#052:真昼の月







何も知らない者が見れば、ただの慟哭にしか・・・・鎮魂と悲哀の祈りにしか見えないだろう。
だが、そうではない。
おそらく世界でただ一人、自分だけがそうではないことを知っている。
それが嬉しい、と思った。










「初めて見ましたよ」

荒れた岩肌をさらした山とも巨岩とも付かない石林が、見渡す限りに続いている。
そこを吹き抜ける風は、ただ強く冷たい。
天と地しかない・・・・その狭間には何一つ存在し得ないような景観の只中に、まるで辺りに転がる石の一つのように彼は居た。

自分が掛けた声に、ゆっくりと振り返る。
その頬を伝うきらめきに、楊ゼンは目を細める。
近付いて手を伸ばし、濡れた頬に指を触れても、彼は涙を隠そうともせずに静かに青年を見上げた。

水気を帯びて、常よりも遥かに深く煌めくその色を、楊ゼンもまた、静かな表情で見つめる。


──決して泣かない、修羅に灼けた瞳。


けれど、自分と同じはずのその瞳が涙を零すのを、楊ゼンは裏切りとは感じなかった。
太公望の頬を伝う水滴は、悲しみを吐露するためのものでも癒すためのものでもない。
堪えかねてあふれるそれは、彼自身を責めるためだけに・・・・彼の胸に巣食う修羅の炎を煽るためだけのものだ。
そんなものは涙とは呼べない。
そんな水滴を零すことを、泣くとは言わない。

だから、楊ゼンはそっと寄せた唇で、伝い落ちる雫を受け止める。
と、太公望の静かな、泣いている人のものとはとても思えない声が響いた。

「おぬしは・・・・良いのか?」

何が、と問い返すまでもなかった。

「ええ」

生まれ故郷に続いて、返る場所を失ったのは同じ。
この地で、かけがえの無い人々を失ったのも同じ。
こんな時まで、世界は自分たちの存在を同一に据える。

だから、

「あなたのこれだけで十分です」

己を・・・・無力を責める水滴など、二つも要らない。
太公望の零す、修羅に灼けた雫があれば、それで十分に足りる。

昏く、燠火のように心の奥底に巣食う、世界のすべてを無味乾燥に干からびさせようとする焔を感じながら、楊ゼンはただ一人の存在を抱きしめる。

「ですから、あなたは好きなだけ泣いて下さい。僕は永遠に、あなたの傍に居ますから」




哭いても叫んでも、世界は自分たちを置き去りにしてめぐる。
残されるのは、いつしか白い灰になるだろう昏く闇に燃える炎。
その灼熱をそれぞれの胸に抱いて、自分も彼も、何もない荒野の只中に立ち尽くす。




「太公望師叔・・・」

低く名を呼ぶと、静かに太公望は、抱きしめられた胸に体重を預けた。
風を見つめるその瞳から溢れる、修羅を煽る雫が、ひそやかに楊ゼンの胸を濡らしてゆく。

逸らされることのない深い色をした瞳に映るものは、砂山が崩れるよりも儚く消えていった日々の遺物だけで、いま目の前にある美しいものも愛しいものも、すべて色彩を失っているのだろう。
どこまでも青く澄んだ虚空も白く浮かぶ真昼の月も、灰色みを帯びた岩肌も、自分たちの前では意味をなさない。
天を仰ぐことも、地にうつむくことも忘れた瞳には、互いの修羅に灼けた眸しか映るものはないのだ。

愛しいとしか呼べない、胸を灼く雫に楊ゼンは目を閉じ、太公望のさらさらと流れる黒髪に頬を寄せる。





他に何もない、世界の果てのようなその場所で。
いつしか日差しが傾くまで、二人は其処にたたずんでいた。










仕事中に内職しました。
短い作品ですけど、これ以上付け加える文章はありません。つまり、それなりの出来。

そういう時期が来た気がするので、この話も収束に向けて動こうと思います。
永遠に停滞しているような二人がどこに辿り着くのか、辿り着ける場所があるのか。
興味のある方は、気にかけていて下さい。



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