anytime,anywhere








 悟空は、それほど朝は早くない。
 といっても、四人の中でずば抜けて遅いというわけではなく、比べれば、低血圧の三蔵よりは早く、夜遊びや深酒さえしなければ案外に朝はきちんと起きる悟浄より、少しばかり遅く目が覚めることが多い、という程度だ。
 ともかくも、三蔵一行の朝といえば、一番最初に起き出すのは八戒、続いて悟浄か悟空、最後に三蔵というのが常だった。
 だが、四人のうちの誰かが怪我をしていると、その順番には多少の前後が生じる。
 怪我をしているのが全員ともなれば、一番早く起き出すのは、人間から最も遠いがゆえに最も回復力に溢れている悟空であるのが普通だった。
 そして、今朝も。
「───…」
 目を開いて一番最初に映った木造の天井に、悟空はしばし、現在場所を考える。
 三秒ほどで答えは出て、山里の小さな宿だ、と思い出す。
 前夜のことをぼんやりと思い返し、ちゃんと自力で寝台に上がって眠りに就いたことを確認して、ちょっとだけ安心した。
 もし自力で寝台に上がった記憶がなかったら、それは、意識を保てないくらいの酷い怪我を負っていたか、あるいは記憶をとどめておけない──一言で言うなら暴走状況にあったということになる。
 これまでに何度もそういう状況に陥って、仲間たちに多大な迷惑をかけている悟空としては、自分が前夜、正常な状態で眠ったかどうかは結構重大な問題だった。
 そんなわけで、いつの間にか習慣となってしまった朝の検証を終えて、悟空は寝台に起き上がる。
 薄いカーテンの向こうは明るく、左右に引き空けると、夜が明けてから一時間ちょっとくらいが過ぎていると思われる高さに朝日があった。
 今日も天気が良さそうだな、と思うと、それだけで何となく力が体に湧いてくる。
 よしっ、と短く声を上げて、まずは洗面所に顔を洗いに行く。そして、タオルで顔を拭きながら、寝室へ戻るのではなく、宿屋の玄関の方へと向かった。


 山里の小さな宿は、しんと静かで、十日を超える長逗留をしている三蔵一向以外には泊り客もいない。
 元々、年に一度開かれる春の祭礼に、村の外からやってくる人々──里の縁者が殆どであるらしい──を泊まらせるための宿であり、主人夫婦は普段は、畑仕事でほぼ自給自足の生計を立てているという。
 そんな宿ではあったが、しかし、きちんとした屋根のある部屋で休めるのは、一行にとっては限りなくありがたいことだった。
 なにしろ、野宿と宿に宿泊するのとでは、怪我の治りの早さが格段に違う。今回のような重傷であれば、その差は尚更に顕著だった。

 得体の知れない黒髪黒眼の三蔵法師・烏哭との戦いで四人が負った傷は、それぞれ出血量によっては命に関わるほどの重傷であり、唯一無事だったジープに乗って山を降りるのさえ一苦労だった。
 それでもかろうじてこの山里に着き、血まみれの青年四人に驚き戸惑う村人たちに八戒が苦しい息の下から告げた、「妖怪に襲われました。助けて下さい……!」という言葉によって、どうにかこの宿での休息と怪我の手当てを得ることができたのである。
 そして十日が過ぎた今、悟空はほぼ完治状態にあったし、他の面々もそれぞれに回復を見せている。
 まだ今日明日というわけには行かないが、この山里に別れを告げ、再び西に向かって旅立つのも、それほど先の話ではないだろうと思われた。
 そんなわけで、生きている以上はどうしても腹が減る道理であり、今日の朝飯は何だろうな、と考えながら、悟空は開け放たれたままの居間のドアへ何気なく目を向ける。
 特に意図があったわけではなく、ドアが開いていたから中をちらりと見た。それだけの条件反射だったのだが、
「あ、三蔵!」
 綺麗に片付けられた、というよりは家具が少ないためにすっきりしている居間のソファーに金髪の最高僧の姿を見つけて、悟空は目を輝かせた。
「もう起きて大丈夫なのか?」
 タオルを首に掛け、ぱたぱたと駆け寄って、ソファーの肘掛に手を突いて三蔵の顔色を覗き込む。
「いつまでも寝てられるか。返って体が痛くなる」
 言い返す声は気だるげに面倒くさそうだが、明らかに血が足りなかった十日前の蒼白な顔色に比べると、今朝の顔色は随分といい。ぞんざいにボタンを留めただけのシャツの胸元や腕からは、まだ白い包帯が覗いているが、もう新しい血が滲んでいる様子もない。
 この十日間でしっかり回復してきている三蔵の様子に、そっか、と悟空は目を細めて、体の向きを変え、古ぼけたソファーの固い肘掛に腰を下ろした。

 烏哭との戦い以来、まともに起きている三蔵を見るのは、今朝が初めてだった。
 三日前からは寝台に起き上がることもあったが、用足しに行く時以外は、基本的に寝台から動こうとはしなかったのである。それは彼なりに一日でも早く、体力を回復したいという思いがあったからだろう。
 一日でも早く動けるようになって、西へ向かいたい───。
 傷ついていても鋭さを失わない三蔵の紫暗の瞳からくっきりと伝わってきた三蔵の思いは、悟空ばかりでなく八戒や悟浄にも共通のものだった。
 確かに烏哭には、こっぴどくやられたが、それで恐れをなして引き下がる自分たちではない。
 この借りを返さなければ、という思いと、得体の知れない連中にこれ以上好き勝手させてたまるか、という新たに生まれた思いが体を突き動かす。
 早く、一日でも早く。
 そして、この身に一ミリでも多く力を蓄えて。
 相手に勝てるかどうかなど問題ではないのだ。
 今度こそ勝つ。
 いつも、自分たちにはそれしかない。やられたら、それ以上にやり返す。負けたままでいることは我慢ならない。
 気質も何も違う自分たちが、ここまで一緒に旅をしてきたのも、これからも旅を続けるのも、結局のところは、その最後の部分が似ているからだ。
 色々なことを見聞きして、変わったと思う今でさえ、世界のために、なんていう言葉はこそばゆくて使えない。
 ただ思うのは、同じ相手に二度は負けない。それだけだった。

 まだ朝は早いが、窓の向こうからは牛の鳴く声が時折聞こえてくる。百姓たちはもう、畑に出ているのだろう。
 もう一時間もすれば朝食の時間になるはずで、三蔵に次いで重傷の八戒も、似たり寄ったりの悟浄も、そろそろ起きてくるだろうが、今はまだ、ここには悟空と三蔵の二人きりだ。
 起き上がりはしたものの、手持ち無沙汰には違いない三蔵は、先程からライターを弄んでいる。
 純銀製のライターの蓋を開けたり、閉めたり。
 カチン、カチンと小気味の良い金属音が、小さな宿の小さな居間に響く。
 この山里には新聞さえ、一週間分まとめてしか届かない。麓(ふもと)の町の雑貨屋が、他の日用品と一緒に届けてくれるのである。
 そして、その新聞が届けられる日はちょうど昨日であり、当然のことながら、日がな一日、寝台にいた三蔵はそれを読破してしまっていた。
 おそらく今も、手元に本の一冊でもあればな、と思っているのではないか、と悟空は推測する。
 三蔵は基本的にインドア派で、興味を引く本があれば、煙草片手に一日部屋にこもっていることも厭わない。対して、外で体を動かす方が好きな悟空は、昔から三蔵をいかに自分の外遊びに付き合わせるかに知恵をひねったものだった。
 さすがに成長した今では、悟空も無理に三蔵を外に連れ出そうとは思わない。そもそも今の悟空が外で遊びたいと言っても、もう三蔵は聞いてはくれないし、悟空も、遊んでくれと言うほど子供ではない。
 今は、室内で過ごす三蔵の傍に居たい時は居て、飽きたら、ちょっと出かけると言い置いて外に行く。そんな余白が取れるようになった。
 そして、そんな悟空に三蔵も何も言わない。
 悟空がうるさくしない限りは、傍に何時間居ても素知らぬ顔をしているし、悟空が出かけると言えば、「ああ」の一言ですませ、悟空が戻った時も、ただいまの声に「ああ」と返すだけだ。
 だが、素っ気ないそんな三蔵の空気が、悟空は好きだった。

 三蔵は、些細な事でイラついて不機嫌になることも非常に多いが、それはあくまでも表面的な部分であって、根底は揺らぎが少ない。少なくとも、悟空が知っている三蔵はそうだった。
 だから、傍にいるととても安心できる。
 いつも変わらず不機嫌そうな姿を見ればほっとするし、愛想のない低い声を聞けば、それだけで嬉しくなる。
 悟空は、自分は自分だという確信は強く持っているものの、寄る辺(べ)は持たない存在だ。世界で唯一無二の斉天大聖と言われても自覚はないし、また血縁や係累はもちろんのこと、過去の記憶すらない。
 そんな悟空が唯一持っている『自分以外の何か』が、玄奘三蔵だった。
 八戒や悟浄も大事な仲間ではあるが、悟空の存在そのものを肯定し、証明してくれるには少しだけ足りない。
 対して、三蔵は常にそこにあって、悟空の存在を無言のうちに肯定していてくれる。
 それが当たり前過ぎて、実は最近まで自覚していなかったのだが、半年もの間、三蔵と離れて、初めて悟空は自分がどれほど三蔵に依存していたのかに気付いた。
 ───自分を肯定してくれるものがない。
 ───存在を証明してくれるものがない。
 それは初めて感じる、たとえようもなく心細い感覚だった。
 だが、ただ不安になるには状況があれこれ切迫しており、結局、うやむやのうちに悟空は、三蔵が居なくても一人で立つことを覚え、それに慣れるしかなかった。
 なにしろ、三蔵が悟空の傍にいない、イコール、西域行きのリーダーが居ない状態であり、となれば、悟空、八戒、悟浄の立場はほぼ互角であって、誰かに頼ることができない以上、それぞれの才覚を発揮して、目の前の状況を乗り越えるしかなかったのである。
 そうした日々の中で、悟空が何となく掴んだのは、三蔵に対して、もう少し自分の足で立つことを覚えた自分だった。
 三蔵に依存して行動理由を任せるのではなく、自分の意志でどうしたいか、もう少し突き詰めて考える。
 初めてのその感覚は随分と新鮮で、見上げた空がいつになく広く大きく見えたのは、三蔵と再会する少し前の話だ。
 そして三蔵に再会してみれば、やっぱり安心はしたし、名前を呼ばれると無性に嬉しいのも変わらなかったものの、それでもどこか、これまでとは三蔵が違って見えた。
 それは悟空が変わったせいもあるだろうし、三蔵の方もまた、この半年間の間に何かしら考え、変わった部分があるのかもしれない。
 いずれにせよ、ほんの少しだけ自分たちは変わった、と悟空は感じていた。

「──話してぇことがあるんじゃねーのか」
 不意に三蔵が口を開く。
 悟空がいつになく黙っていたから気にしたのだろう。端からは分かりにくいが、三蔵は他人の感情には敏感で、本人は嫌がるだろうし、聞いた他者も口元をひん曲げるだろうが、その性分は優しいと言い換えることもできる。
 三蔵のそんな部分を一番良く知っている悟空は、ああ、こういうとこは変わんないな、と小さく口元に笑みを刻んだ。
 昔から三蔵はそうだった。悟空が物思いでぐるぐるしている時は必ず、さぞ詰まらなさそうに新聞でも広げながら、悟空に声をかけた。そうでなかったことは、記憶にある限り、一度も無い。
 やっぱり好きだな、再会できて良かった、とつくづく思いながら、悟空は首をかしげて見せる。
「んー。いっぱいあるんだけど、何から話せばいーのか分かんねえ」
「──ふん」
 悟空の答えに、三蔵は面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
 もしかしたら、退屈しのぎが欲しいのかもしれない。それならそれで何か話そうか、と思うのだが、やはり、何から話せばいいのか見当がつかなかった。
「うんとさ」
 見当がつかないなら、つかないまま話してしまえ、と悟空は思いついたことを口にしてみる。
「俺、三蔵がいなかった間、色々考えてさ。これまでは、考えなかったことを色々」
 そう前置きして、言葉を選んでまとめるために数秒の沈黙を挟んでみたが、三蔵は何も言わない。それは、話を聞いているというサインだったから、安心して悟空は続けた。
「何ていうか、もう少し、しっかりしなきゃと思った。全部、三蔵任せにするんじゃなくてさ」
「──ふん?」
「これまで俺、あんまり考えてなかったんだ。なんで西に行くのかとか、異変ってやつを止めなきゃいけない理由とか。でも、それじゃダメだなって。なんつーか、気持ちが足りないんだよ。自分できちんと考えてないと、誰かに、お前は何をしてるんだって聞かれた時に、答えらんないんだってことが初めてちゃんと分かった」

 これまで問われたことは何度もある。
 お前は妖怪なのに、何故、人間の味方をするのだと。
 その度に、悟空は、自分がそうしたいから、と答えてきた。その答えが間違っていたとは思わない。正直な気持ちで、嘘など微塵もなかった。
 だが、それだけでは納得しない人々が居るのだ。虐げられ、追い詰められた人々は、人間であれ妖怪であれ、個人の嗜好のような薄っぺらな(悟空にしてみれば、正真正銘の本音で薄くはないのだが)主張を受け入れてはくれない。
 あのオアシスの小さな集落で、痛いほど悟空は自分の言葉の無力さを思い知らされたのだ。
 結局、名前を知らないままになってしまったあの少女にとって、悟空はただのどっちつかずの半端ものでしかなかった。
 本当はそうではないのに、そんなつもりはないのに、彼女に理解してもらえるだけの考えも言葉も悟空は持っていなかったせいで、あと一歩のところを踏み込んで話すことができなかった。
 無論、悟空はあの集落に、ほんの一時身を寄せただけで、よそ者であることには変わりない。深入りするのは返って無責任だという自覚はあったし、よそ者が何を言う資格もないという思いもあった。
 だが、目の前で命が散ってゆくのに、何もできなかったという思いは、悟空をこれ以上ないほどにひどく打ちのめしたのだ。
 過ぎてしまったことを後悔するのは、悟空の性分ではない。
 しかし、今度ばかりは、考えなければ、と思った。
 これからのために、これまでに異変を契機として散ってしまった数知れない命のために、考え、もう一度、腹に覚悟を据え直さなければ、と。

「だから、これからはちゃんと、俺は俺の意志で、西に向かう。あ、もちろん皆と一緒にだけど」
「──お前にしちゃ、上出来の答えだな」
「あ、そう?」
 珍しく素で褒められて、思わず悟空の口元に、にへりと笑みが浮かぶ。
 真面目な話をしている最中であっても、三蔵に肯定されれば嬉しくなる。これは最早、条件反射の部類だったから、どうしようもない。
「この半年、色んなもの見て、やっぱりさ、今の状況はヤだと思ったんだ。なんで人間と妖怪が殺し合わなきゃなんねーのか、俺には分かんねーし、それが異変のせいだっていうんなら、絶対におかしいと思うし。で、あの黒ガラスは絶対にぶっ飛ばしたいし」
「……まぁな」
 曖昧ではあるが、間違いなく肯定の呟きを漏らして、三蔵は手にしていた煙草の火を灰皿で揉み消した。
「あの烏哭という男は、まだ何かを相当に隠し持ってやがるはずだ。締め上げる必要はあるだろうな」
「だよな!」
 大きく合点してうなずき、そして、悟空は改めて今、この状況に満足を覚える。

 変わらなければと思ったし、現に、少しだけ変わったような気もする。三蔵も、言葉に出しては言わないが、同じような心持ちでいることは、表情や言葉の端々からかすかに伝わってくる。
 だが、そうして変わっても、絶対に変わらないものがあるのだ。
 たとえば、こんな風に話しているだけで、波立っていた心が落ち着いてゆくこととか、そしてまた、我武者羅なまでに前に進んでゆこうという気持ちが溢れてくることとか。
 自分の足で立つこととはまったく別に、それは悟空にとって、昔から変わらずとても大切なことだった。

「あれ、おはようございます。二人とも早いですねえ」
「あ、八戒。おはよ」
「……ああ」
 居間の出入り口から、ひょこりと八戒が顔を出す。続いて、悟浄も姿を現した。
「お前ら、なんでそんな早起きなんだよ」
 言いながら、回復途上の肉体には休息が足りないとばかりに、大きなあくびをする。
 そうして、久しぶりに四人がまともに起き上がって顔を合わせたことに、悟空は自然に顔が笑うのを覚えた。
 三蔵が居て、自分が居て、八戒が居て、悟浄が居て、初めて四角形は綺麗な形を作る。
 一番最初の頃は、全員が全員、なんと歪(いびつ)な四人であるかと思っていたはずだ。凸凹(でこぼこ)もいいところで、協調性の欠片もなければ、極端な負けず嫌いという以外に性格的に似たところもない。
 なのに、今でも協調性だけはないが、一人が居なければ足りないと感じるようになっている。
 全員が揃えば安心し、誰かが欠ければ、奇妙に苛立つ。そんな絆が、この旅を続けるうちに作り上げられたのだ。
 それは妙に気恥ずかしいようで、妙に嬉しい、そんな気分を悟空に覚えさせた。
「今日の朝飯、何だろな!」
 気持ちの上では満腹を感じながらも、生身の胃袋が訴える空腹に逆らわず、悟空が誰にともなくそう問いかけると、三蔵は全く聞いていないような気だるげな表情で煙草をふかし、八戒は、さあ何でしょうね、と相槌を打ち、悟浄は、お前は本っ当に食うことばっかだな、と揶揄してくる。
 ───ああ、こんな感じだ。
 見る見るうちに、日常が戻ってくる。そのことを感じて、悟空は心底満足する。

 全員が揃ったのなら、またここから。
 気に食わない奴らをぶっ飛ばし、この世界の気に食わない現状を変えるために。
 救世主なんて柄ではないが、それでも全速力で、西に向かって駆け続ける。
 それぞれの勝手な意地とプライドを懸けて、ばらばらの歩幅で。
 ───それでも、四人で共に。

 窓の向こうに広がる空は、今日も青い。
 不揃いな四人が再び旅立つ日は、もう間近だった。







End.











RELOADの完結を受けて、実質、前作の「呼び声」の続きです。
やっぱり四人でないとね。
リロブラがスタートして、これからいっそうキツイ状況になるんでしょうけど、彼らがへこたれる構図は想像できません。
最後まで突っ走れ。
それが最遊記の基本のような気がします。






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