Shine (2)







見渡す限り青白く凍りついたダンジョンの中を歩きながら、セレストは一歩前を行く主君の金色の頭を見つめて、心の中で溜息をついた。

(……本っ当に、何にも気にしていらっしゃらないんだなー)

カナンの足取りはいつもと同じく、やや慎重ながらも雪と氷の積もった通路をさくさくと進んでいく。そこからは何の屈託も感じられない。見るからに不機嫌だった昨日とは大違いだ。

(この分だと、昨晩は寝られなかったとかいうこともなかったんだろうな。……俺は殆ど一睡もできなかったっていうのに……)

ひどく虚しい気分と共に、今度こそセレストはこっそりと溜息をこぼす。
──昨日、このダンジョン内で、セレストはカナンに、よりにもよってキスをされたのだ。
事の発端は、一昨日の非番の夜に遡る。

野暮用……というか、正確には妹シェリルの結婚問題で実家に顔を出した後のこと。騎士団宿舎への帰途で白鳳と出くわし、二人で少々飲んだ後に突然、路上で唇を奪われたのだ。
セレストはごく平凡なノーマル嗜好であり、特に好きでも嫌いでもない男にキスされたというのは、全然よくも嬉しくもない出来事である。
が、一応こちらも成人している身であり、少なからざる衝撃はあったものの、災難だったと流し、忘れることはできた。
が、こともあろうに城を抜け出したカナンが、その一部始終を目撃していたのである。

そのせいで昨日のカナンは、大好きなダンジョン内にいるというのに不機嫌極まりなく、不審に思って理由を問いかけたセレストは、まさに薮蛇というべきか、自分が白鳳と恋仲になったと誤解された上、カナンに対する忠誠までも疑うような言葉を聞かされて愕然となった。
実際、あれほど驚愕したことも、忠誠を誓った主君に信じてもらえない悔しさ、もどかしさを覚えたことも、これまで記憶にない。
思わず我を忘れて潔白を訴え、所詮キスはキスでしかない、心が動かなければ意味がない、と告げたところ、カナンはそれを素直に受け入れ、納得してくれた。

……そこまでは良かったのだ。それで終わっていれば、ちょっとした行き違いによるいさかいと、その修正だけで話は済んだはずなのである。
だが、その直後。
実験なのだか実践なのだか、何かを思う顔になったカナンは、突然セレストの肩に両手をかけ、口接けてきたのだ。
触れ合ったのは、ほんの数秒を数える間。
だが、乾いた唇の温かさや柔らかさは、はっきりと感じた。
挙句、パニックになったセレストをよそ他所に、なるほどその気がなければ握手と変わらない、とカナンはしみじみ納得してみせたのである。
それを聞いて正直、セレストは悲憤と精神的疲労のあまり泣きたいような気分になった。

一体、どこの世界に、聞かされた理屈に納得するためにだけ、同性の従者にキスをする王子が居るというのか。しかも、多分間違いなくカナンにとっては初めての口接けだっただろうに。
その後、けろりと御機嫌に戻ったカナンとは対照的に、セレストのトホホ気分は城に戻ってからも変わらず、それは夜、消灯時刻を過ぎてからも続いた。
実際、眠れるわけがなかったのだ。
カナンの無茶苦茶な行動に、どうしてくれようかという思いがあったのは勿論だが、それ以上に。

──唇に残る感触。

少し荒れた自分の唇とは全然違う、まるで女性のようにやわらかく、かすかに甘い香りがして……。

(〜〜〜〜〜っ)

十代の少年ではあるまいし女を知らないわけではないが、二年程前に半年ぐらい付き合っていた相手に振られて以来、ごくたまに同僚の誘いを断りきれずに街に遊びに行く以外は、女っ気のない日々が続いている。
しかし、だからといって、同性で自分よりずっと年下の、しかも命を賭けて守るべき主君とのキスに動揺するというのは、男としてどうなのか。

(どうなのか、じゃなくて絶対に駄目だろう!?)

思わず自分に突っ込みを入れるが、しかし、どうしてもやわらかな感触の記憶は唇の上から消えず。
暗示に弱い自分のこと、このまま眠ったら絶対にヤバイ、とはんもん煩悶していたのだが結局、明け方近くに浅い眠りに落ちて。
そして……案じた通りに、また夢を見てしまった。

さすがに前回のようなウェディングドレス姿ではなかったが、少し緊張したような面持ちのカナンが、これまでに見たこともない、ひたむきな瞳で自分を見上げてきて。
どこか切なげにも見えたその瞳の青に抗いきれず、そっと抱き寄せて口接けた。
触れるだけのキスを数度、角度を変えながら繰り返し、唇に触れるやわらかな感触に酔いながら、淡く込み上げてくる愛しささえ感じていた。
もっとも、その愛しさは昔、好きだと思っていた相手に感じたものとは少し異なり、いつもの保護欲によく似た、この方を守りたい、大切にしたいというその延長線上にあるものでしかなかったけれど。
そして、キスを終えてゆっくりと離れると、閉じていた瞳を開いたカナンは、至近距離からこちらを見上げ、またあの笑顔を見せたのだ。
──誰よりも幸せそうで、輝くような。

(〜〜〜不敬罪もいいところだ)

目覚めた瞬間も、ただショックで。
午前中は、格好だけは騎士団の詰め所にいたものの、何も仕事が手につかなかった。
そして午後、やや……かなり緊張して、いつものようにおやつ片手にカナンの私室をノックすれば、この主君は前日のことなど綺麗に忘れたように、セレストが運んできたマロンタルトを口に詰め込みながら「早く行こう」と急かしてくれたのである。
こういう方だと分かっていた。分かっていたけれど。
前を行くカナンからは見えないのをいいことに、がっくりと肩を落として溜息をついた時。

「セレスト、この先の通路だが……って、どうした?」
「い、いえ。何でもありませんが」

いきなり振り返られて、セレストは大いに慌てる。が、ごまかそうにもカナンのように腹芸には長けていないため、咄嗟に取り繕うこともできない。
わたわたとうろたえる従者の様子を見つめて、カナンは足を止め、首をかしげた。

「──今日、僕の部屋に来た時から、何か変だと思っていたんだが」
「え、え!? 何がですか?」
「声が上ずってるぞ。……もしかしなくても、昨日のことを気にしてるのか?」
「!」

ずばりと切り込まれて、セレストは返事ができない。
が、その表情で十分に伝わったのだろう、カナンは少々呆れたように軽く肩をすくめてみせた。

「単に僕は、お前が言ったことを確認しただけだぞ。それがそんなにショックだったのか?」
「当たり前でしょう!」

さも意外そうに言う主君に、セレストは思わず叫ぶ。
が、カナンは軽く首をかしげ、それから何か納得したように一つうなずいた。

「確かにな、同意なしにキスをしたのは悪かったかもしれない。僕だって、ありえない話だがいきなり白鳳にキスされたら嫌だし、お前にされてもびっくりするだろうしな」
「するわけないでしょう!? というか、最初からキスなんかなさらないで下さい!!」
「うん。だから、お前の了承を得なかったのは悪かったと言っている。これでは僕のしたことは白鳳と同じだものな。すまなかった」

けろりと笑顔で謝られて。
セレストは主君をもっと叱るべきなのか許すべきなのか、途方に暮れる。

「カナン様……」
「何だ」
「お願いですから……というか、そもそもこんなことをお願いしなければいけない事自体が間違っているんですが、こういう真似はもう絶対になさらないで下さい」

言いようのない疲れが全身を襲うのを感じながら、セレストは目の前の少年に言い聞かせる。

「ダンジョンの中ではパートナーだとおっしゃるのであれば、私はそうあるように努めます。が、主従だろうがパートナーだろうが、普通、同性相手にはキスなんかしません。絶対に」
「……だろうな」

肩をすくめてカナンは同意し、そしてセレストを見上げた。

「だから、悪かったと言っているだろう。もう二度としない。約束するから、お前ももう水に流せ。あんまりしつこく言うと、またヘソを曲げるぞ」

屈託のない表情で言われて、本当に分かっているのだろうかとセレストは内心、溜息をつきながらもうなずく。

「分かりました。私も忘れますから、カナン様は、そのお言葉をお忘れにならないで下さいね」
「分かったと言っているのに。しつこいぞ、セレスト」

そう言い、カナンは、先に進もうとまた歩き始める。
そして、ざくざくと雪と氷の結晶を踏みしめて進みながら、小さな笑いを零した。

「しかし……その様子からすると、もしかしなくてもお前は昨晩、眠れなかったんじゃないのか?」
「……カナン様は、よくお眠りになれたようですね」
「うむ。一昨日の晩は、色々考えていて寝つきが悪かったけどな。昨夜はぐっすりだ」
「はあ……」

そう言われてしまうと、セレストも反論することができない。
そもそもの事の起こりは、自分が白鳳に対して隙を見せたことが全ての元凶なのだ。
セレストの困惑した生返事を聞いて、カナンはまた笑う。

「本当に悪かったな。お前の性格は分かっていたつもりだが、そんなに悩むとは思わなかったんだ。心が動かなければ意味がないと言っていたし」
「それは確かに意味はありませんけど……。でも驚かされましたよ。心臓が止まるかと思うくらいには」
「そうなのか」

くすくす、と楽しげなカナンの笑い声が、凍りついたダンジョンの通路に小さく響く。
その機嫌の良い横顔を見やって、まぁいいか、とセレストは甘いと思いつつも、言われた通りに一連の出来事を過去に流そうとする。
が、何かが引っかかった。

(──何だろう?)

どこまで通じたかは知れないが、カナンはこちらの言い分を納得して、聞き分けてくれた。
そして、今はわだかまりなど微塵もない笑顔を見せている。
──笑顔。

(……あ)

何かが閃いた気がした。
確かにカナンは笑っている。けれど。

──基本的にカナンは喜怒哀楽が豊かで、笑顔を見せることも多い。
姉姫手作りのお菓子を食べる時の、嬉しげな笑顔。
書庫で見つけた面白い冒険譚ついて語る時の、目を輝かせながらの笑顔。
何よりも大切にしている家族との語らいの時に浮かべる寛いだ楽しげな笑顔や、父王や兄王子に褒められた時のはにかんだような誇らしげな笑顔。
企みが見事に成功した時の、少し人の悪い勝ち誇ったような笑顔。
何かの拍子に見せる、一瞬の無邪気な笑顔。
カナンの幼い頃から傍にいたセレストは、少年が見せる笑顔をも、数え切れないくらいに知っている。
だが。

──先日と昨夜、夢の中で見た、輝くような心の底から幸せそうな笑顔。

あんな笑みを前に見たのは、一体いつの事だっただろうか。

「セレスト、どうした?」
「──いえ、何でもありません」

違和感を感じたのか、カナンがまなざしを向けてくる。
が、咄嗟に温和な微笑を浮かべて、さりげなく否定したセレストに、まばたきしたものの、それ以上問いかけることはなかった。

「とりあえず、あそこの階段から下の階層に下りよう。今日こそアンモスの氷漬けを見つけないと」
「はい」

うなずき、セレストは油断なく周囲に気を配りながら、カナンに続く。
毒虫に刺された第一王子リグナムが病床で苦しんでいる今、余計なことを考えている暇はない。
けれど。
どれほど思い返してみても、ここ数年、カナンの本当に幸せそうな笑顔というものが思い出せない。かろうじて思い当たるのは、五年以上も昔、自分もまだ少年だった頃の記憶くらいだ。
冒険者ギルドに正式登録できた時も、ダンジョンの封印獣の封印に成功した時も、とても嬉しげではあったが、幸せと形容するには当たらない。

(もしかしなくても、俺はカナン様の『本当の』笑顔なんて、もうずっと見ていないんじゃないのか?)

そう考えて、セレストは愕然となる。

「セレスト」
「はい」

呼びかけられるまでもなく、目指す階段の手前に、モンスター・ロンメルが立ちはだかっているのには気付いていた。
愛用の長剣を抜き、隙なく構えながら、セレストは心に浮かんだ思いを振り切ることができない。

(俺は……)

分かっているつもりでいながら、実は何も知らないのだとしたら。
自分はどうしたら良いのだろう?
誰よりも大切で……命に代えても守りたい存在なのに。

──どうしたら、いい?

カナンの構えたスタッフの先端の宝珠に、魔力の輝きが灯り、呪文の詠唱と共に増幅されてゆくのを視界の端に認めながら、モンスターの無防備に空いた右肩から胸へと剣を振り下ろす。
その勢いのまま斜め後ろに飛びすさ退ると、深紅の業火を思わせるカナンのファイヤーレーザーが目映い軌跡を放ちながら、セレストが傷つけたモンスターの胸へと吸い込まれ、爆発する。
一瞬の輝きと衝撃の後、モンスターの姿は跡形もなく消滅していた。

「よし、行こう、セレスト」
「はい、カナン様」

気負うでもなく、冷静な顔で振り返ったカナンにうなずき返しながらも、セレストの心の中に生まれた憂いとも焦燥ともつかない思いは深く根付き、薄れることはなかった。












to be continued...








というわけで、その2。
原作ゲームの展開に合わせて、そろそろシリアスに差し掛かってます。

しかし、ヘタレのセレストさん書くのは楽しいです。本気で。
というわけで、次回完結。待て次号。






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