#001:クレヨン







「時々、昔のことを思い出す。何かの拍子に・・・・まるで、海底から泡が浮き上がってくるように」

夜明けのシーツの海でたゆたいながら、太公望が口を開く。
静かに紡がれる声に、楊ゼンは黙って耳を傾けた。

「昔、まだ4歳か5歳の頃に、親に山に連れて行かれたことがある。あれは北アルプスだったか・・・・。山小屋で一泊して、夜明け前に起こされた」
「夜明け前に?」
「雲海を見るためだ。まだ覚えておるよ。母と手を繋いで半分眠ったまま、日の出を待っていた。そして遥か彼方の空から朝日が昇った瞬間──」
「瞬間?」
「世界が黄金の海に変わった」

遠い記憶に身を浸すように、太公望は目を閉じる。

「空は薄紅から橙の朝焼けに染まっていて、一面の雲海は、朝日の輝きを受けてどこまでも波打っていて・・・・・。本当に美しい光景だった」

「幼心にもその美しさは焼きついて、家に帰ってきてからも忘れられなくてのう。わしは幼稚園でお絵かきの時間に、それを描いた」
「雲海を?」
「うむ。記憶にある輝きを再現しようと必死だったよ。桃色、橙色、空色、白・・・・。ありったけのクレヨンで画用紙に一生懸命描いた」
「それでどうだったんです?」
「駄目だった。そもそも不透明画材で色数の少ないクレヨンを使ったことに一因があるのだろうが、所詮、幼稚園児の技量では光の美しさは描けなくてな。色を塗りたくっただけの画用紙が悔しくて泣いた。先生は困っておったよ」
「・・・・そうですか」

可愛いですねと言うことも、幼稚園児では仕方がなかったですねと言うことも出来た。
が、楊ゼンは何も言わず、ただ、静かにうなずく。
シーツに零れている髪を撫でる事もせずに。

太公望は深い色の瞳を、少しだけ動かす。
その先を追って、楊ゼンもベッドの横の窓を見た。

「あの空を見たら、急に思い出したのだ」

カーテンの隙間からは、美しい朝焼けに染まった空と薄い羽衣のような雲の輝きが覗いている。

「普段は忘れているのにな」
「そんなものですよ」

ようやく楊ゼンは、太公望の頬にそっと触れて、こめかみに小さな口接けを落とす。

「僕だって普段は昔のことなんて忘れてます。でも、何かのはずみで不意に思い出すことはよくありますよ。風景とか匂いとか、そんな何でもないものが引き金になって」
「そうだな」

微笑未満の表情でうなずいて、太公望は指を伸ばし、楊ゼンの髪を一房、巻き取る。
そして、引き寄せたその髪に軽く口接けるように唇を寄せ、楊ゼンの瞳を見上げて微笑した。

「・・・・少し寝るか。今日も学校がある」
「あなたはね」
「おぬしだって高校生だろうが」
「気が向いたら行きますよ」
「たわけめ」
「仮病を使って保健室で寝てるあなたに言われたくはありません」

互いに不敵とも取れる笑みを小さく交わして。
ゆっくりと唇を重ねる。
触れては離れるキスを何度も繰り返して、やわらかな熱を──存在を伝える。

「好きですよ」
「──おやすみ」

穏やかな微笑をそれぞれの瞳に滲ませながら、他人の耳には擦れ違っているとしか聞こえない言葉を交わして、寄り添い目を閉じる。
そのまま目覚ましが鳴るまで、互いの体温を感じながら静かに二人は眠った。










最近、Midnightのその後を書き散らしていたので、そのままの調子でSSも書いてしまいました。
こうして元単発作品がシリーズ化していくのでしょうか・・・・?

軽いノリの本編よりか、ちょっとばかしシリアスです。
でも、甘い雰囲気がある分、他の現代物よりはマシだと思います。


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