修羅 風塵の章

-夏嶺-












 近付いてきた人影に、あれ、と思う。
 人が来ると魚が逃げるから、という、こちらの口上を素直に信じてくれた村の宿屋の娘が、今朝からここに続く小道の入り口で通せんぼしてくれているはずなのに、一体誰が、とシェンは何の気もなく顔をそちらへ向けた。
 娘自身が軽食でも差し入れてくれるのか、それとも彼女の元気な弟か。
 しかし、それにしては気配が騒がしい、と思うよりも早く。
「シェイラン!?」
 朗々とよく響く、太い男の声に名前──それも随分と懐かしいような気のする名を呼ばれた。
「シェン! シェイラン! お前、どうしてこんな所に……!!」
 現在の仲間なのだろう、前にいた者たちを押しのけて駆け寄ってくる男の姿にシェンは軽く目をみはり、それから、あー、と心の中で嘆息する。
 ───目下、自分が滞在しているのは、ジョウストン都市同盟勢力下で最も南にある鄙びた漁村、バナーの村である。
 ここから故郷の旧赤月帝国、現トラン共和国までは、険しい峠道を越えて、およそ半日。
 そんな故国とは目と鼻の距離まで帰ってきたのだ。遅かれ早かれ、旧知の人々に見つかるだろうとは思っていた。
 しかし、よりによって。
 厄介事と面倒事を背負い込むのが大好きな熊に、一番最初に見つかるとは。
 おまけに、その相棒の青いのだけではなく。
「……ルック。どうして君まで居る?」
 三年前と変わらず冷ややかな色をした瞳を見やり、溜息交じりに名を呼ぶ。
 そうする間にも、ぞろぞろと目の前に並んだのは、若い──子供と言った方が良いほどの年代も含む──男女を取り混ぜて総勢六名。そのうち半数に見覚えがあった。
 見覚えがあるということ自体は、嬉しくも何ともない。別に自分は旧交を温めたいがために、三年ぶりに故郷に戻ろうとしたのではないのである。
 が、しかし、その意味合いを考えると、これはちょっと面白いかもしれない、とシェンは一同を眺めながら心の中で呟いた。
「──シェン、おい、シェンって呼んでるだろう!?」
「連呼しなくても聞こえてる。相変わらずやかましいね、ビクトール」
「やかましいって、お前……!」
 どこに居たんだ、どうしてこんな村に、と先程から大声でわめき続けていた旧知の熊を一言で片付け、シェンはまなざしを一行の中心に居る人物に据える。
「元気そうで良かった、って言ってるんだよ。それより紹介してくれないのかい? 気の毒に、目を白黒させてるじゃないか。彼が君たちの今のリーダーなんだろう?」
 真っ直ぐ見つめた、その先は。
 ───自分の外見年齢よりも更に二つ三つ年若い、少年。
 顔立ち自体は整っており、そこそこ可愛らしいが、取り立てて目立つタイプではないだろう。
 夏の日差しをはじいて金茶に光るやわらかそうな栗色の髪に、虹彩に淡く翠を帯びた薄茶色の瞳。
 年齢は十五、六といったところか、成長期はまだまだこれから、といった風情の俊敏そうではあるけれど細っこい体つき。
 どこにでもいそうな市井(しせい)の少年だ。
 けれど。
 只の少年に、歴戦の傭兵はもとより、バランスの執行者の弟子である魔法使いが付き従うわけがない。
 同類だ、と即座に断じて。
 シェンは、あでやかな笑みを面(おもて)に載せた。
「初めまして。君が新同盟軍の軍主?」
「あ、はい。ユイファといいます」
 戸惑いながらも返された応(いら)えは、外見の印象よりも、はきはきとした声と口調で、ほう、とシェンは思う。
「ああ、そうだ。すまんユイファ。お前も名前は聞いたことがあるだろう。シェイラン・エセルディ・マクドール。三年前から所在不明、消息不明の泣く子も黙るトラン建国の立役者だ」
「……実に素晴らしい紹介の仕方をするね、ビクトール。それ嫌味?」
「決まってるだろうが。あの後、本気で大変だったらしいんだぞ。初代大統領に御指名の置き手紙を見つけたレパントが、泣くわ喚くわ……。俺もつい最近、聞いて知ったんだが」
「へえ」
「一言で片付けるな!」
「そう言われても、今の僕にはその程度のことだし」
 さらりと言い放ち、シェンは一行の中心に居る少年と笑顔を向けた。
「というわけで下手な紹介だったけど、以後よろしく、ユイファ」
「……はい。ええと、マクドール…さん」
 目の前で繰り広げられた会話を呑み込み切れなかったのか、戸惑いもあらわに少年は応じる。
 が、その答えに対し、シェンは小さく首をかしげて見せた。
「マクドールさん、は止めて欲しいな。フルネームももってのほか」
「え……。じゃあ、何て呼べば……」
「シェン」
 短く応じて、シェンはユイファに笑みを向ける。
 だが、ユイファはそれには反応せず、眉間に軽くしわを寄せて言いにくそうにシェンの名を繰り返した。
「シェン……さん?」
「さんも要らない。できれば敬語もね。とにかくマクドールの名前は、人前では出さないでもらえると嬉しいな」
「はあ……」
 納得できるようなできないような顔で、ユイファはうなずく。
 その様子に、どうやら彼は、自分が納得できないことにはうなずきたくない性格らしい、と見当をつけながらシェンは周囲の人々へと向き直る。
「君たちもね。シェン以外の呼び方したら、そうだね、相手とその時の僕の機嫌によるけど、最悪、ソウルイーターであの世に御招待させてもらうよ。ユイファだけじゃなくて、この場に居る者全員ね」
 己の笑みが、どのような効果を持つのかは何年も前から十二分に知っている。
 ゆえに、シェンは完璧な笑顔で一同を見渡した。
「は…い……?」
「……シェン。お前、性格に無茶苦茶、磨きがかかってるぞ……」
「あそこからまた更にタチが悪くなれるなんて……人間に限界ってないんだな……」
「──トランの……英雄……?」
「マク…、シェンさんって、こんな人だったの?」
「頭の螺子(ねじ)が更に二三本、すっこ抜けたらしいね、あちらこちらほっつき歩いている間に」
「君に言われたくはないよ、ルック」
 意表をつく攻撃で相手の対応を確かめるのは、戦術の初手であり、シェンの得意技でもある。
 それぞれの反応をさりげなく観察しながらも、シェンは浮かべた笑みを消さないまま、新顔のうち、まだ名乗りを受けていない二人の女性──正確には少女と妙齢の女性へと視線を向ける。
「このお二人は?」
「ああ」
 忘れていた、と問いを受けたのは、やはり面倒見のいい熊だった。
「ちっこいのがナナミ。ユイファの姉貴だ。そっちはオウラン。女だてらに護衛を生業(なりわい)としてる傭兵で、かなり腕は立つぞ」
「ちっこいのってどういう意味よ、ビクトールさん!?」
「女だてらに、っていうのも頂けないね。認めてくれているのは分かるけど」
「相変わらず子供の扱いは上手くても、女性の扱いは下手だね、ビクトール。だから熊って言われるんだよ」
 女性二人に詰め寄られて、うお!?という顔になるビクトールに、シェンは肩をすくめて言い、それから紹介を受けた二人にも、あでやかな笑みを向ける。
「ここで知り合ったのも何かの縁だろうから、よろしく、ナナミ、オウラン……さんと呼んだ方がいいかな」
「いや、さんづけされるのは妙な気がするね。呼び捨てで結構だよ」
「では遠慮なく」
 見事な肉体美を惜しむことなく晒した女傭兵に呼称の了解を取り、さて、とビクトールを振り返った。
「で? 多忙を極めているはずの同盟軍軍主殿と幹部陣がこんな所に居るっていうことは、これからトランまで出張する予定なのかな?」
「あ、ああ。レパントとは先日、ユイファが会談したんだが、細かい用事がまだ幾つか残っててな」
「……なるほど」
 この村で宿を求めた折に、先日、同盟軍らしき一行がバナー峠を越えて宿敵の元赤月帝国ことトラン共和国へ向かった、という情報は入手していたから、ビクトールの言葉自体にはさほどの目新しさは含まれていない。
 会談したものの細かい用事が残っている、という言い方から、つまりは本当に同盟軍とトランは手を結ぶことにしたのだろう、とシェンは見当をつける。
 つい先日まで敵対関係にあった両国が、よくも手のひらを返す気になったものだとは思うが、ハイランドの本軍に迫られている今、それだけ同盟軍は苦しい状況にあるということなのだろう。
 そして、トラン大統領のレパントは、相手の素性にかかわらず、信義を持って接する者には厚い礼を返す人間である。
 むしろこの場合、驚くべきなのは、このユイファという少年が、レパントからそれだけの対応を引き出した、ということだった。
 しかし内面の思いは顔には全く出さず、シェンは当たり障りのない会話を続ける。
「それで軍主が自ら? まったく、どこの軍でもリーダーは大変だね」
「過ぎた事だと思って気楽に言いやがって……。それより、お前こそこんな村で何してる? トランはもう目の前だろうが」
「そうだよ」
 傭兵の問いかけに、シェンはさらりとうなずいた。
「ちょっと用を思いついて、グレッグミンスターまで行くつもりだったんだ。でも、その途中に色々ときな臭い話を聞いてね。何となく気になったから、もう少し情報を集めてみようかと、この辺の町や村を街道沿いに泊まり歩いてたんだよ」
 まさか、ここで君達に再会するとは思ってなかったけれど、と肩をすくめて。
「もっとも、新同盟軍には僕の時と同様に、色んな人材が集まってると聞いていたから、居てもおかしくはないとは考えたけど。でも、さすがにルックだけは予想外だったかな」
 ちらりと向けた視線に、目ざとくルックが反応して眉をしかめる。
「またもや師匠に身売りを強制されているとはね。相変わらずなんだな、あの女性(ひと)は」
「……人聞きの悪いことを言うんじゃないよ」
「そんなこと言ったって事実上、魔力の無料実演販売だろう? 人間性に問題のある弟子に、大勢の人に揉まれて成長しろという親心かもしれないけどさ」
「幸い、ユイファは君ほど人使いが荒くないんでね。快適にさせてもらってるよ」
「僕だって、君の事は大事にしてたけど」
「どこが!? 毎度毎度、行く先関係なしに連れ回してくれたくせに!」
「君の実力を認めてるからだろう。使えない奴なんか僕は連れて行かないよ。それに城に置いておくと、三階にいるのに湿気が鬱陶しいとか、文句言いっぱなしだったじゃないか」
「当たり前じゃないか! 本拠地の立地は悪い、軍主は人使いが荒いじゃ文句の一つや二つ、僕じゃなくったって言いたくなるね!」
「立地が悪いのは仕方ないだろう。あんな不便な場所にあったから帝国軍に攻め込まれる心配がなかったんだ。新同盟軍の本拠地だって、デュナン湖の畔(ほとり)にあると聞いたけど?」
「あそこは君の所と違って、改修が行き届いているんだよ!」
「だから、陸続きと小島じゃ、資材の搬入一つを取っても天と地ほどの差があるんだよ。僕は、うちの軍は十分によくやってくれていたと思うけどね。あんな場所を本拠地にして、一度も飢えなかっただけでも上等だよ」
「それは帝国軍が無能だったからだろう!?」
「そうなんだよね、なんで兵糧攻めにしなかったんだか……。まぁ僕もマッシュも、それが一番怖かったから、そうならないように色々と手を打っていたんだけど」
 ……他の人々を置き去りにして、舌戦を繰り広げている二人に目を丸くしていたユイファが、そっと傍に居たフリックの袖を引いた。
「この二人って、いつもこんな風なんですか?」
「……まあ、な。この三年の間にランクアップしてるのは間違いないが。前はここまで派手じゃなかった」
「そうなんですか……」
「あ、フリック。ユイファに何を吹き込んでるのかな?」
 毛を逆立てまくったルックにのらりくらりと応じていたシェンが、ひょいと顔を向ける。
「やめて欲しいね、初対面から僕の印象を悪くするのは」
「……お前なあ、今更この状況で、印象云々を口にするか?」
「するよ。ユイファに嫌われたら困る」
「……は?」
 突然、名指されてユイファは目を丸くする。
 どうして、この会話の成り行きでそういう展開になるのか、まったく理解できないというように見つめた少年に、シェンは、非の打ち所のない笑みを、その秀麗な顔に浮かべた。
「元天魁星と現天魁星が巡り合わせるなんて、そうそうあることでもないしね。それをさておいても、ユイファは中々可愛らしいし、これを機に是非ともお近づきになりたいと思ってさ」
「──お前、本気で言ってんのか?」
 一体何を言われているのか、目を丸くすることしかできないでいるユイファに代わり、隣りのフリックが、この上なく胡乱(うろん)げな表情で問う。
 その懸念に満ちたまなざしに、シェンは面白げに笑んだ。
「僕が本気じゃないことが、これまであったっけ?」
 その言葉に、フリックではなく別方向から反応が返って。
「だったら余計にタチが悪いって言うんだよ。いい加減に自分の根性の曲がり具合を自覚したら?」
「同じ台詞を鏡に向かって言ってみれば?」
 ちらりと肩越しにルックを振り返って毒舌に応戦し、そしてシェンは再びユイファへと向き直る。
「ユイファはどう? 僕に興味はない? 三年半前まで君と同じ天魁星を背負っていて、元軍主で、真の紋章のおまけ付き。自分で言うのもなんだけど、これほど話のし甲斐のある相手も、そうそう居ないと思うんだけどね?」
 上機嫌そうな笑顔で言葉を並べ立てるシェンに、ユイファが何かを答えるよりも早く、
「……一体、何を企んでるんだ?」
 彼をかつて軍主として仰いだ傭兵が、はっきりと眉をしかめて尋ねた。
「あ、フリックまで、そんなことを言うんだ? そんなに信用ない?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
「お前が何を考えてるのか、相変わらずさっぱり分からないってことだよ。どうしていきなりユイファにちょっかいをかけようとする? しかも、そんなふざけた態度で……」
 まなざしにわずかながらも険しさを加えたフリックに、シェンは相手には気付かれない程度に小さく笑む。
 こうして見たところ、三年前よりも面立ちに精悍さと沈着さが加わっているようだったが、彼の性根そのものは何も変わっていないらしい。
 どちらかというと直情型で、腹芸ができない一本気な剣士のままだ。
 彼のような人間をあしらうことは、シェンには至極たやすいことだったが、ルック相手ではあるまいし、再会直後に険悪になる必要もないだろうと、当たり障りなく口元に笑みを刻んで見せる。
「そんなに警戒しなくても、僕は君たちの敵になる気はないし、君たちの大事な軍主殿を取って食ったりはしないよ。それに僕の性格は、もともとこんなものだよ。あの頃は情況が情況だったから、それなりに真面目にやっていたけどね」
「信用できるか。あ、別にお前を信じてないって意味じゃないが、お前が俺たちには何にも言わず、しれっとした顔で無茶するのを、こっちは散々見てるんだからな。とにかく、お前が他意なく動くわけがない。一体何を企んでるんだ」
「まるで人を危険人物みたいに……」
「まさにその通りだろうが。武器を持たせりゃ敵なし、武器がなくったって結果は同じ、舌先三寸で敵も味方も言いくるめちまうし……」
「あの!」
 延々と続きかけた元天魁星と天暗星の遣り取りに、少年の声が割り込む。
「何、ユイファ」
 即座に反応したのは、やはりシェンの方だった。
 にこりと笑んでみせたトランの英雄に対し、しかし新同盟軍の軍主は、非礼にならないギリギリまで眉をしかめていて。
「フリックさんの言葉じゃないですけど……。どういう、意味ですか? あなたと僕と、確かに同じ天魁星を背負ってるのかもしれませんけれど、だからといって、それに意味があるんですか?」
 問いかける声は、凛と心地よく夏木立に響いた。
「……やっぱりいいね、君は」
「……は?」
 脈絡のない返答に更に眉をしかめたユイファに、シェンは両腕を胸の前で軽く組み、微笑みかける。
「訂正するよ。僕が興味あるんだ。君がどういう人間なのか、この先、どんな道を進んで行くのかね」
「な……」
 その言葉に気色(けしき)だったのは、ユイファ本人ばかりではなかった。
 やりとりを見つめていたビクトールやフリックまでもが、ぴくりと表情を反応させる。
 が、シェン自身はそんなことに頓着する気配はなく。
「ねえユイファ。君たちの軍は今、必死に戦力をかき集めているね? 別に噂を聞いて回らなくても、決戦を控えて劣勢にある軍が求めるものなんて決まっている。──欲しくないかい、僕の力が」
 ───喉から手が出るほどに、有為な戦力が欲しいのではないか、と。
 絶対の自信と優越を載せて。
 あでやかなまでに笑んだ顔の中で、深い深い青……藍の瞳が、ひたとユイファに向けられる。
 そのまなざしに。
「───…」
 ユイファが口を開きかけた時。
「た、大変っ、大変ですっ! コウが……っ!」
 池に突き当たって行き止まりになる小道を、一人の少女が悲鳴のように叫びながら駆けてきた。
「コウがっ、弟が山賊にさらわれて…っ! お願いします、助けて下さい!!」
 朝からこの道に誰も行かないよう通せんぼしていた村の宿屋の娘が、今にも泣き出しそうな顔でシェンと、それからユイファたちを見回す。
「山賊にさらわれた、って……」
「はい! あの子、一人で山に入っていってしまって……! 私、すぐに追いかけたんですけど、コウをさらった山賊たちの足が速くて、あっという間に見失っちゃって……。山には化け物や山賊が沢山いるから、絶対に行っちゃいけないって言い聞かせてあったのに……!」
 その言葉に、シェンを除いた一同は顔を見合わせる。
 だが、その間にも少女は、額を地面に擦り付けんばかりに深く頭を下げて、哀訴を繰り返した。
「お願いします! この村には山賊や化け物と戦って勝てるような人はいないんです。うちは裕福じゃありませんし、御礼なんて殆ど出来ませんけど……。たった一人の弟なんです! お願いします、助けて下さい!!」
 必死な少女の頼みに、一番最初に動いたのは。
「分かりました。すぐに行きますから、頭を上げて下さい」
 ユイファだった。
 安心させるようににこりと笑んで、少女の顔を覗き込む。
 ついで、
「ユイファの言う通りだ。年頃の女の子にゃ、そんな格好は似合わねえよ。すぐに弟を連れ戻してやるから、安心して待ってな」
 ビクトールもまた、少女に声をかけた。
 そして、熊の如き体格の傭兵は、一同の後ろで傍観者を決め込んでいた元リーダーを肩越しに振り返る。
「シェン、お前も来い!」
「どうして僕が」
「たった今、てめえの力が欲しくないのかと、その口で言いやがっただろうが。それなら役に立つ所を、ちったあ見せてみろ」
「……仕方ないね。口は災いの元って、こういうのを言うのかな」
「君の口から飛び出すこと全部が震天雷(=炸裂弾)なんだよ。分かってて言うのやめたら?」
「じゃあルックの言葉は、さしずめ毒薬煙毬ってところかな」
「馬鹿なこと言ってないで行くぞ、二人とも!」
「僕とルックを一まとめにしないで欲しいね。幾らなんでも」
「それはこっちの台詞!」
 言い合いながらも、シェンは手を伸ばせば届く位置の樹に立てかけてあった天牙棍を掴む。
 そして、殿(しんがり)でシェンを待っていたユイファへと並んだ。
 その刹那。
「!」
 シェンは、己の右手の甲が、ちり…と反応するのを感じて、一瞬、他の誰にも分からない程度に眉をしかめる。
「──シェンさん」
 だが、深く追求するよりも早く、隣りから少々堅い声で名を呼ばれた。
「何?」
「あなたが、どこまで本気で言っているのか知りませんけれど。とりあえず今は手を貸して下さい。今回の原因は僕にあるので、万が一の事態になったりしたら困るんです。絶対に無事にコウを連れて帰らないと」
「……その原因っていうのは?」
 シェンが問いかけると、小走りに近い速度で歩きながら、ほんのわずかにユイファは渋い顔をした。
「……僕が、あなたのことを気にしたんですよ。あの宿屋の女の子……エリさんが、あまりにも一生懸命通せんぼをしてたから。そうしたら、コウ君が、僕が山の方に行って悲鳴をあげてあげるから、って」
「ちょっと待って。それじゃ狂言じゃないの?」
 幼い子供の知恵で、姉の関心を自分に向けようとした。それだけのことではないのかとシェンは問いかける。
 が、ユイファは固い顔で首を横に振った。
「エリさんが言っていたのを聞いたでしょう? 狂言のはずだったんですよ。それが……」
「……それはまた間の悪い……」
「だから、絶対に助けなきゃいけないんです。僕のせいですから」
「なるほどね」
 一連の事情を把握して、シェンはうなずく。
 バナーは小さな村であり、村内の道を突っ切るのにも大した時間はかからない。すぐに足元は勾配のある山道へと変わった。
 バナーの峠道そのものは昔からあった街道の一部だが、しかし、長きに渡ってジョウストン都市同盟と旧赤月帝国の不和が続いていた影響で、いつしか通う者は稀となり、今や悪名高い山賊やモンスターの跋扈する危険地帯となってしまっている。
 その荒れた山道を、体力の消耗を度外視した速度で突き進みながら、シェンは呼吸一つ乱さないまま、ユイファに対して言葉を続けた。
「しかし子供の知恵だね。いくら人の役に立ちたいからって、大人でも腕にそれなりの覚えがないと危ない道に、一人で踏み込むとは」
 暗に、危険を知りながら好奇心に負けた方も負けた方だ、と告げるようなシェンの言葉に、ユイファはきゅ、と唇を引き結ぶ。
「馬鹿だったと思ってますよ、僕も。だから急いでるんです」
「……ふぅん。なかなか正直だね」
「──どういう意味ですか」
「言葉通りだよ。ルックやフリックの言葉を真に受けないでもらえると嬉しいんだけど」
「そうですか?」
「……結構手ごわいね、ユイファ」
 翠を帯びた薄茶の瞳に、胡乱(うろん)げな色をかすかに滲ませて見上げた少年に、シェンはくすりと笑う。
「でもいいよ、それくらいの方が。僕としても楽しいし」
「……一体、何を考えているんです、あなた。初対面の方に失礼ですけど」
「さて?」
 ますます笑みを深めるばかりで、答えず。
 それよりも、とシェンは続ける。
「ちょっと聞きたいんだけど。僕の右手が、さっき言ってたんだよ。知っている、だが違う、って。これってどういう意味かな?」
 途端、ユイファの顔がけわしくなった。
「……右手?」
「そう。右手。時々うるさいんだ、こいつは。特にお仲間を発見したりするとね」
 とんとんと、左の指先で己の右手の甲をつついてみせる。どちらの手も革手袋をしたままだったが、その生地を透視しようとでもいうかのように、ユイファはシェンの右手を見つめた。
「聞いてないわけがないよね、この右手のことは。僕も、君が真の紋章持ちだということは聞いているように。──だから訊いているんだけど、こいつの訴えの意味は?」
 再度の問いかけに、ユイファはしかし、寄せた眉を解くことはなく。
「あなたに話す事じゃありません」
 きっぱりと答えた。
「おや、つれないね」
「当たり前でしょう。逆に僕から聞きますけど、あなたが僕の紋章のことを尋ねる理由は何ですか?」
 明らかな不快感を滲ませた少年のまなざしに、うーん、とシェンは首をかしげてみせる。
「好奇心?」
 その返答に、ユイファは突き放すような溜息をついた。
「でしょう? そんな興味本位の人に話す事なんか、僕にはありません」
「ふぅん。それじゃあ仕方がないね。ルックにでも聞こう」
 もともと彼に用があったんだし、と呟くようなシェンの声に、ユイファは、どちらかというと可愛らしい顔立ちに似合わない眉間のしわを更に深くする。
 だが、それ以上は何も言わず。
 時折、横合いから飛び出してくるモンスターたちを問答無用で薙ぎ倒しながら、一行は峠道を更に先へと進んで。
 辿り着いたのは。




「何だとぉ!!」
「だ、だから化け物が出てきて……」
「ガキなんざ構ってる余裕は……」
「ふざけたこと言ってんじゃねえ!!」
 容赦なく打ち倒され、地面に這いつくばる山賊たちが口々に訴える言葉に、ビクトールが怒声を上げる。
 それを相棒の傭兵が宥めた。
「ビクトール、やめとけ。今は子供を助ける方が先だ」
「くそっ。てめぇら、その程度の根性で山賊なんかやってやがるんじゃねえ! そんな腰抜けは、とっとと廃業しちまえ!」
 珍しく吐き捨てたのは、ビクトール自身にも今の事態に対する自責の念があるからだろう。もともと子供に懐かれる性質であるし、本人も、子供の面倒を見るのを趣味としているところがある。
 だからこそ、幼い子供をさらった山賊たちが、この一帯に巣食うモンスター・ポイズンモスの幼虫に出くわした途端、子供を放り出して逃げたと告白したことが尚更許せないのに違いない。
 どうせさらうのなら最後まで面倒を見やがれ、と支離滅裂なことをぶつぶつと言いながら、ビクトールは春先の冬眠から目覚めたばかりの熊の如き形相で、山道を驀進し始める。
 その後に付いて進みながら、シェンは、やれやれ、と肩をすくめた。
 シェン自身も取り立てて変わったつもりはないが、やはり三年という月日は、人間を変えるには短すぎるらしい。
 というよりも、彼は一生このまま行くのではないか、と確信に近い推測をして。
「ユイファ」
「何ですか」
「もしかしなくても、君も一番最初、路頭に迷ってるところをビクトールに拾われた?」
「……そうですけど。それが何か?」
「やっぱり……。どこに行っても、熊は熊なんだなぁ」
 ここでもか、と呆れまじりの溜息をつく。
 すると、ユイファが眉をしかめた。
「シェンさんも、最初は路頭に迷ってるところを拾われたんですか」
「あれ、知らなかった? ……まぁ、格好いい話でもないし、これに関する話になるし。その辺りは英雄譚を書く時、レパントが意図的に省略させたのかな」
 敢えて、路頭に迷ってる、と反復したユイファの台詞はあっさりと流して、シェンはうなずく。
「ある日突然、お尋ね者になっちゃってね。どうやってグレッグミンスターを脱出するか悩んでる時に、ちょっとした騒ぎを起こして食い逃げしようとカモを待ってたビクトールと出会ったんだよ」
「……何だかものすごく、どっちもどっちだという気がするんですけど」
「そう?」
 熊と一緒にされるのも嫌だなぁ、とぼやくシェンに、ユイファは諦めにも似た溜息をついた。
「それで? シェンさんも気付いたら軍主になってたんですか」
 仕方がないから話に付き合ってやろうという気分が丸見えのユイファの問いかけに、シェンはうなずく。
「成り行きでね。そうしたら、人の寝こみばかり襲ってくるバランスの執行者とやらが、訳の分からない御託(ごたく)ばかり言うし、魔法は強力だけど毒舌しか吐かない彼女の弟子まで、洩れなくやってきたし。そんなこんなで、まぁ面白いとは言わないけど、それなりに有意義な体験だったよ」
「───…」
「で、ユイファ」
「何です」
 ちらりと顔を向けたユイファに、シェンは極上の笑みを返す。
「僕に興味が湧いた?」
「……寝言は寝てから言って下さい」
「つれないね。まさかユイファ、ルックと仲いい?」
「普通です」
「普通って、どのレベル? 食事やお茶を一緒にするくらい?」
「……まぁそんな所ですけど」
「彼の場合、それは十分、仲が良いって言うんだよ。駄目だよ、あんな奴の影響を受けたら」
「……あなたの影響を受けるより、よっぽどマシな気がしますけど」
 まっすぐに前を見たまま告げたユイファに、シェンは、おやおやと肩をすくめる。
「初対面の相手にそこまで言うとは。見た目とは裏腹に気が強いね、ユイファ」
 途端に、ユイファはきっとシェンを睨んだ。
「どういう意味です?」
「ん? ユイファが可愛いって意味だけど。褒め言葉だよ?」
「そんなのは褒め言葉じゃありません!」
「おやおや。でも可愛いのは本当だし」
「!」
 その単語を繰り返すシェンに、まだ言うか、とユイファはきつい瞳で見上げる。
 が、その顔も迫力あるというよりは、むしろ可愛らしさを感じさせる類(たぐい)のものと言ってよかった。
 とはいえ、彼がいわゆる美少年などという形容からは程遠いのは事実である。無論、顔立ちはそれなりに整ってはいるが、それ以上に、まっすぐ相手を見つめる瞳や、そこに浮かぶ曇りの感じられない性根が、成長半ばの容姿とあいまって「可愛らしい」と向き合った相手に思わせるのだ。
 しかし、ユイファ自身はその顔立ちが気に入らないらしい、とまた一つ、シェンは相手の反応を脳裏に刻み込む。
「勿体無い。外見も一つの財産だよ。面(つら)の皮一枚で、相手の態度がどれほど変わるか」
「……それは知ってますけど。嫌なものは嫌なんです」
「損な性分だね。そういう部分もいいけれど」
 面白そうだから、という言葉は省略して笑い、そしてシェンは、すいと鋭さの滲んだ視線を前方へと向ける。
 それにユイファも、まだ嫌そうな表情を少し残したままではあったが倣(なら)った。
「居たね」
「──はい」
 バナーの村を出てから、どれほど歩いたのか。そろそろトランの国境も近いだろう。
 起伏の多い峠道が、そこだけやや平坦になり木立もまばらに空間が開かれている。
 そこに。
 地面に倒れ伏した小さな少年の姿と。
 その向こう側に、大きな花崗岩の岩塊でもあるのかと見まごう、巨大なモンスターがいた。
「コウ!」
 傭兵たちが一斉に抜き身の剣を構え、モンスターを牽制する間に、ユイファは少年の傍らに駆け寄り、シェンとユイファの姉もそれに続く。
 が、地面にひざまずいてユイファが少年を抱え上げようとした瞬間。
「!!」
 ずんっっ、と重い地響きと共に、ポイズンモスの幼虫が宙に踊り上がった。
 その手も足もない巨体で、どうやって跳ね上がるのか、しかし、餌を奪おうとする人間たちを目掛けて的確にそれは落ちてくる。
 咄嗟にユイファはコウを腕に抱えて地面を蹴り、シェンもまたナナミの胴に腕を回して、後方へと飛びすさる。一瞬後、先程よりも更に重い地揺れと共にポイズンモスは大地へと落ち、そして戦闘体勢を整えるように、もぞもぞと蠢き始め。
 その様を見つめたまま、ユイファは、
「ナナミ!」
姉の名を呼んだ。
「コウをお願い!」
「う、うん! 気をつけて、ユイファ!」
 既にシェンの腕から解放されていたナナミは、大きな声で答えて、ユイファがそっと地面に寝かせた少年のもとへと駆け寄る。
 その後に、シェンもまた、ゆっくりとした足取りで続いた。
「コウ君! コウ君、しっかりして!」
 背後の空間で人間対モンスターの激しい戦闘が始まる中、完全に意識を失っているらしい少年の小さな頭を、自分の膝に乗せ、必死に呼びかけるナナミの傍らに立ち、シェンもまた、軽く身をかがめて少年の容態を確かめる。
 子供らしい丸い線を描いた頬ばかりを赤く上気させ、土気色の唇をわななかせて荒い呼吸を繰り返し、時折、痙攣を全身に走らせる様子は、明らかに強い毒に苦しむ症状そのものだった。
「これは、どうやら成虫の鱗粉にやられたね。この辺はポイズンモスの巣だし、奴らの毒性は結構きついからな。体力のある大人ならともかく、子供や年寄りは覿面(てきめん)だろう」
 コウを抱きかかえているナナミに聞かせるともなく、シェンは呟く。
 そして、少年のことは彼女に任せ、背後を振り返った。
 それなりに広さのある空き地のほぼ中央で、四人が物理攻撃、一人が後方から魔法攻撃という陣立てで、彼らはモンスターに向かい合っている。周囲の木立は深く、身動きが取りにくい代わりに、巨体の敵モンスターも木立の中に逃げ込むことはできない。
 問題があるとしたら、物理攻撃の四人は揃いも揃って接近戦向きの武器を持っており、そして巨体のモンスターには、打撃系の攻撃は効きにくい、ということだった。
「しかし、おかげでそれぞれの癖が良く見える……」
 ビクトールとフリックの剣筋は、かつてと殆ど変わりがない。ただ円熟味を増しており、剣士としての絶頂期に至りつつあるのだろうと思わせる鋭さが技の一つ一つに加わっている。
 対して、初めて目にするオウランの戦い方は、何とも華があった。その豊かな肉体がそうさせるのか、身のこなし一つ一つが目を惹く。
 そのために一見、動きに無駄が多いように見えるのだが、気迫が勝っているのか、不思議に懐に踏み込む隙を見出しにくい。
 あいにくシェンが手合わせをしたいと思えるほどの技量ではなかったが、それでも面白いタイプだとは感じる。性別の差はあるが、かつて共に戦ったパーンにどこか似ているようだった。
 そして。
「双棍とは珍しい。しかも、よほど師匠に恵まれたな」
 身のこなし、技の一つ一つ。
 シェンの目から見ても、ユイファの戦いぶりは確かなものだった。
 すべての動きが流れるようで、華があるのに隙がなく、素早く、鋭く、軽量であるがゆえの打撃の軽さを速度で補っている。
 本人の素質は無論のことだが、師匠にも恵まれなければ、この年齢でこれだけの技量を身につけることは難しい。
 しかも、まだまだ彼は強くなる、と直感して、シェンは心地好い戦慄にも似た高揚感を覚える。
 と、戦闘を繰り広げている真っ最中の傭兵が、焦れたように叫んだ。
「シェンっ! のんびり観戦してないで手伝え!!」
「どうして僕に? ルックに言えば? もっと本気出せって」
「昆虫系は耐久力があるから大変なんだよ! 文句言うなら君も参戦してからにしなよ!!」
「さっさと片付けねぇと、その子供が危ないだろうが! とやかく言ってないで、さっさと来い!!」
「……仕方ないね」
 年食ってなまったんじゃないの、と軽く溜息をついて。
 シェンは手にしていた天牙棍を、ひゅ…と一振りする。
 そして。
「ユイファ!」
 かつて、いかなる戦場でも響き透った、しかし、この場に相応しくないほど余裕に満ちた声で、少年の名を呼んだ。
「ちょっと、そいつの鼻面を跳ね上げて。それだけでいいから」
 何を、と振り返ったユイファは一瞬けげんそうな顔をしながらも、言われるままに正面に向き直り、巨体をのたうたせているポイズンモスの幼虫の隙を窺う。
 モンスターの目を見据えながら呼吸を整えたユイファは、モンスターが再びこちらへと飛び掛ってこようとしたその寸前、強く地面を蹴り、右手の天牙双でしたたかに幼虫の鼻面を打ち据え、重い頭部をわずかに跳ね上げる。
 そして、再び地を蹴って後退しようとしたその耳元に、
「ご苦労様」
 笑みすら含んだ涼やかな声で告げて。
 シェンは右手に握った天牙棍を振るった。
 ───直後。
 幼虫の巨体が地雷に弾き飛ばされたかのように、腹部をこちらへと向けて宙に大きくそびえ立ったかと思うと、その中心よりやや上、おそらくは心臓の位置に、漆黒の棍が鋭い風鳴りと共に深く突き立ち。
 一瞬の空白の後、これまでで最も激しい地響きを立て、仰向けにポイズンモスの幼虫は倒れた。
 びくびくと断末魔の痙攣を起こしてのたうつ幼虫から身軽に遠のいたシェンは、やれやれとでも言いたげにモンスターの体液に濡れた天牙棍を一振りし、懐から取り出した布でそれを拭う。
「シェン……」
 そんな青年の名を、どこか呆然とした声で傭兵が呼んだ。
「何?」
「今、お前何をした……?」
「もう老眼が始まった? ビクトール」
「始まるか!」
「どうだかね。──ユイファに鼻面を跳ね上げてもらったのを更に大きく弾き飛ばして、心臓を潰しただけだよ。こういうデカブツは、とにかく頭か中枢部分を潰せば終わるのは分かってるだろう? 爬虫類の場合は、それでも神経反射でしばらく動くから、ちょっと手間だけど」
 何でもないことのようにシェンは口にした。
 しかし、梃子(てこ)の原理を応用したとて、たかが長棍一本で、あそこまでモンスターの巨体を跳ね上げられるものなのか。あるいは、一瞬で心臓の位置を見極め、刃のない獲物でもって正確にそれを突き潰せるものなのか、と。
 腕に覚えのある猛者(もさ)が五人がかりでもてこずっていたモンスターを、一瞬で倒した神技に呆然とする一同の前で、それよりも、と彼は形のいい顎をしゃくった。
「あの子供、このままだと危ないよ。バナーは無医村だったと思うけど、どうするつもり?」
 さらりと他人事のように言うトランの英雄に。
 即答できる者は、その場には居なかった。

...to be continued next chapter.

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