沫雪更紗








 いつもと同じように目が覚め、何気なく窓の外を見た瞬間。
 すべてが白く凍りついた───。







「おい、いい加減に起きろ」
 二人分なのに四人前という、どこかかなり計算の間違った量の朝餉が居間の卓に並べられても、まだ起きてこない子猿に、朝刊を読んでいた三蔵が苛々と声をかけたのは、別に子猿の健康や、膳を片付ける給仕役の僧を気遣ったからではなかった。
 単に、自分は食事と水浴びを終えたら執務室に赴いて、また日没まで面白くもない書類に囲まれて一日を過ごさなければならないのに、子猿一人がぬくぬくと寝床で惰眠をむさぼるというのは、気に食わないを遥かに越えて、絶対に許せねえ。そんないかにも彼らしい思いからである。
「聞こえてねぇのか、サル!」
 繰り返し、きつめの口調で子猿の愛称(?)を呼ばわる。
 大人1人&子供1人の居間と寝室を兼ねるには十分に広い部屋とはいえ、普通の声で話していても、部屋の端から端まで届く程度のものである。
 ましてや、悟空は獣並みに耳が良い。これくらい呼べば、いくら熟睡していたとしても目が覚めていいはずだった。
「いい加減に起きろつってんだろ、悟空!!」
 つのる苛立ちのままに新聞を投げ出して三蔵は立ち上がり、居間と寝間を区切る衝立を回り込む。
 そして、こんもりと丸く盛り上がった寝具を睨みつけて、またドスの効いた声を上げた。
「テメェ、いつまで寝てる気だ? 手間をかけさせんなっていつも言ってるだろうが」
 氷点下の吹雪を思わせる怒気の滲んだ低い声に、しかし返事は返らない。
 ちょうど丸くなった子供サイズに寝具が膨らみ、おまけにその端から長い栗茶色の髪がはみ出ている。となれば、間違いなく小猿はここにいるはずであり、またこの至近距離で三蔵の声が聞こえていないはずもない。
 さすがに、何かおかしい、と三蔵も気付いた。
 悟空はまったく落ち着きがなく、騒がしい子供だが、だからといって聞き訳が悪いということはなくて、こういうルールがある、と三蔵が断言すれば、不思議そうな顔や不満そうな顔をしつつも、うなずいて従おうとする。こんな風に徹底して三蔵の言葉に逆らうことは、至極珍しいといっていい。
「──どうした、腹でも痛ぇのか」
 眉をしかめ、とりあえず思い当たることを問いかけてみる。
 悟空は身体は年齢に比すると小さいものの、相当丈夫にできているらしく、ここに連れてきてからの数ヶ月、生傷は耐えなくとも病気の方は微熱すら出したことはない。
 だから、もし体調が悪いのだとしたら、妙なものを拾い食いでもしたのだとしか考えられないのである。
 しかし、返事は返らない。
 子猿のいつにない頑固さに、三蔵は眉をしかめ、
「黙ってちゃ分かんねぇだろうが。具合が悪いなり、機嫌が悪いなり、ちゃんと口に出して言え」
 これで応えなければ放っておく、と思いながら、もう一度問いかけた。
 待つこと10秒。
 それでも反応はなく、なら勝手にしろとばかり、三蔵が踵(きびす)を返した、その時。
「───…」
 くぐもった小さな声が聞こえた気がした。
「聞こえねぇよ、サル」
 やっと口を利く気になったかと、冷めた暗紫の瞳を盛り上がった寝具に向ける。
「もっとでけぇ声で言わねえと布団引っ剥がすぞ」
「──ヤダッ!!」
 途端に返ったのは、悲鳴のようなくぐもった声だった。
 その声に、子猿は身体の具合が悪いのではなく、どうやら布団から出るのを嫌がっているらしい、と三蔵は推測する。
 悟空の腹時計は四六時中壊れたように時報を鳴らしまくっているものの、時間そのものは相当に精確だ。それが朝餉が運ばれたのに反応しようとしないあたりからして、そもそもおかしいのである。
 身体の具合が悪いわけでも無さそうなのに、この子猿が食事すら無視して、まるで拗ねたかのように布団の中に閉じこもっているなどというのは非常事態以外の何物でもなく、余程の理由があると見ていいだろう。
 面倒極まりないが、今朝はまだ時間がある。
 だから、悟空に口を利く気があるのならば、原因くらいは把握しておこうと思えた。
「悟空、いい加減に答えろ。今言わなきゃ放っておく。それでいいんだな?」
 そう告げると。
 数秒の逡巡の後、
「───…」
 もごもごとくぐもった声が返った。
「聞こえねぇつってんだろうが。テメェ、そんなに俺を怒らせたいのか」
「違うっ!」
 今度は、布団越しではあるものの、はっきりと聞き取れる声が返る。
「じゃあ何だ」
「────雪、が」
「雪?」
 思いがけない単語に、三蔵は寝台の向こうの窓に目を向ける。
 確かに今日は雪模様だった。夕べ遅くから降り出したこの冬最初の雪は、世界を白銀に染め替え、今も尚さやかに降り続けている。
「雪が何だってんだ」
「………雪、が……降ってるから。外、見たくない」
「────」
 いくらなんでも予想外の答えだった。
 何としたものかと、らしくもなく考え込む。
「雪が嫌いなのか」
「──うん。……怖い」
 怖い、などと、この子猿が口にするのを初めて聞いた。
 正直に三蔵は驚く。
 確かに、夜中に夢にうなされたりする辺り、本人も自覚しているかどうか怪しい傷痕が悟空の中にあることは気付いていた。しかし、覚醒している状態で、恐怖を吐露するとは。
 何とはなし、子供ならではの怖いもの知らずというレッテルを悟空に貼り付けていた三蔵は、少しばかり自分の中の印象を修正する必要を感じながら、再度、窓の外を見やった。
 重い色の空から絶え間なく、はらはらと雪片が舞い降りてくる。
 雪は雪だ。三蔵にとっては、それ以外の何物でもない。
 暑さも寒さも嫌いな性分であるため、底冷えがするのは腹が立つものの、好きだとも嫌いだとも思わない。旅の空で野宿をしているわけでもない以上、どうでもいい自然現象の一つだった。
「飯はどうする気だ」
「……いい。食べたくない」
 相当に重症だ、と三蔵は眉間のシワを更に深くする。
 頭のてっぺんから爪先まで全身胃袋としか思えないこの子猿が、食事を拒否するのも初めて聞いた。
 しかし、本人が食べたくないというものは放っておくしかない。
 自分にも経験がある、とひどく苦い思いに陥りかけるのを踏みとどまりながら、三蔵は最後の言葉を寝具の中に隠れたままの子供にかけた。
「だったら昼飯は用意させねぇからな。食いたくなったら、そう言え」
「───うん…」
 おそらく今日一日、決まり文句の「腹減った」は聞こえてこないだろう。
 そんな確信を抱きながら、三蔵は居間の方へと戻る。
 中央に置かれた方卓の上には、湯気の消えた四人前の朝餉が所在無さげに、自分たちを消化してくれる人を待っていて。
「──ったく、誰がこんなに食うんだ」
 朝っぱらから調子を狂わされたせいで、自分まで食欲が失せそうだと内心溜息をつきながら、三蔵は箸を手に取った。








 積み上げられていた書類の最後の一枚に署名と判を押して、三蔵は筆を置く。
 年の暮れまでまだ間のある現在、三蔵法師としての執務はさほど忙しくない。しばらくは説法の予定も入っていないし、あと十日ほどは今のようなペースで過ごせるはずだった。
 次の書類が運び込まれるまでの一服に袂からMarlboroのソフトケースと愛用のライターを取り出し、煙草に火をつけて灰皿を引き寄せる。
 最高僧の執務卓上に公然と置かれた喫煙具に、慶雲院広しといえども難癖を付けるだけの度胸を持った寺僧は一人もいない。が、誰かに何かを言われたところで、気にする三蔵ではなかった。
 第一、自分に煙草&火の始末を押し付けたのは、先代の慶雲院総住持であったクソジジイだという思いが三蔵の中にはある。それ以前に、養い親でもある光明三蔵が煙管を愛用しているのを間近に見て育ったこともあり、一度手にしてみれば、周囲の目を無視してそれを愛飲し続けるのは至極たやすかった。
「───…」
 ゆっくりと煙草をくゆらせながら、三蔵は今朝方のことを思い返す。
 あの子猿が雪に怯えるというのは、まったくの予想外のことだった。
 普段、あまりにも能天気なバカ面をさらして笑っている子猿ばかりを見ているから、つい、根っからそういう生き物なのだと錯覚してしまう。
 だが、本当はそうではないのだ、と三蔵は苦い思いに眉をしかめる。
 ───怖い。
 小さな小さな、本気で怯えた声だった。
 置いてゆかれること、一人にされることに強い拒絶反応を示すのは一番最初の段階で分かっていたが、どうやらまだまだ隠されているものがあるらしい。
 三蔵とて勘が悪いほうではない。悟空が雪を怖がる理由については、すぐに思い当たった。
 あの、五行山の岩牢。
 底意地悪く北向きに設えられたあそこは、外の風景を見ることはできるものの、それらに触れることはおろか陽光を浴びることすら叶わない。
 季節を問わず眺めることしか許されない風景であるのに、ましてや、それらが一面の白い雪に覆われてしまったら。
 陽光に降り積んだ雪が白く輝くのならともかく、高山地帯らしく何日も何日も重苦しい雪空が続いたら。
 どんな健常者でも精神的に打ちのめされるだろうことは想像に難くなかった。
 そして、悟空はそんな長い長い冬を、五百回も孤独のうちに繰り返したのだ。それが深い傷にならなかったら嘘だろう。今日までそれに思い至らなかったのは、少々迂闊だったとも言える。
「五百年、か」
 その重さは、人間である三蔵には想像することすら及びも付かない。
 だが、悟空はその年月を、ただ一人で過ごした。
 何故そこに在るのかという理由すら分からず、狂うことすら許されずに。
 どんな大罪を犯したのだか知らないが、素の悟空は身体年齢よりもはるかに幼い子供であり、そんな者に与える罰としてはあまりにも過酷であったと三蔵にすら思える。
 第一、自分の犯した罪の記憶すらない者に罰を与えて、どんな効果があるというのか。むしろ新たな心の傷を作り出し、斉天大聖としての力が暴走するきっかけを生むだけではないのか。
 それとも。
 あるいは暴走が必至となる程の何かが五百年前にあったからこそ、敢えて、罰を与えるに当たって記憶を封じられたのか。
 だが、どれほど思いを馳せたところで過ぎ去った時間は決して戻らず、時を重ねた結果は現在、ここにある。
 ───雪、が……降ってるから。外、見たくない。
 常からは信じられないような苦しげな、泣き出す寸前のようなくぐもった声。
「嫌いなモンを嫌いでなくする方法なんざ知るか」
 心に巣食う恐怖は、本人だけのもの、本人にしか分からないものだ。
 ならば、悟空自身がどうにかするしかない。
 いずれ成長と共に乗り越えるか、それとも一生、雪に怯えを抱いたまま過ごすか。すべて悟空次第なのである。
 自分が考えてやることではない。そう結論付けて、三蔵は新たな煙草に火をつけた。








 繁忙期を外れた今は、日没と共に三蔵の執務は終了となる。
 どうせ、この一時が過ぎれば年末年始の殺人的スケジュールに突入するのである。ならば一秒たりとも余分に働いてたまるかとばかり、書きかけの草稿を放り出して、三蔵は奥棟の私室へと戻った。
 その途中、ちょうど回廊ですれ違った側仕えの寺僧に二三の指示を短く与えてから、部屋の扉を開ける。
 主が戻るのを見越して少し前に火を入れられた薪ストーブ(エアコンは無理だと言い張る備品係と論争の末、妥協の産物として部屋に置かれるようになったもの。夏は氷柱&扇風機に変わる)は、部屋の中央で赤々と燃え上がっており、室内はほんわりとした温かさに満ちている。
 その向こう、衝立によって区切られた寝間の様子を窺って、三蔵は溜息未満の吐息をついた。
「──悟空」
 ゆっくりと歩み寄り、寝台の傍らで名を呼ぶ。
 朝と同じく、寝具は丸く盛り上がり、子猿がここに閉じこもったままであることを何よりも雄弁に物語っている。まるで冬眠中のカタツムリのようだな、と三蔵は思った。
「いい加減、出て来い。もう夜だ」
「………ヤだ…」
 眠ってはいなかったらしい。小さな小さな、くぐもった声がそれでも布団の中から返る。
 それに三蔵は溜息をついた。
「もう夜だっつってんだろ。……もう何にも見えやしねえよ」
「───ホント…?」
「サル相手に嘘なんざつくか。面倒くせぇ」
 言い切ると、もそり、と盛り上がった寝具が動く。
 そろりそろりと、周囲を警戒しきった野良の子猫のようなじれったさで、悟空の大きな金色の瞳が寝具の端から片目だけのぞく。
 そして傍らにいる三蔵の姿を確認すると、亀の子のようにおっかなびっくり首をすくめながら、ゆっくりと背後の窓を振り返った。
「……ホントだ。真っ暗……」
「そう言ってんだろ」
「うん……」
 素っ気無く応じると、よいしょと不器用な仕草で悟空が寝具から這い出す。そうして、寝台の上にちんまりとかしこまった。
「えっと、あの、さ……」
 悟空なりに、今日一日における自分の態度に思うところがあるのだろう。途方に暮れた顔をしつつも、何かを説明しようとするように言葉を探す。
 だが、その頭を軽く小突くことで三蔵はそれを遮った。
「さんぞ?」
「雪が嫌いなのはお前のせいじゃねえだろ」
 短い言葉に、悟空は金色の目を大きく見開く。
 そして、
「──うん。……ありがと」
 くしゃりと泣きたいような顔で微笑った。
「分かったんなら、とっとと飯にするぞ」
「うんっ! 俺、すっげえ腹減った!!」
「……当たり前だろ」
 尋常でない食欲の権化である子猿が、丸一日食事を取らなかったのだ。餓えていないはずがない。
 ぴょんと寝台を飛び降り、折りしも給仕役の寺僧たちによって運び込まれてきた、常の倍量はある夕餉を目にして歓声を上げる悟空の様子に溜息をつきながら、三蔵もその後を追った。





 そこから後は、いつもと同じ日常だった。
 常にも増してすさまじい食欲を見せる子猿に心底うんざりして早々に箸を置き、煙草と酒に走った三蔵の目の前で、悟空はデザートとして出された籠盛りの干し柿までを綺麗に平らげ、ごちそーさま、と手を合わせる。
 それから湯浴みを済ませて、何度言っても雫のしたたる洗い髪をまともに拭くことのできない子猿を三蔵が怒鳴り倒し、薪ストーブの前に座らせてタオルで手荒く水分を拭き取り、髪を乾かさせる。
 そんな他愛なくも腹立ちまみれの時間が過ぎれば、あとはもう眠るだけだった。
 薪ストーブは放っておけばいずれ燃え尽きるため、敢えて消さずに燭火だけを落とすと、燃え上がる炎の明るさがほのかに赤く室内を照らし出した。
 寝るぞ、と言いかけて振り返った三蔵は、寝台の端に腰掛けてうつむく悟空の姿に軽く眉をしかめる。
 こうしてちんまりとした様子を見せるのは、大概、子猿の中に何かがある時だと相場が決まっていて。
「──何だ」
 溜息混じりに低く問いかけてやる。
 普段は図々しくやかましいのに、妙なところで子猿はこちらに気を使う様子を見せることがある。どうやら今もそうであるようだった。
「何でもねぇのなら態度に出すな。態度に出すくらいなら、言葉にして言え」
 少しばかり厳しい言葉を向けると、ぴくりと小さな肩が反応する。
 遊べだの腹減っただの、そんな言葉は幾らでも叫ぶことができるのに、こういう時に限って、人が変わったように言葉を発しなくなるのは何故なのか。呆れを覚えて、三蔵は軽く息をついた。
「何でもねぇのなら俺は寝るからな」
 どちらかといえば、三蔵は眠りが浅い分、長時間の睡眠を求めるタイプである。夜更かしも取り立ててしたいと思わないが、早起きをするのはもっと御免だった。
 ゆえに、今も必要がないのであれば、とっとと横になってしまいたい。そんな思いで悟空に背を向ける。
 と、
「──さんぞっ」
 焦ったような舌足らずの声が、三蔵を呼んだ。
 肩越しに振り返って、視線だけで何だ、と問いかけると悟空の金色の瞳が、途方に暮れたように揺れる。
「あの、さ」
「俺は眠いんだ。とっとと言え」
「あ、うん」
 慌てたようにうなずいた悟空の手が、膝の上でぎゅっときつく握られる。その小さな仕草を三蔵は見逃さなかった。
「あの、さ。……ダメっていうの、分かってんだけど」
 ひどくおずおずと紡ぎ出される言葉に連れて、悟空の頭がうなだれてゆく。
 その結果を見るまいとするような、何かを怖がっているような仕草に三蔵は目を細めた。
 これは相当ろくでもないことを言い出すつもりらしい、と無言で言葉の続きを待っていると。
「今日、だけでいいからさ……。……そっち、行っちゃダメ?」
 まるで手酷く叱られた時のように、きゅっと小さく肩をすくめてうつむいたまま、そんなことを悟空は告げた。
 何を子供じみたことを、という思いと。
 そんなことか、という思いと。
 二つの感想が同時に湧き上がるのを感じながら、三蔵は悟空を見つめる。
 すると、慌てたように悟空が顔を上げた。
「ウソ! 今の嘘だから。ゴメン、変なこと言って。俺っ、寝るから!」
 甘えたことを恥じたのか、弱さを吐露したことに自己嫌悪を覚えたのか。
 矢継ぎ早に言葉を継ぎながら、悟空は身体の向きを変えて寝台の上に上がろうとする。その様子に、三蔵は今度は腹の底からの溜息をついた。
「──サル」
「な、なに?」
「人に質問しといて、勝手に答えを捏造してんじゃねえ。俺がいつ、駄目だっつったんだ?」
「……え」
 三蔵の言葉に、悟空の動きが固まる。
 このサルはどこまで馬鹿なんだ、と心底呆れながら、三蔵は自分の寝台に歩み寄った。
「分かってんだろうが、今夜だけだ。一晩くらいなら我慢してやる」
「……さんぞ……」
 大きく目を見開いていた悟空は、はっと我に返り、わたわたと周囲を見回す。
 三蔵の気が変わる前に、と思ったのだろう。大慌てで自分の枕を掴むと、それを片手に寝台を飛び降りて三蔵の寝台へと駆け寄った。
「──ホントにいいのか?」
「しつこい馬鹿猿はテメェの寝床に戻りやがれ」
「ヤだっ!」
 ぶんぶんと首を横に振って、急ぎ三蔵の寝台に上がりこむ。
 自分の枕を三蔵の枕の横に並べて置き、急ぎ布団の中にもぐりこむと、これでいい?とばかりに三蔵を見上げた。
「また俺を蹴りやがったら、蹴り落とすからな」
「うん」
 こくこくとうなずいて、へへっ、と子供そのものの満面の笑みを浮かべる。
「あったかいね」
「くっつくんじゃねぇよ。鬱陶しい」
「うん」
 素直にうなずいて、悟空は大きな金色の瞳を閉じた。
「ありがと、さんぞー。おやすみ」
「……とっとと寝ろ、バカ猿」
「うん」
 目を閉じたまま、やはり嬉しそうに笑って悟空はそれきり静かになる。
 昼間、殆ど身動きはしなくとも神経を張り詰めていた反動だろう。さほど待つまでもなく小さな寝息が聞こえ始めて、三蔵はやれやれとばかりに溜息をつき、自分もまた寝台に横になった。
 そうして少しばかり目線を動かすと、窓の向こうに冬の星空が見える。
 一日降り続いた雪は夕刻には止んでいた。積もった雪もさほどの深さではなく、二三日中に綺麗に消えるに違いない。
 しかし、これから本格的に冬になれば、しばらくの間は長安も雪景色が続く。となれば、忘れ雪までこれが続くのかと暗澹たる予感が三蔵の中に湧き上がる。
「冗談じゃねぇな……」
 ───こっちにおいでなさい、江流。
 そっちに行ってもいいか、と悟空に問われた時。
 三蔵の脳裏に閃くように蘇ったのは、十年以上も前の師の声だった。
 あれは六歳になるかならないかの頃だったか。物心付いたばかりの一時、幼かった三蔵は暗闇に怯えたことがあった。
 そもそも寺院建築というのは怪談にふさわしい造りであって、昼間でも本堂は薄暗いし、幼い子供の目には尊いはずの仏像ですら、得体の知れないおどろおどろしい造形に映る。
 確か、風の強い夜だった。記憶は定かでないが、ちょうど今頃の季節だった。
 どうしても寝付けず、自分の寝床の中で冷えた手足を小さく縮こめていた時。
 まだ同室で寝起きしていた──というより、光明三蔵の居室に幼い三蔵が居たのだが──師が、やわらかな声をかけてきたのだ。
 てっきりその人は眠っているとばかり思っていたからひどく驚き、そしてまた、言われた言葉の内容に驚いた。
 ちょうど年が明けたら個室を与えられることが決まったばかりだったし、そもそもからして三蔵は、ほんの幼い頃から他者に甘えることに奇妙な羞恥や屈託を感じる性質の可愛げのない子供だったから、三歳を過ぎた頃から添い寝をしてもらうこともなくなっていたのである。
 それなのに、寝付けずにいることに気づかれ、おいでなさいと何もかも知り尽くしたような優しさを示されて。
 ひどく慌てた。
 慌てながらも、平気です、と答えたのだが、当然、あの師には通じるはずもなく。
 物音も立てずに起き上がったかの人に、簡単に寝床から抱き上げられて、あたたかな温もりに満ちた寝床へと誘(いざな)われた。
 ───たまにはいいでしょう。あなたはどんどん大きくなっていってしまって、親としては嬉しいんですけど、ちょっとつまらない気も最近しますし。今夜くらいは赤ちゃん返りして下さい。
 今から思うと、いつでも師の理屈は無茶苦茶だった。筋が通っているんだか通っていないんだか、正直なのか不正直なのか、まったくもって定かでない言葉に、けれどいつでも言いくるめられて反論することができなかった。
 それでも、かの人の言葉は温かく、心地よく。
 いつでも自分の傍らに在り、自分を包んでいてくれたのだ。
 幼い心に生じた暗闇に対する恐怖は、気の迷いのように一月ほどで消え、師でもあり親でもある人の温かさに守られて眠ったのは、それが最後だった。
 だが、それでも幼い日に感じた温もりは、まだ確かに自分の中に残っていて。
「───…」
 目元を覆うように右手の甲を載せて、三蔵は深く息をつく。
 自分は決して、師のようにはなれない。誰かを抱きしめる腕など持たない。にもかかわらず、師の行動をなぞっている自分がひどく疎ましい。
 そう思い、目を閉じた時。
「……さ…ん、ぞ……」
 お決まりのように名を呼ばれて。
 ころんと寝返りを打った悟空の子供らしい体温が、まるで湯たんぽのようにやわらかく、ほのかに左肩や腕に伝わってくる。
「懐いてんじゃねぇよ、馬鹿猿……」
 呟いた声は苦く。
 それきり、薪ストーブの燃え残りが小さくはじける音だけが、しんと静まった室内に残った。







End.











最遊記サイトならどこにでも転がっている、最初の雪ネタ。
三月半ばの名古屋なのに雪が降ったことにムカついて、一気にネタが浮かびました。ありえねぇんだよ、この時期に氷点下1度なんて(怒)

どうもこのシリーズの三蔵の心理には、お師匠様の影響が色濃く出ているようです。
お師匠様がいなかったら、三蔵も悟空にどう対処すればいいのか分からなかったと思うんですけどね。幸か不幸か、親馬鹿の限りを尽くして愛されまくっていた子供時代があるから、温もりに餓えた悟空の心理も読めるし、どうすべきかも分かるのではないかと。
無論、分かることと実行できることとは別物ですが。

三年後、悟浄がスキヤキを餌に悟空の雪嫌いを克服させようとした時、そういうやり方があったか、と三蔵は思ったんじゃないでしょうかね。
自分から他人に働きかけることをしない三蔵には、思いつきもしなければ実行もできない、悟浄ならではの絶妙な技。ホントに優しい、いい男です。悟浄と八戒も、早くこのシリーズに登場させたい。
悟浄の作戦に乗っかって、自分自身をも餌に加える三蔵も、いいなぁと思うんですけどね(笑)

……しかし今、「3years ago」を読み返したら、二人の寝室は執務室の続き部屋であるような気が。
窓のない寝室に閉じこもっていたはずの悟空が、屋外の悟浄に呼ばれて、三蔵と共に、三蔵の執務室の窓から顔を出した、という描写ですよね、これって多分……。
……………まぁいいや。深くは考えるまい(笑)






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