07 プレゼント

 鍵穴に差し込んだ鍵を回すと、がちゃりと金属質の音がする。
 ドアノブに手をかけ、完全に錠がかかったことを確認してから、臨也は鍵をいつもの通り、コートのポケットにしまって静雄のアパートを後にした。
 建物の影から出ると、途端に眩しい初夏の陽射しが目を射てくる。目を細めてビルの隙間から覗く上空を見上げれば、雲一つない快晴だった。
 さて帰ろう、と駅に向かって歩き出す。
 今日も東池袋の街は賑やかで、この辺りの道は人通りが少なくとも、林立するビルの向こうからは表通りの喧騒が混然と響いてくる。
 その都会特有の賑やかさを楽しみながら悠然と街を歩き、静雄のアパートから駅までのほぼ中間地点に差し掛かったところで、臨也はよく見知った人影を見つけ、目をまばたかせた。
 コンビニの前で、手持ち無沙汰そうに煙草を吸っている金髪バーテン服にサングラスの男。
 真昼間からこんな服装をしている怪しげな男を、臨也は他には知らない。
「シズちゃん?」
 通り道だったこともあり、何とはなし歩み寄って声をかければ、静雄もこちらに気付いて顔を向けた。
「なんだ、今から帰るのか」
「うん。シズちゃんは何してんの? 仕事中だろ?」
「ああ。トムさんとヴァローナ待ってんだよ。さっき回収した金額がでかかったから、一旦事務所に二人で戻ってもらって、その間、俺は自分とトムさんの分の煙草の買出しっつー話だ」
「ふぅん」
 つまりは、ここで待ち合わせているということなのだろう。納得して臨也はうなずいた。
「──あ、野菜炒め食べたよ。食パンも一枚もらった」
「おう」
 きちんと食事をしたと伝えると、心なしか静雄の表情が満足げになる。
 朝言われた通り、電子レンジで温め直して食べた野菜炒めは、野菜がしんなりしてしまってはいたものの十分に美味しかった。
 野菜もベーコンも、その辺のスーパーで買っただろう廉価品であり、有機栽培物ではないが故のえぐみや添加物の味を多少なりとも舌先に感じた。だが、それが気にならなかったという時点で、自分のいかれ具合がどれ程のものであるのか良く分かる。
 そんなことはないと口先でどれほど否定したところで、綺麗に空になった皿が全てを物語っており、食後のお茶を啜りながら思わず溜息をついてしまったのは、これまた静雄には言えない秘密だ。
「でもさぁ、なんで飲み物が煎茶しかないわけ? 朝御飯を作ってくれたことには感謝してあげてもいいけど、どうせならコーヒーも用意しておいてよ。インスタントじゃないやつ。煎茶はそこそこいい葉っぱだったけど、トーストの後に煎茶って違うでしょ」
「俺はコーヒーは好きじゃねえ」
「だったら、大好きな牛乳たっぷり入れてミルクコーヒーにでもすればいいだろ。というわけで、次からはコーヒー豆とミルとドリップ式のポットの用意よろしく。あ、コーヒー豆は深煎りね。俺、酸味強いの嫌いだから」
「知るか」
 案の定、渋面になる静雄に臨也は、あははと笑う。
 二人きりの部屋で味わう穏やかさは勿論かけがえのないものだったが、自分たちはやはりこうでなければ調子が狂うというものだった。
「じゃあ、俺は行くから」
 またね、と行きかけて。
 臨也はふと、コートの右側のポケットの中で指先に触れる金属の感触を思い出した。
(──あ、)
 どうしよう、と一瞬迷い、思い切ってそれを掴む。
 おそらく、今が最良のタイミングだ。これを逃したら、次の機会がいつになるか、この男相手では知れたものではない。
 僅かな時間にそう決断した臨也は振り返り、静雄の目にも良く見えるよう、それを胸の高さにかざした。
「シズちゃん」
「ん?」
「忘れてた。これ、返すよ」
「──あぁ?」
 きょとんとした静雄だったが、その金属が何であるのか気付いたのだろう。
 同時に臨也の言葉の意味も理解したらしく、穏やかだった表情が急速に地獄の羅卒のものに変じてゆく。
「それ、うちの鍵だろ。それを返すたぁ、どういう意味だ。臨也君よぉ」
 聞き慣れた低い声で凄まれたが、そんなものに動じたことなどこれまで一度もない臨也である。平然と肩をすくめて見せた。
「なんで怒るわけ? そもそも俺は二ヶ月前、君から『鍵はテーブルに置いとくから』としか言われてないんだけど? それを鍵をかけて出て行けってことだと解釈して、きちんと鍵をかけて、これをその辺に捨てずにきちんと持ち帰ってあげた俺に対してさ、その物言いはないだろ。平伏抵当して感謝するんならともかく、そんな風に凄まれる謂(いわ)れはないよ」
 まあ俺も二ヶ月間、返し忘れてたけどさ、と立て板に水の勢いで、丸っきりどうでも良いことのように続けるうちに、怒りに染まりかけていた静雄の表情が徐々に困惑へと変わる。
 そして、何やら難しい顔で臨也と鍵を交互に見つめていた静雄は、やがて何かを理解した表情で溜息をつき、後ろ髪をがしがしとかき上げた。
「──あー、分かった。ったく、面倒くせぇなぁ」
 舌打ちをしながら、静雄はずいと右手を差し出す。
「寄越せ」
 ちょい、と上に向けた指先で催促されて、臨也は、静雄がどう動くつもりなのか疑い半分期待半分ながらも、手にしていた鍵をゆっくりとその指先へと載せた。
「────」
 手元に戻ってきたアパートの鍵を、静雄は渋い顔でしげしげと見つめる。
 それから、もう一度溜息をついて、臨也へとまなざしを向けた。
「ノミ蟲、手を出せ」
「そんな言い方されて、俺が素直に出すと思う?」
 この期に及んでノミ蟲呼ばわりか、と馬鹿にし切った目つきで言い返せば、静雄の表情は苛立ちを交えて更に苦くなる。
「ノミ蟲はノミ蟲だろ。どんだけ面倒くせぇんだ、手前はよ」
「俺のどこが面倒だって言うのさ。こんな正直な人間は他に居ないよ? シズちゃんのことなんて、昔っから大っ嫌いだし大っ嫌いだし大っ嫌いだし。そういう俺を面倒くさいと感じるシズちゃんの感性に問題があるだけじゃないの?」
「いいから、手を出せっつってんだ、馬鹿ノミ蟲」
「だから、誰がノミ蟲だって……!」

「臨也」

 はっきりとした発音で名を呼ばれて。
 臨也の罵詈雑言が途切れる。
「いいから、手を出せ。手前が怒ってんのは分かったからよ。あー、どっちかっつーと拗ねてんのか」
「──誰が…」
「手前。でもって、呼び方がノミ蟲だろうが臨也だろうが、俺は手前を呼んでんだ。文句言うんなら、手前こそシズちゃん呼ばわりをやめろ」
「シズちゃんはシズちゃんだろ」
「だったら、手前もノミ蟲はノミ蟲だ。いいから、手を出せ。臨也」
「君なんかと一緒にしないでよ」
 腹立ちが収まったわけではないが、このまま押し問答をしていても仕方がないことは分かっている。
 静雄を睨みながらも、渋々右手を出すと、ずい、と鍵を差し出された。

「この鍵は手前にやる。いつでも好きな時に来い」

 やっと聞けたその台詞に。
 臨也は表情を動かさないようにするのがやっとだった。
「──まあ、そう言うんならもらってあげてもいいけど。悪用されたって後で騒がないでよね」
「うぜぇ。いいから黙って受取りやがれ」
 ぐいと手のひらに銀色の鍵を押し付けられる。臨也はそれを無関心を装ったまなざしで見つめた。
「そんなにコレ、俺に持ってて欲しいの?」
「持ってろ」
「ふぅん」
 いかにも気がなさそうに応じ、それから手のひらの鍵を指先に持ち替えて、反対側の手でコートの内ポケットからキーケースを取り出す。
 本革のカバーを開けて空いている金具の一つを選び、静雄のアパートの鍵をそこに引っ掛け、指先を離すと、鍵はちゃりんと金属質の音を立てて、他の鍵達の間にしっくりと収まった。
 ほんの三秒ほどの間、その光景を見つめて、臨也はキーケースを元通りに内ポケットにしまう。
 そして、一連の動きを見守っていた静雄へとまなざしを向けた。
「はい、これで満足?」
「おう。それ、俺が引っ越すまで外すなよ」
「あ、そう。やっすいね、シズちゃん」
 合鍵を俺に渡したくらいでそんなに喜ぶなんて、と臨也はでき得る限りの嫌味を込めて、静雄に微笑みかけた。つもりだった。
「じゃあね、シズちゃん。せっかくもらった合鍵、せいぜい俺なりのやり方で活用させてもらうからさ、期待しなよ。後から返せって言っても知らないから」
「……おう」
 心なしか静雄の返事にいつもの力がない感じがしたが、気にするほどの違いがあるわけでもない。
 それに、この場に長居しているとボロが出て、表情を取り繕い切れなくなりそうな予感もあったから、まぁいいかと臨也は踵を返し、駅に向かって歩き出す。
 そして歩きながら、我慢できずに内ポケットをコートの上からさりげなく押さえた。
 いつもと同じキーケースの感触。
 だが、この中には今朝までなかった鍵が一つ、増えている。代わりに、ポケットの中には、もう小さな金属の感触はない。
「くれるのが遅いんだよ、朴念仁」
 小さな声で詰(なじ)る唇が、自然に笑みの形にほころぶのが自分でも分かる。
「ホント、どうしようもないよね、シズちゃんは」
 実に久しぶりに、心の底からの愉悦を込めて呟き。
 それきり振り返らず、臨也は足早に池袋の駅前の雑踏の中にまぎれた。


 ───そこで振り返っていれば、また少し状況は変わっていただろう。
 だが、臨也は振り返らなかった。
 だから、気付かなかった。
 臨也がその場を立ち去ってから、きっかり十秒後、静雄がその場にしゃがみこんだことに。
 彼にしては珍しく、耳元まで赤くして呟いたことに。

「……なんで合鍵渡したくらいで、あんな嬉しそうな顔するんだっつーの……。反則だろ、馬鹿ノミ蟲……」

 その呟きを臨也が知るのは、まだもうしばらく先のことだった。

End.

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