「──それで、どうしてヘルムートはこんな所に?」
 ほこほこと湯気が立ち上るほどに風呂で温まった後、次は食欲だとばかりに食事に専念していたシュリがそう切り出したのは、それぞれの前に置かれた料理の皿が、粗方空になった頃だった。
「国に帰ったんだよね、一度は」
「ああ」
 ゆっくりとヘルムートは手にしていたカラトリーを、貴族の洗練と軍人の機能的さによって磨かれた隙のない仕草でテーブルに戻し、両手の指を軽く組んだ。
「間違ったことをしたとは今でも思っていないが、まともに戦いもせずに敵軍に降伏して、協力していたのは事実だからな。極刑も覚悟していたんだが、お前が持たせてくれた公式書簡に加えて、部下たちが嘆願書を提出してくれたお陰で、階級剥奪だけで済んだ」
「それで……?」
 シュリもまた、食事をする手を止めて、ヘルムートを見つめる。
 彼は簡単そうに言ったが、仮にも若くして艦長を務め、ラズリル総督補佐官の任にあった軍人にとって、階級剥奪は決して軽い処分ではない。
 勿論、ラズリル攻防戦において、祖国の大義を疑って群島側に降伏したのは彼の判断であり、自分が罪悪感を感じたり、詫びたりするのは筋違いではあるが、それでも厳しい処分内容を聞くと、シュリは申し訳ないような気分が込み上げるのを止められなかった。
 だが、ヘルムートの方は、落ち着いた低めのテナーで淡々と続ける。
「父も引退したし、俺も軍に未練はなかったから、そのまま辞めたんだが、家は兄が継いでいるから、やることもなくてな。赤月帝国に張り合って、ハルモニアのご機嫌伺いに終始している昨今のクールークのやり方にも嫌気が差していたし、それに、お前たちに協力しているうちに、もっと広い世界をこの目で見てみたくなっていたから、いい機会だと思って昨年の夏の終わりに国を出た」
「……お兄さん、居たんだ」
「──反応するのはそこか」
 相変わらずとぼけているな、とヘルムートは呆れたように苦笑して。
 そして、改めてシュリを見やった。
「俺の方はそんな訳だが……お前こそ、どうしてこんな所へ? お前はオベルに居るものだと思っていたが……」
「オベルに? どうして」
 さも意外とばかりに言われて、シュリは首をかしげる。
 確かに自分は、元はラズリルのガイエン海上騎士団員だが、あの町には戻る気はさすがになく、紛争の終盤、比較的シュリの近くにいたヘルムートも、それくらいは察していたのだろう。
 だが、オベル、と名指しされた理由が分からず、問い返す。
 すると、今度は逆にヘルムートの方が淡い困惑の表情を浮かべた。
「いや、特に理由があるわけではないのだが……」
「嘘」
 きっぱりと断言して、シュリはヘルムートの赤みを帯びた葡萄酒色の瞳を、まっすぐに見つめた。
「あのね、ヘルムート。自覚があるかどうかは知らないけど、君は嘘つくのはすっごく下手なんだよ。それに、そもそも憶測だけで物を言う人でもない。何か根拠があるでしょ、僕がオベルにいると思った訳が」
「───…」
 詰め寄ると、ヘルムートは端正な眉を小さくしかめる。
「……お前はそういう所が、時々本当に容赦ないな」
「そうそういつも甘い顔はしていられないよ、僕だって。それに、僕にすぐばれる嘘をつく君の方が悪いんだと思わない?」
 肩をすくめるように応じたシュリに、溜息をついて。
 ヘルムートは、仕方がない、と呟いた。
「……一度だけ、偶然一緒になった酒の席で、オベル王が言っていたことがあるのだ」
「王って、リノ? 彼が何?」
 何だか懐かしい名前、と首をかしげると、更にヘルムートは深い溜息をつき、そして一息に言った。
「あいつを養子にしたいと思ってる、とな」
 その言葉に。
 シュリは、真青の瞳を零れそうなほど大きく見開く。
「は、あ……?」
「訊いたのはお前だぞ。確かに、あの国は王女が一人しか居ないし、クールークは勿論、ガイエンとの関係も難しくなったからな、お前を後継者にしたいというのも分からないことではないと思ったのだが……。その様子では違ったらしいな」
 へちゃり、と頭を抱えてテーブルにつっぷしたシュリの姿を見て、ヘルムートは肩をすくめる。
 が、シュリにしてみれば、それどころではなかった。
「──養子なんて……。何考えてるんだよ、あのオヤジは……」
 呟く声は、いつになく疲れ果て、途方に暮れているようで。
 その響きに気付いたらしいヘルムートが、
「シュリ?」
 少年の名を呼んだ。
「そんなに衝撃だったか? だから言わずにおこうと思ったんだが……」
「……そうじゃない」
 違うのだと。
 彼が思うのとは微妙に違う意味で、青天の霹靂だったのだと、テーブルに突っ伏したままシュリはうめき、それから薄茶の髪を、くしゃりとかき上げる。
 それから、しばらく一時停止して。
「あー……。まあ、ヘルムートならいいか、な……」
「シュリ?」
 のろのろとシュリは顔を上げ、低い位置からヘルムートを見上げた。
「あのね。養子、じゃないんだよ。そりゃ形式的には、養子って形にするしかないのかもしれないんだけど」
 ぼそり、と告げた言葉の意味は、分からなかったらしい。
 問うような表情になった青年に、シュリは珍しくも困惑をあらわにしたままの表情で、これは内緒話なんだけど、と切り出した。
「ヘルムートが誰にも言わないことは分かってるし、驚くなって言っても無理だろうから言わないけど」
「──何を?」
「だから内緒話。ここだけの」
「それは分かった。その内容は?」
「……驚いていいけど、大声だけは出さないでね。いい?」
「……分かった」
 ヘルムートがうなずくのを見届けて、シュリは一つ溜息をつき、それから崩れていた体勢を立て直して、椅子に座りなおす。
「状況証拠しかないし、直接確かめ合ったわけじゃないんだけど」
「……何をだ?」
 異常に歯切れ悪く、言葉を重ねるシュリに、ヘルムートも尋常ではないものを感じ取ったのだろう。小さく眉をしかめ、続く言葉を待つようで。
 一つ息をついて。
 シュリは一気に言った。
「僕はね、多分、リノの息子なんだよ。実の」
「───…」
 そうしてちらりと様子を窺うと、確かにヘルムートは驚きはしているようだったが、さすがに元軍人らしく騒ぎ立てる様子はなく。
 大丈夫そうだと判断して、シュリは続けた。
「リノの息子は十六年前……十七年前か、もう。海賊との戦いで乗船していた船が大破した時に、行方不明になってるんだ。公式には、その時に亡くなった王妃と一緒に死んだことになってて、お墓もあるんだよ。でもね、この左手の紋章は、リノのお妃が持っていたもので、僕は王宮の肖像画を見るずっと前から、夢でその王妃の姿を見ていたし、リノやフレアも、初対面の時から何か覚えがあるような気がしてたし。
 で、決戦前夜にリノから死んだ息子の話を聞いて、ああ、そういうことなんだなって……。でも養子なんて……。聞いてないよ、そんなの」
 馬鹿親父、と溜息まじりに呟いたシュリに、ヘルムートはまばたきして。
「なるほどな……」
 納得したようにうなずいた。
「そういうことなら分かるな。お前が連合軍の軍主になった経緯を聞いた時、どうにもオベル王の態度が腑に落ちなかったんだが、王は自分の子供の力量に賭けたわけだ」
「かもしれないけど。一応、一番最初の時点で自分の素性とかは聞かれて答えたし。今から考えると、リノはその時点で確信してたんだとは思う。
 でも、あの人もそんなに甘い人じゃないから、一応こっちの力量は彼なりに見定めた上でのことだったと思うよ」
「それはそうだろう。──だが、納得はした。今だから言うが、俺も、お前とフレア王女が話している時、姉弟のようだと思ったことがあるからな」
「……そんなに似てた? 僕たち」
「雰囲気がな。髪も瞳も、同じ色ではなかったが色彩が近かったし。同性の兄弟だったら、もっと似て見えただろう」
「……そっか……」
 頭を抱えるようにして、再び、へちゃりとシュリはテーブルに懐く。
「シュリ?」
「──本当はさ、僕も思ったんだよ。初めてフレアに会った時。なんか見覚えのある顔だなぁ、って。僕が女の子で、二つ三つ年上だったら、なんか双子みたいに見えるんじゃないかな、ってさ」
「……シュリ」
「リノもそう。あっちは顔が似てるとは思わなかったけど、なんか破天荒で面白いおっさんだなーって。なんか時々、リノの無茶苦茶な発想が読めることがあったり、同じこと考えてる、って思ったり。僕は親を知らないけど、父親ってこんな感じかなって」
 頭を抱えてうつむいたまま、ぼそぼそと呟くように語るシュリに、ヘルムートは何とも言いがたい、気遣うような困惑するような視線を向け、
「……だが、それでもお前は、あの国を出たんだろう?」
 静かに問いかけた。
 その言葉に、シュリは一瞬沈黙して。
「──そう」
 溜息をつき、うなずく。
 そして、顔を上げてヘルムートを見つめた。
「僕もヘルムートと同じ。世界を見てみたかったんだよ。どのみち、戦いが終わって、まだ命があったら、もう群島からは離れるつもりでいたし」
 シュリの右手の指が、そっと指無しの革手袋に包まれた左手の甲を撫でる。
 その革生地の下にあるものを思ったのだろう、ヘルムートはかすかに眉をしかめた。
「あの国は好きだし、一生分からないままだろうと思っていた家族のことも分かって、本当に嬉しかったけど。でも、僕はあの国の王様にはなれない。リノも、オベルの国王だから。それを分かってて何も言わなかったんだと思う」
 左手に宿る、真の紋章の一つがある限り。
 そして、それがクールーク皇国から、更にはハルモニア神聖国から狙われる標的である限り。
 故郷の地に留まることはできず、また周囲の人々もそれを理解していたのだろう、と。
 父親が、父であるよりも国王として民の安寧を選んだのは、当然の事なのだとシュリは、静かに断言して。
「……そっか。でも、酔って、ついそんなことを口にするくらいには僕に未練があったんだ」
「──その言い方はどうかと思うがな。あの時の王は、お前の話を聞く限り、その場限りのことだったのだろうが、間違いなく本気だった。そう感じたから、俺はお前がオベルに居るだろうと思っていたのだからな」
「うん、そうなんだろうね」
 うなずき、あーあ、とシュリは椅子の背に身体を預けた。
「……今すぐは無理だけど。リノが寿命で死んじゃう前に一度くらい、顔を見せにいっても大丈夫だよね? 皆が僕のこと、忘れた頃にさ」
 呟くような問うような声に、ヘルムートは、うなずく。
「そうだな。その頃に、あの地域がどうなっているかは分からないが、それでもお前一人なら、敵の目くらい欺けるだろう」
「うん」
 大丈夫、とシュリもうなずいて。
 それから、にこりとヘルムートに笑顔を向けた。
「ありがとう、ヘルムート。リノの言葉、教えてくれて」
「──いや。単なる成り行きだからな」
「それでも、だってば。やっぱり嬉しいよ、父さんがそんな風に思ってくれてたことが分かったんだもん」
 死んだはずだった息子の生存を知り、ならば、自分の後継者にしたいと願いながら。
 それでも親子の名乗りをすることすらなく、自由に生きろ、と送り出してくれた父親の思いに。
 父さん、と慣れぬ発音を嬉しげに口にして、シュリは笑う。
「お互い雨に降られたのはついてなかったけど、せっかく会えたんだし、今夜は飲もう? ヘルムートもお酒、強かったよね?」
「……嫌いではないが、」
「あ、女将さん、お酒の追加お願いしますー」
 最後まで聞こうともせずに上機嫌で手を振って合図を送り、追加を頼むシュリに、こういう奴だったな、と諦めの溜息をついて。
 元皇国士官は、自分のグラスを手に取った。








 食べるだけ食べ、飲むだけ飲んで、上機嫌のまま「おやすみ〜」と告げるなり、客室のベッドにもぐりこんで眠ってしまった元軍主をヘルムートは、やれやれ、といった思いで見やった。
 室内の灯火は既に消したが、暖炉の火は、まだ小さく燃えたまま、簡素な客室を温かく照らしている。
 夜通し火を焚いたままにするのは、その分、薪代がかかるために宿泊費が高くついてしまうのだが、未だ春先、それも雨夜ときては、さすがに火なしで過ごすのは難しい。
 木材の豊富な地方らしく、他地方に比べれば家屋の建材に木が多く使われているが、それでも明け方の冷え込みは厳しいものになるだろうことが予測できたし、また濡れたものを乾かしたいという事情もあって、二人は暖炉の火を消すことなく休むことで合意したのだ。
 そうして、やわらかな火明かりに照らされたシュリの寝顔は、実に心地良さそうで。
 ヘルムートは、小さく口元に笑みを刻んだ。
「……十ヶ月……いや、十一ヶ月ぶり、か」
 それが最後で、最初の出会いはというと、更にそこから記憶は十ヶ月ほど遡る。
 自分は本国から、占領下となったガイエン公国領ラズリルへの転出を命じられ、そこで領主の子息にしてガイエン海上騎士団団長スノウ・フィンガーフートの監視役を兼ねた補佐役として着任してから、およそ半年ほどが過ぎた頃だった。
 ラズリル港の沖合いに現れた、群島諸国の抵抗組織・ゼーランディア軍の艦隊は、士気は高くとも所詮、烏合の衆と海賊であり、正直な所を言うのであれば、戦って勝てない相手ではなかったと思う。
 だが、勝って何の意味があるのか、と考えた時、自分はそこに何も見出せなかった。
 そもそも、祖国が南下政策を進める意図が、いくら上層部の説明を聞いても、自分には必要性がどうしても感じられなかったし、また極秘命令だった真の紋章の探索についても、北方の雄ハルモニア神聖国に献上するためだと聞いては、到底、本気で探そうという気にはなれずにいたのだ。
 北で国境を接する赤月帝国は、確かに厄介な存在ではあるし、南方の群島諸国及びガイエン公国も、目障りというのなら目障りな存在ではあるかもしれない。
 国土の地形が険しく、肥沃な土地の多くないクールークにとっては、南北に勢力を広げて豊かさを獲得しようと画策するのは、国策として当然の方向性であることは理解していたが、しかし、その手段がハルモニアにおもねる事だということが、どうにも自分には納得できなかった。
 別に、他国と同盟を結ぶことが気に入らなかったというわけではない。ただ、公正に世界史を振り返った時、ハルモニアが信用に足る国家であるかどうか、その辺りに自分は大きな疑問を抱いていたし、何よりも、南下政策を献言したのが死の商人として悪名高い、グレアム・クレイだったということが更に、更に政策に対する不信を深めさせた。
 そんな状態で、他国に侵略された故郷を取り戻すという、ごく当たり前で正しい大義を前にした時。
 自分は、祖国や命令よりも、自分の意志を貫くことを選んだのだ。
 自分の死は覚悟した上で、罪のないラズリルの市民と、己の部下が傷つくことなく済ませることができるのなら、と。
 死の商人の思うままになってたまるものかという、軍人としてというより人としての矜持もあって、砲火を交える前に白旗を揚げた。
 そして、そこで初めて。
 噂でのみ聞いていた、ゼーランディア軍の若き軍主、シュリと相見えたのだ。
「───…」
 まだ十代だということは聞いていたし、実際に会って、本当に若い、とは思った。が、それを稚(おさな)い、とは思わなかったのは、彼の瞳が強すぎたからだった。
 海の青を写し取ったような、鮮やかな色合いの瞳は、子供には決して持ちえない強い光をたたえていて、ふと、誰よりも強く高潔だった、今は亡き己の上官の目を連想した。
「……そこで、ありがとう、と言ったんだったな……」
 印象的なその瞳でまっすぐにこちらを見つめ、にこりと笑んで。
 ラズリルの人たちを傷つけないでくれて、ありがとう、と。
 そして、この先は好きにしていい、無理に祖国と戦わなくとも、この紛争が終わり次第、祖国に帰れるように手配するから、と、あっさり約束して、こちらを拘束する素振りすら見せなかった。
 だからこそ、自分は協力する気になったのだろうか。
 敵国の士官だった自分に、何一つ情報は求めず、その代わりに「やることがないのが嫌なら、個人として手伝ってもらえると助かるよ」と言った彼に、うなずいたのは。
 軍人としては、ただの身勝手に過ぎない自分の行動を、まっすぐに受け止めてくれた彼に、何かを返したかったからではないか。
「──いや、違うな」
 考え、しかし、ふとそうではなかった、と思い出す。
 最初は敗残の将として、どんな処遇でも受け入れるつもりでいたから、うなずいただけだった。
 それが変わったのは、初めてまともにシュリと会話を交わした、その後のことだった。

...to be continued.

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