spring comes around








 ───どうしたらいいのかなぁ。
 やわらかな春の初めの光の中、金の瞳の子供は呟く。
 ───俺、どうしたらいいのかな。
 答える相手はない。
 当の子供とて、誰かの返事を期待しているわけではないだろう。そもそも、周囲には人影すらない。
 ───俺にできることって何かあるかなぁ?
 答えの返らない問いだけが、淡い春の風に静かにたなびいてゆく。









 耳に届くか届かないかの遠い足音を聞きつけて、ぴくりと悟空は反応した。
 うつむいていた顔を上げ、じっと扉を見つめる。だが、毛布を頭からかぶって寝台の上で膝を抱えた格好はそのままに、そこから動こうとはしない。
 それからどれほど待っただろう。長いようにも短いようにも思える静寂の後、くっきりと輪郭を伴った足音が部屋の前で止まる。そして、かちゃりと小さな音を立てて、金のまなざしの先で扉が開いた。
「おかえり、三蔵」
 夜の静けさを壊さないようにそっと、けれど明るい声で呼びかけると、少しばかり驚いたように彼の顔が上げられる。
「──まだ起きてたのか」
「うん」
「寝てろと言っただろうが。ガキが夜中まで起きてんじゃねえ」
「──うん」
 実に不機嫌な顔で小言を口にする三蔵に、分かってる、と悟空はうなずく。
 が、だからといって直ぐさま寝台に横になることはせず、まるで小さな達磨のように厚手の毛布にくるまったまま、法衣を脱ぎ捨てて寝支度を始める三蔵を目で追った。
 三蔵は、元々口数の多い男ではない。決して物静かな性質というわけでもないのだが、基本的に口を利くことを億劫がる。
 だが、今夜はそれに拍車がかかっているようだった。むっつりと押し黙ったまま、気だるげな動きで夜着へと着替え、燭台へと手を伸ばしながら悟空を振り返る。
「消すぞ」
「うん、いいよ」
 無邪気なほどの声で素直に応じる悟空にほんの一瞬だけ視線を留め、だが、何も言わずに三蔵は燭台の火を消す。
 そして、薄闇の中、彼がゆっくりと自分の寝台に身体を横たえ、いつものように壁の方を向いて眠りに付くのを見届けて、悟空もまた、毛布にくるまったまま、もそもそと布団の中にもぐりこんで目を閉じた。






 翌朝、悟空が目覚めると、既に三蔵の姿は室内になかった。
 きょろきょろと室内を見回し、誰の気配もないのを確認して、悟空は窓の外へとまなざしを向ける。
 今日も、やわらかく霞んだ春の空はよく晴れていた。
「んしょっと」
 いつもうるさく言われている通りに、寝台の上に掛け布団と毛布をきちんと端を揃えて畳み、ぴょんと床の上に飛び降りる。それから用意されている水差しと水盆で顔を洗い、服を着替えた。
 そうして寝所と居間を隔てている衝立を回り込むと、飾り気のない簡素な卓には、一汁三菜の質素な食事が、量だけは三人前ほど用意されている。
「いただきまーす」
 ちょんと顔の前で両手を合わせてから、悟空はすっかり冷めてしまった朝食を一人で食べ始めた。
 朝食が冷えているのは、別段、寺僧たちの嫌がらせというわけではない。単に、このところ夜明け頃に起床して朝餉を取る三蔵のスケジュールに合わせて朝食が供されているだけのことであり、三蔵が命じれば、悟空の朝食だけ常と同じ時刻に運んでもらうことも可能だったし、あるいは温め直してもらうこともできないわけではなかった。
 だが、三蔵にどうするかと問われた時、悟空は、自分の分だけ別に運んでもらうことも、温め直してもらうことも拒んだ。自分に好意を抱いていないとはっきり分かっている寺僧たちの手を煩わせるのは良い気分ではなかったし、何よりも、
(三蔵がいないんなら、あったかくても冷たくても一緒だし)
 そう思う気持ちが、悟空に三蔵の分と共に運ばれ、そのまま冷めた朝食を選ばせたのである。
 三蔵と向かい合わせで食事をするのなら、冷たい残り物でも十分過ぎるほどに美味しく感じられるが、一人きりで温かい食事をしても、ちっとも美味しくないし嬉しくもない。
 だから悟空も最初は、三蔵に合わせて自分も起きると主張したのだが、それは、起きられるわけがねぇだろう、という三蔵の呆れを滲ませた声で一蹴されてしまった。
 確かに悟空は、寝起きそのものは悪くはない。しかし、昼間目一杯に遊んでいる子供に日の出と同時に起きろというのは三蔵の言う通り、かなりの無理難題であり、結局、意地を張り通すことはできずに、悟空は三蔵と少々の口論の末、自分はいつも通りに起きることを渋々了承したのだ。
「ごちそーさまでした」
 最後の一口まできちんと腹に収めて、悟空は再び手を合わせる。
 寺で供される食事は当然、三食とも精進料理であり、育ち盛りの悟空にとってはさほど美味とは感じられないものばかりだった。
 だが、三蔵の命により量だけはたっぷりと用意され、一般には少々贅沢な砂糖をふんだんに使った甘味も頻繁につけられているおかげで、それなりの満足を得ることができている。
 加えて、極たまにではあったが、仕事絡みなどで街に出た時には、うるさくねだる悟空に根負けした三蔵が何かしら食べ物を買ってくれたから、それで悟空は十分に幸せを感じていた。
 悟空にしてみれば、基本的には、三蔵と食べ物、その二つが揃っていればいいのだ。
 他に望むことといえば、お天気がいいこと、三蔵の機嫌が悪くないこと、それくらいしか思いつかない。
 食後の膳は、そのままにしておけば係の僧が下げに来る。だから悟空は、そのまま部屋を出て回廊から表へと小走りに走り抜け、そして頭上に輝く太陽を見上げて、眩しさに目を細めた。
「すっげえいー天気……」
 こんなに天気がいいのに、と悟空は今、三蔵がいるはずの本堂がある方角を見やる。
 最近、三蔵がひどく忙しくしている理由は、悟空にはよく分からなかった。
 三蔵に訪ねてみても、「面倒くせぇ行事があんだよ」といかにも嫌そうな、かったるげな答えが返ってきただけで、それ以上の説明はなかった。
 もっとも、たとえ懇切丁寧に説明されても、仏道に関心のない悟空には大して内容が理解できなかっただろう。三蔵のものぐさな返事が、それをも踏まえてのことであれば、さすがと賞されても良いところではある。
 が、その辺りの彼の思惑はともかくとして、もうしばらくの間、三蔵はとても忙しい。そのことさえ分かれば、悟空には十分だった。
 三蔵が忙しいのに合わせるように、このところ寺の僧たちもこぞって連日、本堂の方に詰め掛けている。そのせいで、いつになく人気のない境内のうち、外壁に近い外れの辺りを、悟空は誰に見咎められることもなくとことこと歩いてゆく。
 この大きすぎるほどに大きな寺院に連れて来られてから約半年になるが、三蔵が本当に忙しい時は絶対に邪魔をしてはいけないのだということは、既に悟空も飲み込んでいた。
 悟空が何かヘマをすれば……それが重大な行事の時期であればあるほど、悟空自身を飛び越えて三蔵に向けられる非難は大きくなる。
 その構図は、一番最初に三蔵自身が悟空に悪さをするなと告げた折に、「俺がガタガタ言われて面倒なんだよ」と至極簡単に説明したことではあったが、それが真実だと悟空が知るのには、さほどの時間はかからなかった。
 そもそも、悟空は本質的に、じっとしていることがひどく苦手である。起きている間中、何か面白いものはないかとついつい探してしまうし、見つけたら見つけたで嬉しくて、はしゃがずにはいられない。
 そうしてその結果、悟空が何事かを起こすたびに、あるいは悟空の姿を目にするだけで、寺僧たちは眉をひそめ、顔を背ける。
 だが、悟空に聞こえるような距離での陰口は日常茶飯事であっても、面と向かって彼らに何かを言われたことは、この寺院に連れてこられたばかりの頃の一時を除いて殆どなかった。
 山猿並みに世間知らずではあるものの、悟空は決して頭の回転が悪いほうではなく、そんな僧たちの態度に疑問を抱いた時、不意に頭上の雲間から光がさすように、自分を庇ってくれている三蔵の影に気付いた。
 そればかりではない。
 いつのことだったか実際に、「あのサルに文句があるのなら、直接俺に言え」と冷ややかに誰かに言い放つ彼の声を偶然、聞いてしまったこともある。その時、悟空はひどく驚いたし、同時に涙が出るほどの嬉しさを感じた。
 それからのことだ。三蔵の邪魔になることだけは絶対にしないと心に決めたのは。
 悟空としては、とにかく何でもいいから三蔵の傍に居たかったし、三蔵に嫌われたくもなかった。だからといって、おそらく生まれつきのものだろう旺盛な好奇心が減るわけでもなく、上手くできているかどうかは全く別の話ではあるのだが、ともかく努力だけはしている。つもりである。
 しかしながら、肝心の三蔵の本意がどこにあるのかは、悟空にはちっとも分からないままだった。
 どうしてあの岩牢から連れ出してくれたのかも、そのまま傍に居ることを許してくれているのかも。
 彼は決して言葉にして語ろうとはしない。悟空に分かるのは、常に冷ややかで不機嫌そうな三蔵の言動の底にある、目には見えない、けれど確かな優しさ、それだけだ。
 とはいえ、悟空にとってはそれさえ分かっていれば良かったし、だからこそ、そんな悟空には理解できないことも生まれてくる。
 その最たるものが、この寺の人々の態度だった。
(どうして皆、三蔵が優しいの分かんないんだろ)
 日がな一日、寺の内外をうろついている悟空の耳には、自分に対する陰口ばかりでなく、三蔵に対するものも多々流れ込んでくる。
 人外の存在である悟空には人の言葉が理解できないとでも思っているのか、それとも悟空が告げ口をするとは思っていないのか──実際に告げ口などしたことはないが──、寺僧たちは無防備に嫌がらせのような言葉を悟空に降らせてくるのだ。
 曰く、当代の三蔵法師は何を考えているのか分からない、仏事をないがしろにしている、冷酷で情がない。そんな言葉の数々は、悟空をひどく不快にさせた。
 もし彼らが、悟空に対する嫌がらせでそれをしているのであるとすれば、実に正鵠を得ていたといえるだろう。自分のした事が三蔵に跳ね返らないのであれば、有無を言わせずに突っかかり、全身で抗議したいほど、三蔵がらみの陰口を聞く度、悟空はいつも猛烈に腹が立った。
 けれど、自分が何かをすればするほど三蔵が悪く言われると思えば何もできず、ただ、もやもやしたものばかりが胸の底に溜まってゆくのである。実に気分の悪いこと、この上ない。
(確かに三蔵は意地悪だし、目つき悪いし、すぐ怒るし、ハリセンで殴るけど)
 だからといって、決して冷たい人間ではない、と思うのだ。
 岩牢から出してもらったものの、それ以前の記憶がなく、行く当てのなかった悟空を、ここに連れてきてくれて、食べ物と温かい寝床をくれたのは三蔵だった。
 何かと怒りながらではあっても共に食事をして、自分の話を聞いてくれるのも彼だけだ。
 それだけでも十分に嬉しいのに、ましてや、三蔵が傍にいたり、何か話してくれたりしたら、それだけで胸の辺りがほこほこしてきて跳ね回りたくなる。
 そんな気持ちをくれる三蔵が、冷たい人間であるわけがない、と思う。
 けれど、この寺の僧たちには分からないのだ。彼が三蔵法師らしくない、若すぎる、得体の知れない薄汚い子供を傍に置いている、そんなことばかりを論(あげつら)い、それでいて『三蔵法師』の肩書きと彼の持つ刃のような鋭さに畏怖し、諂(へつら)っている。そのことが悟空はただ悔しく、悲しかった。
(俺は三蔵が居るだけで嬉しいのに)
 小さく唇を噛みながら、悟空はどこまでも続いているような外壁に沿って歩いてゆく。と、宮城並みの広大な敷地もやがては尽きて、行く手を直角に折れ曲がった壁に遮られ、そこで悟空は一旦足を止めた。
 このまま壁に沿って進めば、寺の北門があり、そこから外に出ることはできる。だが、悟空は、寺僧に見咎められるようなそんな普通の行動をする気はなかった。
 数歩ばかり壁から離れ、えい、とばかりに軽く助走をつけて、青瓦の載った高い土壁を跳び越える。一瞬の後、悟空の小さな身体は、どこに触れることもなく、たやすく寺院の敷地の外側に降り立っていた。
「よし、脱出成功!」
 背後の白壁を振り返り、悟空は口元に悪戯な笑みを浮かべる。
 本当は三蔵からは、勝手に外に出るなと言われているのだが、普段はそれなりに三蔵との約束を守る努力をしている悟空も、こればかりはどうしても守れずにいた。
 なにしろ、東方随一の大名刹である慶雲院は広大な敷地を誇ってはいるものの、面白みはない場所なのである。建物は数多く、立派な庭園もあるが、端整すぎるそれらの人工物は悟空の感覚には馴染まない。それに比べて、自然はいつでも悟空に優しかった。
「やっぱり気持ちいーなぁ」
 このところ連日、悟空が通いつめている春先の雑木林は、梢のまだ堅い新芽を透かして降り注ぐやわらかな陽射しにあふれている。
 落ち葉が厚く積もった地面を踏みしめて立ち止まり、悟空はうーんと伸びをする。いつもながら寺の外に出ると、気のせいばかりでなく本当に背丈が伸びるような感じだった。
 三蔵のいる場所から離れたいと思ったことは一度もないが、それでも厳格でどこか底意地の悪い、冷ややかな寺院の空気は悟空には少しばかり窮屈で、時折、こうして昼夜分かたずに焚かれる薫香の匂いのしない場所で深呼吸したくなるのである。
 恐らくは三蔵も、悟空のそんな心理に気付いているのだろう。悟空が勝手に外に出たことに勘付くたびに手厳しく怒るものの、だからといって、悟空をどこかに押し込めて外出を禁ずるようなことはなく、結果的に悟空は野放しと言ってもいい状態に置かれていた。
 とはいえ、悟空も三蔵の言いつけを露骨に破るのは気が引けて、寺を脱出しても決して遠出をする事はなく、遊びに行く先はもっぱら寺の裏手に広がる雑木林のみに限られている。
 一歩足を踏み出すたび、ふかふかの枯れ葉がくすんだ音を立てる地面の所々には、やわらかな下草が萌え始めている。その中を、楽しげな軽い足取りで悟空は雑木林の奥へと向かった。
 悟空は本来、大地の化身といっても良い大地の精気の結晶ではあるが、本人にその自覚はなく、それゆえにか自然の中にあっても正しい方向感覚を余り持ち合わせていない。
 しかし幸いにして、雑木林は広いものの葉の少ないこの季節ならば、振り返れば天高く聳え立つ慶雲院の五重塔が大体の位置を教えてくれる。それはまるで、三蔵が見守ってくれているような感じでもあり、悟空は安心して先へと進むことができた。
「あった!」
 雑木林の入り口からどれ程歩いただろうか。一番奥に近い地点まで来た所で、悟空はそれを見つけて嬉声を上げる。
 ちゃんと迷わずに来れたぞ、とささやかな勝利感に浸りながら、打って変わってゆっくりとした足取りでそれに近づき、見上げた。
「綺麗だなぁ」
 目の前に在るそれは、三日前に偶然見つけた悟空の宝物だった。
 春のやわらかな陽射しの下、それはまるで自ずから光り輝いているかのように悟空の目には映り、その美しさに知らず感嘆の息をつく。
「三蔵にも見せたいな……」
 呟き、それを見つめることしばし。
「そーだ! いいこと思いついた!!」
 春どころか真夏の太陽のように顔を輝かせて歓声を上げると、悟空はもう一度それを見上げ、自分の思い付きが嬉しくてならない顔で忙しげに動き始めた。




           *           *




「これでいいや」
 それを見つめて、悟空はふふっと満足げに笑みを浮かべる。
 昼間、とある目的のために色々と考えて工夫し、頑張った結果は悟空を十分に満足させていた。
 これで一番の目的である青年が、何か反応をしてくれたらもう言うことはないのだが、そればかりは実際にその時になってみなければ分からない。
「三蔵、喜んでくれるといーんだけどな……」
 いつものように寝台の上で毛布にくるまってミニ達磨になったまま、今夜もまだ戻ってこない青年を待ちつつ、悟空はじっとそれを見つめていた。













「……あれ?」
 むにゃ、と呟きながら、悟空は朝の光の中、ぼんやりと寝台の上に起き上がる。
 なんとはなし習慣で辺りを見回し、部屋のほぼ中央にある衝立の向こう側、居間としての空間に見慣れた姿があることに気付いて、
「あーっ!!」
 一気に覚醒し、布団を跳ね飛ばして寝台を転がり下りた。
「さんぞっ、さんぞーっ!!」
「うるせえ! 朝っぱらから騒ぐんじゃねえよ!!」
 当然の如く雷を落とされたものの、それを気にする余裕は今の悟空にはない。なにしろ、目が覚めた時に三蔵が居たのは、ほぼ十日ぶりのことなのである。
「いつ戻ってきたんだ?」
「──夜中にな」
 それよりも、と新聞を読む時だけかけるハーフフレームの眼鏡越しに、三蔵はもとから目つきがいいとは言いがたい深い暗紫の瞳でじろりと悟空を睨みつけた。
「てめぇ、寝る時はちゃんと布団に入れっつってるだろうが。俺に世話焼かせるんじゃねぇよ」
 いかにも不機嫌丸出しの声に、悟空は、へ?と三蔵の顔を見つめる。
 そういえば、と思い返してみれば、つい先程起きた時、自分はいつもと同じように布団を被っていたような気がする。昨夜は確か、ここ幾晩かと同様に寝台の端に座って毛布にくるまり、三蔵が戻ってくるのを待っていたはずなのに。
「あ! ねぇそれよりも三蔵!!」
「何がそれよりも、だ!? 人の話聞いてんのか、馬鹿猿!」
「そうじゃなくってさ。これ!」
 一番大事なことを思い出して、悟空は卓上を指差す。これのために昨日の昼間はあれやこれやと頑張って、夜も三蔵が戻ってくるのをずっと待っていたのだ。
 と、
「──ッたああっ!!」
 がつん!と容赦ない三蔵の拳が悟空の頭の上に落ちてきた。
「何で殴るんだよ!?」
「何でじゃねえ! また勝手に寺の外に出やがって!!」
 頭を押さえ、涙目で抗議した悟空は、思いがけない返答に痛みも忘れて大きな金の瞳をまばたかせる。
「寺の外って……なんで分かったんだ?」
「ちったあ頭使え、馬鹿猿。この寺ン中に山桜の木は一本もねぇんだよ」
「やま…ざくら?」
 苛々と煙草に火をつけながら答える三蔵の言葉の中に、耳慣れない単語を聞き取って、悟空はきょとんと彼を見上げた。
「やまざくらっていうのか? これ」
「……名前も知らずに持ってきたのか」
 疲れたような溜息と共に紫煙を吐き出し、三蔵は窓の向こうへとちらりと視線を向けた。
「あっちに枝のよく張った木があるだろうが。山桜はあれの仲間だ。庭のあれも、もう少しすると花が咲く。八重桜だから、山桜とは花の形がかなり違うがな」
「そうなんだ。やまざくら、っていうのかぁ」
 いかにも面倒くさげに説明する三蔵の声に目を丸くして聞き入り、慣れない単語を口の中で確かめるように呟いた悟空は、それこそ花が咲いたような笑顔を浮かべる。その表情に、三蔵は怒るのを諦めたように、再び溜息をついた。
「──で?」
「で、って何が?」
 広げたままの手元の新聞に視線を向けながら、三蔵が素っ気無い口調で問いただす言葉の意味が分からず、悟空は首をかしげる。
「ボケてんじゃねぇよ。この山桜のことに決まってるだろうが」
「あ。これ綺麗だろ?」
「……どっから持ってきたんだ」
 直截的な言葉で一つずつ問わなければ、悟空からはまともな答えを引き出せないことを思い出したのだろう。少しばかり苛ついた様子を見せながら、三蔵が問い直した内容は今度は至極単純なもので、悟空は、ええと、と考える。
「裏の林ン中。一番奥のほうに一本だけ咲いてたんだ。んーと、四日前に見つけた」
 指折り日数を数えて、間違いないよ、とうなずくと、次の質問が降ってきた。
「この花立は」
「ゴミ置き場にあったやつ。──あ、ちゃんと洗ったから汚くないぞ!」
「───…」
 聞きたい事は一通り確認できたのか、三蔵は新聞へと視線を落としたまま、それきり押し黙る。そんな彼の態度に、悟空は少しばかり不安になった。
「……三蔵」
「……なんだ」
「怒った……?」
 彼の沈黙を他にどう判断すればよいのか分からず、おそるおそる問いかける。
 もし三蔵が怒っているのだとしたら、それはひどく悲しかった。
 もちろん、昨日自分がしたことの中には、三蔵の言いつけに背くことも幾つか含まれていたことは分かっている。だが、怒られるだろうと分かっていても、そうしたかったのだ。
 けれど、いざ怒られるとなると悲しい。自分が一生懸命になったのは、三蔵を怒らせたかったからではなく、自分が見つけた綺麗なものを彼にも見せたかった、それだけなのである。
 なのに上手くいかなかったのかと、悟空はしゅんとしてうつむく。何だか涙が出そうだった。
「──悟空」
 しばしの沈黙の後、三蔵の声が、いつもの素っ気無さで悟空を呼ぶ。
「後で、これの咲いてる所に案内しろ」
「──え?」
「桜は、花立に生けて眺めるもんじゃねえ。木に咲いてるのを見るもんだ。そんくらい知っとけ」
 新聞のページをめくりながらの言葉は、音を聴いた限りでは素っ気無さの極地だった。
 しかし、じーっとその横顔を見つめたまま、彼の言葉を少しばかり時間をかけて噛み砕き、飲み込むことに成功した悟空は、
「うんっ!!」
 ぱっと顔を輝かせる。
 三蔵が一緒に出かけてくれる、と満面の笑顔になった悟空は、ふと、あれ、と首をかしげた。
「三蔵、今日、仕事は?」
「今更、何言ってやがる」
 苦虫を噛み潰したような調子で言われて、改めて見てみれば、今朝の彼は法衣ではなく、春物のVネックセーターにジーンズという普段着姿で寛いでいる。
「今日はお休み? 仕事、終わったのか?」
「昨日でな」
「──やったあ!!」
 うわーい、と悟空は歓声を上げて跳び上がる。
 もちろん悟空とて、明日からはまた通常の公務が始まることくらい承知している。だが、それでも食事すら共にできず、おはようやおやすみさえロクに言えない毎日が終わったのは、純粋に喜びだった。
「……そんなはしゃぐような事じゃねえだろ」
「そんなことねーよ! 俺、すっげえ嬉しいもん!」
 満面の笑顔を向けて、なあ、と悟空は三蔵に呼びかける。
「お仕事、お疲れサマ」
「──ああ」
 簡単ではあるが心の底からの言葉でねぎらうと、表情を選びかねたように三蔵は眉間に軽くしわを寄せ、それでも短く応じる。
 そして、溜息をつくように再び新聞へと目線を落としながら、新たな煙草へと手を伸ばした。
「とっとと着替えてこい。朝メシの時間だ」
「うんっ」
 元気一杯にうなずいて、悟空は寝所のほうへと駆け戻る。
 今日も窓の外はうららかに明るい。悟空の心も、今日はそれに負けないくらいの上天気だった。







End.











というわけで、チビ悟空第2弾。
私はどうにも寺院時代の悟空と三蔵が大好きらしいです。何しろ旅に出た後のことは、峰倉先生ご本人が原作でたっぷりと描かれてますからね〜。妄想の余地がないとは言いませんが、あまり余計なことをして原作の雰囲気を壊したくないのです。

無邪気で愛くるしい犬っころなチビ悟空と、なんやかやと怒りながらも面倒見がよくて悟空には甘い三蔵。今しばらくの間、そんな彼らの日常を書きたいなぁと思っていますので、よろしければお付き合い下さい。
なお、彼らに関しまして御覧になりたいエピソードその他、リクがありましたら掲示板にてどうぞです(^_^)






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