01 優しい雨









 それは、司令部で見かけた一つの木箱がきっかけだった。
 東方司令部に寄るたびそうであるように、大部屋で雑談をしている最中、ロイ・マスタング個人宛に届いた木箱。
 何だろうと思って見ていると、中身は個人的な買い物──書籍だとホークアイ中尉が教えてくれた。
 自宅宛に発送してもらっても、住人が連日不在では受け取りようがない。その点、司令部宛なら間違いないからと、職場に手紙や荷物の配達を頼む軍人は、案外に少なくないのだという。
 その辺りの説明はさておき、木箱の中身には興味を惹かれた。
 ロイ・マスタングの個人的な趣味など何一つ知らないが、わざわざセントラルの書店に発送を依頼するほどの本となると、内容的には限られてくるような気がして思わず木箱を注視していたら、ちょうど執務室から大部屋へ出てきた男がそんな自分に気付き、実におかしげに笑った。

 ───私の蔵書に興味があるのなら、見せても構わないが?

 そんな魅惑的な台詞に飛びつかない錬金術師がもし居るのなら、是非とも教えて欲しいと思う。
 引力は実に強烈で、常々、この相手にだけはとりわけ借りを作りたくないと思っている自分ですら、芯からぐらぐらと心が揺れた。
 あいにく、その時は汽車の切符を手配してしまった後だったため、後ろ髪を引かれつつも諦めたのだが。
 他者が思うよりも実は気前が良かったりする男は、お互いの都合のいい時にいつでも、と約束してくれて。



          *                *



 悪いのは決して自分ではない、とエドワードは思う。
 何しろ、今日という日の都合がついたのは、まさに奇跡に近い確率だったのだ。
 相手はなかなか定時上がりのできない不規則勤務だし、非番も一定ではない。そして、自分のスケジュールはといえば、それどころでなく酷いもので、何しろ一週間後に自分がどこに居るのかさえ分からないとくる。
 ゆえに、そんな日々を送っている自分たちが、足並み揃えて空白時間を作るまでには、実に半年以上という時間が必要だった。
 だが、それすらもかなり偶然の要素が強く、つい先日、滞在先の町からたまたま、三日後くらいにイーストシティに戻ると電話連絡を入れたら、その日は非番だと返されたのである。千載一遇の好機到来とばかりに胸をときめかせてしまったのは、おそらく誰のせいでもない。
 そんなわけで、今回を逃したら次がいつになるのか見当もつかないからこそ、ちょっと無理をしたのだが、目の前の相手は、どうやらそれが少しばかり気に入らないらしかった。

「仕方ねぇだろ。ここに辿り着くまで、天気が持つと思ったんだ」
「だから、折り畳み傘を持ち歩きなさいと前から言っているだろう」

 エドワード自身も、列車から降りた時、ヤバイかな、とは思ったのだ。
 だが、イーストシティ駅から目的地までは徒歩20分という距離であり、まあ大丈夫だろうと楽観的な判断をして、今にも泣き出しそうな空の下を走り出して。
 そして、目的地まであと数分、というところでぽつぽつと雨粒が落ち始め、訪問先の玄関ポーチに辿り着く頃には完全な本降りとなっていた、というのが一連の顛末(てんまつ)である。
 が、不幸なことに、当事者たちの中にその結果をお気に召した者は一人もいなかった。
 エドワードは全身ずぶ濡れで、冷たい秋雨に体温を奪われて不快な上、機械鎧の接合部分に痛みを覚えていたし、アルフォンスもそんな兄を気遣う一方で、びしょ濡れの客を迎える羽目になった家主にも気兼ねせずにはいられなかったし、二人を出迎えたロイもまた、玄関のドアを開けるなり呆れ返った顔をして室内に引き返し、バスタオルを一枚ずつ、二人に向かって投げた。
 そうして今、大きく火を掻き立てた居間の暖炉の前で、ひとまず濡れた服を着替えたエドワードは、まだ雫の滴り落ちる長い髪を乾いたタオルで拭いながら、ロイの小言に耐えているのであって。

「まったく君は、自分の体をおざなりにしすぎる。その髪が乾くまで、うちの蔵書には指一本、触れることは許さないからな」
「えー!?」
「えーも何もない。本を読みに来たのに、風邪を引いて寝込むのは不本意だろう? たかが二十分くらいのことだ。我慢しなさい」
「横暴だ!」
「文句があるのかね」
「あるに決まってんだろ!?」
 言いながらも、それ以上の抗議をすることはせず、エドワードは、つんとそっぽ向くようにしながら暖炉の炎に向けて髪をかざした。
 上から見下ろすような口調で説教されて腹が立たないわけではないが、それでもロイが自分を案じてくれていることは言葉の端々から十分に感じられたし、無茶をしたという自覚も一応はある。
 加えて、髪からしたたる雫で本を汚したくはなかったから(おそらく蔵書を濡らしたところで、ロイの性格上、酷く叱る事はないだろうと思われるが)、渋々ながらも乾かすことに専念しようと、指先で髪を広げるように梳いた。
 がっしりとした造りの暖炉の中で、秋半ばという季節には似合わない勢いで燃え上がる炎は、またたく間に機械鎧に熱を伝え、それに伴って全身の血が巡り始めるのをエドワードは感じる。
 一つ呼吸するごとに、冷えてこわばっていた肩の力が抜けてゆくのを、傍にいたロイも感じ取ったのだろう。
 気分を切り替えるように彼は、ソファーの横でエドワードのトランクの中身が濡れていないか確認していたアルフォンスへと呼びかけた。
「アルフォンス、先に書斎に案内しよう」
「え、でも兄さんが……」
「髪はすぐに乾くさ。鋼のが濡れ鼠になったのは君の責任ではないし、君まで付き合って時間を無駄にする必要もないだろう」
「……それはそうかもしれませんけど」

 二人のやり取りを聞きながら、ケッとエドワードは思う。
 アルフォンスはいかにも遠慮深げなことを言っているが、語尾は音符マークが付いているとしか思えないほど嬉しげに弾んでいる。
 普段は本当にいい弟だが、活字や錬金術のことが絡むと一転、自分の欲望を優先する性格は、まさに自分と血が繋がっている証拠だと思うしかない。
 ぶつぶつと悪態をつきながら、エドワードがどうにか後頭部の髪を乾かそうとしている間に、アルフォンスは、いかにもうきうきとした声で「じゃあ兄さん、先に言ってるね」と言い残してロイと共に居間を出て行ってしまい、エドワードは暖炉の前に一人取り残された。

「……あいつの家、か」
 不意に訪れた静けさの中、エドワードは顔を上げて、すわり心地の良さそうなソファーとローテーブルに、暖炉前に置かれたロッキングチェア、高そうな酒瓶が何本か並ぶサイドボードを配しただけの居間を、そっと見回す。
 蔵書を見せてもらう約束をした時にロイから手書きの簡単な地図はもらったが、エドワードが実際にここを訪れたのは今日が初めてだった。
 士官用に軍が借り上げている閑静な住宅地のほぼ真ん中にある、広さはそれなりの、だが画一的で特徴のない、小さな庭の付いた二階建て住宅。
 佐官以上ともなれば家族持ちが普通であるため、部屋数はそれなりにあるようだが、玄関間からまっすぐに居間に通されたので、それらを彼がどんな風に使っているのかは分からない。
 だが、家の中に一歩踏み込んだ時、彼の匂いがする、と思った。

 身にまとう香りを感じられるほどに接近したことなど、まだ数えるほどしかない。
 だが、洗濯したてのシャツの匂いと、身だしなみ程度のほのかなヘアトニックの香り、それらに混じる──彼自身の肌の匂い。
 記憶していることすら意識していなかったのに、家の中に踏み込んだ途端に思い出した。
 そして同時に、雨のせいで冷え切っていて良かった、と心底から思った。そうでなければ、きっと自分は、はっきり分かるほどに赤面していただろう。

 ───そう。
 一つだけ、ここに来て困ったと思うことがある。
 それは、約束をした時と今とでは、決定的に違ってしまっていることがある、ということだ。
 二ヶ月半前までは、自分たちは只の上官と部下、後見人と被後見人にして同格の国家錬金術師同士、という関係だった。
 けれど、今はそれに付け加えて。
「〜〜〜〜〜」
 タオルを頭からかぶって、エドワードは声にならない呻きをこぼす。
 嫌なわけではない。
 決してそうではないが、しかし、一体自分はどう振舞えばいいのか。
 しかも、自分一人ではなく、アルフォンスまで一緒にいるというのに。

「───いや、一人の方がまずいか」
 そう呟いた時。
「何がまずいのかね」
 完全に独り言のつもりだった言葉に、答える声が聞こえて、文字通りエドワードは飛び上がる。
 慌てて振り返ると、いつの間に戻ってきたのか、今のドア付近にロイが立っていた。
「え、あ、何でも……っ」
 上ずった声で言っても、説得力などあるはずがない。
 相手の口元に面白そうな笑みが浮かんでいるのを見て、エドワードは、ちくしょうと思いながら心の中で身構える。
 よりによって、自分から揶揄のネタを振ってしまったのは、失態の極みというべきだった。
 ───けれど。
「髪は乾いたか?」
「──あ、うん……。あとちょっと……」
「それなら最後まできちんと乾かしなさい。本は逃げないから」
「……うん」
 ロイはそれ以上言わず、アルフォンスが使ったタオルを片付け始める。
 肩透かしを食らわされたエドワードは、その背中を少しだけ呆気にとられて見つめた。
 そうしてロイは、濡れたタオルを持って出て行き、すぐに戻ってきて。
 自分の方を振り返ったままのエドワードの表情を見て、小さく笑んだ。

「何もしないよ」

 どういうこと?、とエドワードは思う。
 ロイの言葉は短すぎて、意味を捉えることができない。
 だが、ロイはエドワードを惑わせたままにはしなかった。
「君が望まないことはしない。君は今日、そういうことのために来たわけじゃないだろう?」
 ここにやってきたのは蔵書を見るためだろう、と暗に言われて、エドワードは反射的にうなずく。
 その通りだった。
 蔵書の持ち主に会いたくなかったという意味ではない。けれど、今日に限っては、それは二の次であることは間違いなくて。
「だったら、私のことは気にせずに書斎に行きなさい。初志は貫徹するものだ」
 穏やかにそう言う男を、エドワードは不思議な気持ちで見上げる。

 ───前回、一緒に食事をした時もそうだった。
 二人の関係に新たな一項が加わって以来、時々ロイは、こんな台詞を口にする人間だったのか、とエドワードを戸惑わせることを言う。
 だが、不快ではなかった。
 今も、何故彼がこんな風な言葉を吐くのか、正直なところよく分からない。
 けれど、それでも自分の意志や感情を尊重してくれているのだということは朧気に感じられて、ほのかに胸が痛くなるような、それでいて甘くむず痒いような感覚が込み上げる。

「──うん…」
 どんな表情をすればいいのか掴み切れないまま曖昧にうなずき、エドワードは立ち上がった。
 濡れた髪も、暖炉の熱によってほぼ乾いていた。冷えて痛んでいた体の方も、もうぽかぽかと温まって何も辛くない。
 毛足の長いカーペットを、ずぶ濡れになったブーツの代わりに借りたスリッパで踏みしめながらロイに歩み寄り、借りていたタオルを渡す。
「ありがと、大佐」
「ああ」
「書斎は、あっち?」
「案内するよ」
 廊下へと誘われながら、エドワードは箱のような部屋の特徴のないクリーム色に塗られた壁を、ふと、見るともなしに見やった。

 ───もう無くなってしまった家のリビングと廊下の壁には、綺麗な薄いグリーンに花模様の散った壁紙が貼ってあった。
 自分の寝室は、青いストライプの壁紙で、アルフォンスの部屋は、お揃いの緑のストライプ。
 古い家だったけれど、いつも綺麗に磨かれていて、そして不思議に温かかった。
 ───それは、きっと。

「この家、ずっと住んでんの?」
 込み上げかけたものを押さえ込んで、エドワードは問いかける。
「そうだな。中佐に昇格した時からだから、かれこれ……五年くらいか。結構長く居るな」
 最後の一言は少しばかり意外そうな響きで、彼自身、改めて振り返って、過ぎた歳月に感心したのか驚いたのか、それだけでは判別が付かなかった。
「ここだよ」
 そしてロイは一つのドアの前で立ち止まり、軽くノックして、入るよ、と中に声をかける。
 それからドアを開けて立ち位置を譲り、漆黒の瞳に呼ばれるままにエドワードは書斎の入り口へと立って。
「うわ……」
「あ、兄さん。すごいでしょ、大佐の蔵書」
 居間と変わらないほどの広さの部屋は、三方の壁全てが書架で、上から下まで本が詰め込まれている。更に、そこに納まりきらない本が、書架の前の床やソファーの片隅にまで積まれていた。
「すっげえ……」
「私の唯一の財産だ」
「……これ、引越しする時、大変じゃねぇの?」
「それは言わないでくれ。正直な所、私も移動の辞令が来たら、どうしようかとは思っているんだ」
「はー……」
 呆れるような、感心するような、何とも言えない気分でエドワードは、もう一度目の前にそびえる書架を見上げた。
「これ、全部見てもいいのか?」
「読んだ本は元の所に返すルールさえ、守ってくれれば問題ない。こんな有様だが、一応、何がどこにあるかは把握してるんでね。まぁ、いくら君たちでも今日一日で読破するのは無理だろうが」
「そりゃ無理だろうけど、でも大佐、ありがとな。すげーよ、個人でこれだけの蔵書持ってるなんて」
 振り返り、告げた謝辞は、エドワードにしては珍しく掛け値なしの本音だった。
 高揚してきらめく琥珀の瞳の色から、それを読み取ったのだろう。ロイもまた、穏やかに返す。
「私は向こうにいるから、何かあったら呼んでくれればいい。食事の時間になったら、呼びにくるから」
「ああ」
「お世話かけますー」
 そうして、借り物のスリッパが歩きにくいのももどかしく、書架に駆け寄ったエドワードは、背後でロイが苦笑しながらドアを閉めたことにも気付かなかった。









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