新月 - NEW MOON -











「セイ?」
「はい。同盟軍の軍主です」
「……そう、君が……。噂は聞いているよ」














「何というか……」
 明るい日差しの差し込む居間で一人、椅子の肘掛に頬杖をつきつつ、ティルは出会ったばかりの相手の印象を反芻していた。
 最初の出会いは、トランとジョウストン都市同盟の国境近くにあるバナーの村。
 偶然行き会い、たまたま向こうの連れがこちらの旧知の人物だったことと、ちょっとした事件が起こったことが重なって、なし崩し的に一行を伴い、三年ぶりにグレッグミンスターの生家へと戻ってくる羽目になったのは、ほんの数日前のことだ。
 久方ぶりの故郷には色々と思うこともあるのだが、それはさておいて、もっと重大な問題が今、目の前にはある。
「──あれだよね……」
 先刻、姉だという少女と共にこの屋敷を訪れた少年は、改めて同盟軍の軍主を名乗り、ひどくまっすぐな瞳でこちらを見つめて、力を貸して欲しい、と自分に請うた。
 無論、彼の名もハイランドとジョウストンの政情不安定も、それら一連の争乱に真の紋章が絡んでいることも、ティルは聞き知っている。
 積極的に情報収集をしようとはしていなかったから、小耳に挟んだ程度ではあるが、それでも軍略的に見て、この辺りで流れを有利な方向へ持っていかないと同盟軍にとって難しい事態になるのは、他国の傍観者の目にも明らかだった。
 だから、彼らがいま新たな協力者を求めるのは十分、理に適っている。
 が、その候補に自分を挙げるというのは、ある意味とてつもない非常識であり、非常手段だった。
 なにしろ真の紋章というのはどれもこれも碌(ろく)なものではないが、その中でもソウルイーターより悪名の高い紋章が、はたしてこの世にあるかどうか。
 好き好んでこの呪われた紋章に関わりたがるのは、よからぬ下心を抱く輩(やから)だけだといっても過言ではないのである。
 だが、しかし。
「どう見たって下心も何もないよね、あの姉弟には……」
 周囲の連中はどうだか知らないけれど、とティルは呟く。
 フリックやビクトールはともかく、同盟軍にはどういう経緯だか、あのアップルや彼女の兄弟子にあたる軍師もいるという。
 かつて自分の請願に応じてトラン解放軍の軍師を務めてくれたマッシュは、ソウルイーターを利用することなど全く考える人間ではなかったが、昨今の同盟軍の動きを反芻してみると、むしろマッシュよりも、今はハイランドにいるらしい彼の叔父のことを思い出させられるのだ。
 それはソウルイーターを宿した身としては、決して歓迎できることではない。
「本当は近寄らない方がいいんだろうけどな……」
 けれど。
 軽く閉ざした目に浮かぶ、曇りのない真っ直ぐな茶水晶の瞳。
 交わした言葉の内容はともかくも、少年と会って話した印象としては、反乱軍のリーダーらしくない、の一言だった。
 かつての自分も端から見ればそうだったに違いないのだが、同盟軍の軍主という、いかつい肩書きがまったくもって似合っていないのである。
 見るからに緊張して肩に力が入っていて、そのくせ、いわゆる『トランの英雄』に会うという高揚と期待に目を輝かせて。
 こちらの言動に一喜一憂し、表情がころころ変わって。
 そんな様子はまるで、
「ごく普通の子……っていうより、むしろ子犬?」
 別に悪い意味ではない。ないけれど、なんとなく人懐っこい子犬を連想してしまう。
 くるんと巻き上がった尻尾をぶんぶん振って、一目散に駆けてきて足元にお座りし、丸い目をきらきらさせながらこちらを見上げている子犬。
「毛色は白……いや、やっぱり茶色かな。目は黒で、耳はぴんと立ってて巻き尻尾」
 耳の先端が垂れているのも、ふさふさ尻尾もいいけど、とぽつりと呟いた時、
「犬がどうかしたんですか?」
 お茶のお代わりをトレーに載せたグレミオが、居間に入ってきた。
「いや、犬は可愛いよねっていう話」
「? そうですねぇ」
 脈絡のないティルの言葉に、それでも同意してうなずきながらグレミオはティーカップを主人の前に置く。
「セイ君と犬の話をされていたんですか?」
「うーん。そういうわけじゃないんだけど」
 犬の、というより、犬と、なんだけど、などという失礼極まりないことを心の中で呟きながら、曖昧に応じて、ティルはカップを手に取った。
 口元に運ぶと、湯気と共に茶の香りがふわりと立ち上る。
 香りの高い茶はティルの好みだが、もともとは幼い頃に亡くなった母親が好んでいたものだ。
 母親が亡くなった時、自分はあまりにも幼すぎて残っている記憶は少ないが、それでも頭を撫でてもらう感触が優しくて大好きだったことや、母親が手に持ったカップからいい香りがしていて、いつもそれを飲みたがる自分に笑いながらカップを優しく傾けて飲ませてくれたことは、朧げな断片として覚えている。
 あの頃の自分と今の自分では決定的に違ってしまっているのに、それでも変わることのないかけらが、こんな風に自分の中には幾つも残っている。
 そのことが時々、自分を戸惑わせ、そしてまた前へと歩ませる力ともなっていることにティルが気付いたのは、三年前に内乱が終結したトランを出奔し、しばらく経った頃のことだった。
「セイ君もお姉さんも、いい子でしたね」
「うん」
 短いやり取りだけで、主従の会話は途切れる。
 それは決して気まずさのせいではなく、むしろ思うことがありすぎるからであり、また言葉にしなくとも十分に通じるからだった。
 穏やかな……たとえるなら誰もいない庭園に差し込む木漏れ日を思わせるような沈黙に、何ともいえないものを感じながらティルは呟くように言葉を紡ぎ出す。
「──あの頃の僕たちも、あんな感じだったんだろうな。もっとも、僕には彼みたいな純粋さというか一途さには少し欠けてたと思うけど」
「そんなことないですよ! 坊ちゃんだって十分……!!」
「あー、親の欲目はいいから。そもそもタイプが全然違うだろ、僕と彼とじゃ」
 たとえるなら、あちらは何をするにも一生懸命な懐っこくて愛くるしい雑種の子犬。こちらは良くも悪くも血統書付きのちょっとすました子犬だ。
 同じ人目を引くにしても、その理由が異なるのは明らかである。
「そういうことじゃなくてさ。僕たちもああやって、少しでも名の有る人なら相手構わず訪ねて回ってたじゃないか。そういうところがね」
「ああ……」
 グレミオも納得したようにうなずく。

 ──確かにあの頃は、解放軍に加わってくれるのなら藁にでも猫の手にでもすがりたかった。仲間を増やすため、強大な帝国と皇帝に立ち向かうためには、それしか方策がなかったのだ。
 けれど。
 その結果、自分がもたらしたものが正しかったのか間違っていたのか、今でも本当は少しだけ分からなくなる時がある。
 赤月帝国は確かに衰亡の時を迎えていて、圧制にあえいでいた国民たちにとって変革は必要なものだった。
 誰もが平穏に暮らせる国を造るためには、戦わざるを得なかったのだと……流さざるを得なかった血なのだと、あの頃も今も多くの人々が口にするし、ティル自身も理屈ではそう理解している。
 だが、命は命なのだ。
 失われたものは決して還らない。
 かけがえのないものを失くした痛みも、数多(あまた)の命をこの手にかけた苦さも、今もまだ鮮やかなまでに胸の裡に残っていて。

「……本当のことを言えば、戦いにはもう関わりたくないと思うんだけどね」
「私たちも本当にたくさんの方たちに助けてもらいましたからね……」
「うん」
 自分たちの呼びかけに応え、かつての解放軍に自主的に参加してくれた仲間は、おそらく全軍の半数を超える程度しかいなかったはずである。
 残りは渋々であったり、帝国への忠誠心や平穏な生活との間で迷いながらであったり、それぞれの思いを抱えつつも協力してくれた人々だった。
「こういうのを因果応報っていうのかな」
「……かもしれません」
「でも、それとこれとは別で、お願いされて手伝ってあげたい気になったのも本当だからさ。グレミオは心配しなくてもいいよ」
「えっ、私は別に……!」
 わたわたと意味なく手を上げ下げする青年に微苦笑しつつ、ティルは手にしていたカップの茶を飲み干す。
 ティルにしてみれば、グレミオの思考など、拡大鏡で見るよりもくっきりはっきりと明瞭に読み取れる。
 この過保護で心配性なお守り役は、右手に呪いの紋章を宿したまま、再び戦いに加わろうとする主人の心情を本気で案じているのだろう。
 確かに、親友と父親と仕えるべき主君とを同時に失ったあの戦乱から、まだ三年しか月日は過ぎていない。
 正直なことをいえば、戦場の空気はまだ自分にとっては生々しすぎる。
 だが、それでも過去に遡れない以上……有ったことを無かったことにする術はない以上、前を向いて進んでゆくしかない。
 いっそのこと、人里を離れてひっそり暮らせたらと願うこともないではないが、この右手に宿った紋章は決して平穏な生活を許しはしないだろう。
 ならば、自分がやれることをやるしかないのだ。
 さきほど同盟軍の軍主を名乗った少年も、完全なものではないとはいえ、真の紋章を宿していた。
 そして彼の仲間には、かつて解放軍で共に戦ったビクトールやフリック、ルックといった面々も名を連ねている。
 つまりは真の紋章の……ソウルイーター魂喰いの恐ろしさを十分に承知した上で、それでもなお彼らは助力を請うてきたのだ。
 決して心の進むことではないが、彼らにそれだけの覚悟と事情があるのなら、応えてもいいのかもしれない、とティルは思う。
 ソウルイーターの貪欲さが彼らに影響を及ぼすことのないよう極力距離を取ることにはなるが、それでも大切なものを取り戻したいと願う人々の手助けをできるというのなら、望まずして無限を得たこの生にもかすかな意味が生まれるかもしれない。
 それが結果的に、自分や彼らに何をもたらすのかは、その時にならなければ分からないのだろうけれど。
「まぁ、やれるだけやってみるよ。あんな風に頼み込まれたら、ちょっと断れないし」
 敢えてのんびりとした口調で言ったティルに、グレミオも、さもありなんと頷く。
「すごく一生懸命でしたもんね、セイ君」
「あの瞳でお願いされたらねぇ……」
 真剣、という文字が大きくゴシック体で書いてあるような瞳だった。
 弁舌にはた長けていないらしく、少年の口説き文句は拙(つたな)かったが、それはもう必死としか言いようのない態度で、懇願してきて。
 おそらく、あれを無碍(むげ)に蹴れる人間は、さほど多くないだろうと思う。事実、お人好しとは到底言えない性格の自分ですら、ろくに勿体ぶることなく助力を了承してしまったほどだ。
「さすが天魁星を背負ってるだけあるよね。彼ならきっと一〇八星を集めて、大切なものを守れるんじゃないかな」
「坊ちゃん……」
「大丈夫だよ、グレミオ」
 小さく微笑して、ティルは答える。
 あの長かった戦いが終わってから三年間、大陸中を放浪して色々な物や様々な人に出会いながら、自分の中にあるものを一つ一つ確かめてきた。
 その中には苦いものもあり、かけがえなく失いたくないものもあり、そしてまた三年間の月日は、自分は今ここに生きている、ということを改めて感ずる日々でもあって。
 だから大丈夫だ、と思う。
 血の色に染まった記憶はまだ胸の奥を占めているけれど、それでも心は凪いでいる。
 ソウルイーターに対する懸念を消すことはできないし、自分に何ができるのか、この手で掴める物などあるのかどうか分かるはずもないが、今、彼らの大切なものを守るための戦いに手を貸すことを拒もうとは思わなかった。
「僕に手伝って欲しい事がある時は、セイ君が直々に迎えに来ることになったからさ、グレミオもお茶菓子の用意は欠かさないようにしておいてくれるかな」
「任せて下さい。今日お出しした焼き菓子も、随分気に入って下さったようですからね。腕によりをかけてご馳走させていただきますよ」
「それは僕も楽しみだ」
 本心から言いながら、ティルは先程の光景を思い返す。
 がちがちに緊張していた少年は、グレミオが勧めた焼き菓子に遠慮がちに手を伸ばし、一口食べた途端に表情がほぐれた。
 嬉しい驚きに顔を染めて、「すっごく美味しいです!!」と感激もあらわにグレミオに告げる様子を向かい側の席から見ていたティルは、ひどく新鮮なものを感じたのだ。
 あれほど素直に全身で喜びを表す人間は、久しぶりに見たような気がして(正確にいえば、グレミオも感情を隠せない性格だが、慣れてしまっているせいか、新鮮味は感じない)、何の裏もなく、ごく自然に、いい子だな、と思ったのである。
 ある意味、その瞬間に彼の申し出に応じることを決めてしまったといってもいい。
 どちらかというと慎重な性質のティルにしては至極珍しい事態なのだが、こういうことも起こるから、人生というのはなかなか侮(あなど)れないのである。
「向こうに行けば懐かしい顔ぶれにも会えるみたいだし、せいぜい頑張るとしようか」
 三年前、崩れゆく王宮の中で別れたビクトールとフリックがその後、無事に脱出したという話は聞いていたが、彼らも自分もひとところ一所に留まることをしなかったため、あれ以来、会う機会もなかった。
 ──あの二年にわたる内戦の中で、確かに多くの人を喪った。
 けれど、今もまだ生きて変わらずに日々を過ごしている人々がいて、そんな彼らと再会できることを──たとえどんな痛みを伴ってでも──、おそらく自分は純粋に喜んでいるのだろうとティルは思う。
 あの頃、どんなどん底の中にも希望はあり、差しのべられる手もあった。
 決して自分は一人きりで戦っていたわけではなく、苦しんでいたのも自分一人ではなかった。
 そのことだけは決して忘れてはならないのだ。
「はい。頑張って下さいね、坊ちゃん。でも怪我はしないようくれぐれも気をつけるんですよ」
「……僕を幾つだと思ってるんだ、グレミオ」
「いいえ、それでも言わせていただきます。そもそも坊ちゃんは……」
 くどくどと続くグレミオの諫言とも小言もつかない長台詞を聞き流しながら、ティルは久しぶりに感じる新しい日々の兆しに目を閉じた。

...to be continued.

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