天地草木39:夏椿







薄い記憶の中、覚えているのは背にずっと触れていた手の感触。
今になって気付く、行為にそぐわない不自然に冷たかった指先の、その意味───。









優しい言葉も、艶めいた仕草も、何一つなかった。
求めることも求められることも拒絶した無意味な肉の繋がりに、しかし、欠片ほども抗われることはなく。
組み敷いた相手がこれまで男の欲望を身の内に受け入れたことなどなかったのだと、我に返るように気付いたのは、全てが終わった後だった。
そうして。
意識を手放しつつ呟かれた言葉は。

「────」

ともすれば、かすれて闇にまぎれてしまいそうだった、ひそやかな響き。
それだけは、はっきりと耳に残ってはいるものの、彼が何を言いたかったのかは分からないままだった。
思えば、一番最初からそうだった。
何を求めているのか。
あるいは、何も求めてはいないのか。
彼の本心が、かすかながらも垣間見えたような気がしたのは、ただ一度、出会った翌朝に去ろうとした自分を引き止めた時だけだ。
それ以外は、いつも底の読めない笑みをかすかに唇に上らせているだけで、何一つ語ろうとすることはない。
自分が側に居ようが居まいが態度を変えることもなく、実のところ、彼の能力をもってすれば本当に自分の存在が必要なのかどうか、それすらも疑わしく思えるほどに。

・・・・・本当は、何一つ考えることなどないのかもしれない。
所詮は契約で結ばれただけの関係だ。二年の月日が過ぎれば、多額の報酬と共に縁が切れる。それだけのことなのだから、考える必要など、どうしてあるだろう。
彼が求めたのは、身の安全。
自分が求めたのは、体勢を整えるまでの一時の間。
二年という月日を利用し、利用されるのは、一番最初からの前提条件だった。

けれど。

朝の光が薄いカーテン越しに差し込む中、初めて目にする寝顔は、どこか血の気が薄かった。
昨夜のことが身に堪えているのか、それとも、最初に聞いたように本当に持病があるのか。
そんなことは、さほど構うことではなかったが、しかし訊きたいことは幾つもある。
契約だけの関係なのは、彼にとっても同じことであるはずなのだ。
彼が気にかけるべきなのは、自分の身の安全が保障されるかどうかだけであって、端的に言えばこちらの生死を気遣う必要すらない。金で雇った以上、使い捨てにしていい道具なのだし、実際にその通りにする上流階級の人間をこれまでに多々見ている。

それなのに。
彼は。

ひどい苦痛でしかなかっただろう。
愛情をもって人を抱いたことなどないが、昨夜は相手の反応をはかることすら思いつかなかった。
この背に触れていてさえ一向に温もらず、血の気が失せたようにひんやりとしたままだった細い指の感触も、自分にはただの刺激にしかならず、そんな暴力と呼ぶのが似つかわしい一方的な行為に、しかし、手を撥ねのけることも声を上げることもなく。

「・・・何故・・・・」

呟いた時。
見つめた視線の先で、かすかに瞼が震えて。



ゆっくりと深い色の瞳が開いた。



「───・・・」

天井を見つめたまま、ぼんやりと二三度まばたきを繰り返し、そしてはらりと花びらが風もなく散るほどの緩やかさで、まなざしが寝台の傍らへと向けられる。

「・・・・どうした」

驚くでも詰るでもなく。
ましてや甘く微笑むこともなく。
ただ存在を問いかける、それだけの静かな言葉。
それだけの、声。

「何故、ですか」
「うん・・・・?」
「何故、昨夜は抵抗しなかったんです?」

迂遠な言葉は、彼に受け流させるだけのものにしかならない。
寝起きの相手に対するのに似つかわしい表現ではないと知りつつ、敢えて要点だけを問いかけた言葉に、彼は静かにまなざしを天井へと向ける。
そのまま呼吸一つほどの間が空いて。

「占術とはどういうことなのか・・・・。おぬしは考えたことがあるか」

変わらぬ響きのまま、ゆっくりと高くも低くもない声が紡ぎ出された。

「たった56枚の手札・・・・それだけで、わしは世界の全てが視える。あらゆる人間のことが分かる。──だが、それだけのことだ。
目のいい占い師だからといって、他人の人生に干渉する権限はない。問われれば結果を答えるが、その結果をどう聞き、どう動くかはその人物次第・・・・。わしは視て、伝えるだけで、死にゆく相手を救うことも、醜悪の限りを尽くす輩を止めることもできぬ」

小さな存在だ、と呟いて。

「だから、」

天井へと向けられたままの深い色の瞳が、カーテン越しの光にほのかに透ける。

「昨夜は嬉しかったよ」

高くも低くもない声は、凛と優しく響いた。

「昨夜、おぬしが・・・・敢えてこういう言い方をするが、おぬしが必要としていたのは占術ではなく、他者の温もりだった。別に、わしである必要はなかっただろう。温かな肌を持つ者なら誰でも良かったはずだ。
もし契約に縛られていなければ、人目を避ける必要のあるおぬしは適当な女を買うこともなく、独りきり、どこかで一夜をやり過ごしただろうし、ここに戻ってきたのも単なる義務感で、慰めを求めてのことではなかったことは分かっておる。
だが、それでも・・・・『太公望』という個を必要とされたのではなくとも、この身体を求められたことが嬉しかった」

そうして、深い色の瞳が再びゆっくりとこちらへと向けられて。

「ただのわしのエゴ・・・・自己満足だ。昨夜のことは」

まっすぐに太公望は楊ゼンを見上げる。

「これからも、わしを利用すればいい。必要とする者がなければ、わしはただ死に向かうだけの肉の塊だ。わしの名も力も、全てを利用し尽くせ、楊ゼン」

楊ゼンはその瞳を見つめる。
薄明るい室内で、底の見えない深い色合いは、今は聖性のものでもなく魔性のものでもなく。

「・・・・それだけですか」
「うん?」
「あなたが僕に求めるものは、それだけですか?」

そう問いかけた時、今朝初めて太公望の瞳に淡い微笑が浮かんだ。

「それだけだよ」

静かに、一番最初と同じ言葉が繰り返される。

「わしは最後まで生きていたいだけだ」

そう言った人の、掛け布団の上に投げ出された細い手が楊ゼンの視界に映る。
・・・・・突き放すことも、爪を立てることもなく。
決して短くはない暴力的な行為の間、うっすらと覚えている限りはずっと、この背に触れていた──この身体を包み込もうとしていた手。
細い指先は与えられる苦痛に血の気を失い、冷え切っていたというのに。

「──あなたは、御自分の危険は予知できるんですね?」
「おぬしのもな。ただ、避けがたい災厄は、起こる直前まで分からない。わしは神でも悪魔でもないからのう」
「分かりました」

まっすぐに深い色の瞳を見つめ返した。
昨夜のことを悔いる感情はあっても、詫びる気は最初からなかった。
箍(たが)を外させたのは、彼の方なのだ。
いみじくも今、彼がエゴだと言った通りに、抑えきれるはずの理性の壁を、彼が崩した。
人肌の温もりに触れ、濁った感情を柔らかな肉に吐き出して、整理のついたものは確かにありはする。が、だからといって礼を言う気もなかった。

けれど。
ただ一つだけ。

「昨夜言った、契約を破棄するという言葉は取り消します」

その理由がどこにあるのかは未だに知れないが、少なくとも全てのリスクを承知の上で、彼が本気で契約をまっとうするつもりがあるということだけは、昨夜から今朝にかけて十分すぎるほどに理解できた。
そして使い方次第では、彼の持つ稀有の能力は自分にとって、この上なく有効な手段となる。
自分のような人間が他者を頼るということは危険と隣り合わせになることを意味し、得体の知れない相手ともなれば尚更である。が、手段を選べる余裕があるわけでもない。利用できるものは全て利用するべきだった。

「再来年の6月12日。その日が終わるまで僕はあなたを利用して、あなたは僕を利用する。その範囲内で僕は最大限、あなたを守る努力はしますが、力が及ばなかった時は仕方がないと思って下さい。それでいいですね?」
「うむ」

一番最初の契約内容をもう一度繰り返した言葉に、太公望は淡く微笑む。

「それで良いよ」

静かに応じて。
白い夏の花が、枝葉を揺らす微風にふと蔭るように、目を閉じた。










マヨヒガ第8話。
何となく落ち着いたように見えますが、蛇足を一言。
「このシリーズの太公望は大嘘つきです。」
以上。


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