手のひらの幸福

「今日は寄り道しないで帰ってきてね」
 出掛けにそう言われ、静雄は半ば脊髄反射のように、ああ、とうなずいた。
 黒猫のサクラを抱き、猫の手を持って行ってらっしゃいと振る臨也は、いつもと変わらない笑みを浮かべている。つまり、何をたくらんでいるのか読めない顔、だ。
 サクラはといえば、機嫌が良いでも悪いでもない、何をさせられているのか良く分からないといういつもの顔で、じっとこちらを見ている。
 毎朝のことだから、静雄が夜まで帰ってこないということくらいは理解しているかもしれない。だが、猫に『仕事』という概念が理解できるはずもない。
 そんな一人と一匹をサングラス越しに見やり、まぁいいか、と静雄は踵を返した。
「行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
 今、帰宅を急かす理由を尋ねたところで、臨也が種明かしをするとは思えない。
 どうせ、夜に帰れば分かることだ。
 そんな達観した気分でエレベーターに乗り、マンションの外に出る。頭上に広がる空は、今日も初冬らしく青い。
 臨也と暮らし始めて三年半余。色々と悟りを開きつつある静雄だった。




 三年半余、つまり指輪を交換してから二年半を過ぎた今も、二人の仲は平穏かつ順調なものだった。
 小さな喧嘩は日常茶飯事だが、三日以上長引くことはない。先にへそを曲げた方が折れることもあるし、非のない方が広い心で折れて相手の機嫌を取ることもある。
 何しろ毎朝毎晩、顔を突き合わせて暮らしているのだ。二人しかいないのに、居心地を悪くしても仕方がない。
 どうしても素直になりたくない時であっても、猫のサクラをダシにすれば、大抵のことは何とかなる。
 サクラが餌を欲しがってる、構って欲しがってる等々、幾らでも会話をするきっかけを作ることは可能だった。
 そんなわけで、二人と一匹は今も仲良く暮らしている。
 一緒に暮らすということは、昔のCMではないが、つまり毎日同じ顔を見て同じ飯を食うということである。それなのに、不思議に飽きることが静雄も臨也もない。
 いい加減、もう顔も見たくないと思っておかしくないのにね、と臨也が首をかしげていたのは今年の五月のことだ。
 臨也の誕生日祝いと結婚記念日を兼ねて、二人で少しばかり手の込んだ料理を作り、ワインを傾けている最中にそんな話題になった。
 臨也曰く、俺の性分からしたらとっくに飽きてていいのになぁ、ということだったが、静雄にしてみれば今更何を、としか言いようがなかった。
 確かに一緒に暮らし始めてからは三年かもしれないが、その前にはおよそ十年に及ぶ時間が横たわっている。それこそ人生の半分近くを占める時間がだ。
 たかだか三年一緒に暮らして飽きる程度の存在であれば、それこそ高校を卒業した時点で縁が切れていただろう。
 けれど、そうはならなかった。
 互いに忘れてしまえたらと思いつつ、相手には自分のことを忘れるような怠惰な真似を許さなかった。
 その結果が今、この平穏で幸せな日々なのだ。
 今更飽きてたまるか、勿体ない。
 静雄が半ば憮然としてそう口にすると、臨也はきょとんと首をかしげた。
 ――勿体ないって、俺が?
 ――お前も、今までの時間もだ。
 そんなやりとりを臨也はきょとんとしたまま交わし、それから破顔した。
 本当に馬鹿だねえ、シズちゃん。
 そう言った臨也の声のやわらかさを、花が咲いたような笑顔を今もまだくっきりと覚えている。
「馬鹿はお前だろうが」
 こんな自分の言葉一つで心底嬉しそうな顔をする。そんな存在が世界に一体何人いるだろうか。
 臨也一人だとは言わない。家族もいるし、友人や良き先輩後輩もいる。
 だが、静雄にとっての一番は、間違いなく臨也だった。
 笑ってくれるだけで嬉しい。傍に居るのを見るだけで心が満ちる。
 そんな相手が毎日隣りに居て、笑っていてくれるのだ。どうして今更飽きたりなどするものか。
 第一、未だに次から次に何かしらのことを仕掛けてくる相手に、どうやって飽きろというのか。
 今日だってそうだ。臨也のことだ。きっとまた、しょうもないことを企んでいる。あの笑顔はそういう顔だ。
 かつてのような悪辣な計画ではなく、思わず呆れてしまうような笑ってしまうような、そんな悪戯を飽きもせず仕込んでいるのに違いない。
 もっとも、それにいちいち付き合う自分もまた、馬鹿には違いなかったが。しかし、それについてはもう開き直っている。
 好きなものは仕方がないのだ。
「とりあえず、今日も頑張って働くか」
 空を仰ぎ、一つ息をついて。
 気持ちを切り替え、静雄は職場へと向かったのだった。




     *     *




「シズちゃん、遅いねえ」
 アイフォンを弄りつつ、臨也はサクラに話しかける。
 黒猫はソファーに腰を下ろした臨也の膝に上半身をかけ、香箱座りをしている状態だった。機嫌よく喉はごろごろとなっている。
 この一ヶ月ですっかり冬毛になった毛皮は、撫でるとフカフカの感触だった。
「寄り道するなって言ったのに」
 おそらくは仕事が長引いているだけなのだろうが、臨也にしてみれば、早く帰ってこないという一点で寄り道しているのと何ら変わりない。
 夕飯は外で食べるというメールがあったから予想はしていたが、実際に九時近くになってもまだ帰ってくる気配がないとなると気持ちは素直に焦れた。
「せっかくいいもの届いたのになぁ」
 ちらりとダイニングキッチンを見やって溜息をつく。
 そんなことを何度繰り返しただろうか。
 うたた寝に入っていたサクラが不意に耳をぴくっと動かし、立ち上がった。
「あ、シズちゃん帰ってきた?」
 人間よりもはるかに鋭い聴覚を持つサクラは、静雄や臨也には聞こえないエレベーターのモーター音をも聞き取るらしい。
 待つこと一分、ガチャリと玄関のドアを開閉する音がした。
「ただいま。悪ぃ、遅くなった」
「おかえり」
 足元にまとわりつくサクラを気にしながらリビングに入ってきた静雄を、仕方がないなぁと臨也は出迎える。
「今から帰るってメールくれればいいのに」
「それほどの距離じゃねえだろ」
「時間が分かってたら、帰ってくるのに合わせてお湯を沸かしておいたんだよ」
「湯?」
「そう」
 こっち、と臨也は先に立ってダイニングキッチンに足を踏み入れる。
 そして、ついてきた静雄にテーブルの上にある四角い箱を指して見せた。
「すっごい美味しいってネットで評判のバウムクーヘン。いつも品切れになってるんだけど、たまたまタイミングが合って注文できたんだよ」
「へえ」
 バウムクーヘン、と聞いて表情を明るくした静雄は、しげしげと箱を見下ろす。
「時間遅いけど、明日にするの嫌だから食べるよ。シズちゃんはコーヒー入れて、牛乳も温めて。俺はこっちの準備するから」
「おう」
 体重を維持したい臨也としては、本当は深夜にはあまりものを食べたくない。食べたところでろくに肉はつかない体質だが、そういう問題ではないのだ。
 腹が出た自分なんて想像したくもない。だが、三十代に差し掛かれば、何もしなければ代謝は落ちる一方である。だからジムにも通い、一定の努力はしている。
 しかし、四角四面にはゆかないのが人生だ。
 たまの深夜に甘いものを食べたからといって、即、体重増加に繋がるわけではない。大事なのは美味しいものを美味しくいただくことだと割り切って、臨也は箱を空け、綺麗な焼き色のバウムクーヘンを取り出した。
 卵の香りがふわりと立ち上るそれをナイフで適度な大きさに切り分け、更に説明書きにあった通りにオーブントースターと電子レンジにそれぞれ二切れずつ入れる。
 そして、それぞれがチンと鳴ったところで取り出して皿に並べた。
「焼いたのと、あっためたのと、そのまま?」
「そう。触感の違いが楽しめますって書いてあったから」
「へぇ」
 感心したようにうなずく静雄に笑い、臨也は静雄がドリップし終えたコーヒーと、ミルクパンのホットミルクをそれぞれ右手と左手に持ち、マグカップに注いでカフェオレを完成させる。
 静雄がそれをテーブルに運び、準備は整った。
「はい、じゃあ食べよ」
「おう」
 いただきます、と手を合わせて二人はフォークを手に取り、バウムクーヘンに突きさす。
 そして、
「――うめぇ!」
「美味しいねぇ。ネットでの評判は伊達じゃないってことだな」
 異口同音に唸った。
「このあっためたの、すげぇふわふわだ」
「こっちの焼いたのも表面がさっくりして美味しい。いいね、これ」
 ゆっくり食べようと思っても、すいすいとフォークが進んでしまう。三切れずつのバウムクーヘンは、あっという間に二人の皿から消えてなくなった。
「なぁ、おかわりは……」
「ダーメ。残りはまた明日。一気に食べたら、あっという間になくなっちゃうだろ」
「新鮮なうちに食った方が美味いだろ」
「駄目」
 きっぱりと言い切って、臨也は皿とフォークを積み重ねてしまう。そして、マグカップを手に取った。
「本当に美味しいかったね」
「……おう」
 絶対にもうおかわりはないということを悟ったのだろう。やや不服そうな顔をしながらも、静雄もマグカップを手に取る。
 そして二人は、しばらくの間、無言で熱いカフェオレを啜った。
「なぁ」
「何?」
「明日はあっためたのばっかりで食いてぇ。あれが一番美味かった」
「いいよ」
 真剣な面持ちで言う静雄に、臨也はくすりと笑う。
「気に入った?」
「おう。また買ってくれ」
「上手くタイミングが合ったらね」
 答えながら、良かった、と思う。
 一番最初にネットで評判を見かけた時から静雄が好きそうだと思っていたのだ。
 静雄はどちらかというと、凝ったケーキよりも、こういう昔ながらの味のケーキを好む傾向がある。
 プリンにショートケーキにシュークリームにドーナッツ。勿論、バウムクーヘンもその例に漏れない。
 だから反応は予測できていたのだが、それが現実になるとまた嬉しさはひとしおだった。
「クリスマスのケーキもそろそろ予約しなきゃね。今年はどんなのがいい?」
「イチゴが載ったやつ」
「即答?」
「クリスマスケーキっつったら、白いクリームに赤いイチゴだろ」
「ああ、はい、そうだね」
 きっぱりと言い切る静雄に臨也は微苦笑する。
 思えば去年もこんな会話を交わした記憶があった。平和島家のクリスマスケーキは、イチゴのデコレーションケーキが定番だったらしい。
 臨也自身は特にこだわりはないため、それなら明日にでも伊勢丹に出向こうと思いを馳せる。
「あとクリスマスプレゼントも、リクがあるなら早めに言ってよ」
「それはお前もだろ。何か欲しいもんあんのか?」
「んー、新しいフライパン欲しいかなぁ。ティファールの」
「クリスマスにフライパンかよ」
「それでふっわふわのチーズオムレツ作ってあげるよ?」
 これ見よがしに餌をちらつかせてやると、静雄はぐっと黙る。
「……仕方ねぇな」
「うん。よろしく」
「じゃあ、俺はキーケースだな。一昨日、壊しちまったから」
 それなら、とリクされて臨也は目をまばたかせた。
「あれ、そうなの?」
「ちょっとはずみでな。引きちぎっちまった」
「了解。カッコいいの選んであげる」
「おう」
 やりとりを交わし、またカフェオレを啜りながら、どちらともなく小さく笑う。
 他愛ない日々と、他愛ない会話。
 第三者が見たら何が楽しいのかと思うだろう。
 だが、それでも間違いなく。
「ねぇシズちゃん。今、幸せ?」
「決まってんだろ。違うっつったら殴るぞ」
「だよねー」
 くすくすと笑っていると、不意に静雄が立ち上がる。何かと思って見ていると、テーブルを回り込んだ静雄は、臨也の顎を指先で救い上げ、唇を重ねた。
 触れるだけで離れていった唇を追うように至近距離で目を見交わし、微笑みと共に臨也は静雄に手を伸ばす。
 こちらから仕掛けたキスも、やはりいつもと変わらず甘く。
 くすりと二人は笑い合い、そしてもう一度深く口接けたのだった。

End.

2013年秋のシズイザオフ会ノベルティーSSでした。
御参加下さった皆様、ありがとうございましたヾ(*´∀`*)ノ

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