幕間 −赤い花、白い花−






 そろそろ夏の盛りになろうという季節であっても、湖のほとりは、夕方になれば湖面から水気を含んだ風が涼気を運んでくる。
 傾いて淡い橙色に色付いた日射しに照らしだされたクォン城は、灰色がかった外壁が温かな――季節柄を考えれば、やや暑苦しい――色合いに染まり、無数の窓は鏡のように輝いて日射しを跳ね返し、一際見事なその威容をもって辺り一帯を睥倪しているようだった。
 城の中庭は、今を盛りとばかりに草木が伸び、色鮮やかな夏の花が妍を競っている。
 外壁をぐるりと回り込んで、池の際近くまで小道を歩いてきたセイは、池の向こう側、大きなサルスベリの木の下に、デュナン湖に煌めく夕映えによく似た色合いの人陰を見い出して、あれ、と小さな声を上げた。
「どうしたの?」
「あ、いえ……あそこにテンガアールがいるんですけど」
 あちら、と目線で示すと、隣を歩いていたティルはもちろん気付いていたようで、うん、とうなずく。
「なんで一人なのかなと思って……」
「言われてみれば、そうだね」
 テンガアールといえばヒックス、ヒックスといえばテンガアールである。この若い恋人達が離れて行動することは滅多にない。
 互いに余程離れがたいのか、相手の姿が見えなくなるとすぐに捜して回るような彼らが、こんな風に一人でいることは余程珍しかった。
「ヒックスはどうしたんでしょうね?」
「うーん。昼時に見かけたときは、二人一緒だったけど」
 同盟軍の本拠地であるだけに、この城の建物も敷地も相当に広い。
 今日の午後以降、ヒックスを見かけた覚えはセイはもちろん、共に行動していたティルにもないようで、二人揃って首をひねる。
「まあ、出かけるという報告は聞いてないから、ヒックスも城内にはいるんだろうけどね」
「それなら、テンガアールが傍にいないのは変ですよ」
「うん」
 セイの疑問提示に、ティルもうなずいた。
 セイよりも古くから二人を知っているティルもおかしいというのなら、それは軍主として看過してはならない重大事ではないかとセイは思う。
 しかし、テンガアールとヒックスは結婚の約束までしている恋人同士だ。恋の一つもしたことのない年下の自分が、彼らの事情に口を挟んでいいものなのかどうか、見当が付かない。
 迷って、こっそり隣を窺い見てみれば、ティルはいつもの涼やかな表情で、目が合うとにっこりと笑みかけてくる。
 それはつまり、とセイは困ったように小さく眉をしかめた。
「……マクドールさんって、時々意地悪ですよね」
 掴み所のない表情をしている時のティルの意図はただ一つ、『セイの思うようにしていいよ』である。
 そんな時のティルは、セイがどんな選択をしても咎めることはないし、絶対的にセイを庇護する立場に立ってくれる。
 が、それはそれで本当にありがたい半面、難しい話であって、結局セイは、自分がどうするか決断するまであれこれ迷い、悩まざるを得ないのだ。
「おや、心外だね」
「……ちょっと言ってみただけですよー」
 笑いながら抗議してくるティルに向かって、拗ねるように唇を尖らせながら、どうしよう、とセイは考えた。
 池を回り込む形になっている小道は、段々とテンガアールに近付いていっているが、サルスベリの古木のすべすべした幹に背を預けている彼女は、こちらには背中を向けているため、まだセイたちには気付いていない。
 今、彼女がどんな表情をしているのか見られたらいいのに、と思った時。
 細い歌声が切れ切れに聞こえた。
 テンガアールが歌っている。


 赤い花つんで あの人にあげよ
 あの人の髪に この花 さしてあげよ
 赤い花 赤い花
 あの人の髪に 咲いて揺れるだろ
 お日様のように

 白い花つんで あの人にあげよ
 あの人の胸に この花 さしてあげよ
 白い花 白い花
 あの人の胸に 咲いて揺れるだろ
 お月さんのように……


「……赤い花、白い花、か」
「ティルさん、知ってるんですか?」
「うん。トランの古謡だよ」
 湖からの夕風に乗って届く歌声に耳を傾けていたティルは、セイの問いにうなずいた。
「古い歌だけど、メロディーが綺麗だから今でも結構あちこちで聞く歌だよ。トラン人なら大概、耳にしたことはあるんじゃないかな」
「そうなんですか……」
 短い歌を繰り返し、テンガアールは口ずさんでいる。
 そのまだ少女らしさを残した澄んだ歌声に、セイの思いが定まる。
 意図的に小道の端を踏み歩くと、細かな砂粒や小石が音を立て、それを聞き付けてテンガアールがはっと振り返った。
「……セイさん、ティルさん」
 二人の姿を認めたテンガアールの表情は、彼女にしては珍しく、気まずげにも恥ずかしげにも見えた。
 セイはいつものように笑顔を向ける。
「そろそろ日が暮れるけど、中に戻らなくてもいいの? 遅くなると、食堂が満席になっちゃうよ」
 何でもないような言葉を選ぶと、テンガアールの表情がほっと和んだ。
「うん、そうね。ありがとう」
 小さく笑って、テンガアールは自分が寄り掛かっていた木を見上げる。
 サルスベリの大樹は、梢の高さが城の二階に届くほどで、その枝一杯に華やかな桃色の花を咲かせている。
 一つ一つの花は一日で終わってしまうが、可憐なフリルのような花は夏が終わり切るまで三ヶ月余りも耐えることなく咲き続ける。百日紅と呼ばれる所以(ゆえん)だった。
「故郷の村にも、ちょうどこんな色のサルスベリがあったから、何だか懐かしくって。こんな大きな木じゃなかったけど……」
 彼女は愛おしむように、すべすべの幹を手のひらで撫でる。
 が、彼女の横顔は単に昔を懐かしんでいるだけではないようにも見えて、セイは、そっと問いかけを唇にのぼらせた。
「そういえばヒックスは?」
「彼ならフッチの所にまだいると思うわ」
 テンガアールは振り返り、あっさりと答える。
「午後のお茶の後、私たちはフッチの所に行ったのよ。年齢がそう違わないし、同じトランの出身だし、特にヒックスは話が合うの。それで、私はブライトと遊んでいたんだけど、そのうち遊び疲れたブライトが眠っちゃったのよ。でも、二人の話は盛り上がってて終わりそうになかったし、だから、たまには一人でお城の中を散歩するのもいいかと思って」
 そうしてここに来たら、サルスベリを見つけて懐かしくなったのだ、とテンガアールは気恥ずかしそうに笑った。
「綺麗よね。色が華やかで、いかにも夏の花っていう感じで」
「うん、そうだね」
 セイはうなずき、テンガアールは花を見上げる。
 黄昏時が近付いた空は、刻一刻と輝かしい橙色が濃藍色の夏の夜空へと移り変わってゆく。湖からの夕風は少しばかりひんやりと涼しく、石畳や城壁に籠った暑気をやわらかく冷ましてゆくようだった。
 花を見上げ、少女を見つめ、しばらくの間、誰も物言わぬ時が過ぎて。
「……本当は」
 長い沈黙の後、テンガアールはひっそりと呟いた。
「本当は、少しだけ一人になりたかったの。ヒックスから離れて」
 テンガアールはセイとティルの方を向かなかった。夕風に吹かれて小さく揺れる花だけを一心に見上げたまま、いつになくひそやかな声でささやく。
「ヒックスといると、いつも考えてしまうから。いつになれば成人の儀式を終えて、故郷に帰れるのかしらって。いつになれば、私達は結婚できるのかしらって」
 そう言い、テンガアールは自嘲するように微笑む。
「分かってるの。彼は戦士には向かない。本当は先生になりたかったのよ。子供たちに読み書きとか計算とか、色んなことを教える先生に……。昔っから喧嘩が嫌いで、私がお転婆するとうんと心配して……私が怪我したりすると、人一倍心配してくれた。そういう彼だから、私も子供の頃から大好きだったの」
 けれど、と呟いた。
「私たちの故郷は戦士の村。戦士でなければ、尊敬されないのよ。見るからに強くて、たくましい英雄でなければ……。私もヒックスの優しい所が好きなのに、彼が見るからに強そうな戦士だったら、ってつい考えてしまうの。そうだったら、誰もヒックスを軽く見ないのに、って……」
 切ない、何かを一心に乞い願うまなざしでテンガアールはサルスベリの花を見上げる。
 が、そのまなざしを伏せ、唇を小さく噛んだ。
 それから、気分を取り直したように振り返る。
「ごめんなさい、セイもティルさんも。変な話しちゃったわ」
「ううん、全然構わないよ」
「大丈夫だよ、テンガアール。僕たちは何も言わないし、聞かない。信じてくれていい」
 ティルが付け加えた言葉に、テンガアールはまっすぐなまなざしを向けた。
「――ええ。ありがとう」
 潔さを滲ませる表情で一つうなずいて、テンガアールはもう一度サルスベリの幹を撫で、木から離れる。
「それじゃあ私、行くわね。ヒックスを捜さないと」
「うん」
 ほのかに笑ってテンガアールは二人の横を通り過ぎ、城の本館の方に向かって歩いてゆく。その後ろ姿が遠くなるまで見送ってから、セイはそっとティルを見上げた。
「あの……」
「うん?」
「やっぱり難しいんですか? 成人の儀式って……」
 二人と知り合い、仲間になった経緯が経緯だったから、セイも成人の儀式が何たるものかは知っている。
 そして、それをヒックスに成し遂げさせるために、テンガアールがなりふり構わないほど懸命に心を砕いていることも。
 だが、セイの質問に、普段なら立て板に水の如く答えるティルも少しばかり困ったように首をかしげた。
「うーん。答えてあげたいけど、僕も具体的なことは知らないんだよ。フリックなら、どの程度の功績をあげればいいのか、大体の目安は付くんだろうけど」
 ただ、とティルは付け加えた。
「僕も戦士の村には何日か滞在したことがあるから分かるけど、あの村は彼女の言葉通りに、一人前の戦士しか男として認められない風潮がある。もちろん、普通の村だから雑貨屋や鍛冶屋もあるし、子供たちを教える教師もいる。全員が全員、戦士というわけじゃない。ただ、戦士じゃないと軽んじられる部分は確かにあったと思う。そして、テンガアールはそんな村の族長の一人娘だ」
「……つまり、テンガアールのお婿さんになる人は、誰が見ても立派な戦士じゃないといけないってことですか?」
「そうじゃないと、納得できない人たちがいるっていうことだろうね。二人が真実、相思相愛だと分かっていても」
 淡々と語るティルの声を聞きながら、けれど、とセイは考える。
 ヒックスは見るからにたくましいタイプではない。気質は穏やかで、無用な戦いを好まない。
 だが、臆病というのとは違う。テンガアールのため、そして仲間のためなら、剣を取って戦うことも厭わない。
 ちゃんと戦士の魂を持っているのだ。
「……ヒックスは、マクドールさんとも戦っていたんですよね」
「うん。よくやってくれたよ。剣士としては未熟な所もあったけれど、彼は勇敢な戦士だった」
「そして、僕とも戦ってくれてます。それでもまだ、足りないんでしょうか」
「そればかりはね。フリックに聞けば分かるかもしれないけど。もっとも、僕個人としては十分すぎる活躍だとは思う。――でも」
「でも?」
「ほら、ヒックスの見た目はそう変わりないだろう? 昔に比べれば背も伸びたし、体つきもできてきてるけど、骨格からしても、見るからにたくましいタイプにはなれない。雰囲気も、彼自身が戦士としての自分に自信を持てないせいもあるんじゃないかと思うけど、一見しただけじゃ歴戦の勇者には見えない。テンガアールが気にしているのも、その辺りの村人の反応じゃないかな」
「外見で人を判断するのは良くない、って言っても無駄ですよね。そういう考え方をする人には……」
「そう。それでいつも苦労するんだよ、僕たちは」
 セイはもちろん、ティルもセイよりは二、三歳年上の姿をしているものの、見かけは十代の少年でしかない。無論、武道に関してはそれなりの腕前であるだけに、いかにも敏捷そうで挙動は爽快な印象を与えるが、いざ軍主を名乗るとなると、様々な反応を受けざるを得ないのだ。
 けげんな顔をされるのはもちろんのこと、笑い出されたり怒り出されたり、侮られたりという経験には枚挙の暇がない。
 そんなセイたちだからこそ、ヒックスとテンガアールの苦悩も我が身のことに置き換えて理解することもできた。
 そして、そんな外見に由来する偏見を払拭することが、どんなに困難であるかも。
「僕たちが口出しすることじゃないけど、多分、どこかで踏ん切りをつけて村に帰るしかないだろうね。失礼な言い様かもしれないけど、ヒックスの印象はきっとこの先も、大きくは変わらない。そして、テンガアールも同行している以上、いつまでも成人の儀式を続けてもいられないだろうし」
「フリックさんみたいに一人で旅をしてるなら、まだどうにかなるんでしょうね」
「フリックの場合、どうにかなるというより、なし崩しになってるだけだと思うよ。そもそも、自分が戦士として村に認められるかどうかについては、オデッサに出会った時からそんなに大きな意味は持たなくなったみたいだから」
「でも、ヒックスはテンガアールがいる以上、フリックさんみたいにはできないってことですね」
「そういうこと」
 うなずくティルの同意を聞いて、セイは何となく溜息をついた。
 恋人たちのことにはもちろん、彼らの村のしきたりにも口を出すつもりはない。だが、あれほど懸命に想い合っている二人が、周囲全てに祝福されて結ばれることが難しいという現実が、どうにもやり切れないような、寂しいような気分にさせられる。
 そんなセイの思いを見透かしたのか、なだめるようにティルがセイの頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「大丈夫だとは軽々しくは言えないけど、でも、あの二人はきっと何とかなるよ、セイ」
「マクドールさん……」
 セイが見上げると、ティルは夕風に乱れた前髪をかきあげながら微笑む。
「二人とも絶対にお互いを諦めないだろうし、テンガアールの父親も、何の勘のいって一人娘には甘いから。そりゃ最初のうちは、二人の結婚にいい顔をしない村人もいるだろうけどね。ヒックスなら、きっと時間をかけて周囲に自分を認めさせることができるんじゃないかな」
「──そうですよね!」
 ティルの言葉に、セイはぱっと目の前が明るくなったような気がした。
 確かに、今のあの二人の前にある壁は、うんと厳しく大きいように思える。
 しかし、ヒックスはテンガアールのためなら何でもする気概があるし、テンガアールもヒックスのためならば、陰日なたを問わずに支えることをやめないだろう。
 そうして諦めなければ、きっといつか未来は開ける。時間はかかるかもしれないが、それは絶対のことであるように思われた。
「そうそう。僕らにできるのは、二人を信じて応援することだけだよ。少なくとも、ヒックスの勇気については証言してあげられるしね」
「はい」
 ようやく明るい気分になって、セイはサルスベリの木を見上げる。
 黄昏時の青みを増してきた空の下で、鮮やかな夏の花もそろそろ陰に沈みつつある。更に見上げると、花の向こうに気の早い一番星が白く見えた。
「僕たちも、そろそろ行こうか。本当に食堂の席がなくなってしまうよ」
「あ、そうですねー」
 うなずいて、セイはティルに並んで歩き始める。
 ティルの言う通り、食堂の込み始める頃合ではあるが、しかし、どちらも急ぎはしなかった。ゆっくりと散歩をする速度で、本館へと続く小道を歩く。
「でも、やっぱり難しいですね。恋とか結婚とか」
「そうだね」
 石畳に革靴の足音を響かせながらの言葉に、ティルは穏やかにうなずいた。
 だが、セイの言葉をどう受け止めたのか、少し待っても彼にしては珍しいことにそれ以上続く言葉はなく、少しためらった後、セイは喉元まで出かけていた言葉を飲み込んだ。
 何となく訊いてもはぐらかされてしまいそうな気がしたし、また、訊くのが少し怖いような、訊いてはいけないような気もしたのだ。──誰かを好きになったことがありますか、などという問いは。
「今夜のメインは何でしょうね」
「さあ? でも何が出たとしても、ハイ・ヨーのことだから、きっと美味しいよ」
「そうですよね」
 お魚だったら嬉しいな、昨日は鳥料理だったからと世間話のように言いつつ、セイは考える。
 もしも自分が誰かに、恋をしたことがあるかと聞かれたなら、ないと答える。
 単純に好きな人なら沢山いるが、恋と呼べる感情を誰かに抱いたことはなかった。
 ───少なくとも、これまでは。
 そっと隣りを盗み見ると、敏(さと)い彼は直ぐに気付いて優しいまなざしを向けてくる。
「何?」
「いいえ、何でもないです。ただ、マクドールさんがいてくれて良かったなぁと思って」
「僕が?」
「はい」
 やや唐突なセイの言葉にも、ティルのまなざしの優しさは揺らがない。だが、淡く笑んだその表情は、少しばかり面白がっているようにも不思議がっているようにも見えた。
「いっぱいいっぱい、助けてもらってますから」
「そんなことはないと思うけど……。同盟軍が皆、和気藹々と元気なのも、ここまでやってこられたのも全部、セイの実力だよ」
「そんなことないですよ。全部、沢山の人が助けてくれてるおかげです」
 そして、とセイは心の中で呟く。
 彼が居るからこそ、頑張れる部分も大きいのだ。
 何があっても自分の味方をしてくれる、いつもいつも一番苦しい時に手を差し伸べてくれる彼が居るから。
 自分は、頑張って立っていられる。
 だから。
 恋をしたことはない。これまではないけれど───。
「僕はヒックスとテンガアールのためには何にもしてあげられないし、そういうことは他にもいっぱいありますけど、でも、自分にできることは頑張りたいんです。だから、マクドールさんももう少し、一緒にいて下さいね」
 そう言うと、ティルはかすかに驚いたように小さくまばたきして、それからいっそう優しい笑みを見せた。
「いるよ。セイが僕を必要としてくれる限りは、ずっとね」
「はい」
 優しい言葉にセイも笑顔を返す。
 いつまで一緒に居られるのかは分からない。
 いつまでこの戦いが続くのかも分からない。
 けれど、こうして過ごした時間だけは、決して忘れないと、そう思った───。

End.

前作からかなり間が空きましたが、幕間話その2です。
ヒックスとテンガアールのカップルが、いつか幸せになれたらいいなと思いながら書きました。
サルスベリの花は、何となく彼女のイメージで。
可憐で可愛らしいのに、強くたくましい。私の大好きな夏の花でもあります。
なお、セイが何やら物思いしているようですが、それについてはまた後日、です。


BACK >>