修羅 蒼雲の章

−朝露−












 静かな朝だった。
 大都市グレッグミンスターの中心街に位置する以上、たとえ早朝であっても街の賑わいから逃れることは難しいが、マクドール邸はその広大な敷地と、邸宅をぐるりと取り囲む樹木によって外界の喧騒を和らげることに成功しており、ましてや今日のように風のない日であれば、賑やかに街を往来する馬車や荷車の石畳を駆ける音、物売りの声といった物音は夢の彼方のように遠く、朧気にしか届かない。
 とりわけ屋敷の東側に広がる小さな森のような木立の中は、ここに棲みついている小鳥たちのさえずりが百の鈴を振っているかのようで、ともすれば、ここが大都市の中心部であることを忘れてしまいそうなのどかさだった。
「本当に何も変わってないな……」
 ゆっくりと木立の中を歩きながら、シェンは小さく呟く。
 こうしてこの屋敷の庭を歩くのは、数えれば七年ぶりのことである。それだけの時間の経過があれば当然、木々の形は多少変わっているし、新しく入れ替わっているものもある。
 だが、それを差し引けば、程よく手入れされた木立の枝を透かして注ぐ木漏れ日の明るさも、下草の具合も、シェンの記憶にあるものと殆ど変わりはなかった。
 おそらくはクレアの指示の下、庭仕事を丹精してくれている使用人が幾人もいるのだろう。
 三年前に終結した内乱の際に先代当主テオドリック・グリエンデス・マクドールが戦死した後、一年余りの間この屋敷は無人となり、内乱終結直後にシェンが立ち寄った際には、手入れする人を失った庭園は無常と寂寥感を漂わせて荒れていた。
 それが今は、こうして以前と変わらない美しさと明るさを取り戻している。
 そこにどれ程の努力と思いがあったのか、昨夜、邸宅内を見て回った時にも感じた感嘆と少しばかりの困惑、そして自省を覚えずにはいられなかった。
「クレアもパーンも、本当にこの屋敷を大事に思っていてくれたんだな……」
 正確に言うならば、この屋敷での日々を、だろう。所詮、家屋敷は器(うつわ)でしかない。
 父テオがいて、シェンがいて、グレミオがいて、大勢の使用人と、絶えず出入りする食客たちとテッドがいて……。
 何の不足もなく、美しく手入れされたこの屋敷での明るく温かさに満ちていた日々。
 クレアもパーンも他に身寄りとてない身である以上、既に無いそれぞれの生家以上にこの屋敷は『我が家』であったに違いない。
 だが、テオは最後の出陣に際し、したためた遺言で、この邸宅を含む財産の全てを国に返上することを定め、シェンもそれを当然として、身一つで故国を去った。
 残された人々の悲嘆を思わなかったわけではないが、彼らもまた、決して弱い人間ではない。それぞれに生きてゆくだろうと思っていたのだが、しかし、それが間違いであったことを昨日、骨の髄から思い知らされた。
 彼らは他に行く場所を見出せなかったのだ。
 故郷に迎えてくれる人はなく、他に行きたい場所も無い。そして何より、旧主一家との日々が忘れがたく、シェンがそれを望んでいないことを承知の上で、あえて新大統領となったレパントに、マクドール邸の管理人となることを許可してくれるよう請願せずはいられなかったのだろう。
 そして、レパントも議会も、クレアとパーンの請願を容れ、それどころか首都のマクドール邸や本領を含むマクドール侯家の財産全てを接収することなく、旧来のままに温存することを裁可した。
 そこに込められた想いを、ただの感傷だと切って捨てることは簡単だった。
 トラン共和国は貴族性を廃止し、ゆえに広大な領地を持つ不在領主など、百害あって一利も無い。また、トラン共和国を新たな故国とする気のないシェンにとっても、邸宅も領地も無用の長物にすぎない。
 だが、それを不要だと切り捨てることは、シェンにはできなかった。
 クレアとパーンは、このマクドール邸で生きることを望んだのである。常に忠実だった主君の遺志に背いてまで、ここに在ることを望んだ。
 おそらくは財産の返上を遺言した父テオですら、彼らのこんな形での造反は予想していなかっただろう。
 しかし、彼らが本当にそれを望んでいるのであれば──事実、昨日シェンを迎え出たクレアの瞳に浮かんでいたのは、喜びと恐れ……罪悪感だった。彼女たちはテオの遺言に逆らい、シェンの逆鱗に触れることをも覚悟の上で、この邸宅に居続けていたのだ──それを叶えるのが、テオの息子であるシェンの役目だった。
 いみじくも昨夜、ユイファが言った通り、彼がそれを望むのであれば、そしてそれが難しいことでないのならば、叶えてやることは造作ない。
 彼女たちの気が済むまで……あるいは、彼女たちが安らかに天寿を全うするまで、シェンは彼女たちの主君、シェイラン・エセルディ・マクドールであり続け、彼女たちの居るべき場所を提供し続けてやればいい。
 それだけの話であり、それは諸国を放浪し続けながらでも十分に可能なことだったから、シェンも今更、彼女たちを放り出そうとは思わなかった。
「本当はもう少し早く、安心させてやれれば良かったんだろうけどね……」
 三年前にシェンがこの地を去った後、彼女たちが感じただろう後ろめたさや罪悪感は、彼女たちが誠実であるがゆえに、いっそう大きく辛いものだったに違いない。
 だが、シェンもまさか、こんなことになっているとは夢にも思わなかったし、元より今回のような偶然がなければ、当分、トランに寄り付く気もなかったのである。
 ほとぼりが冷めて『建国の英雄』の帰還が、安定した国政にとってはむしろ迷惑なものになるまで国外にいるつもりだったのだ。
 だが、意図に反してこの国に足を踏み入れたおかげで、少なくともクレオとパーンには、彼女たちの抱いていた後ろめたさと不安に許しを与えることができた。
 自ら望んだわけではないグレッグミンスターへの帰還だったが、それだけでも十分すぎる収穫だっただろう。
 そしてまた、現状を知った以上、いずれ近いうちには、アールス北方の本領にも出向かねばならない。
 そこでは代々仕えてきた謹厳で融通のきかない城代が、今も『御館様』の帰還を待ちわびながら広大な領地と領民を守っているはずであり、彼らに対しても、今は亡き父親に代わって望むものを与えてやるのがシェンの役目だった。
 そんなことを考えながら歩いているうちに東側の木立を抜け、南の通りに面した正面門へと続く、美しい季節の花が咲き乱れる庭園へと差し掛かる。
 そこまで来て、シェンは思いがけない人影を認め、足を止めた。

 ──すらりとした優美な姿と、腰にまで届く長い金髪。

 彼女はこの屋敷の住人ではない。が、自由に出入りすることを許されていた数少ない人間のうちの一人だった。
 一瞬足を止めた後、シェンは再びゆっくりとした足取りで彼女に近づく。そして、驚愕に目を見張った彼女の表情が見分けられる距離で立ち止まった。
 そうして向き合うこと、十秒か二十秒か。
「──本当に、変わらないのだな」
 十七歳で時間を止めたシェンの姿をまじまじと見詰め、有り得ないことだとでもいうように柳眉を軽くしかめながら彼女は呟く。
「そういう貴女も、何も変わっていないようだね。ソニア」
 久方ぶりに顔を合わせた隣家の女主人に対し、いつになく冷ややかなまなざしを向けて、シェンは応じた。
 一方、ソニアの瞳も、旧知に会った懐かしさは欠片も浮かんではいない。赤の他人を見る以上に冷たく、敵意が奥底に揺らめいている。
 その瞳のまま、ソニアは花片のような唇を開いた。
「我が家の使用人が、昨日、お前が帰ったようだと言っていたのだが、まさか……」
「戻るとは思わなかった? それは当たっているよ。ここにいるのは成り行きで、僕の本意ではない。今日にでも発つつもりだ」
「────」
 陽光を受けた湖のきらめきを思わせる青い瞳が、真意をさぐるようにシェンを見つめる。
 その瞳は、父テオが愛した瞳だった。
 ───シェンの母が早くに亡くなった後、十五年余のやもめ暮らしを続けていたテオに寄り添ったのは、マクドール家と並ぶ名門将軍家のシューレン家の一人娘、ソニアだった。
 年齢が十以上も違った上、共に高名な武門の当主同士であったがために二人が結婚に至るのは少々困難だろうと思われていたが、それでも彼らが互いを大切に想い合っているのは傍目にも明らかであり、シェンも彼らの交際に反対したことはなかった。
 ソニアは隣家の令嬢であり、シェンも生まれた時から見知っている相手だった。
 そして、美しく才気溢れた彼女が少女の頃から父テオに対し、強い憧れを抱いていたことも子供ながらに知っていたから、十歳も違わない彼女が義理の母親になるというのは少々違和感があったものの、共に暮らす分には楽しいだろうと二人の交際を受け入れていたのである。──少なくとも、あの内乱が深刻化するまでは。
「どの面を下げて、と言いたそうだね」
「!」
 澄んだ青い瞳に浮かぶ警戒心と非難、それを正確に読み取ってシェンは冷めた声をかける。
「貴女は本当に変わらない。僕を許せないのも憎むのも貴女の自由だが、あの頃と同じように公人と私人との区別を今もつけられないままでいるなら、将軍位は返上した方がいい」
「何を……!」
 シェンの言葉は久方に会う相手に告げるものとしては、あまりにも辛辣であり、鋭すぎる刃だった。
 当然ながら、ソニアは顔色を変えて心外だとばかりに声を上げたものの、さすがに年長者として、あるいは共和国将軍としての矜持が働いたのだろう、それ以上は言わずにぐっと押し黙る。
 だが、シェンは容赦しなかった。
「クワンダもミルイヒもカシムも、我が父テオも、帝国将軍としての責務をそれぞれに全うした。貴女はどうなんだ? 僕はあの日以来、貴女が一人の女性として僕を非難する言葉しか聞いた覚えがない。昔も今も、貴女は一国の将軍であることに変わりはないのに」
「テオ様の名を口にするな!」
 次々に言葉の刃(やいば)を繰り出すシェンに、鞭のようなソニアの声が反駁する。
 反射的に叫んだのだろうソニアの青い瞳には、憤り、悲しみ、憎しみ、そんなものが混然として渦を巻き、奔流となって目の前に立つ青年に向かおうと牙を剥いている。
 しかし、その鋭い輝きを真正面から受け止めて、シェンは小さく溜息をついた。
「あの時……シャサラザードでも、貴女はそう言った。そして、僕の正義を問うた。だが、僕こそ訊きたい。貴女の正義は、将軍としての、そしてシューレン家当主としての誇りはどこにある?」
「お前が当主としての誇りを問うのか、シェイラン!?」
 どこまでも冷ややかなシェイランの声が、彼女の中の何かに触れたのだろう。ソニアの声が激昂する。
「マクドール家とテオ様を傷つけ、御名を貶めたお前が何を問うのだ!? 無用の乱を起こし、陛下とテオ様のお命を奪ったお前が……!! 私は絶対にお前を許さない!!」
「僕が何故、陛下を討ったのか、貴女にはまだ分からないのか!?」
 厳しい怒りの声を上げたソニアに呼応するように、初めてシェンが声を鋭くした。
 シェンのかつて数万の将兵を従えた声が……稀代の英雄と謳われた青年の声が、鉄鞭のように彼女を打つ。
「僕が何故、父上を討たざるを得なかったのか……。父上の一番近くにいて、同じ帝国将軍だった貴女に何故、分からない!? あの内乱の続いた四年もの間、貴女は一度も現実の目でこの国を見ようとはしなかった。だが、戦いが終わって三年が過ぎたというのに、まだ何も分かっていないのか!?」
 ソニアを見据えるシェンの深藍の瞳に、雷光にも似た憤激の光が閃く。
 その眼光の鋭さにソニアは息を呑んだが、しかし、引き下がろうとはしなかった。負けじと鋭い声で言い返す。
 将としての器も名声も、シェンには及ばない。だが、彼女も名門軍閥の直系、誉れ高い紅月の……今はトラン水軍の長である。
 苛烈な攻勢にもたやすくは揺らがない。それは確かに、彼女の将としての才だった。
「帝国はまだ建て直せた。確かにウィンディのせいで国内は荒れていたが、陛下は賢明な御方だったし、我々五将軍も、数多くの有能な廷臣もいた。お前もマッシュ・シルバーバーグも、国政が傾いていたというのなら尚更、我が栄えある帝国を支えることにこそ、尽力するべきだったのだ!」
「……貴女は時勢を読むということができないんだな」
 呟くようなシェンの声は、憐れむというよりも、むしろ蔑みが含まれていた。
「あの頃、シャサラザードから出て、付近の民衆の声をわずかでも聞いていれば、そんな言葉は出てこなかっただろう。──僕とマッシュを非難したければ、いくらでも非難すればいい。憎みたければ憎めばいい。だが、その前に、ソニア・ペルヴァンシュ・シューレン」
 家族かよほど親しい相手、あるいは君主にしか許されない呼び方で彼女の名を呼び、シェンは冷たく、厳かに言い捨てる。
「陛下がウィンディをご寵愛なさって国政が乱れた時、あるいは僕が謀反を起こした時、我が父テオが亡くなった時。貴女は貴女自身の責務を果たすことを考えるべきだった。機会は幾らでもあったのに、あれから三年の月日が過ぎても、尚、それができないというのであれば、預かった将軍位は返上するべきだ。それが貴女とこの国のためだろう」
 感情を消した声で告げ、シェンはソニアに背を向ける。
「ビクトールに感謝するといい。責務を果たそうとしなかった貴女の命が今あるのは、あの女子供に甘い男が僕を止めた、その理由唯一つによるものだから」
「ならば、殺せば良かっただろう……っ!!」
 歩み去ろうとするシェンの背中に向かって、ソニアが叫んだ。
 それは血を吐くような、悲痛な苦鳴だった。
「そうではないか、シェイラン! テオ様を殺したように、あの時、私も殺せば良かったのだ……!!」
 だが、シェンはもう振り返ろうとはせず、水の流れる小川とその中途にある丸い池を中心として、色とりどりの花が咲き乱れる庭園を静かに歩み去る。
 そして、屋敷の正面玄関の前まで来て、おや、という顔で再び足を止めた。
「──何か言いたそうだね、ルック」
「別に」
 いつからそこに居たのか。シェンに負けず劣らず冷めた目をした魔法使いは、素っ気なく答える。
「ただ、君は相変わらず残酷だと思っただけさ」
「自分が慈悲深いなんて、一度も思ったことはないよ」
「そういう意味じゃない」
「ふぅん?」
 問いかけるようなシェンのまなざしに、ルックはふいと視線を逸らした。
「君は相手構わず、それぞれが負った責任を完璧に果たすことを求める。そうしない、あるいはそれができない人間の弱さを決して許さない。──それが残酷だっていうんだよ」
「精一杯努力した結果なら、それが失敗であっても咎めないさ」
 非難の棘を無数に含んだルックの声に、薄く笑んで、シェンは玄関に続くポーチの階段を上がる。
「僕が軽蔑するのは、責務を自覚せず、果たそうともしない人間──それだけだ。それにルック、そう言う君も、弱くて愚かな人間は嫌いじゃなかったっけ?」
 それだけ言って、シェンは自らの手で玄関の大扉を開け、中へと滑り込む。
 そして、かすかに音を立てて閉じた扉に背を向けたまま、一人取り残されたルックは小さく呟いた。
「だから、自分の責務を正しく認識して、それをやり遂げることができる人間が、一体どれだけいるっていうんだ? 確かに解放軍の兵士たちは、君というリーダーの下で、一人ひとりがやるべきことを見出したし、その殆どがそのために命がけで戦った。でも、そんな巡り合わせが誰にでもあるわけじゃない。……それを認めようとしない君も十分に愚かだよ、シェイラン」

*            *

「……驚いた」
 そっと窓から離れながら、ユイファは呟く。
 あんな目を見たのは、初めてだった。
 あの宵の空のような、深い深い藍色の瞳に、あんな冷ややかな光が浮かぶのを見たのは。
 ユイファに貸与された客室は二階の中央近くに位置し、南向きの窓からはちょうど前庭と玄関ポーチが見下ろせる。そこで何かが起きていることに気付いたのは、少し遠くから聞こえた女性の声だった。
 まだ若い、張りのある美しい声。
 何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、その声は胸をかきむしられるような痛みに満ちていた。
 それで何事かと驚いて、朝の支度をする手を止め、窓をのぞいたのだ。
 広大な前庭の池の向こう側に小さく、まず見えたのは、彼の後姿。そして初めて見る長い金髪の女性だった。
 女性の顔かたちは分からない。二人の声も言葉は聞き取れない。それくらいの距離だった上に、窓も開けなかったから、見ていることにも気付かれなかったのだろう。
 悲痛に何かを叫ぶ女性をそのままにして、彼は屋敷の方に歩いてきて、そして玄関前で足を止めて。
 そこで初めて、ユイファはルックが玄関ポーチにいることに気づいた。
 そして同時に、庭園から一段高いポーチの下段にいるルックと目線を合わせるため、顔を上げたシェンの深藍の瞳をまともに見てしまったのだ。
 ──まるで、凍りついた雷光。
 冷ややかでありながら、鋭く激しい光。いま思い返しても、背筋が震えそうになる。
 これまで、たとえばルカ・ブライトのまなざしを恐ろしいと感じたことはあるが、シェンの瞳はそれとはまったくの別次元だった。
 単なる恐怖を呼び起こすのではない、もっと絶対的な、何か。
 恐れと同時に、自分の無力さを思い知らされるような。
 畏怖、という言葉が一番近いかもしれない。
 これまで彼を優しいと感じたことは、一度もなかった。
 昨日出会ったばかりだが、彼は信じられないほどの力に溢れ、そして傲慢だった。自分のペースで会話を運び、自分のペースで行動する得体の知れない人物だった。
 だが、その秀麗な顔から何を考えているか分からない微笑を消すことは、ほとんどなかったように思う。唯一それが崩れたのは、レパントと会話をしていた最中の、ほんの一時だけだ。
 けれど、『優しくない』のや『得体が知れない』のと『畏怖』とでは、まったく次元が違う。
 しかも奇妙なのは、ユイファ自身が、初めて見たシェンのまなざしに驚き、畏怖に似た感覚を覚えながらも、恐怖は感じなかった、ということだった。
 彼の怒り──あの激しさは、おそらく怒りだろう──が自分に向けられたものではなかったせいだろうか。
「──分かんない、な」
 ふうと溜息をついて、ユイファは途中になっていた身支度の続きを始める。
 昨日は成り行きでこの屋敷に泊まってしまったが、できることなら早くここから立ち去りたかった。そして同時に、ここの主人である彼からも離れたい。
 昔から、得体の知れないものは苦手だった。余所者ということで、冷たい感情を向けられることが多かったせいかもしれない。家族とか親友とか、『大丈夫』と確信できるものの傍にしか居たくないのだ。そうでなければ、いっそ一人きりの方が気楽に感じる。
 そういう意味では、シェンは最悪だった。
 得体が知れないのに、ちょっかいをかけてくる。しかもそれは好意からとは到底思えないのに、害意も見えない。どう対処すればいいのか、まったく分からないのである。
 だが、今日もう一度レパントと面会して、今後の打ち合わせを済ませれば、この国を出ることができる。彼から離れて、仲間たちの待つ城に帰ることができるのだ。
 そう思うと、ほんの少しだけ気が軽くなったように思えて、ユイファは体内の空気を入れ替えるように大きく深呼吸した。
「あーあ、シュウのしかめっ面が懐かしい気がするなんて、末期かも」
 ぼやきながら、身支度を終えたユイファは客室を出る。そして、朝御飯はどうなってるんだろ、とひとまず階段に向かった。が、それは完全に間違いだった。
「おはようユイファ、早いね」
 ちょうど階段を上がってきたシェンに鉢合わせして、ユイファは飛び上がる。
「え! あ、はい……おはようゴザイマス」
「何、その挨拶は?」
 あからさまにどぎまぎしているユイファがおかしいのだろう。シェンは笑い、ゆっくりと階段を上がってきて、目線の高さを合わせた。
「朝食はもう用意できてるから、他の連中を起こして食堂に連れて行ってやってくれるかな。食堂の位置は分かるよね?」
「はい。昨日、夕御飯をいただいた部屋ですよね?」
「そう。じゃあ、また後、食堂で」
 そうとだけ言い置いて、彼は更に上の階へと階段を上がってゆく。
 その後姿を、何となく毒気を抜かれたような気分でユイファは見送った。
 ──先程の眼光の鋭さは幻だったかのように、静かな瞳。
 決して優しくはない。決して温かくはない色だったが、宵空のようにどこまでも果てなく、深く、そして静かだった。
 今見た限りでは、あの瞳が揺らぐことなど想像もつかないように思える。だが、先程、彼の瞳には間違いなく凍てついた雷光が浮かんでいたのだ。
 何故、そんなにも彼が激したのか。あの女性が誰だったのか。
 彼のことなどまるで知らず、この国の住人ですらないユイファには見当もつかない。
「……よく分かんない人、だな……」
 優しくはない。むしろ、全てをマイペースで通す傲慢さは、実は彼の本質は途方もなく冷酷なのではないかとすらユイファに思わせる。
 だが、彼の瞳はそれだけではなかった。
 あの天空の深遠を映したような、深く、静かな瞳は。
「──いいや。皆を起こそうっと。おなか空いたし」
 ぶんぶんと頭を振って物思いを払い落とし、ユイファは広い廊下を歩き始める。
 だが、たった今見たばかりの深い藍色だけは、いつまでも脳裏に残った。

...to be continued.

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