街灯のある場所は避けて車を停めてはいるものの、大都会の夜は、真の暗闇とは無縁で、地上からの明かりに上空の雲は薄ぼんやりと光っている。
そんな薄闇の中、銀次は静かに目をまばたかせた。
今日もまた仕事も金もなく、もう寝てしまおうとスバル360のシートを大きくリクライニングさせてから、もう随分と時間が経っている。
なのに、銀次がまだ起きているのは、今夜は雨が降っているからだった。

とはいえ、決して銀次が繊細なタチというわけではない。それどころか、普段は台風が直撃しようと平気で眠ってしまって、容易に起きないタイプである。そのあたりの図太さ、あるいは呑気さは、銀次を知る誰もが認めるところだ。
けれど、そんな銀次でも、どうしても眠れない──寝つけない天候が一つだけあって、それが今夜のような、しとしとと振る雨だった。

昼過ぎから降り出した雨は、小雨となって、今もひそやかな雨音で狭いスバル360の車内を満たしている。
その音を聞きながら、銀次はそっと隣りの運転席を見やった。
同じようにシートをリクライニングさせた蛮は、首筋の後ろに回した自分の腕を枕に目を閉じている。
だが、相棒もまた眠ってはいないことを、銀次は知っていた。
詳しい理由を聞いたことはない。けれど、蛮もまた、何か理由あって静かに降る雨を嫌っているのは、コンビを組んでしばらく経った頃に気付いたことだった。

「────」
銀次は目を向けた時と同じように、静かに目を逸らして、フロントガラスの向こうの都会の夜にひそかにきらめく水滴と、スバル360の天井を見つめる。
それからゆっくりと目を閉じても、やはり雨音は遠ざかることもなく、すぐそこにあって。
目を閉じたまま、否、この雨音は自分の中から聞こえているのだ、と銀次は考える。
静かに、ひそやかな音を立てながら、心の中に冷たい雨が降り注いでいるのだ、と。
もう何ヶ月も、何年も。
いつの頃からか・・・・・もしかしたら、一番最初から降っている雨は、いつになっても、こうして誰よりも大切だと思える人を見つけて、その隣りにいても、やむことがない。
どこまでも冷たく、銀次の心を濡らし続けている。
いま聞いているのはその雨音だ、と銀次はひどく寂しい気持ちになって目を開ける。

いつもは忘れているのだ。
自分の中に雨が降っていることも、その冷たさも。
蛮が隣りにいる限り・・・・・蛮の声を聞いて、蛮の体温を感じていれば、そんなことは忘れていられる。
これまで誰と居ても消えることのなかった雨音が、蛮といる時だけは聞こえなくなり、代わりに蛮と一緒に居られて嬉しい気持ちや楽しい気持ちが、心に一杯にあふれるのだ。
けれど、こんな雨の音に包まれた夜だけは、遠くなっていたはずの寂しい音が戻ってきてしまう。
それだけは、どうしても逃げることができない。
「・・・・・・・・・・」
目の前のフロントガラスを音もなくきらめきながら滑り落ちてゆく水滴は、これまでに失ってきた沢山の大切なもののように見えて、込み上げた寂しさとも悲しさとも付かない想いに銀次は唇をかむ。
だが、すぐ隣りで蛮が起きているのに溜息をつくわけにはいかず、銀次はただ、フロントガラスからまなざしを逸らして目を伏せた。

その時。
自分のものではない溜息が聞こえ、驚いて銀次は隣りを見る。
すると、淡い雨明かりの中で今は昏い色をした蛮の瞳が、銀次を見つめていた。

「蛮ちゃん・・・・?」
小さく名を呼ぶと、蛮はもう一度、銀次を見つめたまま小さな溜息をつく。そして、左手を伸ばしてくしゃりと銀次の髪を撫でた。
「もう寝ちまえ」
「蛮ちゃん」
低い声に、銀次はまばたきをして蛮の深い色をした瞳を見つめる。
そこに浮かぶ感情は、銀次には読めない。だが、彼なりに自分を気遣い、心配してくれているのだということは理解できた。
「・・・・うん、そうだね。そうするよ」
心の深い部分から滲み出てきて、広がってしまった寂しさは、即座には消えない。けれど、大きな手に触れられた部分から、消えない雨音がやはり遠くなってゆくのを感じて、銀次は微笑む。
そして素直に目を閉じようとした時、不意に蛮が身動きして年代物のシートが小さく軋んだ。
何かと目を開いた銀次は、至近距離に蛮の瞳を見つけて少しだけ驚き、けれどまたすぐに目を閉じる。
それから1秒も待たないうちに、ひどく優しい温もりが唇に触れた。
その瞬間。

───雨音が聞こえた。

自分のものでは決してない、けれど自分のものとよく似たやるせなく物悲しい、ひそやかな音を感じながら、銀次は触れるだけで離れていった温もりを追うように目を開ける。
すると、目の前の、相変わらず感情を読ませない瞳が、いつもより少しだけ切ないように思えて。
「──もう一回してよ」
あえて甘えるように銀次はねだった。
「超過料金取るぞ」
「それくらい、いいじゃん。蛮ちゃんのケチー」
わずかに目をみはった後、いつもの笑みを口元に浮かべた蛮に、銀次は手を伸ばす。
催促するように蛮の首筋に両腕を回すと、
「俺は金にならねーことはしない主義なんだよ」
軽く笑って憎まれ口を叩きながらも、蛮は助手席のシートの肩の部分に手をかけて、もう一度銀次に口接けた。

蛮のキスは、いつも容易く銀次の体温を上げる。
けれど、先程よりもずっと深いキスは、ただ優しいばかりで。
──蛮ちゃん・・・
少しでも自分の想いが伝わればいいと、銀次は精一杯に愛撫を返す。
そして、ゆっくりと離れていく感触を惜しみながら目を開け、しばらくの間、すぐ側にある深い色の瞳を見つめた。

これだけ近いと、淡い雨明かりの中でも、蛮の瞳の紫を帯びた暗い青が見分けられる。
銀次の一番好きなその色の中に、もう先程までのやるせなさは薄く透き通ってまぎれ、分からなくなっていた。
代わりに時々浮かぶ優しい色が、ほのかに滲んでいて。
触れたところから響いていたひそやかな雨の音も、まるで薄い幕が下りたように小さく遠ざかったのを感じて、銀次は微笑み、蛮の背に回していた腕をほどいた。

「明日は晴れるだろうからよ」
もう寝ろと、くしゃりと銀次の髪を撫で、元通りに運転席のシートに身を沈める蛮を目で追いながら、銀次はうなずく。
「うん。おやすみ、蛮ちゃん」
「ああ」
その声に安心して、目を閉じる。
車に降る雨のかすかな音も、もう気にならない。
心の中の雨の音も、もう聞こえない。

明日の朝は晴れていますように、そして、蛮ちゃんの心の中に降る雨もいつかやみますようにと祈りながら、優しい気配に包まれて、銀次はゆっくりと眠りに落ちていった。






End.










少し分かりにくかったでしょうか。
蛮と銀次は、一番幸せな部分でも一番哀しい部分でも繋がっている、ということを考えながら書いてみました。
それも下書きは、仕事中の暇な時にこっそり、がりがりと。(いや、本気でやることがなかったんです、その時は。忙しい時は超真面目に働いてます)
静かに降り続く雨と、祈り。
このサイトのテーマでもあり、私の蛮銀の核となるテーマでもある作品です。






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