RAINY CITY  前編

 嫌いだ、と思う。
 考えるだけ、その姿を思い浮かべるだけで、恐ろしく気分が悪くなる。苛々して、何かを傷付けないではいられないような衝動が全身を駆り立てる。
 耐え難い苦痛に似た、何か。
 出会ったその瞬間から、ずっとその何かが自分の中で渦を巻き続けている。
 限界だ、とこれまでに何度思っただろうか。
 嫌いだ、苦しい、消えろ、死んでしまえ。
 そんな言葉を呪うように吐き捨てながら、幾つの季節を越えたのか、もう考えたくもない。
 なのに、無情にも世界は巡り続ける。
 何をどうやっても、あの男の息の根は止まらない。
 どうしても、あの男を消せない。
 この世界からも、自分の中からも。
 どうしたら消えるのか、どうしたら消せるのか、これまで散々に考え続けてきた。もういい加減、許されてもいい頃ではないか。
 もう、何も考えたくない。
 あの男のことなど、もう何一つ感じたくはないのに───…。

 

 馬鹿なことをしている、という自覚はあった。
 体調が最悪なことは、どうにもならない寒気や頭痛、体の重さで嫌でも分かる。一歩一歩、濡れたアスファルトを踏みしめて歩く、それだけのことが恐ろしく億劫で、少しでも気を抜くとふらつきそうになる。
 帰るべきだと分かっていた。
 今すぐ踵を返して、駅前でタクシーを捕まえて新宿まで帰り、アスピリンでも飲んで寝てしまうべきだと理性は訴えかけている。
 もうお前は限界だろうと。
 無様に倒れる前に安全な巣に帰れと、本能が命令する。
 だが、臨也は、それらのシグナルを全て無視し続けていた。
 何故だと問われても分からない。ただ、大人しく従うのが嫌だった。
 それが他人ではなく自分の内なる声であっても、安全な場所に逃げろという命令になど、絶対に従いたくない。そんな言い訳にならない言い訳を、ぼんやりと頭痛と共に脳裏に巡らせながら、ただ歩く。
 しかし、かといって、どこに向かっているというわけでもなかった。
 霧雨の降る中を傘も持たずに、目深にコートのフードを被り、目的地も当てもなく、足に任せて歩き続ける。
 池袋の道は、どんなに細い路地であっても把握しているが、今の臨也は自分が今どこを歩いているのかを全く意識していなかった。その気になれば、現在地など周囲の建物を見るだけで分かるし、表通りに出れば、いつでもタクシーは捕まえられる。
 土地勘があるからこそ、臨也は無防備に、そしていっそ無謀なほどに歩き続けていた。



 そして、幾度目の角を曲がった時か。
「いぃぃーざぁぁーやぁぁーくうぅぅぅん!!」
 地を這うようなドスの聞いた怒声が、正面からいきなり降ってくる。
「池袋に来んなって、一体何度言いや分かるんだぁぁあああっ!?」
 本来は端整な顔に、凶悪に過ぎる青筋を幾筋も引き攣らせながら、平和島静雄が傍らの道路標識を発泡スチロールか何かでできているかのように、たやすく折り取る。
 街灯が遠く灯っているだけの細い路地に、スチールが引き千切られる何とも言えない鈍い音が響く。その様を、臨也は足を止めて、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、他人事のように眺めた。
 ───シズちゃん。
 名前を呼んだつもりだったが、実際には喉から音は出なかった。
 ただ、しっとりと霧雨に濡れたフードの中から、仇敵を見つめる。
 静雄もまた、傘は持っていなかった。後背の街灯に照らされてキラキラと輝く霧雨の中、うっすらと濡れているらしい金髪が光っている。
 その様子を眺め、ああこんな感じか、と思った。
 何がと言われても困るが、ただ、この時の臨也はそう思ったのだ。
 キラキラと輝く霧雨を背景に憤怒の形相を浮かべ、薄金色の髪を街灯に光らせた死神。あるいは鬼神。
 自分を叩き潰し、押し潰そうとするもの。
 禍々しさはないが、圧倒的に危険な何か。
 そんな仇敵の姿を、ただ見つめていた。
 とはいっても、時間にすればほんの数秒の話だ。刹那、と呼ぶのが相応しい時間の間だけ、臨也は静雄を見つめていた。
 だが、それで十分だったのか、あるいは十分に過ぎたのか。
 こちらに向かって加速しながら大きく振りかぶり、薙ぎ払われた道路標識の軌道が、臨也を直撃する五十センチほど手前で、ぐいと強引に曲げられる。
 そのまま臨也の側頭部を掠めるようにして斜め上方に空気を切り上げる鋭い音が、臨也の鼓膜を打った。
 鼓膜が傷付くほどではなかったが、瞬間的に受けた圧迫に耳の奥が鈍く痛む。
 反射的に目を細め、眉をしかめた臨也は、しかし、直ぐに元通りの無表情を取り戻して、目の前で向かい合う静雄を見上げた。
「どうしたの、シズちゃん。俺は今、抵抗してなかったけど?」
 口の端を小さく持ち上げ、彼の一番嫌いな笑みを形作る。それは考えて行動した結果というより、反射と言うべきものだった。
 静雄を目の前にすると、臨也の表情筋は反射的にこの表情を作り出す。
 そして、それを受けて静雄は、こめかみに青筋を引き攣らせ、眦(まなじり)を吊り上げる。それがいつもの自分たちの関係だった。
 だが、目の前の静雄は、ひどく嫌そうな顔をしていたものの、こめかみに青筋を引き攣らせてはいない。
 あれ、おかしいな、と笑みを崩さないまま、臨也は内心で首をかしげる。と、静雄はうんざりしたような、持って行き所がないような仕草で道路標識を持ち替え、空いた右手を自分の首筋にやった。
 濡れた髪から伝い落ちる雫をうっとうしげに手で払い、それから低い声で、どうかしたの?はこっちの台詞だ、と告げる。
「ナイフは家に忘れてきたのか?」
 言われて、そういえばそんなものもあったな、と思い出す。
 家に忘れてきたわけではない。いつもと同じように、コートの袖口に仕込んである。忘れていたのは、それを取り出すことだ。
 だが、それを馬鹿正直に答える必要などどこにもない。
「へえ、シズちゃんは俺のナイフで刺されるのが趣味だったんだ? そんなに気持ちいい? 癖になっちゃうくらい?」
 嫌味たらしく笑いながら、もしかしたら本当にそうなのかもしれないと臨也は思う。静雄くらいに頑丈な体にとっては、ナイフなど孫の手と変わらないのかもしれない。
 だとしたら、これまで自分がしてきたことは、本当にただの無駄だったということになる。
 無論、そんなことはとうに分かっていたし、今更なことではある。ただの人間である臨也の力は、天与の異能を持つ静雄には決して通用しない。それこそ出会った時から分かっていたことだ。
 だが、それでも重苦しく苦いものが心にじわりと染みてゆく。
「本当に嫌になっちゃうね。いつもいつも俺は本気で刺してるんだよ? それが気持ちいいだなんて、どこまで化け物なんだか、君って奴は」
 あははと嘲(あざけ)りと蔑みに満ちた笑い声を上げる。この笑い声も、静雄がひどく嫌っている臨也の部分の一つだ。
 彼が何をどう嫌っているのかなどということは、臨也はとうに知り尽くしている。
 知り尽くしているはず、なのに。

「臨也」

 ノミ蟲ではなく臨也と、耳に心地良い低さで響く声が呼び、静雄の左手が臨也に向かって伸ばされる。
 目の前に迫る手のひらに、思わず臨也は身を引きかけるが、体調の優れない体は即座には反応せず、間合いを取るよりも早く静雄の手のひらが臨也に触れる。
 ぺたり、と額に手のひらを押し当てられて。
 雨に濡れてほんのり冷たく感じるそれに、臨也は呆けた顔でまばたきした。
「……シズ、ちゃん?」
 どうして殴らないの、と急に上手く回らなくなった舌を動かして呟くように問いかける。すると、静雄は忌々しげに舌打ちした。
「やっぱ手前、熱があんじゃねーか」
「──熱?」
 そりゃあるだろうと臨也は思う。
 この寒気とだるさと頭痛で、平熱だと言われたら、その方が驚きだ。
「俺は体温が高い方なんだぞ。その俺の手のひらより、手前のでこの方が熱いったぁどういうことだ、あぁ?」
「……君が平熱で、俺が熱を出してるってことだろ。考えるまでもないじゃんか」
 そんな分かりきったことで凄まれても困る、と臨也は静雄を見上げながら、半ばぼんやりと答える。が、静雄的には、その回答はアウトだったらしい。
「だったら、なんで手前はこんなところをふらふらしてんだ! とっとと新宿に帰れ!!」
 怒鳴られて、臨也は考える。
 ───帰る?
 帰ってどうにかなるのか。
 一人きりの部屋に戻って、何か楽になるというのか。
 答えはNOだった。
 何も変わらない。
 このまま新宿に帰ったところで、何一つ、楽にはなれない。
 何一つ、救われない。
 この街を立ち去って安全な巣に帰ることで、もし何かが変わるというのなら、とうに帰っていた。
 だが、自分は今もここにいる。
 体調の悪さを自覚しながら、それでも池袋の街を歩き続けていた。──目の前のこの男に遭遇するまで。
 それが答えだ。
 だからといって、この霧雨に濡れた街に何を求めていたのか、本当のところが分かっているわけではないのだが。
「嫌だよ」
「あ"ぁ!?」
「帰っても仕方がない。何にも変わりゃしないんだからさ」
 吐き捨てるように言うと、静雄のこめかみがぴくりと引き攣る。あと二、三語吐けば、完全に怒らせることができそうだった。
 それでいい、と臨也は思う。
 こちらの体調が悪かろうが何だろうが、手加減されるのも、気を遣われるのも、全く持ってありがたくない。
 先程から頭痛も悪寒も、耐え難いほどに酷くなってきている。とどめを刺して楽にしてくれる気がないのなら、さっさと立ち去って欲しかった。
「シズちゃんこそ、もう帰れば? いつも一緒の先輩さんもロシア娘も居ないってことは、今日の仕事は終わったんだろ? もう夜も遅いし、良い子は寝る時間だよ」
「帰るのは手前の方だろうが!」
「だから、嫌だって」
 ついと一歩後ろに下がり、臨也はその場でくるりと回る。たったそれだけのことで目がくらみ、がんがんと痛む頭に座り込みたくなったが、根性でこらえた。
「シズちゃんこそさあ、一体何がしたいんだよ。俺が熱を出してて、何の問題がある? そこらで俺が野垂れ死にしようが、君は何の関係もないどころか、万々歳だろ。君の大嫌いなノミ蟲が、君が手を下さなくても消えるかもしれないんだよ? もっと喜ぶか、とどめを刺すかしたらどうなのさ?」
 そして、挑発的に下から静雄の顔を覗き込む。
 にやりと、彼の一番嫌いな顔で笑った。

「とどめ、刺してみたら? すっきりするかもよ?」

 間近で、ギリ、と静雄が歯軋りする音が聞こえた。
 彼の顎の力に耐え得る歯は、一体どんな頑丈さなのだろうかと場違いなことを考えながら、臨也は静雄が右手に握ったままの道路標識を振り上げるのを待つ。
 そして、三秒後。
 アスファルトと金属がぶつかり合う激しい音が、薄汚れた路地に響くと同時に、臨也の体は宙に浮いていた。
「──え、ええっ!?」
 道路標識を投げ捨てた静雄に、胴体をがっちり掴まれて肩の上に抱え上げられた、と気付くには、一秒ほどの時間が必要だった。
「何すんだよ! 俺はとどめ刺せって言ったんだよ!?」
「うるせぇ!!」
 怒鳴りつけた声の倍の声量で静雄が怒鳴り返してくる。
「手前みたいなノミ蟲のためなんかに犯罪者になれるかよ! このまま新宿まで送り届けてやるから、寝言言ってねぇで、とっとと寝ろ!!」
「馬鹿なこと言うなよ! そんなのは君じゃないだろ! とどめ刺せばいいじゃないか、千載一遇のチャンスなんだからさ! っていうより下ろせ!! 下ろせってば!!」
 両拳で背中や後頭部を殴りつけ、膝蹴りと革靴での爪先蹴りを胴体に叩き込んで、力の限りに暴れる。
 そうしたところで臨也の拳や蹴りが効いているはずもなかったが、暴れる生き物を運ぶのは、圧倒的な膂力を誇る静雄にしてもやりにくいのだろう。盛大な舌打ちの音と共に、臨也の両脇を掴んで勢いよく前方に──臨也からしてみれば後背に──両手を下ろす。
 その勢いに、投げ捨てられるのかと臨也は反射的に目を閉じて衝撃に備える。が、背中に感じたのは、とん、といった感じで押し当てられた硬い壁の感触だけだった。
 ───え…?
 思わず目を開けて、背後にどこかのビルの壁があることを横目で確認してから、正面へとまなざしを向ける。
 だが、おそらくそれは失敗だった。至近距離で見つめていた静雄に、視線を絡め取られる。
 両手をビルの壁について臨也を閉じ込めた彼の真っ直ぐな目に浮かぶのは、苛立ちと、それから何だろうか。読めない、と思いながら、ただ臨也はその目を見つめ返す。
 そのまま、息の詰まるような沈黙が一体、何秒続いたのか。
 先に溜息をついたのは、静雄の方だった。
「ったく……。何なんだ、手前は」
「……何って、何が」
「熱出してるくせに、こんな雨ん中をふらふらしてるわ、俺が殴りかかっても避けようとしねーわ、挙句、とどめ刺せとか……。訳分かんねぇんだよ」
 手前には自殺願望なんかなかっただろ、と言われて、臨也はその通りだと思う。自分は決して、死にたがりなどではない。むしろ、人一倍保身には気を使う、高みの見物が大好きな卑怯者だ。
 けれど。
「シズちゃんこそ何してるのさ。目の前に弱った俺がいるんだよ? 今なら簡単に踏み潰せるし、首の骨を折るのだって簡単だろ? 何を新宿に返品しようとしてるんだよ」
「だから、俺は犯罪者になる気はねーっつってんだろ。俺が犯罪者になっちまったら、どんだけ周りに迷惑がかかると思ってんだ」
 その言葉に。
 思わず笑いが込み上げる。
「ははっ、迷惑だって? これまで散々かけてきたじゃないか。何を今更、善人ぶってんだよ。馬鹿馬鹿しい」
「そんなこたぁ、俺だって分かってる。だが、傷害や器物損壊と人殺しじゃ、話が全然違うだろ。手前も分かって言ってんだろうが」
 臨也の嘲りに取り合わず、静雄はまなざしに力を込めた。サングラス越しの瞳が、夜目にもはっきりと分かるほど鋭く光る。
「臨也」
 ひどくくっきりとした声で、静雄は名前を呼んだ。
 まるで、それが唯一無二の名前であるかのように。
 そう思った瞬間、臨也はまた笑い出したくなる。
 ───本当にどうかしているのだ、今夜は。
 今日は家から出るべきではなかった。池袋などに来るべきではなかったのだ。
 それでも、体調が悪いことを自覚していながら、仕事のついでだと理由をつけて、新宿からここまでやってきた。
 気を抜いたら崩れ落ちてしまいそうなほど具合が悪いのに、帰らなかったのは自分だ。
 何故か?
 答えを考えようとするだけで、反吐が出そうな気分になる。
 だが、そんな臨也の内心に、静雄は気付いているのか、いないのか。

「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」

 ひどく真摯な声で、そう問われて。
 それが限界、あるいは引金だった。
 込み上げるヒステリックな笑いに口元を歪めながら、臨也は素早くコートの右袖を振る。そして瞬時に手の中に現れた折り畳みナイフの柄を広げ、馴染んだそれを握り締めて、渾身の力で目の前の相手を刺した。
 刃など殆ど刺さらない。だが、思いがけない攻撃に驚いたのか、静雄が瞬間的に顔をしかめて臨也を睨みつける。
「……どういう真似だ?」
「どうしたんだなんて訊くからだよ」
 低く獰猛な問いかけに、狂気めいた笑みを閃かせながら、臨也は手にしたナイフをぐっと捻じり込む。だが、どれ程渾身の力をこめても、刃先はそれ以上入らない。さほど力を入れている様子もない静雄の腹筋が、凶悪な刃を跳ね返している。
 そのことが、言葉にならないほど悔しく、憎かった。
「ねえ、シズちゃん。今、俺は渾身の力でナイフを君に刺してるんだよ。なのに、君は殆ど傷付いてない。不公平だと思わないか、そんなのは」
 嗤い、臨也はナイフから手を離す。小型のそれはあっさりとアスファルトに落ちて、高い音を響かせた。
「いつもいつも、そうだ。俺はいつも、一人で空回りしてるだけ。策を弄して、君を陥れることはできる。化け物呼ばわりして、心を傷付けることもできる。でも、君を本当に傷付けて苦しめるのは、君の力だ。決して俺じゃない。俺は本当の意味では、決して君を傷付けることも、苦しめることもできない」
 とうとうと語る臨也の目を、軽く眉をしかめたまま静雄はじっと見つめている。
 その瞳に浮かぶものが何であるのか、臨也には分からない。
 静雄について分かるのは、自分に向けられる憤怒と嫌悪、苛立ち、それくらいのものだ。他の感情は全く分からない。分かったためしなどなかった。
「ねえシズちゃん、不公平だと思わないか」
「──意味が分からねえ」
 ぼそりと静雄の低い声が、臨也の問いかけを遮る。
「俺を傷つけたり苦しめたりするのが、俺の力だってのは分かる。それは事実だからな。だが、その先が分からねえ。何が不公平なんだ」
「何って──」
「手前の言葉を聞いてると、」

「まるで俺が、手前を傷付けて、苦しめてるみたいに聞こえる」

 そう言われて。
 思わず臨也は、目を見開く。
 ───俺は今、何を言った?
 突然、熱に浮かされて遠くなっていた現実が戻ってくる。
 そう、これは現実だ。
 なのに、自分は何を言った? 何をした?
 霧雨の中を体調が悪いにもかかわらず彷徨い、静雄にとどめを刺せと挑発して。
 その挙句。
「───…」
 愕然となりながら、目の前の相手を見上げる。静雄は相変わらず、彼には似合わない、何かを考えているような小難しい顔で、臨也を見つめていた。
「臨也」
 そして、臨也の様子になど構うことなく、耳に残る低い声が名前を呼ぶ。
「俺は、お前を傷付けてんのか?」
 ひどく懐疑的に、そんなことがあるのかと静雄が問いかける。
 その声に、臨也はまた笑い出したくなった。
 現実に戻ったはずなのに、まだ違う世界にいるようだった。発熱のせいなのか、日常の感覚が戻らない。
 否、それともとうにそんなものは失くしていたのか。
 あの遠い春の日、この化け物に出会ったその瞬間に。
「は…、はは、あははは……っ」
 下らない。何もかも下らない。
 自分がしていることには何一つ意味がない。熱に浮かされた狂人が踊っているようなものだ。必死に身振り手振りしても、相手には何一つ伝わらない。
 伝わるはずもない。
 そう思うと、笑わずにいられなかった。
「おい……」
 突然笑い出した臨也に戸惑った静雄が、声をかけてくる。

「傷付けてる、よ」

 唐突に笑いを納め、うつむいたまま臨也は告げた。
「君は俺を傷付けてるし、苦しめてる。出会った時から、ずっと」
 そして、ゆるゆると顔を上げて、静雄のまなざしを捕らえる。
 サングラス越しに透けて見える瞳は、明らかに驚き、戸惑っていて、そのことに少しだけ溜飲が下がる気がした。
「ねえ、どうして俺が、こんなにも執拗に君を傷つけようとし続けてるのか、考えたことはなかった? なんでだろうって」
「……それは、」
「あるよね? 考えないはずがない。理由がないじゃ済まない年月と回数だ、俺が君を殺そうとし続けてきたのは」
 もうどうでもいいと思いながら、臨也は言葉を紡ぎ出す。
 頭が割れそうに痛んで、寒気が止まらない。
 何もかも、もう、どうでもいい。
 もう楽になりたい、と心の底から願いながら、静雄を見上げて、これまで溜めに溜めた言葉を吐き出す。

「俺はずっと苦しかった。今だって苦しい。苦しいから、君を消そうとしてるのに、君はどうやっても消えない。この世からも、俺の中からも。──俺はどうしたらいいんだよ、シズちゃん」

 シズちゃん、と名を呼ぶと、涙が零れ落ちた。
 静雄の前で泣くのは初めてだった。
 泣くのはいつも一人きり、自分の部屋で。そう決めていたのに。
「君と出会って、もう八年以上だ。あと少しで九回目の春が来る。なのに、相変わらず君は俺の思い通りにはならない。傷付けることも苦しめることもできないのなら、いっそ忘れてしまいたいのに、それもできない。
 傷付くのも苦しむのも、俺ばっかりだ。今までも、これからも。それなのに、君は俺にとどめすら刺してくれない。それじゃあ、俺はどうしたらいいんだよ」
 睨みつけるように静雄を見つめる瞳から、ほろりほろりと涙が零れ落ちる。
 またたく間に冷えてゆくそれを、拭う気にも隠す気にもなれなかった。
 初めて、生の感情を剥き出しにしたまま、臨也は静雄と向き合う。
 いつの間にか霧雨は降り止み、しっとりと冷えた初冬の空気が二人を包み込んでいる。その中で身動きすらせず、どれ程視線を結び合わせていたのか。
 不意に静雄が動いた。
 ゆっくりと右手が動いて、臨也の頬を伝い落ちる涙を拭う。
「シズちゃ……」
「手前の言葉は、さっぱり分かんねえ」
 低い声が、静かに臨也の鼓膜を打った。
「でも、一つだけ、手前の言いたいことが分かったような気がする」
 涙を拭い終えても、静雄の手は臨也の頬を包み込むように触れたまま、離れてゆかない。熱のせいで火照る頬に、本当なら温かいはずの静雄の手のひらは仄かに冷たく、ひどく心地良かった。
「言われてみれば、確かに俺は、今までお前とはきちんと向かい合ってなかったかもしれねえ」
 一言一言、考えるようにゆっくりと静雄は言葉を紡ぐ。
「手前のやることなすことに反応せずにはいられねぇし、反吐が出るくらい嫌いだと思ってるけどよ、それだけだ。自分からお前にどうこうしようと思ったことは、多分、一度もねえ」
 それが嫌だったのか、と静雄はぽつりと尋ねた。
「でもな、臨也。お前は俺の性格、分かってんだろ。お前みたいなノミ蟲、どうして俺が自分から関わろうと思うってんだ。手前と関われば関わるほど、俺はこの嫌いでたまらねえ自分の力と向き合わなきゃならないってのに」
 そう言い、静雄は臨也に触れていない方の自分の手を広げて、見つめる。
 そして、もう一度臨也と目を合わせた。
「手前、本当は馬鹿だろ。誰のことも都合のいいように操るくせに、なんで俺のことは扱い方を間違えるんだ。自分の方を向いて欲しいなら、そう言え。俺がそっぽを向きたくなるようなことばかりして、勝手に傷付いただの苦しいだの言うんじゃねえよ」
 正論を口にされて、臨也は唇を噛み締める。
 だが、そんな言葉を口にできるわけがないし、自分がそんな言葉を口にしたところで、どうして静雄が信じるだろう。
 そもそも、出会いからして最悪だったのだ。
 初対面の時、臨也は静雄の力を利用することしか考えておらず、下心丸出しで彼に近付いて、この上なく嫌悪された。その時点で、臨也の方向性は決まった。
 やり方を間違えたと静雄は言うが、しかし、他にどうする方法があったのか。
 こっちを向けと我武者羅に攻撃する以外、臨也は思い付けなかったし、他の方法を試したところで静雄は頭から疑い、拒絶以外の反応をしなかったに決まっている。
 こんな風にしか自分たちはなれなかった。
 それはもう、揺るぎのない確信だ。
「……俺が何言ったって、信じないくせに」
「手前が信じられるような真似をしたことが、これまで一度でもあるかよ」
「───…」
 ない、と臨也は心の中で呟く。
 信じて欲しいと思ったことなど一度もないのに、そんな真似をするわけがない。
 じっと押し黙っていると、静雄は溜息をついて、臨也の頬に当てていた手を額へとずらした。
「熱、上がってきてんじゃねぇのか。さっきより熱い感じするぞ」
「この状況で下がるわけないだろ、シズちゃんじゃあるまいし」
 憎まれ口を叩くと、静雄のこめかみがぴきりと引き攣る。
「……ったく、手前は、俺を怒らせたいのか怒らせたくねえのか、一体どっちなんだ」
「二者択一なら、怒らせたいに決まってるだろ、勿論」
「なんで決まってんだ」
「──普通なんて、面白くも何ともないじゃん」
 たとえば、高校時代。
 普通に朝夕挨拶して、ノートを見せ合う関係なんて望みもしなかった。
 卒業して社会人になってからも同じだ。
 ひたすらに自分の存在を、彼の中に刻み付けてやりたかった。
 誰よりも強い彼を、世界で唯一自分だけが傷付け、血を流させたくて、いつも必死だった。
 ───結果としては、そのいずれも、何の意味もありはしなかったのだが。
「手前は一体、どこまで歪んでんだ」
 大きな溜息混じりに、呆れられる。
 だが、それは臨也にとっては褒め言葉だった。
「俺が歪んでなかったら、シズちゃんは俺に気付きもしなかっただろ。歪みまくった俺はシズちゃんが大嫌いで、自分の手でどうにかしたくてたまらなくて、そんな俺をシズちゃんは大嫌い。相性ぴったりじゃないか」
「どこがだよ。……ったく、暴れんなよ」
「へ?」
 後半の台詞の意味が全く分からず、聞き返すと、答えよりも早く腕を掴まれ、体を反転させた静雄の背中に担ぎ上げられる。
「え、うわっ、シズちゃん!?」
「新羅んとこ行く。手前、さっきから言ってることが支離滅裂だぞ。薬もらって飲んで、寝ちまえ」
「そんなの自力で行けるよ! 下ろしてってば!」
「下りられるもんなら下りてみろ。ヘロヘロのくせに」
 言いながら静雄は、成人男性を背負っているとは到底思えないごく普通の足取りで歩き続ける。両脚をがっちりと抱え込まれている状況では、逃げようにも逃げられないし、抵抗しようにも、そろそろ体が限界だった。
 少しだけ悩んでから、肉体の欲求に素直になって静雄の背中に体を預ける。細身ではあっても、明らかに自分よりもずっと広い背中から、じわりと温もりが伝わってきて、臨也は細く溜息を吐き出した。
 規則正しい揺れは急速に眠気を誘うが、頭痛に苛まれている頭には多少響いて辛い。
 一言二言、自分らしく憎まれ口を叩きたかったが、言葉が何も浮かんでこず、代わりに瞼が重く下がってくる。
 目の前にある首筋にそろそろと重い頭を預けると、雨に濡れた静雄の肌の匂いが、煙草の残り香と相まってふわりと嗅覚に届く。
 目を閉じながら、シズちゃん、と心の中で呟いて、臨也はそのまま意識を手放した。

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