのを感じる。だが、走り出した思考は止まらない。
 背筋を冷たいものが伝ってゆく。
 ───崑崙山で、何が起きた?
 一体。
「何が……」
 口に出した途端。
 思考がはじけた。
 突然、閃くように、脳裏に複数の映像が鮮やかに浮かび上がる。
 崑崙山は、今。
「……聞仲………」
 呟いたその名前が、全ての鍵。
 何が、起こったのか。
 堰を切ったように、一連の光景が怒濤と化して太公望を押し流す。
 脳裏に焼きついた、あの、場面が。
「普賢……」
 愕然とした思いで、太公望は傍らの友の名を呼んだ。
 普賢真人は、いつもと同じ表情で太公望の視線を受け止める。
「思い出したね」
「おぬしは……」
「うん」
 この場にそぐわない穏やかな表情でうなずき、普賢真人は遥かな水平線に視線を向ける。
「僕が望ちゃんに会いたかったから。そして、望ちゃんが僕のことを考えていてくれたから、こうして逢えた」
 そして、再び太公望を見つめた。
「ありがとう、悲しんでくれて」
「!!」
 穏やかな物言いに、太公望はかっと熱くなる。
「おぬしは……!」
「あの場面では、ああすることが僕の役目だったよ」
「普賢!!」
 だが、普賢真人の口調は静かだった。穏やかな声で、淡々と言葉を紡いでゆく。
「十二仙として、僕らは聞仲を倒すためには、できること全てをしなくちゃいけなかった。……望ちゃんも、本当は分かってるよね」
「分かっておるわ!」
 太公望は激しい声を上げた。
「だが……!」
 分かっていても、許せることと許せない事がある。
「望ちゃん」
 ───死んでしまった人は、もう帰ってこない。
 自分一人が遺される、あんな思いは二度と味わいたくない。
 自分の為に人が死ぬ場面など、もう二度と見たくない。
 だから、誰かに犠牲を強いるような戦い方だけは、絶対に許せない。
「望ちゃんも僕も、自分がするべき事、できる事をしただけだよ」
「違う!他に手段がなくても、あれだけは絶対にしてはならぬ事だった!」
 そして、何よりも太公望が許せないのは、あの瞬間に、やはりこうなるのか、と思った自分自身。
 最初から冷徹にそう考えていたわけではない。けれど、聞仲の強さを知っていたから、十二仙全員で総攻撃をかけるしか手段がないだろうと考えていたのは、事実。
 だが、実際に聞仲を目の前にして、それさえも無意味だと悟った。
 でも、もう退けなかった。
 聞仲の強さと、仙人界を滅ぼそうとする確固たる意志を見てしまったから、十二仙は退くわけにはいかなくなったのだ。
 聞仲は、絶対に自分たちが食い止めなければならない危険な存在だという事を、知ってしまったから。
 崑崙山を守るために、生命に引き替えてでも、あの場で聞仲を倒さなければならなかった。──それが、彼らの十二仙としてのプライドと責任だった。
 そして、聞仲の強さと、十二仙の立場や性格を熟知していながら、あの場面に導いたのは太公望自身。
 何もかも分かっていたはずだった。
 分かっていながら、それでも尚聞仲を過小評価して、最悪の結果を招いてしまった自分自身。
 十二仙を無意味に死なせたのは──普賢に無意味な自爆をさせたのは、己だと太公望は分かっていた。
 言い訳さえ、詫びの言葉さえ口にできないほどに。
 ───分かっている。
 本当は、普賢真人を責める資格などない。
 ───だが、それでも……!
「皆、守りたかっただけだよ」
 そんな太公望を見つめて、普賢真人は静かに言った。
 穏やかに、ゆっくりとした口調で。
「犠牲になったんじゃない。僕たちは、自分の弟子や友達を守りたかったんだよ。大事なものを守るためなら、生命を賭けるくらい、何でもなかった」
「違う!!」
 だが、太公望の声は普賢真人の言葉を厳しく撥ねつける。
「死んだら何にもならぬ! 生命より大切なものなどない!……あんな策を、おぬしは採るべきではなかったのだ!!」
「……そうだね。でも……」
 普賢真人は、並んで腰を下ろす太公望の目を見ながら言った。
「僕は、それなりに自己満足してるんだよ。勿論、聞仲に対して痛手を与えられなかったのは悔しいけど、結果的に、あの場にいた十二仙以外の道士は全員、無事だったからね。僕は弟子の木タクも、望ちゃんも守ることができた」
「誰が守ってくれと言った!?」
「うん。望ちゃんは、守られるのは大嫌いだよね。知ってるけど、でも、ああしなければ僕らは全滅してた。聞仲はそのつもりだったんだから。
 最も、結局僕は聞仲を倒せなかったから、あの後も全滅の危険度は変わらなかったけど。黒麒麟なしでも、聞仲があんなに頑丈だとは思わなかったな」
「────」
「望ちゃんが、ああいう手段を大嫌いなのは知ってたけど……。たとえ、うまく聞仲を倒せたとしても、望ちゃんが、こんな風に怒って悲しむことは分かってた。でも……あの時は、本当にあれしか方法がなかった。
 ……悲しませて、ごめんね。僕は全部、分かっててやったんだ」
「普賢……」
 太公望は唇を噛んだ。視線を落として、胸の痛みを伝えるべき言葉を探す。
 その横顔を普賢真人は、何かとても大切な、だが決して手の届かないものを見るような、そんな痛みを穏やかな瞳の中に微かに滲ませて見つめた。
「わしは……おぬしらを犠牲にする気などなかった」
「うん」
「何故、あんなことを……」
 語尾は小さく震えて、途切れた。きつく歯を噛み締めて、太公望はうつむく。
「……ごめん」
 そんな太公望を見つめ、普賢真人も少しだけ視線を落とす。
「僕も、僕ちゃんを傷つけたくはなかったんだけど……ごめんね」
 そして、流れ行く水へとまなざしを向け、遥かな水平線を見つめて普賢真人は続けた。
「でも僕は、確かに封神計画の犠牲にはなったけど、望ちゃんの犠牲になったつもりは全然ないよ。これは僕のエゴイズムの結果なんだ」
「エゴイズム?」
 普賢真人の声はやわらかだったが、途切れることのない風と水の音の中でも、明瞭で聴きやすい音だった。
「そう。十二仙だとか封神計画だとか、そういう事とは全く別に、僕がしたかった事をしただけなんだよ」
「……?」
 意味を図りかねる太公望を、普賢真人は意外なほど明るい表情で見返す。
 川面からの風が、二人の前髪をやわらかく跳ね上げる。
「僕はね、望ちゃんが好きだったんだよ」
 何の気負いもなく、普賢真人は笑顔でそう言った。
 太公望は目を瞠(みは)る。
 ただでさえ童顔なのが、大きく瞠った目と、虚を衝かれた無防備な表情のせいで更に幼く見える。その顔の中で、唯一本当の年齢を窺わせる深い色の瞳が陽光を受け、微妙な陰影にきらめいた。
 そんな太公望の他者には滅多に見せない素顔を見て、普賢真人は笑う。
「本当に、言うまで気付かないんだから。そういうとこも、すごく好きなんだけどね」
 くすくすと笑われて、太公望は複雑な表情になった。
 普賢真人の言う『好き』が、幼児が言うような単純な『好き』とは違うということくらいは、分かる。
 が、何をどう答えればいいのかということまでは分からず、途方に暮れて困惑しきった表情で太公望は普賢真人を見つめた。
 そんな珍しい表情の太公望に見つめられたまま、普賢真人はひとしきり笑い、ようやく笑いを納める。
「笑ってごめん。でも、なんだか望ちゃんだなぁっておかしくなっちゃって」
「何だそれは」
 ようやく太公望も、最初の驚きを脱して言い返した。
「うん。望ちゃんって昔から誰にでも好かれるくせに、そういうことに鈍くて疎(うと)かったから。生真面目すぎるのかな」
「…………」
 恋愛方面に疎い自覚が全くないわけではなかったから、不本意な顔をしながらも太公望は言い返す言葉がない。
 眉をしかめた太公望に笑いかけて、普賢真人は、懐かしい大切な思い出を語るような表情で、言葉を紡いだ。
「僕は初めて出会った頃からずっと、望ちゃんが大好きだったよ。望ちゃんが居ると、楽しくて仕方がなかった。どんなに他愛ないことでも、望ちゃんと一緒だと本当に楽しかった」
「普賢……」
「そんな顔しないで。そういうつもりで言ってるんじゃないから。聞き流してくれていいよ。単に、僕は望ちゃんとずっと一緒に居られて、すごく嬉しかったって言いたかっただけだから」
 屈託のない笑顔で、普賢真人は笑った。
「今まで一番嬉しかったのはね、金鰲島で聞仲から僕を助けてくれた時。
 あの時は、本当にもう駄目だと思ったから。心底、聞仲を怖いと思った。でも、望ちゃんも聞仲の怖さを知ってるのに、わざわざ戻ってきてくれたんだ。自分で望ちゃんを遠ざけておいて言うのもなんだけど、本当に嬉しかった。長い間ずっと生きてきて、あんなに嬉しかったことはなかったよ。ありがとう、望ちゃん」
「……おぬしはいつも、自分を犠牲にしようとするから……」
「そういう性分なんだよ。望ちゃんと同じ、ね」
 眉をしかめて恨みがましい口調で太公望が答えるのに、普賢真人は、いつもの絶やされることのない笑みを返しただけだった。
「もう一つ、言っておきたいことがあるんだ」
 そう言って、言葉を続ける。
「望ちゃん、何があっても死んじゃ駄目だよ」
「……おぬしがそれを言うのか?」
 自分のした事を棚上げして勝手なこと言う普賢真人に、横目で睨むように太公望は言い返す。
 だが、普賢真人は悪びれない。
「好きな人に、生きて幸せになって欲しいのは当然でしょ?」
「おぬしにそんなことを言う資格があるか」
「あるよ。望ちゃんが好きだから」
「…………」
 噛み合わない会話に、太公望は、そういえば普賢との会話は、こんな風に噛み合わないことが三回に一回くらいの割合であった、思い出す。
 性善説の信奉者のような部分と、シビアに物事を判断する部分とを併せ持つ友人は、時折、今一つ掴み所がなくなって、その度に困惑させられた。
 が、普賢真人は、小さく溜息をついた太公望に構わず、穏やかだがきっぱりとしたものを隠し持った声で続けた。
「とにかく、死なないでね。僕はもう、手伝ってあげられないけど、どんなに辛いことがあっても諦めないで。望ちゃんなら、きっと夢を叶えられるから」
「……勝手なことばかり言いおって」
 複雑な表情で文句をつける太公望を見て、普賢真人は笑う。
 そして、吸い込まれるように青い空に視線を向けた。
「これで言いたかったことは全部言ったかな? 好きだって言ったし、嬉しかった事も、死んだら駄目だってことも言ったし……」
 首をかしげて数える普賢真人に、太公望ははっとなった。
 ようやく、ここは現実の空間ではありえないのだということを、はっきりと認識する。
 そして、永遠にこうして二人で話していられるわけがないということも。
 今まで意識していなかった、流れる水の音と吹き抜ける風の音が、急に耳に付き始める。
 果てしなく流れる水は、強烈な既視感を訴えかけてくるのに、どれだけ考えても、この場所は太公望の記憶にない。
「普賢」
 呼びかける声が、微妙に揺らいだ。
「ここは……どこなのだ?」
 真剣な色を浮かべた大きな瞳を見つめ、普賢真人は微笑する。
 そして、静かな声で答えた。
「──夢の中だよ」
「夢の?」
「そう。最初に言ったでしょ? 僕は望ちゃんに会いたかった。そして、望ちゃんも僕のことを考えていてくれた。だから逢えたんだって。夢にはそういう力があるんだよ」
「ならば……また逢えるのか?」
 普賢真人は落ち着いた目で太公望を見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
「今の僕は、残留思念みたいなものだから。言いたかったことを今、全部望ちゃんに言うことができたから、多分、これが最初で最後だよ」
「────」
 何となく予想の付いていた答えに。それでも言葉を失くして太公望は普賢真人を見つめる。
「ごめん」
 そんな太公望に、普賢真人はどこか寂しげな笑みを見せた。
 その表情の中に、太公望は普賢真人の痛みを見つける。
 ───互いを失いたくなかったのは、どちらも同じだ。
 もう二度と還れないと分かっていても、もう会えないと分かっていても、それでも会いたいと思ったのは……。
「逝くな!」
 思わず、そう口走っていた。
 後先も考えずに、太公望は思いを言葉にする。
 あの時には言えなかった、言う暇もなかった言葉。
 もう、どうしようもないのだと分かっていても──否、分かっているからこそ、言わずにはいられない言葉。
「逝くな、普賢。わしをおいて逝ってはならぬ!」
「望ちゃん……」
 初めて、普賢真人が笑みを忘れて驚いた表情を浮かべた。
 普賢真人の腕を掴み、その表情を見つめて、太公望は言いつのる。
「勝手に死ぬことなど許さぬ。おぬしは、わしとずっと一緒に居ると言ったであろう!?」
 ───それは、ずっと昔の約束だった。
 二人が出会ったばかりの頃。
 家族と一族を失って以来、崑崙山に上がってからも他者とは決して本心から打ち解けようとしなかった太公望に、いつもいつも笑いかけたのは、太公望に数ヶ月遅れて元始天尊に弟子入りした少年だった。
 その少年の優しい笑顔が、笑うことを忘れていた太公望の心を溶かしてくれた。
 少年の言った『ずっと一緒に居るよ』という言葉が、きらきらと光りながら降り注ぐ優しい雨のように、干涸(ひから)び、乾ききっていた太公望の心を癒してくれたのだ。
 そんな大切な言葉をくれた少年に、同じくらい綺麗で温かいものを太公望も返したくて、だから、ずっと一緒に居ようと約束した。
 まだ、二人がほんの子供だった頃。
「一緒に居て楽しかったのは、おぬしだけではないのだぞ! おぬしが居てくれたから、わしは……!!」
 ずっと一緒に居られると、思っていた。
 ずっと隣りにいると、思っていたのに。
「望ちゃん……」
 普賢真人の驚きの表情が、ゆっくりと満面の笑みになる。
「望ちゃんがそんな風に言ってくれるなんて、ものすごく嬉しい。今までで一番──聞仲から助けてくれた時よりも、ずっと嬉しいよ」
 そう言って、普賢真人は腕を伸ばし、太公望を抱きしめた。
 たいして体格の変わらない、ほんの少しだけ華奢な体が両腕の中に納まる。
「……ありがとう、望ちゃん。……ごめん、約束破って……」
「普賢……」
 きついほどに抱きしめられて、太公望はそれ以上言う言葉を喪う。
 今、自分を包んでいる普賢真人の体温は本物だった。いくら夢の中の幻だと言われても、信じられない。
 間違いなく、今、ここに存在しているのに。
 ここに要るのに、なぜ失わなければならない?
 どうして……。
「望ちゃん」
 言葉にならない苦さを噛み締める太公望に、普賢真人のいつもより少しだけ強い声が耳に届くのとは別に、抱きしめられた胸から直接響いてくる。
「僕が犠牲になったとか、そんなことは考えなくていいから。僕が望ちゃんを好きだったことを……望ちゃんと一緒にいられて幸せだったってことだけ、忘れないで。それが僕の全てだから」
「普賢」
「本当にそれだけでいいから。後は……何があっても死なないで。絶対に諦めないで。望ちゃんなら、絶対に夢を現実にできるよ」
 それだけを言うと、普賢真人は腕の力を緩め、ゆっくりと体を離した。
 そして、至近距離で太公望を見つめる。
 目を大きくみはった太公望の表情は硬かった。自分の力ではどうにもならない現実に対する悔しさを噛み殺しているのか、大きな目は、まるで泣くのを必死にこらえている子供のように見えた。
「……ごめん、こんな表情をさせて」
 普賢真人は微笑して、宥めるかのように太公望の左の頬にそっと口接けた。
 やわらかな感触に、少しだけ太公望の表情が揺らぐ。だが、和らぐとまではいかない。
 泣き出すのをこらえるような目は、やはり物言いたげに大きくみはられていた。
 微苦笑して、普賢真人は右手で太公望の頬を包み込むように優しく触れる。
「普賢……」
 太公望の声は、感情のままに揺れていた。
 普賢真人の手の温かさに、ゆっくりと太公望の表情から硬さが消える。
 もう現実は動かしようがないということを、ようやく諦めたのか、静かな表情にやりきれない痛みを滲ませて、太公望は普賢真人を見つめた。
 その深い色の瞳を、これまでで一番暖かな優しい色の瞳で普賢真人は見返す。
「目を……閉じてくれる?」
 微笑する普賢真人に、何か言いたげに口元が動きかけたが、結局何も言わず、太公望はためらいながらも目を閉じた。
 そして。
 そっと大切なものに触れるように、普賢真人は、太公望の額に口接ける。次いで、左と右の頬に。
 それから、最後に唇に。二、三度軽くついばんでから、ゆっくりと重ねる。
 触れるだけの、やわらかなキスだった。
 やがて、触れた時と同じようにゆっくりと普賢真人は離れる。
 そして、耳元でささやいた。
「好きだよ、望ちゃん。忘れないでね」
 聞き慣れた優しい声に、太公望は目を開ける。
 だが、目の前には誰もいなかった。
「普賢?」
 はっと辺りを見回しても、人影は見当たらない。
 遥かな水平線からの風が、太公望の前髪を吹き上げる。
「───普賢!?」











 見開いた目に、高い天井が映る。
 久しぶりに見る、西岐城の自分に与えられた部屋の天井だった。
 自分の声で目が覚めたと気付くのに、少し時間がかかった。
 ゆっくりと太公望は、寝台の上に体を起こす。
「普賢……」
 まだ唇に感触が残っていた。
 耳元でささやいた、優しい声も。
 ただの夢だとは、太公望は思わなかった。
 理屈でも何でもない。だが、夢という非現実の空間の中で普賢真人と逢い、話をしたのは、間違いなく現実の出来事だという確信があった。
 もう二度と、会うことの叶わない友人。
 優しい面影を追いながら、太公望は夢の中で言われた言葉を一つずつ思い出して、心の中に並べる。
 ───僕が犠牲になったとか、そんなことは考えなくていいから。僕が望ちゃんを好きだったことを……望ちゃんと一緒にいられて幸せだったってことだけ、忘れないで。それが僕の全部だから。
 ───何があっても死なないで。絶対に諦めないで。望ちゃんなら、絶対に夢を現実にできるから。
 言いたいことを言う間もなく、あんな形で突然、永遠に別れてしまった自分たち。
 言いたいことがあった、と言った普賢真人の気持ちが痛いほどに分かる。
 ───好きだよ、望ちゃん。忘れないでね。
「忘れたりなどせぬよ」
 目を閉じて、太公望は呟く。
「わしが、おぬしを忘れるものか」
 普賢真人の言ったような想いとは違うだろうが、大切な存在だった。
 あんな形でなくとも、絶対に失いたくなかった。
「だが……もう、おらぬのだな……」
 太公望は、どうしようもない現実を苦く噛み締める。
 彼がもう居ないということを改めて認識するのは、苦かった。
 けれど、それでも、もう一度会えたことは嬉しかった。
 話をできたことが、素直に嬉しかった。
 好きだと言われて、キスをされるとは、さすがに思いもよらなかったが。
 だが、あれも普賢真人の巧妙な手口かもしれない。
 あんなことを言われてされたら、たとえ忘れたくても忘れられないではないか。
 おまけに、色恋沙汰に疎い人生を送ってきた太公望には、この手の経験はこれまで一切ない。普賢真人は勿論、そのことを承知していただろう。
 考えてみれば、既に実体のないあの状況でキスをするということ自体、とてつもなく図々しい。
 雰囲気に流された自分も自分だが、目を開けて文句を言われる前に姿を消した普賢真人は、ほとんど食い逃げに等しいではないか。
「……」
 優しげな顔をして、実はものすごく押しが強く、しつこかった友人のとことんマイペースな一面を思い出して、太公望は複雑な溜息をつく。
 そして、目を開いた。
 ───厳しい現実が、そこには広がっている。
 崑崙山は金鰲島と共に崩壊し、多くの人員を失った傷は、まだ何一つ癒えていない。
 だが、この小休止を終えたら、再び殷に向けて周の進軍が再開される。そしてまた、これからも多くの犠牲が出るだろう。普賢真人が言った通り、犠牲を出さずに済ませることは不可能だ。
 だが、それを分かっていても、一度始めたことは、もう止められない。
 自分にできるのは、封神計画と殷周革命の責任者として、少しでも犠牲を抑えながら前に進むことだけだ。
「だから……来てくれたのだな」
 何もかも背負い込もうとする性分だということを、普賢真人はよく知っていたから。
 自分のため、というのは、きっと只の口実。
 心の痛みを少しだけ軽くするために──ただ、それだけのために彼は来てくれた。
 ───まだ、十二仙や武成王を死なせてしまった悔恨の念は、心の大部分を占めている。
 これは死ぬまで絶対に消えない。消えるはずがない。
 だが、優しい嘘と優しい真実を交えた普賢真人の言葉は、際限のない自責の泥沼から、確かに自分を救い出してくれた。
 いつでも彼自身のことよりこちらのことを優先してくれた、友人の優しい想いが、ほんのりと温かく心をくるみこんでくれるのを太公望は感じる。
「おぬしの言う意味とは違うだろうが……わしも、おぬしが本当に好きだったよ。おぬしはいつでも、わしの心の一番痛い部分を癒してくれた」
 静かに太公望は、もういない友に向けて告げる。
「ありがとう、普賢……」
 呟いた声は、高い天井に届く前に消えて、ゆっくりと太公望は立ち上がった。
 道は遠く、辿り着く先はまだ見えない。
 ただ、前に向かって進んで行くしかなかった。






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opening text by 「花の散るとき」 Origa