残酷な天使のテーゼ

 とうとう言ってしまった、と心の中で呟く。
 誠凛高校からの帰り道、黄瀬は筋肉痛の名残もあって重い足をゆっくりと駅に向かって進めながら、つい先程の黒子との会話を思い出していた。

『オレはもう、海常に来いなんて言わないっス。そんなことを言うのは、黒子っちにも誠凛の人たちにも、うちの先輩たちにも失礼っスから』

 そう告げたことに後悔はない。たとえ今日でなくとも、近い未来、いつか必ず言わなければならない言葉だった。
 だが、心情としては、決して楽なことではない。
 もともと、大人しげで綺麗な印象の見た目に反し、恐ろしく頑固で強情な性格の持ち主である黒子が、黄瀬の誘いに乗って海常に転校する可能性など髪一筋ほどもなかったが、それでも自分から望みを断ち切りたくはなかった。
 つい春頃までは黒子に嫌われていないという奇妙な自信があったし、言い続けていれば、いつかは振り向いてくれるかもしれない、というささやかな期待もあったのだ。
 しかし、幾つかのことを知り、気付いてしまってからは、『また一緒にやろう』という言葉は、軽々しく口にできるものではなくなっていた。
 そして、とうとう現時点での黒子のバスケに対する未練を断ち切る日が来た。今日に限って言えば、それだけのことである。
 しかし、それだけのことと割り切るには、黄瀬の心情はあまりに苦かった。

 生来何事に対しても楽天的な黄瀬が、黒子に対して考え方を変えることになったきっかけは、今年の春の練習試合だ。
 中学三年夏の全中優勝後、突然バスケットボール部を辞めてしまった黒子とは、その後、卒業式当日まで顔を合わせることもなく、本当に半年ぶりくらいの再会だった。
 黒子は外見は変わっていなかったものの、しかし、プレイは黄瀬が見たことのない変化を遂げており、火神とのそのコンビネーションは驚愕の一言だった。
 こんな黒子は知らない。見たことがない。
 そのことがひどくショックで、試合後、黒子に話をしたいと持ちかけて。
 何故、帝光のバスケ部を辞めてしまったのか、何故プレイが変わったのか。問い質して返ってきた言葉は、黄瀬の心臓を抉った。

『あの頃、ボクはバスケが嫌いだった』

 そう告げられた時の衝撃は、生半可なものではなかった。
 黄瀬はバスケットボールが好きだったし、黒子もそうであると信じて疑わなかった。第一、嫌いだったならば、あんなにまでも献身的なプレイができるはずがない。
 ずっとそう信じていたのに、黒子は言ったのだ。嫌いだった、帝光には何かが欠けていると思った、と。
 それを聞いて、信じられないと動揺するあまり、彼の新しい相棒である火神と自分たち『キセキの世代』と同種の存在だと、警句めいたことを口走ってしまったが、それは本来言いたかったことではない。
 黄瀬があの時、本当に言いたかったこと……聞きたかったことは、何故あれ程好きだったバスケを嫌いになってしまったのか、ということだった。
 だが、その日は邪魔が入ったこともあり、それ以上のことを聞くタイミングを逃した。ただ、ほんの短い時間ではあったが、火神も交えたストリートバスケでのプレイを通じて、黒子のバスケットボールに対する愛着も伝わってきたから、今は嫌いでないのならいい、とその場は自分を抑えて。
 その後は自宅に帰る道すがら、ひたすらに自問自答を続けた。
 ──何故、黒子は帝光のバスケ部を辞めてしまったのか。
 ──何故、強豪校に進学せず、新設の誠凛を選んだのか。
 ──何故、バスケを嫌いになり、そして今、また楽しそうにプレイしているのか。
 全ての答えは一本の糸で繋がっている気がしてならず、そして、その糸の先は、ひどく恐ろしい事実に繋がっている気がした。
 おそらくは知らない方が……、気付かない方が幸せなこと。
 だが、知らなければならない、気付かなければならないこと。
 そして、答えは考えるまでもなく目の前にぶら下がっており、黄瀬が、それを掴み取る勇気を持てたのは、その夜、日付が変わる頃だった。

 ──『キセキの世代』が、黒子を追い詰め、バスケを嫌うまでにさせてしまった。

 中学時代の黒子を、黄瀬は良く知っていた。
 青峰に憧れて始めたバスケットボールだが、青峰のスタイルとはまさに光と影の黒子のスタイルにも強烈に惹かれた。
 黒子は、身体的に優れている部分は何一つない。だが、バスケットボールが好きで、試合でプレイして、そして勝利を得たいがために、努力に努力を重ねて帝光のレギュラーの座を得た、その心の強さ、バスケットボールに対する純粋な愛着は、それまで何でもできるがゆえに中途半端で不完全燃焼の青春を送っていた黄瀬の心を強く揺さぶった。
 けれど、その後、急速に進化し始めた青峰に目を奪われ、競い合うように伸びてゆく他のキセキの世代に気を取られ、黄瀬もいつしか自分自身を成長させることに夢中になり。
 そして、黄瀬を含むキセキの世代は、黒子を振り返ることを忘れてしまったのだ。
 キャプテンだった赤司の指示通り忠実にパスを出し続ける黒子は、キセキの世代たちの意識の中で、いつしか精密なパスマシーンに成り下がってゆき。
 誰一人、黙々と献身的なプレイを続ける黒子に注意を払わなくなった。
 黄瀬自身ですら、黒子がパスを出してくれるのが当たり前になっており、チームメイトに対する関心は、そら恐ろしい程にキレを増す一方の青峰のプレイを追うことだけに集中していた。
 笑い合うことも、最小限以上の言葉を交わすこともなく、当たり前になっていた勝利を今更、共に喜び合うこともなく。
 中学三年の夏、勝利を絶対としたキセキの世代と黒子は、同じ場所に立っている、ただそれだけの関係になっていた。
 そんな時の流れの中で、黄瀬は、決して黒子の存在に感謝を感じていなかったわけではないし、彼に対する尊敬を忘れたわけでもない。
 だが、明らかにいたわることを忘れていた。
 ──最後に黒子の笑顔を見たのは、いつだったか。
 記憶を一つ一つ掘り起こしていっても、黄瀬が思い出すことができたのは、中学三年の初夏に行われた練習試合が最後だった。
 その試合中、黒子が素晴らしいパスを通してくれたおかげで、黄瀬はノルマだった二十点を前半中にクリアすることができた。その感謝も込めて黒子に礼を言った時。それが黄瀬が見た、最後の黒子の笑顔だった。
 そして、それ以降は、全中に向けた県大会が始まったこともあって、挨拶やポジションの確認といった必要最低限の会話を交わした記憶しかなく、また、他のチームメイトが、黒子と積極的に会話する場面を見た記憶も無く。
 そして、夏が終わる前に、黒子はバスケットボール部から姿を消していた。

 黒子がバスケ部を辞めた。そう聞いた時の衝撃は、まだ昨日のことのように覚えている。
 心の底から驚愕し、どうして引き止めなかったのか、誰も行かないのなら自分が黒子と話をしに行く、といきりたった黄瀬に対して浴びせかけられたのは、冷静すぎる赤司の声だった。
『やめておけ。やる気をなくした奴を引き止めても意味がない』
『そんな……!』
『それに俺たちはもう、黒子がいなくても勝てる。違うか?』
 黒子がいなくても、勝てる。
 絶対勝利の伝統を守ることはできる。
 それは黄瀬ですら否定することはできなかった。黒子がいたから全中は圧勝できたが、もし彼がいなくとも、得点にどれほどの影響があったか。
 否定したいのに否定しきれず、うろたえて周囲を見れば、他の三人はいずれも冷めた表情をしていた。
 一様に彼らの表情は、黒子はもう必要ないと伝えており、黄瀬がそこで黒子が必要だと言い張るのは、黄瀬がチームメイトに劣っていることを示す以外の何物でもなく。
 結局、黄瀬は無言の何かに押し切られるように、彼らに同調してうなずいた。
 心の中では悔いていたものの、どうすることもできず、せめて黒子ともう一度話そうと教室を何度か訪ねたが、黒子の方も元チームメイトを避けていたのか、結局その後は一度も彼に会えないまま、時だけが過ぎてゆき。
 黄瀬の心情がどうあれ、キセキの世代と黒子テツヤとの間に残ったのは、残酷すぎる事実だけだった。


 ──まるで百円ライターにするように、黒子のチームメイトに対する献身を、そのバスケットボールに対する愛着と情熱が空っぽになるまで搾取して、搾取して。
 その果てに、キセキの世代は、黒子テツヤという存在を使い捨てた。


 「あの頃、ボクはバスケが嫌いだった」という告白を突きつけられて、やっとその現実に気付いた時、黄瀬の目からは涙が零れ落ちていた。
 あれほどすごいと感じ、尊敬していたはずの黒子を貶(おとし)め、傷付けた人間のうちに自分も含まれていたのだ。
 キセキの世代が比類なき才能を輝かせ、全国を圧倒した、中学最後の夏。自分たちが栄光を満喫する陰で、彼はどれほど苦しく、辛かっただろう。
 どれほど精密なパスを通しても、当然のこととして感謝されず、勝利もまた必然の結果であり、改めて喜びを分かち合うこともない。
 天井知らずに才能を開花させてゆくチームメイトに対し、既に一つの頂点を極めていた彼の才能は、それ以上尊敬されることもない。
 常にキセキの世代と同じ輪の中にいながら、大して広くもないコートの中で、彼はどれほどの孤独を味わっていたのか。
 想像することさえ、辛かった。
 なのに、その黒子の傍にいた時、黄瀬は彼の気持ちを想像すらしなかったのだ。
 そして、止まらない涙を流れ落ちるままにしながら、黄瀬は黒子がバスケ部を辞め、強豪校に進学しなかったのも当然だと思った。
 スーパースターが居て勝利を信条とする強豪校へ行けば、また同じ苦痛と悲哀を味わうことになる。黒子がそう考えて誠凛を選んだとしても無理はない。むしろ、当然の選択だった。
 だが、幸か不幸か、黒子は再び、火神という才能に出会って。

 ──練習試合中に目の当たりにした、二人のコンビネーション。
 おそらく初めてのプレイだったのだろう。まだ未熟ではあったが、しかし、息はぴったりと合っており、この先、高い水準での完成を予感させた。
 それを見た時、黄瀬が感じたのは、『それはオレがやりたかったことだ!!』という強烈な感情だった。
 帝光時代、黒子とのコンビネーションが存在しなかったのは、キセキの世代の個々の才能がずば抜けており、コンビネーションなど必要としていなかったからに他ならない。
 特に、黄瀬が憧れた青峰のプレイは、他者とコンビネーションを組むことさえ困難な孤高のスタイルだった。
 そんな青峰ばかりを見ていた黄瀬もまた、当然のことながらコンビネーションなどという発想は持っていなかった。
 だが、潜在能力は高くとも未だ才能が開花していない火神は、黄瀬という存在に対抗するために、黒子とのコンビネーションをあっさりと編み出したのだ。
 ──青峰との間にしか存在しないと思っていた、ぴったりと息の合ったパスワークと、初めて目にする見事なコンビネーション。
 それは黄瀬が、青峰のプレイに憧れるのとはまた別の部分で、黒子に求めていたものだった。
 そんな自分でも気付いていなかった願望の現実化を目の当たりにして、反射的に胸に込み上げたのは、火神に対する強烈な嫉妬心と、黒子に対する何故自分を選ばないのかという強烈な怒りに似た想いだった。
 だが、火神はバスケ馬鹿で嫌うにはいい奴過ぎたし、黒子に対しては、その後の「バスケが嫌いだった」という告白を聞いてしまったら、どんな怒りをも保ち続けることはできず。

 ──黒子テツヤは、黄瀬涼太を選ばず、火神大我と共にバスケットボールを続けてゆく。

 結局その日、黄瀬にできたのは、その現実を受け止めることだけだった。
 気付かないうちに黒子を手酷く傷付けてしまっていた以上、また一緒にプレイしたいと望むのは無神経でしかなく、少しでも彼に償いたいと思うのであれば、今度こそきちんとバスケットボールと今の自分のチームに向き合うしかない。
 そう考えて、次の日の朝からロードワークを始め、部の練習をサボることも止めた。
 もちろん、言葉で詫びようと思ったことは何度もある。だが、黄瀬がどう言ったところで、黒子はそれを受け入れないだろう。口では、気にしなくていい、とか、ボクの勝手な考えで辞めただけです、などと言うだろうが、それは真の意味の許しではない。
 言葉を受け入れない相手に心を伝えるには、変わろうとする自分を見てもらうしかない。
 そう思ったからこそ、その日以来、黄瀬は毎日愚直に走り続け、チームメイトと練習を積み重ねてきたのだが、それは決して的外れな考えではなかったらしい。
 一昨日の海常との試合を見てもらった後なら、多少は自分が変わったことを伝えられたのではないかと会いに行った黄瀬に対し、黒子は、試合中に黄瀬が見せたチームプレイを、嬉しかった、と言ってくれたのだ。
 無論、それで許されたとは思わない。まだ第一歩を踏み出しただけだということは、彼の目を見れば分かる。
 今の黒子が黄瀬を見る目には、黄瀬が黒子に尊敬の念を抱き始めた頃に向けられていたやわらかさが──火神ら今のチームメイトに対して向けるものと同じやわらかさが無い。
 そして、もう一年余りも見ていない、黒子の笑顔。
 それが自分に向けられた時が、一つの区切りになると黄瀬は考えていた。

「辛い、けど仕方ねぇスよね。黒子っちは、もっとずっと辛かったんスから……」

 呟き、黄瀬は空を見上げる。
 真夏の空はどこまでも青く、彼方には入道雲が湧き上がっているのが見える。
 頑張ろう、と心の中で呟いて、黄瀬は駅へと続く階段を上った。

End.

黄瀬が変わった理由を、いっぱい妄想してみました。
なんというか、生まれて初めて負けた、という理由だけで、あんなにも変わるのは不自然じゃね?と思っていたのですが、黒子の心情=自分が彼を傷つけた一人であったことに気付いたのなら、ありかも、と海常戦を見ていて思いつきました。
黒子が帝光バスケ部をやめた前後については捏造なので、公式が出たらそれに合わせて修正します。

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