#098:墓碑銘







こういうことか、と思った。

鏡に映る、歪んだ自分の姿。
厭らしいほどに、自分とよく似た面影。
これは。
───自分を変えてしまうもの。
───何よりも忌まわしいもの。
見たくない。
声を聞きたくない。

けれど。
聞こえ続けていた海鳴りは、いまや雷鳴の如く轟き、魂を揺るがせる。
抗う術は、どこに。










目の前の相手の言葉は確かに聞こえているのに、硝子の壁を一枚挟んでいるかのように遠く、耳を通りすぎてゆく。
ただ暗い色味の唇が気だるく動き続けるのを、どこかぼんやりと見つめていた。
そして、脳裏の片隅で、どうしているだろう、と考える。
あんな形で闘技場から姿を消した以上、仲間たちは自分が封神されたと思っただろう。
無論、それは事実であって、自分はたまたま現在、封神台の結界が及ばない空間の狭間に引きこまれただけで、ここを出てしまえば、おそらく魂魄は迷いなく封神台へと飛んで行くはずである。
今はまだ意思表示が可能だが、到底、無事だとは言えない。

となれば、封神計画は。
決戦の行方は。

ここに歴史の道標が居ることは分かっている。
少なくとも、ここまで皆を連れて来ることはできた。
あとは──自分の存在がなくとも、彼らは女禍に勝利できるだろうか?

歴史の道標。
最初のヒト。
妲己ですら手足として利用していた存在。

そんな存在を、自分一人で倒せるとは思わない。
否、すべては最初から単身でできることではなかった。
叶うことならば、この身一つを引き換えに、十二の歳からこの心を燻(いぶ)し、灼き続けているものを滅ぼしたいという願望は、脊髄よりも深く根を張っている。
けれど、それは不可能であることを知っていたから、後ろめたさを覚えつつも、人々を──自分以外の戦力を利用する道を選んだのだ。
いかにも美しい大義名分を掲げ、陣頭に立って。
何故なら。

そうしなければ。
命を紡ぐことができなかったから。




───風の音が聞こえる。




干からび、乾き切った荒野に吹きすさぶ風は、ただひたすらに荒々しく、すべてを奪い尽くしてゆく。
水の一滴すら見つからないそこは、生命が存在できる場所ではない。
枯れ果てた大地に立つ魂は、その風景と同じく、干からび風化してゆく。
そんな所に立ち尽くしている存在を、生きているとは言わない。
ただ、心臓が鼓動を打ち続けている。
それだけでしかない存在。

───それが、自分。

ああ、と思う。
何もかも大義名分でしかなかった。
ただ一人、取り残された子供が・・・・・泣くことも笑うことも忘れた子供が、この世界で生き続けてゆくためだけの理由。
自分が居なくなれば、一族の無念を晴らすことができなくなる。
一族の血が絶える。
己が生まれた世界の真の滅亡を防ぐためには、仙道となり、時間を越えて生き続けるしかなかった。
無残に殺された一族のために、何かをするしかなかった。
けれど、今は。

───もう一人も居ないと思っていた血族が見つかった、今は。




自分の存在の、必要性は?




「もう一度、会いたくねぇのかよ」

不意に、声が耳に届いた。

「何・・・・・?」

ゆるりと視線を上げて、目の前の相手を見つめる。
くすんで艶のない黒い瞳が、嘲るような疲れ果てたような表情で、自分を見つめている。

「ボケてんじゃねぇよ。王子だ。俺と融合すれば、もう一度あいつとも乳繰り合えるぜ。あんだけ執着されてりゃ気分も良かっただろ?」

その言葉が自分の内に届き、理解するまでには多少の時間が必要だった。
そして理解した途端、恨みがましいほどに歪んだ笑みが浮かぶのを自覚した。

「おぬしに何が分かる」

目の前の半身を名乗る存在だけではない。
他の誰にも分かるはずがない。
あの荒野に佇みながら、自分以外の存在を感じることができる。その感覚がどんなものなのか。
自分のものではない、吹きすさぶ風の音を聞くことが、どんな感情の嵐をもたらすか。
それは。

───あの青年にしか、絶対に分からない。

「おぬしと融合して、それが何になるというのだ。わしがわしでなくなる、それ以外の意味があるか?」

手放す気はない、と言った。
縛り付けてでも傍に居てもらう、と。
けれどそれは、自分が自分であったから。
魂の半分だろうが何だろうが、自分以外のものを受け入れて変質しないわけがない。
そんなものを。
永遠に止むはずのない吹きすさぶ風を失った者を、あの青年が求めるわけがない。

ここで終わるのだ。
すべて。

「戻りたいと言ったな? 戻ったところで何がある? わしの中にあるのは、おぬし以上の虚無だ。そして、もはやその虚無を共有できる存在もいない。おぬしは一体、何を勘違いして、何を求めておるのだ?」

別れていた魂が一つになったところで、あるのは永遠の孤独だ。
今度こそ、何者にも触れることができず、感じることも叶わない真の孤独がやってくる。
となれば、今このまま、消え去った方がどれほど満たされることか。

「知らねぇよ。俺はもう俺でいたくねぇだけだ。あんたが何を感じようと、融合した後にどうなろうと、知ったこっちゃねぇ」

戻りたいのだ、と言った。
その響きに。




───心とは裏腹に、魂が揺らぐ。




歓喜ではない。
怒りでも悲しみでもない。
感情ではなく、磁石が無機質に引き合うように、強烈な磁力だけがここには存在している。
心は、ここには居ない存在を求めているのに。
今直ぐ、名を呼んで触れて欲しいと願っているのに。
肉体を失った剥き出しの魂が、引き止める術もなく目の前の相手と一つになろうとする。
まるで、その先にある世界の崩壊を乞い望んでいるかのように、ただひたすらに。

───ああ、けれど。

どうせ全てを失うのであれば。
『太公望』という存在の全てを、破壊し尽くしてしまえば良いのかもしれない。
もう二度と言えない言葉の代わりに。
もう二度と触れられない体温の代わりに。
あの青年が唯一つ執着した存在は、もうどこにも居ないのだと知らしめるべきなのかもしれない。
もとより自分という存在になど、執着はないのだ。
一族のために必要だったから、生き続けてきただけ。
けれど、妹の末裔(すえ)を見つけた今は、もう自分が存在し続ける必要はない。
それでも、在り続けたいと思うのは、自分に執着する青年が居るからだ。
あの自分だけに向けられた執着さえなくなれば、自分を引き止めるものはもう何一つない。

ゆらりと目線を上げて、目の前の半身を見つめる。
未だ肉体を保った、魂の片割れ。
融合すれば、肉体が手に入る。
変わり果てた姿になっても、自由に動ける手足が、力がもう一度得られる。

「──おぬしと融合したら、どうなる。外見は。記憶は?」
「さぁな。執着の強い方が勝つんじゃねぇのか」

投げやりな答えに、歪んだ笑いが込み上げる。
こんな終わり方が、自分にはふさわしいのかもしれなかった。
無意味な存在が、無意味に消えるのは、おそらく正しい。
自分は在るべき姿に戻り、『太公望』の全てを破壊し尽くし、その代わりに一つだけ、けじめをつけよう。
妲己を・・・・・女禍を滅ぼす。
それは、もはや何の意味もない執着でしかない。
けれど、大義名分こそが何十年もの間、自分の生きるよすがだったから。
それだけは。
たとえ、この魂が呑み込まれようと、その執着だけは忘れるまい、と心に刻みつける。

───楊ゼン。

その名を、存在を思うだけで、心が軋む。
魂のひとかけらまでもが、存在を求めて叫ぶ。
触れたいと。
永遠に傍に、と。
けれど。





もう、届かない。





「融合しよう、王天君」

消し去りきれない笑みを薄く浮かべたまま、無感動に告げる。

───変わり果てた魂魄を抱えたモノを見た時、彼はどんな顔をするのだろうか。
蔑みと嫌悪のまなざしが向けられたなら。
その時こそ、諦めがつくだろうか。

この感情につける名前など知らない。
ただ、叶うことならば。
進むことも戻ることもできず、荒野の只中に永遠に立ち尽くすだけの二人であっても、この身が滅ぶまで共に居たかった。
それ以外を望んだ事などなかった。
けれど今、魂は抗いようもなく別の存在に引きずられ、呑み込まれてゆく。
その不実を、受け入れて欲しいなどと言えるはずもない。
だから。




───さようなら。










前回に引き続き、伏羲復活あたりの原作を読みふけってしまいました。
その割に内容は、原作とは180度どころか、別宇宙くらい遠い方向に。
果たして、これを二次創作の醍醐味と言っていいものかどうか・・・・。


NEXT 100 >>
<< PREV 093
小説リストに戻る >>
100のお題に戻る >>