engel's egg








 その日、三蔵は壮絶なまでに機嫌が悪かった。
 原因は幾つもある。前夜、雨が降り続いてロクに眠れなかったこと、この十日ほどの間、異常としか思えない量の書類を連日、執務卓に積み上げられていること、それに付随して、入れ替わり立ち代り坊主たちが執務室に立ち入ってくること。
 そんな『気に入らないものワースト5』に間違いなく入るものばかりに取り囲まれていては、機嫌を回復する取っ掛かりすら発見することはできない。
 もはや彼の周囲で激しくとぐろを巻いているような濃厚な殺気に怯えてか、この数日は常に騒がしい悟空ですら、三蔵の様子を窺うように静かにしている。
 それでも三蔵の傍を離れることなく、執務室の隅っこで絵本の読書だの落書きだのという一人遊びをしているのは、さすがだと言えなくもない。なにしろ、他の坊主たちは執務室に足を踏み入れた途端に恐怖に凍りつき、油の切れたカラクリ人形と化すのである。
 そんな桃源郷最高僧の不機嫌が最高潮に達したのは、その日の午後も早い時間だった。



 本日何枚目になるのかも分からない書類に署名をし、投げ捨てるように筆を卓上に戻して、懐を探る。
 しかし、取り出したMarlboroのソフトケースは、ひどく頼りない重さで中に一本も残っていないことを持ち主に伝えてきて。
「──クソッ」
 いかにも憎憎しげに短く毒づいて、
「オイ、猿!!」
 語気も荒く、三蔵は執務室の片隅にちんまりと座り込んでいた生き物を呼ぶ。
「何、さんぞー?」
 普段なら、サルって呼ぶな!と抗議しているところだが、今の三蔵の機嫌が最高潮に悪いことを何よりも飲み込んでいるのが悟空である。珍しいほどに素直に首をかしげて返事をした。
「ちょっとこっちに来い」
「うん?」
 うなずき、悟空は手にしていた黄色いクレヨンを床上のスケッチブックの横に置いて立ち上がる。そのまま、とことこと執務卓に歩み寄ると、その眼前に一枚の紙切れが突きつけられた。
 それが何であるかは、さすがに世間知らずの悟空にも一目で分かる。悟空の好きな駄菓子や肉まんを買う時にはまず使われない、高額紙幣、である。
「──ナニ?」
「これで煙草買って来い」
「煙草?」
「そうだ」
 ふと見れば、卓上にはひねり潰されたソフトケースの残骸が転がっている。
 今日はとりわけだが、そうでなくともこの数日、仕事責めにされて不機嫌極まる三蔵は猛烈な勢いで煙草を消費していたから、大量にあったストックもとうとう無くなってしまったのだろうと悟空は納得し、そして彼の言葉に少しばかり緊張した。
「俺、一人で街に行っていいのか?」
「街にしか売ってねぇだろうが」
 じろりと睨まれて、悟空は小さく肩をすくめる。
 だが、実のところ、自分が何かを悪戯したせいで三蔵に怒られるのはかなり怖かったが、それ以外の彼の不機嫌について悟空は怖いと思ったことはなかった。
 なんか八つ当たりされてるかも、と思うことは多々あったが、三蔵が不機嫌でない方が珍しいこともあり、ここに連れて来られてかなり早い段階で、彼の不機嫌には慣れてしまったのである。
 だから、どれほど三蔵が不機嫌になっている時だろうと、彼の傍に居るのは平気だった。
「俺が吸ってる銘柄は分かるな? Marlboro赤のソフトケースを3カートン、だ」
「3カートン?」
「店のヤツにそう言えば分かる。釣銭は好きにしていいが、買い物を済ませたらとっとと帰って来い」
「……うん」
 何しろ、三蔵におつかいを言いつけられるのは、これが初めてである。
 三蔵の言ったことを反芻しながらだったため、少しばかり悟空の返事は遅れた。
(ええっと、三蔵がいつも吸ってる赤い煙草を3カートン、で、お釣りは好きにしていい……?)
「えっ、じゃあ肉まん買ってもいいの!?」
「テメェなんぞに釣銭持たせたところで、途中で落っことすのが関の山だろうが。どうせ寺の金だ、好きに使っちまえ」
「…………」
 確か、三蔵は先程、古くなった仏具を新しいのに買い換えるかどうかで坊主たちと揉め、年に一度しか引っ張り出さないようなガラクタに余計な金を使うんじゃねぇと、愛用の小銃を取り出しかねないような殺気に満ちた態度で却下したのではなかっただろうか。
 いいのかなぁ、と思いつつも悟空はうなずく。三蔵の機嫌の悪い時に逆らうほど、悟空も命知らずではなかった。
「分かった。じゃあ、すぐに行って帰ってくる」
「走るんじゃねぇぞ。途中で金を落としたり、煙草を落としたりしたら承知しねぇからな」
「大丈夫! 俺に任せろってば!」
「サルだから、信用できねぇんだろうが」
 苦虫を千匹ほどもまとめて噛み潰したような表情で、それでも三蔵は紙幣を悟空に手渡す。
 外出できる状況であれば、三蔵自身で出向きたかっただろう。三蔵は他人に用を言いつけることを何とも思っていないが(それが嫌いな相手なら尚更に)、しかし、煙草と拳銃の銃弾及び手入れ道具に関しては、調達に他人の手を煩わせたことはないのである。
 だが、今日に限っては、積み上げられた書類がそれを許さない。ゆえに甚だ不本意ながらも、日常生活においてはことごとく当てにならない子猿を使いっ走りにするしかないのだ。
「煙草屋の場所は覚えてるな?」
「うん、大丈夫。横に肉まんの店があるところだろ?」
「……そうだ」
「じゃ、行ってくるな。すぐに帰ってくるから!」
「──ああ」
 いかにも不本意と言った顔で三蔵はうなずき、いかにも嫌そうに一旦は放り出した筆を取り上げる。
 天下の三蔵法師といえど、この状況では煙草がなければ気分転換もままならない。ひとまず煙草が手元にやってくるまでは、目の前の書類を減らす努力をするつもりらしかった。







 走るなと言われたから、ギリギリ駆け足にならない小走りで悟空は整然と石畳が敷き詰められた通りを進んでゆく。
「3カートン、3カートン、赤い煙草を3カートン」
 歌うように呟きながら、悟空は真っ直ぐに煙草屋を目指して急ぐ。
 切羽詰った状況の末とはいえ、三蔵が頼み事をしてくれたことが跳ね回りたいほどに嬉しい。そんな気持ちを現すように、首筋で一つに束ねた長い髪が歩みに合わせてピコピコ跳ねる。
 いつもは、あれをするなこれをするなと怒られ、禁止されることばかりで、悟空が何かをして三蔵に褒められたことは一度もないと言って良かった。だからこそ、尚更に、ちゃんと煙草を買って早く帰ろう、と悟空は逸る心で思う。。
(あ、でも山桜は気に入ってくれたのかなぁ。どうやって書くのかも教えてくれたし)
 実は今日も、午前中はスケッチブック相手に字の練習をしていたのだ。そうやって執務室の片隅で字の練習をしていると、執務に飽きた三蔵が気まぐれに書き順などを見てくれる時があって、大概はけなされ、馬鹿にされるばかりだったが、それでもその時間が悟空には嬉しく楽しかった。
 だが、今日はそんな余裕すらないようで、三蔵はつい先程呼ぶまで一度も悟空の方を見なかったのだ。
(三蔵、最近忙しすぎ。全然、俺のこと見てくれないもん)
 それは多分、仕方がないことなのだろう。
 三蔵自身も、不機嫌そうに「仕方がねぇだろ」と口にするし、実際に昨日今日はいつになく不機嫌で疲れているようにも見える。少し前にあった春の大きな行事の時とはまた少し違う疲れ方をしているようで、それも悟空は心配だった。
(早く煙草買って帰ろう。そうしたら三蔵、少し元気になるよな?)
 正直、悟空は煙草の煙は、薫物(たきもの)の煙と同様、あまり好きではない。もう随分と慣れたが、最初の頃は喉がいがらっぽくなって困ったし、今でもあまり好きな香りというわけではなかった。
 だが、煙草の香りのしない三蔵など想像もできなかったし、三蔵が好きで吸っているのなら、悟空にとってもそれは好きなものの一つとなるのが当然だったから、煙草を止めて欲しいと言ったことはなかった。
 今も、三蔵が少しでも元気になればいい、そればかりを思って足を速める。
 街に出た時に三蔵がいつも行く店の場所は、道を覚えるのが苦手で方向音痴の悟空もきちんと記憶していた。何しろ、寺を出たら突き当たりの橋の手前で左に折れる以外、あとは運河に沿ってひたすらに真っ直ぐなのである。
 こういう時、整然と碁盤の目状に整備された長安の町並みは、実に都合が良かった。勿論、三蔵もそれを承知の上で、悟空を使いっ走りにしたのには違いない。
 ゆったりと水が流れ、幾つもの荷舟が行き来する運河沿いの通りを、人並みをすり抜けるようにして煙草屋を目指していた悟空は、やがて道の向こうに目当てのものを見つけて顔を明るくした。
 そのままの勢いで、戸口を開放したままの店へと飛び込む。
「──あら、いらっしゃいませ」
 すると、顔馴染みの女主人が、小さな子供の姿に驚いたように目をみはり、それから優しく目元を笑ませた。
「今日は一人? 三蔵様はどうされたの?」
 三蔵と悟空が連れ立って街に来るのは、さほど頻繁にあることではなかったが、何しろ人目につく組み合わせの二人である。
 三蔵は、その身につけた三蔵法師にだけ許される純白の法衣と彼自身の容姿で強烈に人目を惹き付けるし、悟空もまた額の金鈷の意味にさえ気付かなければ、今時珍しいほどに元気がよく、珍しい金色の瞳をした、ただの愛くるしい子供にしか見えない。
 ましてや、道端で年若い最高僧がハリセン片手に容赦なく子供を叱り飛ばし、それにも懲りず子供が「三蔵」の名を連呼しては楽しげにまとわりつき、根負けした青年が渋々買ってやった駄菓子や肉まんに、子供はこの上なく幸福そうな笑顔を見せる。そんな風景を繰り返していれば、騒がしいが仲の良い二人連れ、として街の人々の記憶に焼き付くのは仕方のないことだった。
「三蔵はすーっごく忙しいんだ。だから俺、煙草買いに来たの」
「まあまあ。おつかいなの。偉いわねえ」
 実は悟空は先日14歳になったのだが、とかく外見が幼く、どう見ても10歳前後にしか見えない。ゆえに子供扱いされることは珍しくなく、本人もまた、ガキとからかわれたりするのでない限り、全くそれを苦にしていなかった。
「あのさ、三蔵がいつも吸ってる赤いやつ、3カートンちょうだい?」
「ええ、ちょっと待ってね」
 うなずき、女主人はカウンター横の棚に積み上げられた煙草の中から、注文通りの品を取り出す。
 その紙包みに書かれた赤い模様が、三蔵愛用の煙草と同じものであることをちゃんと確認して、悟空は大事に握り締めていた高額紙幣のしわを丁寧に伸ばすようにして、女主人に差し出した。
「はい、煙草とお釣り。落とさないように気をつけてね?」
「うん、大丈夫」
 持ちやすいようにとの気遣いだろう、いつもの紙袋ではなく手提げのビニール袋に入れてくれた煙草と釣銭を受け取って、悟空は掛け値なしの笑顔を女主人に向ける。
「ありがとなっ」
「ええ。でも三蔵様は、そんなにお忙しいの?」
「うん。煙草もすっげえ吸ってて、部屋ん中、真っ白なんだ」
「あら、それは困ったわねぇ」
「俺もホントは、ちょっと煙いんだけど……」
「じゃあ、良い物をあげるわ。今ね、ご贔屓にして下さるお客様に配ってるのよ」
 言いながら、女主人が差し出してくれたものは、一辺が2寸ほどの大きさの小さな箱だった。悟空が受け取ると、大きさの割には少しばかり重さがある。
「ナニ、これ?」
「お部屋の匂いを消すためのものよ。好きなところに飾るといいわ」
「へえ……」
 箱にはイラストと説明文らしきものが書いてあるが、あいにく悟空には読めない。
 だが、とりあえずは良い物をもらったらしいと納得して、笑顔で礼を言い、それもビニール袋にしまった。
「ありがとな」
「どういたしまして。また来てちょうだいね」
「うん! 今度は三蔵も一緒だよ!」
 笑顔で応じて、悟空は片手を振り、店の外に出る。
 そして今度は、煙草屋の数件隣りにある肉まん屋を目指した。
 そこは、それこそ屋台のような小さな店構えではあるが、蒸し立ての肉汁たっぷりの肉まんを安く売っていて、この通りの中でも目立って人気のある店の一つだった。
 今日も数人の客が並んでいたが、悟空は構わずその一番後ろに並ぶ。手には煙草屋でもらった釣銭を握り締めたままで、しばらく待って自分の番が来ると、店のオヤジに対して両手を差し出すようにしてその金を見せた。
「これで買えるだけ、肉まんくれる?」
「……ボウズ、それだと16個も買えるぞ。いいのか?」
「へ? そうなのか?」
 悟空は計算が得意でない。というよりも、五以上の数は数えられない、と言ったほうが正しいくらいに数学については何も知らない。教えられたことがないから当然と言えば当然なのだが、この場合も、自分がいくら持っていて、肉まんが一つ幾らで、幾つ買えるのか、ということは全く分かっていなかった。
(16個かぁ。嬉しいけど、三蔵、食い過ぎだって怒るかなぁ…?)
 少しばかり、首をひねり、保護者である青年のことを考える。
 肉まんは食べたかったが、機嫌の悪い三蔵を更に怒らせるようなことはしたくない。だから少々の葛藤の末、悟空はオヤジの顔を見上げた。
「じゃあ、10個にしとく。10個、ちょうだい」
「よっしゃ。ちょっと待ってな」
 手際よく肉まんを取って紙にくるむ。更に細紐をかけて、手に持ちやすいように輪っかを作り、悟空の手の上から小額紙幣を取り上げるのと引き換えに、ほかほかの包みを手渡してくれた。
「毎度あり! 冷めねえうちに食うんだぞ」
「うん。ありがとう、おっちゃん!」
 手のひらに残された小銭を、少し考えてから煙草の入っているビニール袋に入れ、悟空はまたもや輝くような笑顔を肉まん屋に向ける。
 そして、今度こそ寺で不機嫌極まりない顔で待っているだろう三蔵のところに帰るべく、小走りに駆け出した。








「三蔵、ただいまー!」
「遅い!!」
 もはやお約束のように、ノックもせず執務室に飛び込んだ悟空の脳天に三蔵のハリセンが落ちる。
「何だよっ。俺、急いで帰ってきたのに……!」
「うるせぇ。とっとと煙草よこせ」
「チェ……」
 いつになくハリセンが強烈だったからだろう。わずかに涙目になりながらも、悟空はこれ以上彼を不機嫌にするのは得策ではないと判断したのだろう。素直にビニール袋を差し出す。
 受け取った三蔵は、すぐにそのうちの一つの包み紙を破り、ひと箱の封を切って取り出した煙草に火をつけた。その間、10秒足らずだろうか。呆れるほどの早業に、悟空は目をまばたかせる。
 が、それでめげるほど悟空はヤワではなかった。
「な! ちゃんと買って来れただろ?」
「威張るなサル。こんくらい、誰でもできる」
 不機嫌そうに言いながらも、紫煙を吐き出す様子はどことなく満足げで、それだけで悟空は嬉しくなる。三蔵の役に立てたのなら、それは何よりも幸せなことだった。
 それなら、自分は肉まんを食べようと、指定席となっている執務室の片隅へと行こうとする。
 と、その背中を三蔵が呼び止めた。
「──おい、悟空」
「うん?」
「俺は釣銭は好きにしろと言わなかったか?」
「うん。言ったよ?」
「じゃあ、何故小銭が残ってる?」
 それを聞かれるとは思っていなかった。
 悟空は大きな目をまばたかせ、ええと、と言葉を捜す。
「えっと……肉まん屋のおっちゃんが、16個買えるって言ったから。食い過ぎって三蔵が怒るかなって。だから10個にしたんだ」
「────」
 余程意外な答えだったのだろう。今度は三蔵が目をみはる番だった。
 その表情を見て、悟空は慌てる。
「あ、やっぱ全部買ってきたほうが良かったか? だったら俺、もっかい行くけど……」
「──行かなくていい」
「そうか?」
「その代わり、肉まんを一つよこせ」
「あ、うん」
 言われて、素直に悟空は執務卓の傍らに戻る。
 食べ物は大好きだったが、それを独り占めしようという考えは悟空の中にはない。美味しいものがあったら、三蔵も一緒に食べればいいのにと思うし、目の前に彼がいれば、とりあえずは「食う?」と聞くのが習慣になっている。
 少々おぼつかない手つきで肉まん屋が結んでくれた紐を解こうとしていると、じれったくなったらしい三蔵が、貸せ、とそれを取り上げた。
 爪の形の整った長い指で器用に紐を解き、紙包みを開く。
 そして、まだ湯気を立てている肉まんを一つ取り上げて、残りは包みごと悟空の方に押しやった。
 悟空もまた、肉まんを一つ手に持ち、へへ、と笑顔を三蔵に向ける。いつでも食事は一緒にしているのだが、何故か、久しぶりに一緒に物を食べる気がして嬉しくなる。
 そして悟空はともかくも、最高僧が寺院内で肉まんを食うという重大な戒律破りをしでかした三蔵は、しかし気にする様子もなく、ビニール袋の中から他のものを取り出した。
「──これは?」
「んぁ?」
 悟空が見ると、三蔵が手にしているのは煙草屋の女主人にもらった小さな箱だった。
 口の中一杯に4つ目の肉まんをほおばっていた悟空は即答できず、手を振って、少し待って、とジェスチャーを送る。そして大急ぎで肉まんを飲み込んだ。
「煙草屋のおばちゃんにもらったんだ。えーっと……部屋の匂い消すヤツ、って言ってたかなぁ。お客さんに配ってるんだって」
「──ふん」
 詰まらなさそうに三蔵は手の中の小箱を眺めている。その横顔を小箱を当分に見やって、悟空は身を乗り出した。
「なぁ、それ何て書いてあるんだ?」
「……箱ん中から出してみろ」
 説明するのが面倒くさいのだろう。三蔵は、小箱をぽんと放ってよこす。反射的にそれを受け取って、悟空は三蔵の顔を見つめ、それから手の中にやってきた小箱を見つめた。
 何の変哲もない包装用の箱である。あまり器用とはいいがたい子供の手でもそれはたやすく開き、悟空は中に入っていた丸いガラス容器をそうっと取り出した。
「……これ何?」
 透明なガラスの器は、ちょうど卵形をしていて、下から三分の二辺りのところで蓋が外せるようになっている。そして、その中には透明なジェルが詰められ、更にその中心には。
「人形が入ってる?」
 人の形に見えなくもない、薄ピンクの三角錐に、透明な丸い頭と小さな手、それから背に翼のようなものがくっついたそれをしげしげと見つめて呟くと、
「天使の卵だそうだ」
 実につまらなさげな三蔵の声が割り込んだ。
「テンシノタマゴ?」
「天使ってのは異教の神の使いだ。人間に鳥の翼が生えた格好をしている。要は、幸運を呼ぶお守りってとこだろう。子供だましの玩具だな」
「………?」
 気のない三蔵の説明は、今一つ悟空には理解しにくい。ただ、その物言いからすると、これは悪いものではなく、見た目通りに綺麗で可愛いものなのだろうと思い、けれど、と首をかしげる。
「これ、どうしたらいいんだ?」
「蓋取ってどっかに置いとけ。中身は消臭剤をかねた芳香剤で、最後にガラスの人形だけ残るって寸法だ」
「ふぅん……」
 悟空に分かるように説明する気が無いのが丸分かりの説明に、とりあえず、これをどこかに置いとけばいいのだということだけ悟空は理解し、納得した。
 けれど、どこに置いたものか。
 透明なガラスもジェルも、光に透かすときらきらして綺麗だから、できればいつでも見られるところに置いておきたい。しかし、この寺院の中で、条件を満たす場所というと極々限られてくる。
「……なぁ三蔵?」
「──なんだ」
「これ、部屋に置いてもいい?」
 窓のところに置いたら、きらきらして綺麗だと思うんだけど、という言葉は少しばかり頼りなく消える。
 悟空が知る限り、三蔵は身の回りの品にはこだわることをしない人間だった。室内に何かを飾る、というような発想は皆無だろうし、そういうことを好むとも思えない。
 だから、却下されることを覚悟の上で尋ねたのだが、
「──勝手にしろ」
 返ってきた答えは思いがけないものだった。
「え!? ホントにいいのか!?」
「却下されてぇのか」
「ううん!!」
 じろりと睨まれて、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「ありがとっ、さんぞー!!」
 もしかしたら三蔵には、このところ悟空を全く構ってやれていないという気持ちが在り、それが少しばかり寛容な態度を取らせたのかもしれない。
 が、己の中にある柔らかさを自覚するような彼でもなく、悟空もまた、その辺りの機微を悟れるほど大人ではなかったから、ただ嬉しげに笑い、硝子製の天使の卵を両手に大事そうに抱えた。
「じゃあ俺、これ部屋に置いてくるなっ」
 ならば早速、と廊下へと駆け出して行きかけて、あ、と悟空は振り返った。
「その肉まん、まだ食べるんだからな。三蔵も欲しかったら食べていいけど、俺の分、残しといてな」
「……誰がそんなに食うか」
 そもそも、最高僧の執務室の卓上に、肉まんを置いてゆくのはどうなのか。
 悟空が戻ってきて、その胃袋の中に証拠隠滅をする前に他の僧が書類を持ってきたら、卒倒するか逆上するか、そのどちらかしかないに違いない。
 しかし、わざわざ立ち上がって肉まんの包みを人目につかない場所に移動させようという気になるわけがなく、三蔵はただひたすら一時間ぶりの煙草を深々と吸い込む。
 どうせ今更誰も、玄奘三蔵法師に品行方正であることなど期待していないはずである。対外的な儀式や説法の時だけ、それらしくしていれば、あとは三蔵の名の威光の前に口をつぐむ輩ばかりだ。
 どいつもこいつもくだらねぇ、と三蔵は窓の向こうへとまなざしを向けた。
 まだ曇ってはいるが、東の空は明るい。この分だと、夕刻までには雲間から光が差してくるだろう。
 悟空に買ってこさせた煙草も、来週前半には尽きる。その頃まで書類の山が続くとは思いたくないが、万が一、そうだとしても、今度こそ全てを放り出して、自分で街まで買いに行ってやる、と三蔵は心に決める。
 そうして三本目の煙草が尽きた頃。
「ただいまーっ」
 悟空が執務室に飛び込んできた。
「うるせぇ、サル」
「あのな、さっきのヤツ、窓のところに置いたから!」
 息せき切って目を輝かせながら、叫ぶように悟空は報告する。
「晴れたら、きっときらきらして綺麗だから、三蔵も一緒に見ような」
「……なんで俺が、そんなことをしなきゃならん」
「いーじゃん。綺麗なんだから」
 いかにも不機嫌な返答にもへこたれず、悟空は言い返すと、執務卓の上に置いたままだった肉まんの包みへと手を伸ばし、それから考えるように三蔵を見上げた。
「三蔵、もいっこ食う?」
「いらねぇよ」
「そう?」
 じゃあ全部食っちゃお、と肉まんの包みを抱えて、とてとてと隅っこの定位置へと歩いてゆき床の上に座り込む。執務卓の傍らを離れたのは、どうやら、三蔵の邪魔をする気はない、という悟空なりの意思表示のつもりらしかった。
 少しばかり冷めてしまった肉まんを、それでも嬉しげにほおばる小猿をちらりと見やって、三蔵は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
 夕刻まで、あと数時間。
 溜息をつきながらも、三蔵は再び筆を手に取り、肉まんを全て腹に収めた悟空も、また床の上でスケッチブックへの落書きを再開して。
 書類に囲まれた長くも鬱陶しい一日も、どうにかやり過ごせそうだった。

 


 ───数刻後。
 執務を終えて部屋に戻った三蔵は、室内に満ちた芳香剤の甘い花の香りに、盛大に眉をしかめることになるのだが、それはまた別のお話。







End.











悟空、初めてのおつかい編。
Marlboro1カートン=3,000円なのは承知してますが、それだと釣銭が上手い具合にならなかったので、税金が上がる前の2,800円で計算してみましたvv いや、どうせ最遊記の世界は円単位じゃないと思うし!
ちなみに、肉まん屋は神戸の老祥記(もう10年近く食べてないけど好きvv)をイメージ、悟空がもらった芳香剤は、先日、抹茶を買いに行った行きつけの日本茶屋のキャンペーンでもらったものだったり。……何でもネタになります、はい。
芳香剤については多分、市販品なのでスーパーとかで探してもらえれば見つかるかもです。ただ、商品名は「天使の卵」ではありませんので悪しからず。確か「天使の消臭ジェル」、だったかな?






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