戻り来ぬ月







「和平交渉……?」
 耳慣れない言葉を告げられて。
 最初に零れたのは、ぽつん、とした呟きだった。





 軍議の席上、セイとテレーズがミューズに赴くことに賛成する者と反対する者は、当初およそ半々。比べれば、賛成派がやや多いといった雰囲気だった。
 何か裏があるのではないかと考える慎重な人々、ハイランドなど信用ならないと主張してやまない人々、信じることから始めなければと説く人々、もう戦いはごめんだと訴える人々。
 軍議は一時、紛糾し、収拾がつかなくなるかにも見えた。
 しかし、狂皇子と呼ばれたルカ・ブライトが戦死し、ハイランド皇王が代替わりした今、連戦に次ぐ連戦に疲弊しているのは同盟軍も同じであり、確かに講和には良い機会だ、という軍師の言葉に、うなずきを見せる者が一気に増えて。
 決断を求められて、軍主のセイもまた、うなずいたのである。
 講和を結べるのなら……この戦争が終わるのであれば、それは間違いなく喜ばしい。
 そして、それが皆の望みであるのならば応えたいと思いもしたし、セイ個人としても、これでハイランドと都市同盟(の残存勢力)の間における政治軍事の決着がつき、穏やかに暮らす日々が戻るのであれば、そんな嬉しいことはなかった。
 ──けれど。






 こんこん、とノックをすると、すぐにやわらかな女性の声で返答があった。
「セイです。ちょっとお話したいんですけど、今いいですか?」
「セイ様?」
 すぐさまにドアは、主の手自ら開かれて。
 目の前に立つ、自分と殆ど背の変わらない、妙齢の美しい女性にセイはにこりと笑いかける。
 その人懐っこい笑みにつられたのか、部屋の主人──テレーズも微笑んで、この城の主を迎え入れた。
「どうぞお入り下さいな。今は私とシンしかおりませんから」
「はい。それじゃ、お邪魔します」
 室内へいざなわれ、セイは入り口傍に控えていた忠実な武人に、ぺこりと会釈する。
「すみません。くつろいでいらっしゃったのに」
「構いませんわ。──それよりも、お話というのは……?」
「あ、はい」
 ええと、ちょっと聞きたいことがあっただけなんですけど、と勧められるままに椅子に腰を下ろし、切り出す。
「あの、さっきの軍議でハイランドと講和しようってことになったじゃないですか。それで、テレーズさんに聞きたいと思って。僕は都市同盟の出身じゃないから、分からないところとか勘違いしてるところとかもあるかもしれませんし」
「それで……?」
「それで、ですね。変な事を聞くようですけど、テレーズさんは『和平交渉』っていうものに、どんなことを望んでますか? ハイランドと都市同盟がどういう状態になったら、それが『平和』だって思います?」
「───…」
 唐突な軍主からの問いかけに戸惑ったのだろう、テレーズはセイの瞳を見つめ返し、しばし言葉を選ぶように沈黙した。
 そんな彼女にまっすぐにまなざしを向けながら、セイは懸命に己の思うところを声にして伝えようとする。
「僕は戦争のことも政治のこともよく分かりませんけど……何となく、ただ戦争を止めた、っていうだけじゃ足りないような気がするんです。テレーズさんはどうですか?」
「……そうですね」
 考えるまなざしをしながら、ゆっくりとテレーズは言葉を紡ぎ出した。
「単に戦争を止めようと決めるだけでは、またいつの日か、争いが起こるかもしれない。それを防ぐためには、真の友好を築く必要があります。今すぐではなくとも、互いを信じられる関係になれたら……」
 やわらかではあるが凛と澄んだ声で、テレーズは続ける。
 聡明な光を浮かべた緑の瞳が、天高く星を見出したかのように煌きを増して。
 その様を、セイはじっと見つめた。
「戦争が終わったら、まずは……そうね、交易から始まって、それから人の自由な行き来が始まって、いずれはたとえば、ニューリーフ学院の学生や教授と、ルルノイエの王立学院の学生や教授が交流したり、共同で資源や新しい技術を開発したり……。
 もしかしたら私の子供や孫の次代の話になるかもしれませんけれど、いつの日かハイランドと我が都市同盟が、そんな関係になれたら、と思います。そのためには、まず誠実に話し合うことから始めなければ」
「──そうですよね。やっぱり、そうでなきゃいけないですよね」
 テレーズの答えを聞いて。
 セイは、にこりと満足げに微笑む。
「よく分かりました。ありがとうございます、テレーズさん。突然お邪魔して、変な質問をしてすみませんでした」
「いいえ、すごく大切なことだと思います。──セイ様」
「はい?」
「新しいハイランドの皇王は、あなたの幼馴染と伺いましたけど……。どんな方なのかしら? あなたのお友達なら、きっと良い方なのでしょうけど……」
 問われて、ほんの僅かな間、セイは言葉を選ぶように沈黙し、
「ジョウイは、いい奴でしたよ。生真面目で一本気で、ちょっと融通が利かないところがありますけど」
 笑顔で答えた。
「それじゃ、僕は戻ります。五日後、頑張りましょうね」
「ええ」
「シンさんも。今回の話し合いはすっごく大事な場面だから、主役のテレーズさんに何もないように、ずっと傍に居てあげて下さいね」
「承知しております」
「はい。それじゃ、お邪魔しました」
 いつもと変わらぬ調子で辞去を告げ、二人に見送られて部屋を出て。
 人気のない廊下で、セイはふっと息を一つつく。
 そして、少しの間思いをめぐらすように立ち尽くし、ゆっくりと歩き出した。








 黄昏時の影が長く伸びる室内に、同盟軍の正軍師シュウは一人、何かを思案していたようだった。
 彼の気難しい顔にも、もう慣れた、と思いながらセイはまっすぐに鋭い瞳を見上げる。
「シュウさんに一つ、訊きたい事があって」
「何です?」

「どうして、ジョウイがハイランド皇王になったことが、講和の理由になるんですか?」

 年若い軍主の静かな問いかけに。
 虚を突かれたように正軍師は、一つまばたきをした。
「どうしてと言われましても……十分な理由ではありませんか? アガレス王の急死に続いて、正嫡のルカ・ブライトも戦死。ハイランド軍もまた、多大な損害をこうむっています。ましてや、新たな皇王皇妃は年若い。一時休戦という案が出てくるのは、不思議でも何でもないと思いますが」
「……そうだね。シュウさんの言う通りなのかもしれない。少なくとも、皆はそう思ってるみたいだし」
「御不満があるようですな」
「不満、じゃないです。分からないだけで……」
 呟くように告げるセイに、シュウは溜息をついて、手にしていた羽ペンを卓上に戻した。
「とりあえずお座りになったらいかがです? そして、何が気に食わないのかおっしゃって下さい」
「はい……」
 それじゃあ、とセイは、軍師と卓を挟んで向かい合う位置の椅子に腰を下ろす。
 先程、テレーズに言った通り、セイは軍事にも政治にも多くの知識を持たない。同盟軍の軍主の地位に立ってからはシュウやアップルといった面々に、戦いと戦いの合間の余暇を利用して講義をしてもらっているものの、まだまだ質量共に豊富とは言いがたいのが実情である。
 だから、本来ならば今回もいつも通り、シュウの進言と皆の意見に従うのが最も無難なのであって、そうすべきなのだとセイ自身も分かっていた。
 だが、今回に限っては。
 ──何かが違う、と。
 半年前までのように、無条件で幼馴染を信じるのは危険だと、そうしてはならない、と何かが強く訴えかけている。
 その理由がどこにあるのか、幾つかは数え上げることは出来るものの、一番大きな要因を占める、直感とでもいうべき感覚を言葉にするのはひどく難しく、こうして面と向かってシュウに問われたら、どう答えればいいのかセイ自身にもよく分からなかった。
 また、一旦はうなずいた方針に、後からこっそり異議を唱えるという行為も、どこか後ろめたい気がして、セイは小さく深呼吸をして気持ちを落ち着け、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。
 面と向かってこの正軍師と話をするのは、どうしても幾許かの緊張を伴わずにはいられないが、それでも今は、己の感じている不安が正しいのか、それとも杞憂に過ぎないのか、確かめなければならなかった。
「ええと……気に食わないというか、僕が気になっているのは、今回の和平交渉をどれくらいハイランドが本気なのか、ってことなんです」
 まずそう告げて、反応をうかがう。
 が、シュウはいつもの無表情を崩さないまま沈黙を保ち、先を促されているのだと解してセイは続けた。
「たとえば、ジョウイが本当にハイランドの皇子で、まだ結婚もしてなくて、テレーズさんをお妃にしたいとか、それともジル皇妃がまだ結婚してなくて、彼女かテレーズさんのどちらかが男の人で、相手をお嫁さんに欲しいっていうのなら、それはちゃんとした和平に繋がると思うんです。
 でも、ジョウイもジル皇妃もハイランドの人間で、今回の話はどこまでもハイランドの都合で始まったことでしょう。ジョウイ自身は本当に、戦争を終わらせたいと思って皇王になったのかもしれないけど……、何十年も続いてきたハイランドと都市同盟の関係が、そんな簡単に変わるのかどうか、僕にはどれだけ考えても分からなくて。
 それにジョウイは僕より一つか二つ年上なだけだけど、でも多分、僕よりもよっぽど兵法にも明るいと思うし……。だから……」
「信用できない、と? そうおっしゃりたいわけですか?」
「……そういう事、になるのかな」
 きっぱりとした言葉で問われると、微妙な違和感にも似た拒否感が胸に込み上げる。
 しかし、信用できないのではなく、信頼したいのに……、という言葉は、やはり、この場で声にすることはできずに、セイは小さく吐息をついて、シュウの瞳を見上げた。
 そのセイのまなざしに、シュウは眉毛一筋すら動かすことはせず。
「そうですね。ハイランドのすることです。兵力を消耗して一時休戦を望んでいるのは事実だとしても、手のひらを返すことがあるかもしれない、とは私も考えておりますよ。このような場合にそれくらいの配慮をするのは、軍師として当然の役目です」
「それでも、行った方がいい、とシュウさんは思うんですか」
「ええ」
 あっけないほど短く、シュウはうなずく。
「たとえ戦勝続きとはいえ、少なからぬ被害をこうむっているのはこちらも同じですし、元より同盟軍は烏合の衆、ハイランドに比べると兵力はかなり劣ります。一時的にでも休戦できるのならば、良い機会でしょう」
「……はい。それは分かります。分かりますけど……」
「軍主殿」
「はい?」
 改めて呼ばれて、セイはシュウの顔を見直した。
「あなた個人としては、どうなのです? 新しいハイランドの皇王は幼馴染とうかがっておりますが」
「僕? 僕は……」
 わずかに視線をさまよわせ、
「……うん。もちろん会いたいです。会って、きちんとジョウイと話したい、そう思う、けど……」
「ならば、軍主殿にとっても良い機会でしょう。もちろん軍主殿にもテレーズ殿にも十分な護衛はつけますし、お二方が留守にされる間、万が一のことが起きても大丈夫なようにこの城の防御も固めます。
 それに、軍主殿」
 細った語尾に覆いかぶせるように軍師は言葉を継ぎ、それから少しだけ声の調子を変えた。
「正直なところを申し上げれば、新しいハイランド皇王の真意を確かめるには、軍主殿が直接、出向いていただくのが一番なのです。なにしろ突然、ハイランドの表舞台に出てきた人物ですから、彼のことを知る人間が我が軍内には殆ど居りません。あなたとナナミ殿だけなのですよ、ジョウイ・ブライトという人間を深く知っているのは」
「───…」
 言われたことに、わずかに目を伏せるようにまばたきして。
 かすかな溜息を零して、セイはうなずく。
「そう、ですね。分かりました。僕が確かめてきます。ジョウイが何を考えているのか、ルカ皇子が死んだ後のハイランドがどういう状態なのか……」
「はい。──ですが、どうしても気にかかることがあるというのであれば、あの方をお連れしたらいかがですか」
「え?」
 咄嗟に誰のことを言われたのか分からなかった。
 首をかしげると、静かにシュウは一つの名前を告げる。
「トランの英雄殿、ですよ」
「マクドールさん?」
「はい。公式な立場は持っておられないとはいえ、マクドール殿自身がトラン共和国の代名詞です。第三国の人間が臨席することで、多少はハイランドを牽制できるかもしれません」
「……それはそうかもしれませんけど。マクドールさんは嫌がるんじゃないかな、そういう風に扱われるのは……」
「私としては、どちらでも構いませんよ。五日後の会談に間に合うようグレッグミンスターまで往復することは可能ですから、思いつきとして申し上げただけのことです。しかし、頼んでみるだけの価値はあると思いますがね」
「……そう、かな。うん……お願いするだけ、してみても……。駄目と言われたら、僕たちだけでミューズに行けばいいんだし」
「その通りです」
 ようやくうなずいたセイに、話はこれで終わり、とばかりにシュウはインク壺に差してあった羽根ペンを再び手に取った。
「今日はもう日が暮れますから、グレッグミンスターに行かれるのであれば明日の朝、出発なさるようにして下さい。ラダトまでの馬は用意させておきますから」
「はい。──それじゃあシュウさん、お仕事の邪魔してごめんなさい。明日、トランまで行ってきます」
「分かりました」
「あ、それともう一つだけ」
 椅子から立ち上がり、二三歩ドアに向かって歩きかけて、セイは立ち止まる。
「ミューズへ行く時なんですけど、ビクトールさんにはここに残ってもらってもいいですか?」
「ビクトールを? 何故です?」
 かすかに眉を寄せたシュウを肩越しに振り返って、セイは少しだけ躊躇いがちに言葉を選んだ。
「ええと……ビクトールさんはアナベルさんと親しかったみたいなんです。昔からのお友達というか……。あれから、まだ半年くらいしか経ってないから、だから……」
「……そういうことであれば仕方がありませんね。承知しました」
 少々歯切れ悪く紡がれたセイの物言いに、シュウは眉をしかめたまま、しかしうなずいて。
 セイは、ほっと小さく息をついた。
「ごめんなさい、勝手ばかり言って」
「構いませんよ。軍主殿の意向を最大限尊重するのも、私の役目ですから」
「……はい」
 皮肉にも取れるシュウの言葉に、かすかに苦笑するような表情を浮かべて、セイは、それじゃあ、とゆっくりとした足取りで軍師の私室を出る。
 そうして、一人きり、いつのまにか差し込んでいた夕映えに、よく磨かれた床が暖かな色に煌めく廊下で。
「………やっぱり僕が子供だから、ダメなのかな……」
 小さく小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。

...to be continued.

NEXT >>
BACK >>