この青い空の真下で -6-







 無骨な鉱夫の街であるのに──あるいは名立たる職人の街であるからこそなのか、よく手入れのされた蝶番(ちょうつがい)はドアを開閉する動きにも、わずかな軋み音すら立てなかった。
 足音も気配も消したまま、室内から廊下へと出たラシスタは、常と変わらぬ物を思うような表情のままドアノブから手を離し、ゆるりと視線を上げて、ふと動きを止める。
 ──廊下の少し先、ちょうど階段の正面になるあたりの壁に、大きな人影が寄りかかって立っていた。
 特徴的なそのシルエットは、窓からの淡い星明りしかない薄闇の中でも、問うまでもなく誰であるのかを見るものに伝える。
「カザミは眠ったか?」
 夜の静寂に溶け込ませようかというように低められた囁きに、ああ、と小さくうなずいてラシスタは、そちらへと歩み寄った。
「そうか……」
 廊下の人影──ビクトールは、いつになく考え込むような仕草で壁から身を離して歩き出す。
 こんな深夜である以上、行く先は、おそらく廊下の先にある彼自身にあてがわれた客室だろう。いつ敵襲があるかもしれない現状で、無闇に屋外へ出る彼ではない。
 無言でついてくることを期待、あるいは信じ切っているようなその背中に、ラシスタは何かを言うでもなく、黙って従った。
 深夜のギルドハウスは、しんと静まり返っており、虫や夜行性の獣の声すらほのかに遠い。
 短い距離を横切ってビクトールが客室のドアを開けると、途端にランプの温かな炎色が零れ出て、二人を迎える。
 ビクトールに続いてラシスタもまた室内に入り、静かにドアを閉める。と、小さなランプが照らすやわらかな光の中、ビクトールはどさりと音を立てて簡素な寝台に腰を下ろした。
 その気になれば、図体からは想像もできないほど身軽に動くこともできる歴戦の傭兵が、敵襲がいつあってもおかしくない状況下で、こんな荒い身のこなしをするのは珍しい。
 しかし、それでもラシスタは沈黙を保ったまま、自身は出入り口横の壁へと背を預けて、少しばかり楽な姿勢をとった。
 そうして短い沈黙が落ち。
「──少しばかり、意外だったな」
 その重さを破りたいとでもいうように無造作に伸びた髪を片手でかき回しながら、ビクトールは太い溜息混じりに口を開く。
「まさかお前とルックが、軍主の脱走幇助をするとは思わなかったぜ」
「……ルックはどうだか知らないが、僕は別に深い考えがあったわけじゃない」
 ビクトールの声に責める響きは薄かった。
 それでも、彼が真意を聞きたがっていることを感じ取って、ラシスタは、ほんの半刻前の自分の感情を正確に掘り起こそうと、暖炉の上に置かれたランプの炎を見つめる。
 ───真夜中に逃げ出そうとした軍主とその姉。
 怯えてひきつった、少女の目の色。
 そんな姉を懸命にかばうようだった、少年のまなざし。
 そして、夜の静寂(しじま)に零れ落ちていった、姉弟の涙。
 その一連の記憶は他人事でありながら、重く、はかない色をしていたように思われて、ラシスタは的確な言葉を捜してわずかに首を傾ける。
「──あの時、僕とルックはたまたま、ギルド館の表でネクロードをどうするかを話していた。これまでの経験からすると、あいつには君の星辰剣を除いては、直接攻撃よりも魔法攻撃の方が有効だったように思ったから。そうしたら、そこにあの二人が正面玄関からではなく、西側の窓から出てきた」
 ラシスタはもともと口数の多いほうではない。しかし、だからといって能弁ではないというわけではなく、落ち着いた静かな声は、淡々と響いた。
「一目で逃げ出すつもりだと分かったよ。そしてそれを見た時、僕は、逃げたいのなら逃げてもいいんじゃないかと思った」
「あっさり言うな」
 だが、ラシスタはビクトールの非難めいた言葉にも、髪一筋すら動かすことはせず、考え深げにわずかに頭を傾けて、言葉を続ける。
「僕は、同盟軍にもカザミに対しても、何の責任もない。君とは立場も意見も違う。
 僕から見て、彼女は……ナナミは精神的に限界のようだったし、そんな姉を抱えて戦い続けることができるほど、カザミもまた、物事を割り切って考えられる性格をしていないように思う。
 軍主として力を出し切れないのなら、自身と軍の双方を守るという意味で、逃げ出すのも一つの方法論だろうと思った」
「思った、なんて簡単に言ってくれるな、ラス」
 もう一度、苦言を呈して、ビクトールは太い溜息をついた。
 そうして、大きな手で荒い髪をわしわしとかき上げる。
「そりゃあ俺も分かってたさ。ナナミもカザミも、ごく普通のガキだ。特にナナミは、どんなお転婆だろうと女の子だし、戦争や人死にを怖がらないほうがおかしいだろう。──だが、現実はもう走り出しちまってるんだ」
「確かにね。少なくとも今現在の同盟軍の軍主はカザミだ。本人が何をどう感じようと」
「ああ。お前だって分かってるはずだ、ラス。戦場で軍主が逃げ出したら、軍は必ず崩壊する。ましてや、こんな烏合の衆なんだからな」
「否定はしないよ。だが、逃げ出したがっている子供が軍主でも、結果は大差ないんじゃないのか?」
「ラス……」
「ビクトール。繰り返すが、今夜のことについては、僕は誰の味方をしたつもりもない。今でもカザミが逃げ出したいのなら、軍主の立場を捨てて逃げてゆけばいいと思っている。人の生き死にに耐えられないようでは、到底、軍主はつとまらない。
 ただ、結果的にカザミは今夜、姉を泣かせてでも踏みとどまることを選んだんだ。君たちは、そのことを評価してやればいいんじゃないのか」
 戦争という陰惨な現実の前で怯え、精神的に揺れ動いている子供を責めたところで何にもなりはしない、と冷静に指摘するラシスタの声に、ビクトールは苦しい顔で眉をしかめる。
 その苦悩のにじんだ表情を静かに見つめながら、一番苦しいのは、この男なのだろう、とラシスタは思った。
 聞くところによれば、故郷を追われて行き場を失った姉弟を一番最初に保護したのは、この男だったという。
 もとより、お節介焼きで知られる傭兵である。庇護してくれる親もなく、戦乱の地をさまよっている子供を放っておけるはずがない。ラシスタ自身の経験を重ねても、それが彼の性分なのだろうことは間違いなかった。
 だが結果的に、彼の行為はいつも、その手を差し伸べて救い上げてやったはずの子供を乱流の渦中に突き落とすことになるのだ。
 それを単なる巡り合わせと称するのは、いささか残酷だろう。
 ラシスタの時には、結果的に赤月帝国を倒して清新なトラン共和国を興すことに成功したものの、その過程でラシスタが失ったものの重さをも、ビクトールは最も近くで目の当たりにしていた。
 おそらく今もまたビクトールは、カザミを軍主として仰ぎながらも、新に天魁星を背負ったこの少年も、望まぬ戦いの中でかけがえのないものを失うのではないのかと深く懸念しているのに違いない。
「ビクトール。物事は、なるようにしかならない。逃げ出すか逃げ出さないかは、カザミが自分で選んで決めることだ。逃げたところで幸せになれるとは限らないし、留まったところで勝利を掴めるとも限らない。君は自分にできることだけをやればいい」
「……相変わらず、お前は手厳しいな」
 ラシスタの言葉に、ビクトールはもう一度太い溜息をついた。
「十近くも年下のくせに、お前は昔から耳に痛い正論ばかり、歯に衣着せずに言いやがる。何でも受け入れる反面、何に対しても容赦がない。昔っからそうだ」
「そんな大層なものじゃない」
 皮肉というよりは嘆息のこもった賛辞に、しかしラシスタは、物憂げにまなざしを伏せてそれを否定する。
「自分がしたことを悔いているわけじゃないが、何もかも正しかったとも思ってない。僕もただの人間だ。それは君が一番良く知っているだろう」
「知ってるから、言ってるんだがな」
 ほろ苦さを込めてビクトールは小さく笑い、そして、沈んだ気分を変えるかのように、ドアの傍に立ったままのラシスタを見やる。
「しかし……。そういうお前が、カザミの脱走を黙認するだけならまだしも、手伝うとは思いもよらなかったぜ。ルックはあれで案外、責任感の強い奴だから、カザミが逃げ出そうとしたことに腹を立てて、あいつなりの皮肉を込めて叩き出そうとしたんだろうと見当もつくんだが……」
 言われて、初めてラシスタは少しばかり当惑したように、ビクトールを見返した。
「別に……ただ、あの姉弟二人きりで、今のティント近辺の夜道を行くのは危ないと思っただけで、他意はない」
「かもしれねえけどな。普段のお前なら、去るものの行く末なんざ気にしないんじゃないのか?」
 ランプの明かりの中で、ビクトールがにやりと笑う。
 ようやくこの男らしいふてぶてしさが戻ってきたな、と思いつつも、ラシスタは考え込む。
 確かに彼の言う通り、自分は、普段は他人のことなどまったく気にしないと言ってよかった。ましてや、それが去ってゆく者であれば尚更だ。
 だが、現実として今のティント市はネクロードに狙われており、カザミも同盟軍の軍主という立場にある以上、危険は常にその身の回りにある。
 姉弟が互いの身を案じて軍を逃げ出した直後に、魔物に襲われて命を落とすというのでは本末転倒もいいところであって。
「……どうせ逃げるのなら、安全圏まで、とは思ったかもしれない」
「かもしれない、ってのは何だ」
「僕だって、そういつもいつも深く考えて行動しているわけじゃない。追求されても困る」
 肩をすくめるようなラシスタの返事に、今度こそビクトールは面白そうに笑った。
「らしくねえな、ラス。俺からすれば、それでいいんだが」
「……どういう意味だ?」
「さてな。そのうち、分かる時も来るだろうさ」
 判じ物のようなことを言って、ビクトールは疲れをほぐすように、ぐるりと首を回す。
 その仕草に、それ以上説明する気はないらしいことを感じ取ってラシスタは、わずかに納得しきれないものを感じながらも、ずっと体重を預けていた壁から背を離した。
「話が終わったのなら、僕は部屋に戻る」
「ああ。しっかり休んでくれ。……正直、お前が万全の状態で居てくれないと、あの野郎相手には勝算が立たねえ。頼むぜ、ラス」
「そう卑下したものでもないとは思うけどね。自分の役割は分かっているつもりだ」
「ああ」
 寝台に腰を下ろしたまま、こちらを見つめるビクトールのまなざしを一瞬見返して。
 それじゃあ、とラシスタは部屋を出る。
 窓から星明りが差し込むだけの薄暗い廊下は、しんと静まり返っており、他に起きているらしい人の気配はなかった。
 すぐには自分の客室には行かず、ラシスタは廊下の窓から夜空を見上げる。
 ───最後に自分を見たビクトールのまなざしは、数年前のものとよく似ていた。
 リーダー、と最後に呼びかけられなかったのが不思議に感じられたほどだった。
 つまり、とラシスタは思う。
 人は一度背負ったものは、それが何であれ、たやすく下ろせるものではないのだろう。
 戦乱を起こすだけ起こし、荒れ果てた故国を出奔した自分を、かつての仲間たちが咎めもせずに、こうして戻って来れば歓迎の意を表してくれるのも、今、同盟軍に協力を求められているのも、人々が解放軍の軍主だった頃の自分をまだ覚えているからだ。
 そして、こちらが望まぬことであっても、自分の名前は容易くは風化せずに、歴史に刻まれていってしまうのだろう。
 それほどに、人の上に立つということは重いことなのだ。
 ───耐えられるのだろうか、と。
 ラシスタはまなざしを下ろし、廊下の先へと瞳を向ける。
 数万もの人々を率いて、歴史と国の変わり目に立ち、人々の記憶と歴史に名を刻み込まれる。
 彼を決して心弱い少年だとは思わない。が、そんな自分の在り方に耐えつつ、幼馴染の親友と戦うことができるだろうか。
 この戦いに決着をつけることが可能なのだろうか。
 できないのであれば、一時も早く逃げ出せばいい、と思う。
 ビクトールにも言ったが、軍主が軍主足り得ないのであれば、今すぐその座を降りることが本人にとっても、同盟軍にとっても最善につながる。
 だが、今夜、カザミは逃げ出さないことを選択した。
 それは勇気でもあり、信義でもあっただろう。だが、その選択が幸いであるとは、今はまだ誰にも断言できないのだ。
「……君は戦い抜けるのか?」
 疲れ果てて眠るカザミの顔には、年齢に見合わない深い苦悩が滲んでいた。
 この先、戦況が更に激しさを増すに連れて、彼も彼の姉もますます追い詰められてゆくだろう。
 それに耐えられるか、否か。
 もとより同盟軍は訓練された正式な軍隊ではない。だからこそ、兵の数よりも軍略よりも、カザミの軍主としての力量が──彼の精神力こそが、この戦いの行く末を握る。
 ラシスタ自身は、同盟軍に対して、特にこれといった感情を抱いてはいない。
 偶然、自分が故郷に戻ってきた時期と、トランと同盟軍が同盟を結んだ時期とが一致し、その延長線上で協力を求められたのを特に断る理由が見つからなかったから応じた、今ここに居るのはその程度の理由でしかない。
 だが、それでもこの軍が敗北し、崩壊していく様を見たくはなかった。
 単純にハイランドが悪で、同盟軍が正義だとは思わないが、故郷と自分たちの誇りを守ろうと懸命になっている人々が、恐怖と絶望に打ちのめされるようなことにはなって欲しくないと、そればかりは本心から思う。
 しかし、それを導くのは──同盟軍を率いるのは、カザミなのだ。
 今はあの少年だけが、人々に希望と光をもたらすことができる。かつての自分の役割がそうであったように。
「それを君は……分かっているのか」
 憐れみとも懸念ともつかない感情を淡く載せて呟き、ラシスタは廊下の先のドアを見つめる。
 そして、しばらくの間、その場にたたずみ。
 ゆっくりと体の向きを変えて、自分用の客室へと向かう。
 夜の静寂の中、静かにドアを開け、そして閉めるまで、ラシスタはもう後ろを振り返りはしなかった。

...to be continued.

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