Chanson de l'adieu 2






1938年
 9月 ミュンヘン会談 ズデーテン地方併合
 11月 ユダヤ人を国外追放
1939年
 3月 チェコスロヴァキア解体
 8月23日 独ソ不可侵条約締結
 9月1日 ポーランドに進撃
 9月3日 イギリス・フランス、ドイツに対し宣戦(第二次世界大戦勃発)
 9月27日 ワルシャワ陥落
1940年
 4月 デンマーク・ノルウェー攻略
 5月 ベルギー降伏、オランダ占領
 6月14日 パリ陥落
 6月24日 フランス降伏
 7月 ロンドンに空襲開始
 9月27日 三国軍事同盟成立
1941年
 3月 ブルガリア進駐
 4月 ギリシア占領
 5月 ロンドン大空襲
 6月 ド=ゴール、ロンドンに自由フランス国民委員会設立
 10月 モスクワへ進軍開始
 12月8日 アメリカ、対日・対独宣戦
1942年
 3月 イギリス空軍、反撃開始
 8月 スターリングラードに突入
 11月 全フランス占領
1943年
 2月 スターリングラードのドイツ軍、ほぼ壊滅し降伏
 5月 アルジェリア・チュニジアのドイツ軍降伏
 8月 ハンブルグ市全滅
 9月 イタリア、連合国に無条件降伏
 11月 イギリス空軍によるベルリン大空襲開始
1944年
 1月 東部戦線、全面的敗退
 3月 ハンガリー占領
 6月 連合軍、ノルマンディー上陸作戦決行
 7月 ヒトラー暗殺未遂事件
 8月20日 レジスタンスの蜂起によりパリ解放、ドイツ軍撤退
1945年
 3月 アメリカ空軍によるベルリンの昼間空襲開始
 4月 ソ連軍、ウィーン突入
 4月30日 ヒトラー自殺
 5月2日 ベルリン陥落
 5月7日 ドイツ、無条件降伏 第二次世界大戦終結








           *           *








終わってしまった今なら、何とでも言える。
だが、あまりに意味のない・・・・意味がないというには、あまりにも多くの命が失われすぎた年月だった。
何のための年月だったのか。
それを考えるのは、全身の細胞を切り刻まれるような苦痛を伴ったが、それでもセレストは考えるのをやめなかった。
自虐的といえば、自虐的かもしれない。
けれど、無かった事に・・・・過去と流してしまうには、それらの日々は重すぎ、そして、捕虜収容所の生活は単調すぎた。

ベルリンがソ連軍により陥落した時、セレストはオランダの国境付近の町に駐屯していた。
そして、上官の撤退命令を受けて、本国へ退却する途中で連合国軍の攻撃に遭い、わずかな交戦の後、部隊は降伏したのだ。
その後、数度の移送を経て、今はフランスとの国境に近い南ドイツの捕虜収容所に居る。
同じようにしてこの収容所で日々をどうにか生きている、旧ドイツ軍兵士は約1200人。
足並みを揃えて蜂起すれば、脱獄できないこともないだろうと思われる人数だったが、そんな気力すら敗戦と共に彼らは失ってしまったようだった。

セレスト自身も、他者を批判できる立場にはない。
自暴自棄には至っていなかったが、しかし積極的に生きよう、あるいは脱走しようと考える気持ちはなかった。
淡々と言葉数少なく、看守に命じられるままに労働で身体を動かし、粗末な食事で飢えをしのぎ、眠る。それだけを繰り返していた。




敗北し、敵に捕らわれた兵士が誇りを保ち続けることは難しい。
過去も現在も全てを否定され、未来への展望など望むべくもない環境に置かれれば、誰でも多かれ少なかれ絶望し、すさむ。
少しでも目立つ真似をしたり、騒ぎを起こせば、問答無用で独房に放り込まれると分かっていても、毎日のように何かしら、事は起きた。
看守の目をかすめてのささやかな揉め事から、派手な殴り合い、私刑まで数え上げればきりがない。
だが、それらのいずれにもセレストは関わらなかった。
元親衛隊将校のプライドで彼らを見下したわけではなく、ただ関心が起きなかったのだ。
看守への密告や、ささやかな窃盗、脱獄の計画、それらは全て生への執着と絶望から生まれるものであり、褒められた行為ではないだろうが、正面から非難できる資格のある者が、兵士として戦場に立った人間の中に居るとは思えず、そして、自分もその中の一人だという思いが常にセレストの胸にはあった。

本心のところではNSDAPの思想に疑問、あるいはもっと明確な抵抗を感じていながらも、結局、最後までその意思をあらわにすることはできなかった。
占領地での銃撃戦の最中、他の兵士の目がない場所で、敵や占領地の市民を見逃したことは何度もあるし、ばれない範囲で銃口をわざと外して発砲したことも何度でもある。
だが、同僚の銃口の前に立ち塞がることはできなかったし、銃弾に倒れた敵を助け起こすこともできなかった。
ごまかしようのない場面では、表情を消したまま敵を撃つしかなかった。
代々軍人の家に育ったことを言い訳にはしたくない。だが、どうしても逆らえなかった自分は、反逆罪に問われることもなく終戦まで生き延び、国際法にのっとった捕虜収容所で、どうにか死なない程度の暮らしを与えられている。
たった十年足らずの間に、この大陸の上では何百万、何千万の人々の血が流れたというのに。
許される許されないという前に、何故、自分が生きているのか。
その理由が分からなかった。







           *          *







事件が起きたのは、収容所での生活が半年を越えた頃だった。
その言葉が聞こえなければ、いつもと同じように無関心を通せただろう。
だが、どうしても聞き流せなかった。
その同房の三十代前半と思しき兵士は、看守の姿が見えないのをいいことに、声高に世界を罵っていた。

「皆殺しにしちまえば良かったんだ。占領だの保護国だの生ぬるい事を言わずに、フランス人もソ連人もイギリス人も、薄汚いユダヤ人も、全部ぶっ殺しちまえば良かったんだ。そうしたら・・・・」
「いい加減にしないか!」

セレストが声を上げた時、8人が詰め込まれている房の視線が、驚いたように青年に集中した。
それまでずっと寡黙を通してきた彼が、声を荒げたのは初めてのことであり、それを向けられた男の方も一瞬驚いた顔になる。
が、すぐに、どこか凶暴なものをはらんだまなざしでセレストを見返した。

「──何だ? 違うってのか? 違うっていうんなら言ってみろよ」

ええ、とねめつける視線を、セレストは真っ直ぐに切り返す。

「殺したから、こんなことになったんだろう」

翠緑の瞳が、裸電球のみの乏しい明かりの中で鮮やかなまでに強い光をたたえる。

「殺さなければ、第三帝国なんていう馬鹿げた夢さえ抱かなければ、俺たちは誰も殺さず、殺されもしなかった。そうは思わないのか?」
「ああ、銃弾では死ななかったかもしれねぇし、捕虜になんかならなかったかもな。だが、飢え死にしてただろうよ!」

セレストを睨みつける男の瞳も、異様な熱を帯びた。

「てめぇが幾つだかしらねぇが、俺よりちょっと下なだけだろう? なら覚えてるだろうが。それとも、てめぇの親父の給料は前の戦争の後、何万分の一にはならなかったってのか!?」

──NSDAPの台頭、ひいては第二次世界大戦の起きた直接の原因は、当時のドイツ・・・・ワイマール共和国の貧困だった。

第一次世界大戦の敗戦国として、帝政を廃止されて海外の全ての植民地や、国内の主要鉱山地帯を奪われ、莫大な賠償金を課せられた共和制国家は、戦前の1マルクが1兆マルクに値するという極度のインフレにあえぎ、街には失業者が溢れ、国民の誰もが飢えていた。
そして、ヴェルサイユ条約を受け入れた政府を打ち倒そうとする幾つもの共産主義、あるいは極右主義の政党は分散統合を繰り返し、やがてアドルフ=ヒトラーという人物によって、極右主義のドイツ労働者党が他を圧して勢力を伸ばし、国民社会主義ドイツ労働者党・略称NSDAPと名を変え、世界大恐慌の直後に政府の第一党となったのだ。

「・・・・俺の父親は前の大戦で戦死した。恩給はあったが、はした金でさえなかった。運良く母に職があったから、飢えることはなかったけどな」

言いながら、セレストは無意識に右手を握り締める。

──アーヴィング家が戸主を失った事を知り、未亡人と幼い二人の子供に手を差し伸べてくれたのは、同じ町内に邸宅を構えていた富裕な事業家だった。
当主と、戦死したアーヴィング家の当主が友人と呼べないこともない程度の仲だったという、それだけの理由で、屋敷の使用人として未亡人を雇い、破格の給料と食事を提供し、果ては息子のセレストが父親の跡を継げるよう士官学校の費用も出してくれたのだ。

アーヴィング家に対してだけではない。すべてを救えないことを嘆きながらも、その事業家は職を失った近所の人々を雇い、教会や孤児院、救貧院への寄付を絶やさなかった。
指折りの富豪でありながら、決して奢り高ぶることのなかった温厚な当主の笑顔を、セレストはいまだに鮮明に思い出せる。
だが、NSDAPは、そんな優しい人々さえも生命の危機に追いやり、この国から立ち去らせたのだ。

「確かに貧しかった。俺の記憶では、いつだって街には物乞いがいたし、孤児院も親のない子供や、捨てられた子供が溢れていた。
だが、戦争をして数え切れないくらい人を殺して、一体何を得たんだ!? そもそも勝てる戦争なんかじゃなかったことくらい、お前にだって分かってるだろう!?」
「殺せば良かったんだ!!」

セレストの叫びに、男の叫びが重なる。

「俺たちの国が貧しいのは、他の国のせいじゃねぇか!! 全部殺して、めちゃくちゃにしてやれば良かったんだ!! フランスもイギリスもソ連もアメリカも!!」
「そんなことをして何になる!!」
「うるせえ!!」

罵声と共に、男の拳がセレストの左頬に当たった。
不意を突かれた形になり、ほぼまともに食らったセレストは半歩ほどよろめいたが、すぐに体勢を整える。
やめろ、という同じ房の兵士たちの声も耳に届いていたが、もう止まらなかった。もしかしたら、これまでの月日の間に、沈黙の下でくすぶっていたものがあったのかもしれない。
騒ぎを聞きつけた看守に力尽くで引き剥がされるまで、周囲を巻き込んだ乱闘は続いた。







放り込まれていた独房から出されたのは、3日後だった。
あまりに頻繁に揉め事が起こるため、看守たちの対応もおざなりで、とりあえず大人しくしていれば数日で元の房に戻れるのである。
そして再び、煉瓦作りや、シャツの縫製といった労働に追われているうちに捕虜収容所の日々は過ぎてゆく。

ただ、この一件で、周囲のセレストに向ける目は微妙に変わった。
寡黙で無関心に見えた青年が、自分たちの関わった戦争に関する考え方を明らかにしたことで、無言のうちに共感を示す者と、反感をあらわにする者とが現われたのだ。
しかし、セレストは再び口数の少ない青年へと戻り、直接的に意見を求められても、何かを答えることはなかった。





「よう」

一応、国際法にのっとっている捕虜収容所では、午後に一度、短い休憩時間がある。
捕虜同士が自由に話をできる、ほぼ唯一といってもいい時間であり、独房に放り込まれた一件以来、この時にセレストに話し掛けてくる相手も増えた。

今日、声をかけてきた相手は、顔と名前は知っていたが、これまで話したことはない人間だった。
年齢はセレストより幾つか年下だろう。階級は伍長だったと聞いていた。

「──何だ?」
「愛想のない野郎だな」

短く応じると、相手は肩をすくめる。
その動きに、もとは短く刈られていたのだろうが、やや伸びかけた金髪が揺れた。

「はぁん。やっぱ、あんた、この髪が気になるんだな。恋人が金髪なのか?」
「え?」
「今も目が追いかけてただろ? 視線に気付いたのはいつ頃だったかな。俺相手にだけじゃなくて、あんたは時々、金髪の奴を見てるから、気になってたんだ」
「────」

思いがけない言葉に、セレストは思わずまばたきする。
と、相手がおかしげに笑った。

「自覚なかったのか。じゃあ、恋人が金髪ってわけじゃなさそうだな」
「・・・・ああ。恋人は居ない」
「残念。思い出に浸りたいなら、サービスしてやろうかと思ってたのに」

そう言って笑う相手は、兵士にしては細身で、顔立ちもまあまあ整っている。
言ってみれば目立つ容姿の彼が、食物や看守に隠れて手にする嗜好品、労働の身代わりを得る代わりに何をしているのか、セレストも知っていた。

「申し出はありがたいけど、遠慮するよ。好きでもない相手を抱く趣味はない」
「ちぇ。見た目どおり堅いね、あんた」
「そうかな」
「ああ。結構顔もスタイルもいいし、楽しめそうだと思ったんだけどな」
「それは悪かった」

これ以上ないほどあけすけな物言いに、言葉を選びかねてセレストは小さく苦笑する。
と、相手は少し驚いたように目をみはり、そして笑顔になった。

「あんた、笑うともっといい男に見えるな」
「・・・・それはどうも」
「で?」
「え?」
「恋人も居ないあんたが金髪を気にする理由。気になるだろ、やっぱり」
「・・・・ああ」

納得して、セレストは頷く。
その隣りに、相手は許しも求めずに、ぞんざいな身のこなしで腰を下ろした。
真横に来た淡い金髪をちらりと見やり、セレストは自分の手元に目線を落として口を開いた。

「・・・・幼馴染、かな」
「女?」
「いや。ずっと年下の・・・・弟みたいな相手だ」
「へえ。仲良かったんだ?」
「そうだな・・・・。子供の頃から俺が士官学校に入るまで、ずっと傍に居た」

セレストは空を見上げる。
高く澄んだ秋の空は、ただ青く、眩しい。

「負けず嫌いで頭が良くて・・・・ものすごくやんちゃで、手がかかって仕方がなかった。毎日大変だった、けど・・・・」
「・・・・・そいつは、今は?」
「さあ。家族と一緒に合衆国に居る、はずだけどな」

合衆国、という単語で、相手はピンときたようだった。
少しだけ沈黙した後、そうか、と呟く。
それから、話を聞けて満足したのか、あるいはこれ以上聞いても仕方がないと思ったのか、あっさりと立ち上がった。

「そろそろ俺は戻るわ。いきなり邪魔して悪かったな」
「いや・・・・」
「ま、今はその気がなくても、気が向いたら声をかけてくれればいいからさ。報酬は応相談な」

その言葉に、セレストはまた苦笑する。
そして何とも答えないまま、立ち去っていく金髪を見送った。

「────」

幼馴染であり、恩人の子息である少年のことを誰かに話したのは初めてだった。
自分が軍に入った頃には、既に極右主義・反ユダヤを綱領とするNSDAPが政府の第一党となっていたせいもある。
が、それ以上に、そんな話をする相手も機会もなかった。

「・・・・全然、似てなんかないのにな」

今の若い兵士の髪は、金は金でも、かなり淡いプラチナブロンドに近い色である。
だが、思い出の中の少年の髪は、光を紡いだような眩しいフェアゴールドだった。
瞳の色も、顔立ちも背格好も、二人はどこも似ていない。
なのにどうして、とセレストは、少しだけ自分が可笑しくなる。

「───・・・」

名前を呼びかけて。
口を閉ざす。
今の自分は、その名を呼ぶ声さえ持っていない。そんな気分に襲われて、セレストは静かに目を伏せる。
短い休憩時間は、そろそろ終わりに近付いていた。








           *          *







用がある、と看守に呼び出されて作業室から出た途端、寒さに一瞬、身体が震える。
あくまでも一瞬のことで、すぐに慣れたが、窓の外を木枯らしの予兆のような風が過ぎてゆくようになって、もう幾らか経つ。本格的な冬の到来も、目前だった。

寒々しい通路を看守に付いて歩きながら、セレストは何だろうかと考える。
元親衛隊将校だったことから、一番最初に押し込まれた捕虜収容所では、何度か連合軍の士官から質問を受けたこともあったが、この収容所で、こうして呼び出されるのは初めてだった。
もっとも、親衛隊といっても大戦の後半は、主としてオランダ・ベルギー方面に転出していたから、終盤のベルリンの情勢や他部隊の動向に関しては、それほど多くの情報を持っているわけでもない。質問されたところで、答えられることはたかが知れている。
大戦が終結してから、まだ半年とちょっとしか過ぎていないとはいえ、今更何だろう、と思いをめぐらせた時、先導していた看守が立ち止まった。

「入れ」

廊下の右側にあるドアを二度ノックしてから開け、尊大な口調と態度で指示する。
命じられるままに、セレストは室内に足を踏み入れた。

取調室のような、何もない部屋だった。
木製の簡素なテーブルと、対面に配置された椅子。それだけしかない。
天井の蛍光灯も、埃をかぶっているため、どことなく薄暗い印象だった。

その中で。
背後で鉄製のドアが閉ざされる音を聞きながら、セレストは息を呑んでいた。

──窓の向こうに広がる寒々しい荒野を背景に、鮮やかに浮かび上がるフェアゴールド。

ゆっくりと振り返った、その瞳は。
深く澄んだ、青。

「───・・・」

感情を消した表情の中で、その青い瞳だけがひたむきなまでに、こちらを見つめる。
その色を、知っている、と思った。
昔、自分が士官学校の寄宿舎に入った時の、出立の朝。
そして、一番最後の別れの日。
彼は、こんな何かを言いたいのに言葉が見つけられない瞳で、自分を見上げていた。

カツ・・・、と革靴の足音をコンクリートの床に響かせて、彼が一歩近付く。

「──背が伸びられましたね」

張り詰めて切れる寸前の緊張の糸を切ったのは、やはりセレストだった。

「当たり前だ。僕が何歳になったと思っている?」

口調は酷く不機嫌そうに、けれど瞳の色は変わらないまま、カナンはそう答えた。

「お前は・・・・何も変わらない、と言いたいところだが、その格好は酷いな。黒シャツも全然似合っていなかったが、今はそれ以下だ」
「すみません」

変わらない辛辣な言葉に、セレストは思わず苦笑しながらも詫びる。
確かに酷い格好と言えば、そうだった。捕虜服の上下は茶色とも灰色ともつかない汚れた色で、本来の生地の色が何であったのかさえ分からなくなっている。

「よく、ここがお分かりになりましたね」
「探したからな」

素っ気なくカナンは答える。

「アーヴィングなんて珍しい姓じゃないからな。終戦直後からしらみ潰しに調べて、半年以上かかった。お前は2回も移送されてるし」
「すみません」
「いい。別にお前が悪いわけじゃない」

さらりとカナンは流したが、おそらく並大抵の苦労ではなかっただろう。
連合国軍の占領下で混乱しきっているこの国で、彼がどれほどの金と労力を費やして、わずか半年間という短い時間で自分を探し出したのか、セレストには想像もつかなかった。
と、カナンは、背後のドアのところに直立して睥睨している看守をちらりと見やり、セレストの目の前まで歩み寄った。

「それほど長い時間を許されたわけじゃないんだ。だから、単刀直入に言う」
「はい」

思い出の中の記憶と全く違う目線に、内心驚きを覚えながらもセレストは頷く。
すると、カナンは声を低めて、囁くように言った。

「お前一人なら、僕の力で釈放させられる。──どうする?」

カナンの青い瞳が、真っ直ぐに見上げている。
昔はずっと下の方にあったものが、今は10センチも違わない。
目の前にいるのは、小さな少年だったカナンではなく、一人前の青年となったカナンだということを、改めて痛いほどにセレストは感じる。

即答はしなかった。
しばらくの間、何も変わらないように見える深く透きとおった青を見つめて。

「──ありがたいお言葉ですが・・・・」

そう答えると、カナンはこちらを見つめたまま、わずかに口元を引き締めた。
コートの袖口に半ば隠れた右手を、カナンがきつく握り締めたことにセレストは気付く。

「・・・・僕が、お前を失いたくないと言っても?」
「はい」
「──そうか」

セレストの答えを予想していたかのように、カナンの返事も短かった。
ただ、ほとんど表情を消していた顔に、はっきりと痛みを堪える色が滲む。
その色を、セレストは痛ましい思いで見つめた。
けれど、どうすることもできずに、何故自分が生きているのか分からないなどという本当の理由ではなく、せめて彼をこれ以上手酷く傷つけなくても済むような言葉を探す。

「私は何も止められなかったし、誰も救えなかった。私がSSに所属していたことで家族も今、苦労しているでしょうし、戦争に参加して何千何万の命を奪ったということでは、私も他の兵士も平等に罪人です。カナン様の御厚意には本当に・・・・心から感謝しますが、自分一人が救われようとは思いません」
「・・・・・釈放される時は、他の者も一緒に、か」
「はい」
「お前らしい」

その言葉を信じて、納得したのかどうか。
カナンはセレストを見上げたまま、微笑未満の表情を浮かべる。
そして、揺らぐ瞳を隠すように目を伏せ、コートのポケットに右手を突っ込み、手にしたものを差し出した。
それは二つ折りにされた小さなメモ用紙で、セレストが受け取り、開くと、記憶にあるものより大人びた筆跡で地名らしき単語が書かれていた。

「お前の家族は今、そこにいる」
「え・・・・」
「南ドイツの本当に小さな町だ。訪ねていって、エリック牧師の家はどこかと聞けばすぐに分かるだろう」
「──はい」

うなずき、セレストは元通りにメモをたたむ。
それから、改めてカナンを見つめた。
青い瞳と翠緑の瞳が、しずかに交錯する。
決して逸らされることのない、南の海を思わせる深く透明な青に、セレストは小さく微笑んだ。

「その指輪・・・・、まだ持っていて下さったんですね」
「ああ。当たり前だろう」

言われて気付いたように、カナンは自分の右手に視線を落とす。
その薬指には、鈍い輝きを放つ簡素な銀の指輪が嵌っていた。
見間違えようもない、かつてセレストが渡した、"Kyrie eleison"の文字が内側に刻まれた祈りのリングだった。

「お前みたいに小指にしたかったのに、小指じゃ緩すぎて結局、薬指にしか入らないんだ」
「そうですか」

不満げに言ったカナンが一瞬、かつての小さな少年だった頃と何も変わらないように思えて、セレストはかすかに微笑む。
と、その笑みに何を思ったのか、カナンは不機嫌そうな上目遣い気味にセレストを見上げた。

「──返さないからな」
「ええ。カナン様に差し上げたものですから。第一、返していただいても、ここではそういった私物は失くしてしまいます」
「・・・だろうな」

ふと表情を変え、わずかに眉をしかめてうなずいたカナンに、セレストは右手を差し伸べる。

「カナン様、お手を貸していただけますか」
「うん・・・・?」

意図を把握できずにまばたきしながら差し出されたカナンの右手を、セレストはそっと手のひらに受ける。
そして。
形のいい細い指に嵌められた銀の指輪に口接けを一つ、落とした。

「・・・・セ・・・」
「家族のことをよろしくお願い致します」

驚きに目をみはったカナンの声を遮るように、セレストは告げる。

「──分かっている」

一瞬、違う何かを言いかけて。
カナンは言葉を止め、代わりに短く応じた。
そしてセレストはカナンの手をそっと下ろし、一歩離れる。
そんなセレストを見つめ、カナンは言葉を探すように沈黙していたが、結局、何も言わず、黙ってセレストの脇を抜けてドアへと向かう。
昔と変わらず、凛と伸びたその背中へ、セレストは静かに呼びかけた。

「カナン様、お会いできたことは本当に嬉しく思います。あなたが御無事で居て下さったことも・・・・。来て下さって、本当にありがとうございました」
「──ああ」

看守が開いたドアを出る寸前、カナンは振り返り、まっすぐにセレストを見つめた。

「それじゃ・・・・」
「はい。どうぞお元気で」
「・・・・お前もな」

その言葉を最後に、カナンは廊下へと姿を消す。
カツカツと冷たいコンクリートに響きながら遠ざかってゆく足音を、セレストは全身を耳にして追った。










作業室に戻ると、ちょうど休憩時間になったらしく、捕虜たちはめいめいに身体を伸ばしたり、雑談をしたりしていた。
何だったのかとかけられる声を適当にかわしながら、その中を抜けて、セレストは窓際へと歩み寄る。

瞼の裏には、まだ幻のように金と青の残像が焼きついている。
最後に別れた時、カナンは十五歳になったばかりだった。
あれから七年。
青年となったカナンは背は随分伸びていたが、細身の体付きも、表情も何も変わっていなかった。
もしかしたら自分の妄想だったのかと疑ってしまうほど、あっけなかった再会を思い返してセレストは目を伏せる。

カナンは結局、自分を説得しようとするような言葉は一言も吐かなかった。
ここの暮らしは決して楽なものではなく、月に数人は死者が無言で房を出てゆくし、東方のソ連軍が統監している地区の捕虜収容所では、もっと過酷だという噂も聞く。
そんなことはカナンは当然知っていただろうに、死にたいのか、とも、お前の家族が待っている、とも言わなかった。
ユダヤの血を引く彼が、NSDAPが崩壊したとはいえ、一度は捨てた祖国に戻るのには相当な覚悟が要っただろうし、一将校の生死及び所在を突き止めるのにも、想像もできないほどの苦労をしたに違いないのに。
そこまでしてくれた相手に対して、否、と答えた自分に、お前らしい、とうなずいてくれたのだ。

「──!」

不意に、セレストの目から熱いものが零れる。
驚き、それを拭うことも思いつかないまま、セレストは窓の向こうを見た。
埃に曇ったガラスの向こうには、もはや冬枯れの荒野しか見えない。

「カナン様・・・・」

たった一つの名前を呟いて。
そして、気付いた。

何のために死ななかったのか。
今、生きているのか。


───この国がどうなろうと、世界がどう変わろうと、必ずどこかでまた僕たちは再会する。いいな?


あの日のカナンの言葉。
それだけのために・・・・その言葉が、この七年間、自分を支えていた。
命じられるままに敵を殺し、背を向けて逃げる市民を撃ち、眠れない夜を過ごして。
それでも生き抜いたのは、単に我が身が可愛かったからではなく。
ただ会いたかったのだ。
時代の流れの中で、理不尽に引き離された一番大切な幼馴染に、もう一度生きて会いたかった。
だからこそ今、自分はここにいる。

そのことに、今ようやく目が覚めたように気付いて。


「・・・・Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona nobis pacem.
(神の小羊、御身、世の罪を除きたもうた主よ、
 我らを憐れみたまえ。
神の小羊、御身、世の罪を除きたもうた主よ、
 我らに平安を与えたまえ。)」


何年も忘れていた祈りの言葉が、知らず唇から零れる。

・・・・何も変わっていなかった。
こちらの意思を無視して、所長の執務卓に金を積み上げ、有無を言わせず釈放させる方が余程簡単だっただろうに、敢えて直接問いかけて。
自分の答えはひどく残酷に彼を傷つけただろうに、こちらの思いには何一つ傷つけることなく、すべてを飲み込んで去っていった。

思えば、幼い頃から自分に対しては我儘ばかりだったくせに、大切なところでは決して自分を困らせたりすることはなかった。
自分よりずっと年下なのに、自分より遥かに強くて。
それなのに、無邪気なほど真っ直ぐに自分を慕ってくれた。
あの頃のまま、より強い輝きをたたえた・・・・たった一人のフェアゴールド。

うなずかなかったことに後悔はない。
ないけれど。


───カナン様。


声もなく、何度もその名を呼んで。
寒々しい窓際に一人たたずんだまま、短い休憩時間の終わりを告げられるまで、セレストは身動き一つしなかった。
 















to be continued...








あんまり長くなるので、どうしてくれようかと思いましたが、とりあえず中編終了。

冒頭の年表は、ドイツ視点に限定してかなりはしょったのですが、それでも随分長くなってすみません。
戦後の旧ドイツ軍(に限らずですが)捕虜の扱いについては、手元に資料がないので大半が想像です。今日、ネット注文したばかりの平凡社『CD-ROM版 世界百科事典』には載ってるといいな・・・。正確なことが判明したら、その部分は追加修正する予定です。

それからええと、最後の聖句は、ミサで歌われる『アニュス・デイ(神の小羊)』で、ドイツ語ではなくラテン語です。
これは手元にあったベートーヴェン作曲『ミサ・ソレムニス (荘厳ミサ曲)』のライナーノーツから歌詞を引用しました。
あと、前編から繰り返し出ている「Kyrie eleison (キリエ・エレイソン)」は、「神よ、憐れみたまえ」という祈りの決まり文句です。もしかして分からない方もいらっしゃるかな〜と遅ればせながら解説。

なんというか、とにかく薄暗い話ですけど、次で完結します。
次回はカナン様視点にて話が展開しますが・・・・明日、upできたらいいな・・・。






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