※ピアノ奏者×大学生
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My one and only love

 ああ、来たな。
 ピアノの鍵盤に指を走らせながら、静雄は背後で確かにドアが開閉する音を聞いた。
 どうせ今夜も、店のフロアの隅にあるテーブルについて、こちらを見つめているんだろう。臨也はそういう奴だ。
 大して飲めもしないくせに、通っぽくギネスを頼んでみたりして。
 本当に馬鹿だ。
 そう思いながら、スタンダードの「my one and only love」をアドリブを交えながら弾き続ける。
 空気に溶けるような甘く澄んだメロディーは、自分には多分、似合わない。だが、最近はこの曲が好きだった。
 続いて、「After you're gone」、「Too late now」とバラード調の曲ばかり選んだのは、今夜が雨だったからだ。雨の夜には気だるい音が似合う。その見解は、雇い主であるこのジャズバーのマスターとも一致していた。
 約二十分間、六曲ばかりを休みなく弾き終えて、静雄は鍵盤から指を離し、椅子から立ち上がって一礼する。
 そしてバーテンとしてカウンター内に戻る前に、レストルームへと向かった。

 小さくて年季の入ったジャズバーは、高校卒業直後からの静雄の職場だ。
 そろそろ還暦のマスターはアルトサックスを吹かせれば中々のもので、ピアノ弾きの静雄とは時折セッションをしたりもするが、それ以外は温和で寡黙で、親切な雇い主だった。
 ジャズピアニストとして生きてゆくなんて、普通はできはしない。腕があっても、運がなければメジャーデビューなど不可能だ。
 だが、それでも静雄は、好きなピアノをただ弾いて、後は困らない程度に食べて行ければ良かった。だから、高校時代の通学路にあって、ずっと気になっていたこの店のドアを卒業と同時に叩いたのだ。
 小さな店だから、給料など大して出ない。だが、ここに居れば、週三回の生演奏を含めて思い切りピアノが弾ける。それだけで十分に幸せだった。
 少し前までは。

「シズちゃん」

 レストルーム手前の壁に背を預け、煙草に火をつけたところで、しんと響く声がかけられる。
「今夜は遅かったな」
「レポートの締切が明日までなんだよ。でも仕上げてきたから」
 閉店まで居られる。
 そう言いながら、高校時代の元同級生はゆっくりと近づいてきた。
「明日も学校なら、さっさと帰れよ。大学生」
「その言い方、やめてよ。君が勝手に進学をやめたんじゃん。俺が大学生なのは、俺が悪いんじゃない」
 本気で嫌そうに顔をしかめながら、臨也は静雄をなじる。
「特進クラスで、俺とトップ争いしてたくせに……」
 そう言う臨也の目は、ひどく悔しげだった。
 その光に透けると紅く見えるセピアの瞳に、静雄は溜息をついて、火の付いたままだった煙草を傍らの灰皿で揉み消す。
「仕方ねぇだろ。大学に行ってやりたいことなんざ思いつかなかったんだって、何度言わせる」
「何度だって。受験当日にすっぽかされた俺の気持ちは、シズちゃんには分からないよ」
「すっぽかした俺の気持ちだって、お前は分かってねぇだろ」
「そんなの、分かるわけない」
 その台詞は、分かりたくない、と聞こえた。
 泣きそうにうつむいた臨也の頭を見つめて、ああ、と静雄は溜息をつく。
 高校を卒業して、もう三年だ。だが、臨也はまだ静雄を許そうとはしない。その証拠に、この店に足を踏み入れるまで卒業してから二年と半年以上かかった。
 けれど。
「でもお前、俺のピアノ、好きだろ」
「それとこれとは別問題だよ。それに俺、君のピアノが好きだなんて一度も言ったことない」
「その割には、俺の演奏時間には絶対、来るよな」
「お酒呑みに来てるだけだよ。シズちゃんのピアノのためじゃない」
「my one and only love」
「? 何?」
「今日、一番最初に弾いた奴。お前が入ってきた時に弾いてたの、聴いただろ」
「ああ、あれ。シズちゃん、あの曲好きだよね」
「最近な。ちょっと前までは、あんな甘ったるい曲は弾かなかった」
「……それって、どういう」
「分かれよ」
 眉をしかめて問いかけた臨也に対し、顔を傾けて、その薄い唇をついばむ。
 触れるだけで離れると、驚きに目を見張った臨也は、すぐにその目を眇めた。
「キスでごまかそうっての?」
「そんなんじゃねぇよ」
 したかったから、しただけだ。それにもう休憩時間も終わっちまう。
 そう告げると、また臨也は悔しそうに顔をしかめる。
「シズちゃんなんて、本当に嫌い」
「そうかよ」
「嫌い。いっそ手に怪我でもしちゃえばいいのに」
 そんな風に言いながらも、臨也は静雄の手に自分の手を触れさせて、ピアニストの長い指をぎゅっと握った。
「臨也」
 ひどく辛そうなその顔に、静雄の心臓もぎゅっと痛む。
 だが、それでもあの大学受験の日、静雄はピアノしか選べなかった。その時に臨也の顔が脳裏にちらつかなかったといえば嘘になるし、今だったら、もう少し違った選択肢もあるかもしれないと思うが、時間を遡ることはできない。
「臨也」
 もう一度呼べば、臨也はのろのろと顔を上げる。
 その紅く透けるセピアの瞳としっかり目を合わせ、それから静雄はそっと顔を寄せた。
 回数にしてまだ三回目の、ぎこちなく触れるだけのキスを交わして、ゆっくりと離れる。そして、綺麗に生え揃った睫毛を震わせるようにして、臨也が目を開くのを待った。
「マジで閉店まで居る気なら、一人で帰んなよ」
「……俺、男だし。気を使われる筋合いないんだけど」
「馬鹿。俺が傘持ってねぇんだ。入れてけ」
「は? またなの? 世の中には天気予報っていうものがあるの知ってる? 今日は夜は雨だって言ってたじゃん」
「俺が家を出た時には降ってなかった」
「馬鹿? 本気で馬鹿なの? 高校時代から何回目だよ」
「数えてるわけねぇだろ」
 下校時間までに雨が降り出したら、臨也の傘に入れてもらう。それは高校時代の無言の約束のようなものだった。
 そうして三年間、自分たちはあの学び舎で過ごしたのだ。諍い、喧嘩し、時には笑い合いながら。
「ったく……ちょっとは進歩しなよね」
「必要ねぇだろ。お前が居るんだしよ」
「俺はシズちゃんの傘係じゃない!」
「似たようなもんだろ」
 時が過ぎ去ってしまった以上、あの頃には戻りたくとも戻れない。
 だが、二年余りの時を経て、また臨也はここに──静雄の隣りに居る。どれほど現状に不満を持っているのだとしても。
 だったら、これ以上何を望むことがあるだろう。一旦は失くしたと思ったものが戻ってきた。それだけで静雄としては十分だった。
 唇の端だけで笑って、静雄は臨也の頭に片手をぽんと置く。そして、わしゃと一撫でして店のフロアの方へと歩き出した。
「シズちゃん!」
「明後日は遅れてくんなよ。きちんと頭から聴きやがれ」
 そう告げれば、背後で臨也が何やらわめく。
 だが、静雄はもうそれを聞きもせず、口元に小さな笑みを浮かべたまま、カウンター内に戻った。

End.

おろ様に教えていただいたシズイザったーより、次のようなお題をいただきました。
「ピアノ奏者な静雄と大学生な臨也が、トイレでぎこちなくキスをするシズイザなんてどうでしょうか?」
ピアノ大好きなので、実に美味しかったですvv

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