#081:ハイヒール







何かおかしい、とは思っていた。

キャンパス内で彼の姿を見かけなくなってから二週間。
いつものように女性に飽きを感じてマンションを尋ねても、不在で空振りすること三回。
もとより個人的に連絡を取り合う相手ではないし、いまだに携帯電話の番号すら知らない、相手に予定を告げることなど思いつきすらしない関係ではあるが、しかし、こんな風にすれ違ったことは、これまで記憶にない。
幸か不幸か、幼稚園の頃から見知っている相手である。
一学年の差ゆえに、学び舎が異なり顔を合わせなくなる時期も周期的にはあったが、少なくとも同じキャンパスに通うようになったこのニ年と少しの間に限っては、五日以上、顔を見なかったことはなかった。
それがどうして突然、すれ違うことになったのか。
普段なら不在の理由の見当が付くのだが、今回ばかりはいくら考えても分からず、首をひねるしかなくて。
そして今日も、また。

「‥‥留守、か」

二度インターフォンを鳴らしても、応答はない。
合鍵など持っていないし、そもそもマンション玄関のロック開錠ナンバーも知らない。
肩をすくめるように溜息をついて、楊ゼンはマンション玄関の階段を下りる。

「一体どこに行ったんだか‥‥」

年上の幼馴染の行動範囲は、狭いようで広い。
どちらかというと怠惰で出不精な人だが、出かけるとなれば地球の裏側にでさえ、手早く荷造りをして旅立ってしまうだけの行動力がある人である。
だから、気まぐれに旅行にでも出たのだと考えられなくもなかったが、それにしては二週間は長かった。
しかも、今は長期休暇の時期でもないのだ。
彼がどの講義を受講しているのか、訊いたことはないから正確なことは知らないが、この二週間、いつもならどこかしらで彼に遭遇するはずの自分の行動範囲内で、一度も彼を見かけていない。
つまりそれは、無意味に講義をサボるということをしない人が、何か理由があって、大学自体に来ていない可能性が高い、ということを意味していて。

「旅行でないとしたら、実家、か」

何事にも執着しないように見える人だが、家族とそれにまつわるあらゆる事については深い情を抱いていることを楊ゼンは知っている。
ゆえに、彼が無意味に講義をサボる理由があるとしたら、それは実家に関することに他ならないだろうと思う。
しかし、最近の経済ニュースに崑崙グループに関するものは特になかったはずだし、噂としても何も聞いていない。
とはいえ、旧財閥の血脈をそのままに受け継いでいる大企業が、内輪の話を軽々しく表に漏らすはずもなく、宗家内で何かが起きていたとしても、余人がそれを知ることは叶わないのが当然であって。

「父に聞けば、多少のことは分かるだろうけど‥・・」

一応、自分にとっても崑崙財閥の当主は知らぬ人ではないし、むしろ子供の頃から目をかけてもらっている相手である。
もし太公望が実家に帰らなければならないほどの何かがあるというのなら、見舞いの一つにでも行きたいとは思うが、情況によっては、それが歓迎されるとは限らない。
それに、彼の実家に何かがあったと決まったわけでもなく。

「あの人自身が病気とか怪我とか・・・・?」

呟きながら、でもそれもないような気がする、と思う。
彼を不死身だと思っているわけではないが、だが、弱って寝込んでいる彼、というのが思い浮かばない。

(あー、でも無茶して、あの人が起き上がれなくなったことはあったな)

本当に酷かったのは少し前の一度きりだけだが、がっつきおって、と睨まれ嫌味を言われたことは何度でもある。
だが、それでも病気だの怪我だのというイメージは、彼の面影には重ならない。
本人に言ったら、わしを何だと思っておると白い目で見られそうだが、楊ゼンの心情としてはそんなものだった。
幼い頃から身近にいる健康そのものの人が、そうそう弱ったり、居なくなったりすることは、人間、なかなか想像ができないものだ。
だから、今も会えないことは物足りないものの、楊ゼンは彼の不在を心配しているわけではなかった。
どうせ、そのうち知らぬ顔で戻ってくる。
そう思っていたから、二週間ばかり見ていない彼の顔や、しなやかな身体のことを淡い欲望交じりに思い返しながらも、大して気にはしていなかった。






外で食事を済ませて自分のマンションに戻り、コーヒーを入れてから経済新聞に目を通し、WEBニュースをチェックする。
それが楊ゼンの日課だった。
昨日、五日間ほど付き合った女性と別れたばかりだったから、今夜は何も予定はない。
明日か明後日には、新しく相手に決まった女性との約束が入るだろうから、今日は考えようによっては短い休暇と言えなくもなかった。
本当なら、今夜はあの幼馴染の毒舌と、裏腹に蜜のように甘い身体に溺れていたはずなのに、と 少しばかり不運を恨めしく思いながら、WEBニュースを一通り確認し終えて、株価のチェックに入る。
手持ちの株の価格動向と、実家の株価、そして各業界の株価の動きに常と異なるものがないか、経済アナリストの評をも確認しながら、いつもと同じように画面の数字やグラフを眺め、昨日までのデータと脳裏で比較してゆく。

ふと、何かが引っかかったのは保険業界の株価を眺めていた時だった。

保険金の不払い問題で、昨今の保険業界の株価は軒並み下がっている。
それ自体はおかしくない。
昨日と今日の株価を見比べてみても、何かが特におかしいわけではない。
けれど。

(何だ、これは──…)

急いで画面を切り替え、幾つかの銘柄の過去三ヶ月の株価の変動グラフを呼び出す。
折れ線グラフが示すここ最近の小刻みな乱高下は、一見、行政指導や消費者の動向の影響を受けているだけの自然な変動に見える。
見えはするが。

もしかしたら、といつにない緊張を覚えながら、他業種の株価の変動をも検索をかけて。
三十分も過ぎた頃、楊ゼンは額に薄く汗を滲ませて立ち上がった。

「そういうことか……!」

苛立たしげに低く吐き捨てて、無造作にソファーの背にかけてあった上着を手に取り、財布が入っているのを確認して、部屋を飛び出す。

その脳裏に蘇るのは。

───大理石の床に、コツコツと響く足音。

十五年前のあの日も、半年前のあの日も。
深紅のハイヒールが奏でる悩ましい足音ばかりを残して、あの人は去っていった。
そして、その足音が向かった先は。













「一体、どういうことですか」

久しぶりに実家に戻ったというのに、詰問口調になってしまうのはどうしようもなかった。
行きつけの某料亭から帰ったばかりという父親も、まだ上着すら脱いでいない。
父親の書斎で、楊ゼンは父親と向き合っていた。

「どうしてあの人が、崑崙に手を出しているんです」
「……何故、気付いた?」
「少し気をつけて株価を見ていれば分かりますよ! 他所の企業ならともかく、崑崙関連の株価が何もなくて今、あんな風に動くわけがない。そして、他企業があの崑崙グループにちょっかいをかけるはずもない。余程の馬鹿か、余程の理由がない限りはね」

いつになく激しいまなざしを向ける息子を見つめて、父親は瞳に陰鬱さを増しながら、溜息をつく。
そして、ゆっくりとした動作で上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。

「それに気付いて、直接わしの所へ来たのか? 元始にも元始の孫にも、何も言わずに?」
「そうですよ。僕が今、どの面を下げてあちらを訪問できると思うんです!?」

吐き捨てるように楊ゼンは言う。
だが、その言葉に父親は緩く首を横に振った。

「お前には何の責もない。子は親を選べん。それくらいの道理が分からぬ元始たちではない」
「分かってますよ。でも、それが慰めになるとでも?」
「楊ゼン……」
「僕はあの人を母だと思ったことはありません。けれど、僕があの人の血を引いていることは事実ですし、現に僕はあの人の考えを理解できる。理解したくないと思っても……!」

硬く拳を握り締め、精一杯に感情を抑えている息子を、父親はじっと見つめる。
楊ゼンが母親について、これまで何かを言ったことは殆どない。
どんな醜聞を耳にしようと、ずっと知らぬ顔をしていた。
だが、今は。

「楊ゼン、確かにお前はあれに似ているかもしれん。だが、お前はわしの息子でもある。お前とあれとの最大の差は、お前がそうやって感情や欲望を抑える術を知っていることだ。恥というものを知っていることだ」
「───…」
「今回の件について、金鰲ができることは殆どない。だが、金鰲の助けなどなくとも、崑崙は必ず切り抜ける。あれがちょっかいを出したところで、あの元始の孫がどうこうされるはずもない。それはお前が一番良く知っているのではなかったか?」

父親の言葉に、僅かながらも、楊ゼンが握り締めていた拳の力が緩んだようだった。
そして、力なく呟く。

「崑崙は今、あの人が動かしているんですね?」
「そうだ。元始は今、老齢から来る病気療養中ということになっている。元始の持っている権限は全て太公望に委譲された。一時的な措置ということだが、永続的な措置になることも十分考えられる」

元始ももう年だ、と言う父親の声に、はじめて少しばかりの寂しさがのぞいた。
そして、楊ゼンは思い出す。
自分と太公望との関係とはまた違うが、父親と元始天尊も、また20歳の年齢差を超えた友人であり、商売敵でもあることを。

「お父さん」
「何だ」
「僕にできることはありませんか。何でもいい。金鰲で今、僕がすべきことが何もなければ、まとまった資金を貸して下さい」
「────」

証券取引のための資金は、個人名義の口座に数億ある。
だが、それだけでは端下金だ。少なくとも、金融界においては。
真っ直ぐに顔を上げて問うた息子を、父親はじっと見つめた。

「お前を経営に参画させるのは、ずっと先だと言ったはずだな」
「はい。覚えています」

大学卒業後、立場を隠して傘下の企業に就職する。
そして、十年を経た時点で、本社の取締役に就任する。
それが父親との約束だった。

「三十億を年利五%、貸付期間は一年、返済は一括だ。期限の延長は認めん。わしに投資を求めるのなら、それくらいのことはやってのけろ」
「はい。ありがとうございます」

深く一礼した息子を、父親は情と憐憫の入り混じったまなざしで見つめる。
一度は愛した女の残した子を。

「もう遅い。今夜はここに泊まってゆけ。賃借契約書と金は、明日の朝一番で用意する」
「……はい」

静かに楊ゼンはうなずいて。
それからしばらくの間、父子は黙って書斎の窓の向こうに広がる星のない夜空を眺めた。










アンケートでこの作品のリクが多かったので、書いてみました。
楊ゼンばかりで太公望の出番がないですけど・・‥展開上どうしようもないので、許してやって下さい。

……でもこの先、彼らがもう一度、お気楽に遊べる日はくるのかな──…。


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