calling








「俺、誰も呼んでねぇけど」
 そう告げられた言葉は、三蔵を怒らせるには充分だった。










 麓(ふもと)の住民に懸念された通り、五行山は洒落にならないほど険しい坂路の続く急峻だった。
 三蔵は若く、健脚でもあったが、もう一度最初からこの山を登れと言われたら、それがたとえ釈迦如来の命であったとしても言下に拒絶する。そう断言できる。正直、それくらいにキツイ道程だった。
 それを、目の前のこの生き物は。
 地面へ向けて90度の角度で直滑降になった機嫌もあらわに眉根を寄せる三蔵の目の前で、岩石で造られた檻の中、座り込んだそれはきょとんと大きな目をみはってこちらを見上げている。
 陰になってよくは判らないが、瞳の色は金色に近い琥珀色をしているように見えた。
 そんな造形はともかく、こちらを認識し、言葉を発した以上、最低限の知能はあるのだろう。
 一体どうするべきか。
 またもや三蔵は考え込む。
 自覚があろうがなかろうが、目の前の存在はずっとこちらを呼んでいたのだ。それこそ三蔵を偏頭痛持ちにするほど昼夜の区別もなく、のべつ幕無しに。
 最初のうちは勿論、無視していた。だが、一年が過ぎ、更にもう一年が過ぎようとしても声は止むことを知らず、そのうるささにとうとう耐えかねて重い腰を上げ、ここまで来たのである。
 そうである以上、どんな手を使ってでも呼び声を止めさせなければならない。
 そのためにはどうするのが最善なのか。
 思案しながら、三蔵は深い暗紫の瞳を目の前の生き物と、その周囲へと走らせる。
 改めて見てみれば、この生き物を捕らえている岩牢は、巨大な岩をくりぬいたかのような造詣で、到底、人の手によるものとは思えない様相を呈していた。そして至る所に貼られた呪符。両手両足を戒める重い枷。
 明らかに封じられているのだ。
 この存在は。
「こっから出てぇのか」
「へ?」
 唐突な三蔵の問いに、相手のどんぐり眼が更に大きくなる。
「出てぇのか、と訊いている」
 繰り返した三蔵に、しかし相手は目をみはったままだった。
「出たいのか、出たくねぇのか。どっちだ?」
 もともと三蔵は気が短い。即答しない相手に、いっそこのまま見捨てて山を降りてしまおうかという衝動が込み上げるが、しかし、それでは元の木阿弥になってしまう。
 もう二度と、目の前の生き物が自分をうるさく呼ばないようにしなければ、ここまで山を登ってきた意味がないのである。
 そして、こんな場所から声を張り上げて自分を呼んだ以上、、これは、ここから出たいのだと考えるのがまともな思考回路というものだった。
 何故、封じられているのか、ということは、この際考えない。三蔵にとっての問題は、これが封じられている理由とか、これがどういった存在なのかという事ではなく、うるさい呼び声をいかに止めさせるかという一点のみなのである。
 呼ぶ、という事は、用がある、ということだ。ならば、そんな筋合いではないし不本意なことでもあるが、この生き物の願いを叶えてやるのが、おそらく問題解決の一番の早道だった。
 と、
「出られない、よ…?」
 ひどく戸惑った震えるような声が、三蔵の耳を弱く打った。
「どうしてだ」
 すげなく問い返した三蔵に、その生き物は大きな瞳を一杯にみはったまま、問われている意味も分からないと言いたげな戸惑いに満ちた顔で見上げてくる。
 だが、構わずに三蔵は続けた。
「てめぇは生まれる前からここに居るのか? そうじゃねえだろ」
 目の前の生き物は、服を着ている。そればかりか、両手両足には御丁寧にも重たげな鉄球付きの枷までついている。
 そこから導かれる結論は、唯一つ。
 誰かが、これを封じて、ここに放り込んだのだ。
「入ることができたんなら、出られないわけがねえ。──来い」
 もしかしたら、三蔵はここに辿り着くまでの疲労と苛立ちでキレかけていたのかもしれない。
 理屈になっていない理屈と共に無造作に差し出した手に、岩牢の中の生き物は目をまん丸にし、次いで、その顔をくしゃりと泣き出しそうに歪めた。
「ムリだってば……」
「無理かどうか、やってみなきゃ分かんねぇだろうが。いいから、とっとと来い。でなきゃ置いてくぞ」
「ヤだっ!!」
 置いてゆく、と言われた途端にそれは、鼓膜を直撃するような大声で悲鳴をあげる。
「だったら来いっつってんだ!」
 負けじと怒鳴り返した三蔵に、それは涙目になって、幼い仕草でぎゅっと唇を噛み締め、岩格子の間から差し伸べられた手をじっと見つめる。
 そして、泣き出す寸前のようなしかめっ面で、重い枷を引きずった右手をそろそろと上げ──。
 二人の指先が触れ合った、その瞬間。

「───なんで?」

 その生き物は岩牢の外、三蔵の目の前に立っていた。
 手首足首を戒める枷も、枷そのものは残っているものの鉄球は既に無く、半端な長さの鎖のみがだらりと下がっている。
 三蔵もまた、自分の言動のもたらした結果に無表情の下で半ば呆然としつつも、目の前の生き物と手を繋いだままで あることに気付いて眉をしかめ、その手を下ろした。
「これで気が済んだろ」
 素っ気無く言って、用は済んだとばかりに懐から取り出した煙草に火をつけながら、山を下りるべくくるりと身体の向きを変え、歩き始める。
「あ、待ってよ!!」
 その後を即座に小さな足音が追い───そうして二人の奇妙な関係は、始まりを告げた。



         *         *



 月明かりの中、ちっと舌打ちをして三蔵は自分の膝の上にいるものを見下ろす。その栗色の髪を深い金茶に見せる月光は、つい先程、コレによって叩き壊された壁の向こうから降り注いでいるものだ。
 まったく、とんでもない拾い物をした。
 今すぐ捨ててやりたい、と心の底から思うが、そうしたらおそらく、事態は拾う以前よりもひどくなるだろう。なにしろ、三蔵が一日顔を見せてやらなかっただけで、この様(ざま)である。
 苛立たしげな舌打ちを繰り返して、三蔵は意識を失ったままの悟空の体を抱え、立ち上がった。いつまでもここに座り込んでいても仕方がない。
 とはいえ、今夜はもう、あの人気ない納屋にこれを返す気にはなれなかった。が、他にいく当ても、預ける当てもない。仕方なく、三蔵は唯一の選択肢──自室へと向かう。
 夜更けの寺は、しんと静まり返り、虫の鳴く細い音以外、物音らしい物音も無い。
 遠巻きにして何やらこちらを窺っているらしい気配は所々の物陰から感じたが、頓着するような三蔵ではなく、長い回廊を端まで歩き、奥棟へと足を踏み入れる。
 そして、そのまた一番奥にある寝室へと辿り着く頃には、腕の中の生き物はずっしりとした重みを三蔵に伝えていた。
 苛立ち混じりに扉を開ければ、室内は明かりを点けずとも月光に皓々と照らされている。その中で、三蔵は部屋の隅の寝台に小さな身体を放り出し、疲れをほぐすように自由を取り戻した肩をぐるりと回した。
 東方随一の規模と格式を誇る寺院の総住持に与えられた部屋であるだけに、決して華美ではないが間取りは広く、比例するように、寝台もそれなりに広い。が、決して複数の者が安眠できる広さではない。
 しかし、そうであってもこんな夜更けであり、予備の寝具もない以上、今夜はここでこの生き物と共寝するしかなさそうで、三蔵はまた眉間のシワを深くする。
 かといって他にどうする術もなく、溜息をついて、どかりと寝台の縁に腰を下ろした。
 改めて見下ろせば、先程まで幼い頬を濡らしていた涙の跡は既に乾き、すーすーと気持ち良さそうに眠りこける寝息だけが、かそけく三蔵に届く。
「ったく……」
 予想以上に手のかかる生き物を拾ってしまったことに、自分で自分に腹を立てる。
 しかも、返品不可らしいとなれば、腹立ちは尚更だ。
 ───三蔵、どこにいるの!?
 ───どこに行ったの!?
 ───置いていかないで、戻ってきて!
 ───三蔵、三蔵、三蔵っ!!
 斜陽殿からの帰途、尋常ならざる悲鳴のような響きで自分を呼び続けていた声が、今もまだ残響のように耳の奥に残っている。
「ったく、どうして俺なんだ」
 心の底からの悪態が唇から零れるが、傍らで眠りこけている生き物を殴る気力も今は湧いてこない。
 久しぶりに長距離を全力疾走をした挙句、魔天経文の力まで解放する羽目になった今夜の騒動は、さすがの三蔵をもどっぷりと疲れさせていた。
「ちっ」
 今夜何度目とも知れない舌打ちをして立ち上がり、手早く夜着に着替えた三蔵は、今や寝台の真ん中で大の字になった小さな身体を粗雑に壁の方に押しやって、己の寝るスペースを確保しようとする。
 すると、ちゃり…と金属の触れ合う小さな音が、不意に耳についた。
「───…」
 何が、と考えるまでもない。傍らの幼い手首から聞こえたものである。正確には、その手首を未だ戒めたままの枷の鎖が擦れ合い、音を立てたのだ。
 重い鉄球が消えたとはいえ、黒光りする鉄製のそれは、悟空の本性を知った今であっても、やはり幼い子供の腕には不似合いであり、三蔵も気になっていないわけではなかった。
 だが、継ぎ目のない鉄枷を外すには、それなりの工具が必要になる。が、今夜まで寺院には悟空の存在を隠していたために、結果として未だ変わらず、鉄枷はここにあった。
 明日、町の鍛冶屋にでも連れて行くか、と思案しながら、三蔵は鉄枷の形状を確認しようと、悟空の手首に手を伸ばす。
 そして、幼く小さな手を軽く持ち上げた時。
 ───かちゃり、と軽い音が響き、次いで、ぼす、と音を立てて重い金属が寝台の上に落ちた。
「な……」
 驚き見れば、自分の手が捕らえた悟空の右手首には何もない。子供らしい柔らかそうな皮膚が、月の光をただ静かにはじいている。
 これまでこの枷をまじまじと見たことはなかったが、少なくとも一見して継ぎ目らしい継ぎ目は無かったはずである。それが、綺麗な断面を晒して寝台の敷布に沈んでいる。
 どういうことか、と半ば疑いながらも三蔵は、試すように悟空の左腕へと手を伸ばす。
 その指先が、黒光りする金属の表面に触れた途端。
 やはり綺麗に枷は開き、何事も無かったかのように悟空の手首は素肌を月光にさらけ出した。
「───…」
 一体どういう仕組みになっているのか。
 三仏神の言葉を鵜呑みにするのであれば、この枷は五百年もの年月、悟空を戒め続けてきたもののはずだった。それがこうも簡単に外れて良いのか。
 最初から、悟空以外の、あるいは人間の手が触れれば外れるように呪をかけてあったのか。それとも──あまり考えたくない可能性ではあるが──、触れたのが三蔵だったからなのか。
 ───『御指名』ってやつですね。
 これが、そういう事だというのか。
 脳裏に蘇った幼い頃の師との会話に、三蔵は眉をしかめる。
 しかし、寝台の上に転がる一組の鉄枷を睨み付けていても、それ以上何が起こるわけでもなく、また、これが外れた理由も分からない。
「くそ」
 いい加減、考えることが鬱陶しくなって、三蔵は鉄枷を寝台脇の卓上に移動させ、あどけない表情で眠り続けている子供の小さな身体を壁際に押しやって出来たスペースに、もう寝てしまおうと横になる。
 が、並より少々大きい程度の寝台の許容量では、どうやっても図々しく両手両足を伸ばした生き物の指先は、こちらと接触せざるを得なくて。
 ほのかに腕に触れる子供特有の体温の高さに、きつく眉をしかめた三蔵は、明日の朝一番で絶対に布団を用意させてやる、と固く心に誓って目を閉じた。









「ホントに、ここで寝ていいの!?」
 金色の大きな瞳をキラキラと輝かせてこちらを見上げる様は、一体どう形容したら良いのだろう。飼い主に向かって尻尾をぶんぶん振っている子犬、というのが一番しっくりくるが、しかし、三蔵の中の印象は、子犬というよりもやはり子猿だった。
(尻尾を振る猿、ってのは聞かねぇな)
 などと下らないことを考えながら、煙草をふかしつつぞんざいに肯定してやる。
「でなきゃ、何のためにこの布団はあるってんだ」
 事の発端となったのは、三蔵が執務時間を終えて夕餉も済まし、私室に戻ってきた時のことだった。
 今日は一日中、執務をこなす三蔵の傍で過ごして、その後も当然のように三蔵について歩いていた悟空は、寝室に足を一歩踏み入れるなり、今朝まではなかったものをそこに発見して驚きの声を上げたのである。
 飾りも何もない、頑丈なのだけがとりえのような寝台と、そこに敷かれた一組の寝具。
 それは勿論、三蔵が寺院の者に言いつけて昼間のうちに用意させたものであり、至極あっさりと、お前のだ、と告げたのだが。
 自分用の寝床を与えられた悟空の興奮は、それでは済まなかった。
「ホントにホントにいいんだ!!」
 三蔵の言葉に、ぱあっと大輪の真夏の花が開いたように満面の笑顔になると、──三蔵がはっとした時には既に遅かった──悟空は勢いをつけて、白い布団の上にダイビングする。
「暴れんじゃねえ! 埃が立つだろうが!!」
 思わず怒鳴りつけたが、しかし、容赦なく炸裂させたハリセンすら、はしゃぎまくる悟空の前では無力だった。
 さしずめサルの耳に念仏とでも言うべきか、悟空は満面の笑顔のまま、布団にぱふっと顔を埋めてみては、意味もなく寝台の上をころころと転がり続ける。
「そのうち落ちるぞ、バカ猿」
 三蔵の忍耐の無さは、あらゆる面で共通である。額に青筋を浮かべたままではあったが、怒りの通じない相手に怒り続ける事をも早々に放棄して、新たな煙草に火をつける。そして深く最初の一息を吸い込むと、半ば無意識に自分の腹部に片手を当てた。
 ───昨夜一晩で分かったことだが、悟空は大層寝相の悪い生き物だった。
 まさに野生動物としか言いようが無いほどで、今朝の三蔵は、明け方、この子猿に腹を蹴られて目を覚ましたのである。
 覚醒している時ならば、そんな無様なことにはならなかっただろうが、最も眠りの深い時間帯ではどうする術もない。悟空とて寝返りを打っただけであるから、さほど威力があったわけではないが、運悪く鳩尾(みぞおち)にまともに踵が入ってしまったのだ。
 当然、怒りのままに三蔵も、幸せそうに眠りこけていた悟空を寝台の上から思いっきり蹴り落としたのだが、それで気が済むはずもない。
 おかげで今日一日、三蔵の機嫌は思い切り地べたを這っており、悟空を連れてきた自分の責任など綺麗に棚の上に放り上げて、周囲に刺々しい殺気を撒き散らし続けていた。
 しかし、その最高僧には似つかわしくない殺気のために、普段ならば慶雲院の格式がどうだとか何かと姦しい坊主たちに、昨夜の騒動に引き続き、今日も見慣れぬ子供を執務室にうろうろさせていることについて尋ねられることもなく、悟空がちょろちょろとと落ち着きなかった以外は、思いがけず至極平穏な一日を送ることができたのである。
 その結果、陽が沈む頃には三蔵の機嫌もかなり上昇していたあたり、案外に彼も現金な性格をしていた。
「いいからとっとと寝ろ、サル」
 飽きることなく真新しい布団の感触を楽しむように両手足をバタつかせている悟空に、うんざりしたものを覚えながら三蔵は短くなった煙草を灰皿に押し付け、新たな一本を取り出す。
 そして、ったく、と溜息をついた。
 そんなに嬉しいか、という内心の呆れに似た思いは、即座に、嬉しいのだろう、という答えを見つけ出す。
 あの五行山の岩牢には、毛布の一枚すらなかった。北向きで決して太陽の光が差し込むことのない剥き出しの岩肌に座り込み、夏も冬も悟空は一人きりで五百年もの時を過ごしていたのだ。
 七日前にこの慶雲院に連れてきて、寒さ避けの毛布を与えた時ですら、金の瞳を輝かせていた。そんな冷たく硬い感触しから知らなかった子供が、やわらかく、温かなものに触れることにどれ程の感動を覚えるのか、悟空の気持ちなど分かるはずもないが、想像できないものでもない。
「俺はもう寝る。これ以上うるさく騒いだら、ぶっ殺すからな」
 仕方がない、と諦めの思いと共に言った言葉を、正しく理解しているのかどうか、
「うん」
 悟空はひどく嬉しそうにうなずく。
「ありがとな、さんぞー。俺、すっげえ嬉しい」
 そして、そんなことをニコニコと満面の笑顔で言うから、さしもの三蔵も毒気を抜かれて返す言葉を選びかねた挙句、黙って燭台に歩み寄った。
「消すぞ」
「うん。おやすみ、さんぞー」
「──ああ」
 短く応じながら、奇妙なものだ、と思う。
 おやすみ、だなどと親しみを込めて言われたのは、一体いつ以来だろう。まったく調子が狂う、と思いながら三蔵は自分の寝台に上がる。
 そして、静寂が訪れ……るわけもなく、
「いつまでも笑ってんじゃねえ、このサル!」
「ッたっっ!!」
 手探りで投げつけたライターは、見事に音を立てて悟空の額にヒットした。
「何すんだよ!」
「そりゃこっちの台詞だ! 寝ろっつってんだろ、馬鹿猿!!」
「ちゃんと寝てるだろ!?」
「布団ん中で笑ってる奴が、寝てるうちに入るか!!」
 あちらとこちらの寝台の上から怒鳴り合い、しかし、夜更け過ぎに子猿と口論するという不毛さ加減に、三蔵は、付き合ってられるか、と早々に思いっきり匙をぶん投げる。
「もう何でもいいから黙れ、サル。これ以上一言でも喋ったら、その額に風穴を開けてやる」
「何だよ、それ!」
「うるせえ!」
 ガチリと薄闇の中で愛銃の撃鉄を下ろす音を立ててやると、さすがに悟空は、不満げな気配を醸し出しつつも渋々押し黙る。
 そして、ちぇ、と小さな呟きが響き、「おやすみ」という言葉と共に、ぼふっと頭の上まで掛け布団を引き上げたらしいこもった音が三蔵の耳に届いた。
 ようやく静かになったかと、三蔵は大きく息をついて目を閉じる。それから眠りの淵に引き込まれるまでは、さほど寝つきの良くない彼としては珍しく、あっという間だった。









 三蔵の意識が不意に引き戻されたのは、傾いた月が山の端に消えようとする頃だった。
(何だ……?)
 何故、自分が目覚めたのか咄嗟には理由が掴めず、窓から斜めに差し込む淡い月の光に眉をしかめながら、数度まばたきを繰り返す。
 と、自分のものではない声が、か細く、さほど遠くはない距離から聞こえた。
「悟空?」
 薄闇の中を透かして届く、苦しげな呼吸音に、はっと身を起こす。しかし、名を呼んだ声に返事はなく、三蔵は眉をしかめたまま床に降り立ち、悟空の寝台へと歩み寄った。
 近づくと、意味不明の音声だった声が、一つの文節を成して三蔵の耳に飛び込んでくる。
「──やだ…っ、嫌だよっ……!」
 嫌だ、とただそればかりを、悟空は寝台の上で繰り返していた。悪夢に苦しんでいるのか、うわ言のように呟きながら身をよじり、不自由な仕草で首を左右に振る様は、常の生気にあふれた姿からは程遠く、想像できないほどに痛々しい。
「悟空」
 強い声で三蔵は幼い生き物の名を呼ぶ。
「悟空、目を覚ませ」
 起きろ、と小さな肩を掴んで、いささか手荒く揺さぶる。
 と、はっと悟空の目が見開かれた。
 悪夢にうなされていたくらいだから、眠りは浅かったのだろう。寝起きとは思えないほどはっきりとした金のまなざしが、真っ直ぐに三蔵を捕らえる。
 そのまなざしに見覚えがある、と感じた刹那、強い力ですがりつかれて、三蔵は咄嗟に悟空の身体の脇に手をつくことで身体を支えた。
「行かないでっ!!」
 何をする、と怒鳴るよりも早く、泣き叫ぶような声が至近距離から三蔵の鼓膜を直撃する。
「お願いだから! 何でも言うこと聞くから、いい子にするから…っ、どこにも行かないで! 居なくなったらヤだっ! ずっと傍に居て……っ!!」
 幼い腕に必死の力を込め、嗚咽交じりに訴えてくる。
 両腕できつく三蔵にしがみついたまま、悟空は幼児のように泣きじゃくっていた。
「──置いてきゃしねえと言っただろうが」
 何故こうまでも求めてくるのか。他者を求めることができるのか。不可思議なものを感じながら、三蔵は低く言葉を紡ぐ。
「俺は、どこにも行きゃしねえよ」
 果たして、その声が届いたのか。悟空の悲鳴のような声が、ぴたりと止まった。
「……ホントに……?」
「ああ。今だって、ここに……お前の傍に居るだろうが。それも分かんねぇのか」
「居る……?」
 そろそろとすがりついていた腕の力が緩み、恐る恐るといった風情で悟空が見上げてくる。
 その昨夜暴走した時にみせたものと同じ、泣き濡れた金の瞳を、三蔵は真っ直ぐに見つめ返してやる。
「……ずっと、居る? ずっとずっと一緒に居てくれる……?」
「ああ」
 つたない問いかけに、そんな事ができるわけがない、と反射的に思う。
 ずっと、などという言葉は、不可能を表す言葉だ。そんな言葉を信じる気もなければ、約束する気も微塵もない。第一、この子猿に一生付き合うことなど考えたくもない。
 だが、それは今、この幼い生き物に向かって告げるべき言葉ではないという程度の思慮は、三蔵の中にもあった。
「どこにも行きゃしねえよ」
 その言葉を繰り返した途端。
「良かったぁ」
 幼い顔を涙でくしゃくしゃにしたまま、心底安堵したように悟空は笑った。
「分かったんなら寝ろ。まだ朝まで時間はある」
「うん、うん」
 嬉しそうに、へへっと笑って悟空は素直に目を閉じる。そして、またたく間に再び眠りの世界へと落ちてゆく。
 その様子を見届けて、三蔵は大きく息をついた。
 自分の寝台の方へと戻りかけて、爪先に床に落ちていた何かが当たるのを感じ、そういえば寝る前にライターを投げつけたのだと思い出して、それを拾い上げる。
 それから、卓の上に置いてあったMarlboroのソフトケースから一本取り出し、火をつけた。
「───…」
 ゆっくりと煙草をくゆらせ、薄闇の中を静かに立ち上る煙を目で追う。
 面白い気分ではなかった。
 夜中に起こされたことも理由ではあるが、悟空の中に、明らかに置いてゆかれることに対し強い不安と恐怖が根付いていることが、昨夜に引き続き、今のことで明確になった。それが三蔵を憂鬱にさせる。
 先程の悟空は、おそらく正気ではなかった。目覚めたように見えていても意識はまだ夢の中にあり、こちらを見上げた金の瞳も、三蔵を認識しているようで映していなかったように思う。
 ならば、悟空は何を見ていたのか。
 岩牢に閉じ込められる以前の記憶は封じられていると聞いたが、封じられているということは、消去されたということではない。過ぎ去った記憶も思いも、悟空の中にはまだ眠っていることになる。
 そうであるのなら、夢に過去の残像が現れても決しておかしくはない。
 五百年という止まっていた時間を計算に入れなければ、彼の年齢は十三歳だという。岩から生まれたという以上、両親は居ないだろう。となれば、こんな子供がすがりつくのは一体、どんな相手なのか。
 それが保護者だったのであれば、その人物はどうしたのか。
 人間であったのであれば、とうの昔に寿命を迎えているだろう。もし人間ではなく天界の関係者で、今もまだ生き長らえているとしても、五百年もの間一度も悟空の前に姿を現さなかったというのは、あまり良い感触はしない。
(──いや、それどころじゃねぇな)
 行かないで、と悟空は泣き叫んだ。そして昨夜も、三蔵が一日、顔を見せなかったことをきっかけにして恐慌状態に陥った。
 つまり、既に悟空は、あんな風に泣いてすがりつくほどかけがえのない存在との別離を経験したことがあるのだ。
 あるいは単なる別れではない──永訣を。
「ちっ」
 舌打ちをして、三蔵は煙草をもみ消し、新たな一本に火をつける。
 悟空の中に記憶を封じられていて尚、消しがたい傷痕があると知るのは、面白い気分ではなかった。自分もまた、同種の一生消えない傷痕を負っているからということもあるだろう。泣き叫んだ悟空の心が、分かりたくもないのに分かり過ぎて、それがひどく三蔵の心を苛立たせる。
「俺にどうしろってんだ」
 確かに、悟空は自分の事を呼び続けていた。だが、自分に何ができるわけでもない。せいぜいが、こうして寝る所と食べる物を与えてやれるくらいのことだ。
 自分の事だけで手一杯なのに、他人に何かをしてやろうなどと思えるはずもない。
 助けを求める声を耳にすることはできても、自分を養い育ててくれた師のように、余人には底知れないほどの深い慈愛を他者に注ぐことなど、自分には到底不可能だった。
 だが、それでも。
「───…」
 薄闇の中を透かして、三蔵は静かに眠る悟空へと視線を向ける。
 どこにも行きゃしねえ、という実体のない空虚な言葉であったにもかかわらず、悟空はひどく嬉しそうに、心底安堵した笑みを見せた。疑うことを知らないのは、幼さなのか純粋さなのか。
 だが、確かに悟空は、三蔵の言葉に満ち足りた顔を見せたのだ。三蔵の返した、たった一言だけで。
「──面倒くせぇ」
 苛立たしく吐き捨てて、三蔵は灰皿に短くなった煙草を押し付け、もう一度眠るべく自分の寝台へと向かう。
 朝まではまだ間があったが、しかし、うまく寝付ける自信は三蔵自身にもなかった。









 悟空が目覚めたのは、日も昇りきった、ちょうど朝食が運ばれるよりも少し前の時刻だった。
「おはよ、さんぞー」
 むくりと寝台に身を起こし、きょろきょろと室内に視線を走らせて、三蔵の姿を捉えた途端に満面の笑顔でそう告げる。
 結局眠れないまま明け方までを過ごし、朝餉までの時間つぶしに朝刊に目を通していた三蔵は、新聞から顔を上げずに、ああ、と応じた。
「腹減ったぁ。今日の朝メシ、何かな?」
「寺のメシに期待するだけ無駄だ。昨夜も野菜尽くしだっただろうが」
「ちぇ。ハンバーグとかカレーとかだったらいいのに」
「ンなもん寺で食えるか、バカ猿。つーより、朝からそんなもん食いたがるんじゃねえ」
「なんでバカなんだよっ」
 きゃんきゃんと噛み付いてくる悟空を無視しながら、やはり昨夜の事は覚えていないらしい、と三蔵は見当をつける。その事自体には腹は立たなかった。何しろ会話の内容が内容だ。覚えていられたら厄介な事この上ない。
 そう思いながら、三蔵は彼の名前を呼ぶ。
「──悟空」
「何だよっ」
「今日、俺は仕事で隣りの町まで出かける。夜までには戻るから大人しくしてろ」
 そう告げた途端、悟空の表情が変わった。
「え、三蔵、今日いないの?」
「そう言ってるだろうが」
「俺も付いてっちゃダメ?」
「駄目だ。夜までには帰ると言っただろう。ここで待っていろ。食事はちゃんと運ばせる」
「───…」
 不満げ、というよりは不安げに悟空は唇をきゅっと噛み締める。
 この数日で、既に見慣れた幼い表情だったが、それにほだされる気は三蔵にはなかった。
「いいな?」
「……うん」
 渋々うなずく様子を横目で見ながら、読み終えた新聞を畳む。
「分かったなら顔洗って着替えろ。そろそろメシが来る」
「うん」
 言われた通り、素直にもそもそと着替え始める悟空の小さな背中から目を逸らし、三蔵は良く晴れた窓の外へと視線を向けた。
 ───他出する時には、その旨と戻ってくることを必ず告げる。
 眠れぬ夜を過ごし、結局、決めたのはそれだけだった。
 悟空が求めた、ずっと、などという約束は絶対に口にできない。更に言うのであれば、戻ってくる、という言葉すら、三蔵自身は信じていない。
 死ぬ気などないが、何時、どこで何が起きるか分からないことは、我が身をもって痛感している。
 ただ、悟空がうなされ自分の安眠が妨害されることを防げるのであれば、あるいは、悟空が斉天大聖と化して暴走することを防げるのであれば、それくらいの言葉を与えてやる程度の譲歩は、三蔵にもどうにか可能だった。
「俺がしてやるのは、それだけ、だがな」
「え? 何? さんぞー、今何か言った?」
「何も言ってねぇよ」
 呟きを耳ざとく聞きつけ、振り返った悟空にぞんざいに返す。
 この貸しは、そのうちノシをつけて返せ、と今度は心の中で呟いて、窓の向こうの青空を仰ぐ。
 今日も、春の陽射しの暖かな一日になりそうだった。







End.











えらく長くなりました、三蔵&チビ悟空の第一弾。
この後、原作で描かれた通りに、チビ悟空は三蔵の留守中に寺内に犬を連れ込んで三蔵に叱られ、結局、三蔵は異端を排除したがる坊主どもの悪意から庇ってやるために、やむなく出張のたびに悟空を同行させることになります(笑)
その場面だけでなく、原作を丁寧に読んでいると、つくづく三蔵は悟空に甘いなぁと感じる場面が意外に多いです。
自分と悟空の関係を、光明と自分の関係に重ね、自分は師のようにはなれないと思いながらも、自分からは悟空を捨てるような真似はしない、という枷を自分に課しているようにも見えるのですが、実際のところはどうなのでしょうかね。

何にしても、二人が一緒にいるだけで何となく安心できるものを感じる自分としては、2006年2月現在、原作の今後が非常に気になります。
さんぞー、純粋な殺意なんかに囚われてる場合じゃないよ? 貴方が暴走してる間に悟空が暴走してるよ、貴方が止めなきゃヤバいよ?? 
今月も、ハラハラドキドキです。






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