※二人が付き合い始めて、1年ちょっとが過ぎた頃のお話です。

DAY DREAM -Promised Love-

「じゃあ、ここで失礼します」
「おー、また明日な」
 交差点の角で静雄はトムに別れを告げ、駅へと足を向ける。
 いつもより幾分ゆったりとした足取りで歩きながら、何か買って帰ろうか、と考えた。
 だが、プリンも杏仁プリンも最近、というか、ここ十日くらいの間に食べたばかりだった。同じものばかりを買って帰れば、少々皮肉を込めたからかいを受けるのは目に見えている。
「……いちご大福、今年はまだ食ってねぇな」
 何となく思いつき、さて、と思案する。
 池袋周辺にもいちご大福を扱う店舗は幾つかあり、有名なのは、池袋の中心から少し離れるが、護国寺にある群林堂だ。
 しかし、地下鉄の駅二つ分の距離がある上に、今日はもう少し遅い。まだ店が開いていたとしても、評判が高いだけに売り切れている可能性も高いだろう。
「デパ地下で手を打つか」
 少しばかり高くつくが、目玉が飛び出すほどの値段でもない。四つばかり買ったところで、千円を少し超えるというところだ。
 よし、と気持ちを定めて、静雄は駅に向かう足を心もち速める。宵の口の駅へと向かう道は、やはり人通りが多い。
 池袋の都市伝説となっている静雄ではあるが、キレるのは気に食わないことがあった場合のみ、という『常識』も同時にまかり通っているため、普段歩いている分には、そうそう滅多なことはない。
 そして、都市伝説を知らない輩から見れば、ただのバーテン服のチンピラっぽい青年であるため、こんな時間帯では普通にスルーされるのが常である。
 色々と騒動は起きるものの、生まれた時から住んでいた街であり、居心地は悪くない。いつか田舎暮らしをしたいという願望はあっても、静雄はこの街のことが好きだった。
「なのに、何の因果でこんなことになっちまってんだか……」
 西武百貨店の地下食料品売り場で目当てのものを見つけて買い、JR線のホームへと向かいながら静雄は苦笑する。
 山手線のホームへ上がり、来た電車に乗ってドア近くに立ち、宵闇の中に光る街明かりをぼんやり眺めていれば、新宿までは直ぐだ。ラッシュ時の人の多さに顔をしかめつつも、キレるほどのことは何もなく、静雄は電車を下りて西口から外へと出た。
 さすがに葉桜の新緑も目に鮮やかなこの頃合となると、夜風もほんの少しではあるが、ぬるい。雨が近いのかもしれないな、と上空に目を向けながら歩道を歩くこと十五分。
 白っぽい外壁の高層マンションのエントランスにカードキーを通して、静雄は中に入り、そのままエレベーターに乗って、最上階まで上がった。
 ほどなくやわらかく上品なチャイムが鳴り、エレベーターのドアが開く。筐体から降り立てば、ほんの数歩先に瀟洒な玄関のドアがあった。
 一応、インターフォンだけは鳴らしてドアにカードキーを通し、開錠する。
 そして、室内に入れば、ニャア、と甘い声が出迎えた。
「サクラ」
 ふかふかの玄関マットの上で、赤い首輪に金色の鈴を付けた生後三ヶ月ほどの黒い仔猫が両手両脚を揃えて座り、静雄を見上げる。その金色を帯びたエメラルドグリーンのきらきらした丸い目に、静雄は相好を崩した。
 革靴を脱ぎ、開いている左手でひょいと仔猫を抱き上げる。
 すると、今度は奥から、「おかえり、シズちゃん」という声が届いた。
 開け放したままだったドアから姿を現した臨也は、仔猫を抱いている静雄を見て笑顔になる。
「サクラね、シズちゃんが入ってくるほんのちょっと前に、玄関に出て行ったんだよ。君が帰ってくる時のエレベーターの音を覚えたみたい」
「へえ」
 それはすごい、と静雄は胸元の仔猫を見つめる。
 サクラは、少し前に静雄が拾った仔猫だった。まだ肌寒い春の夕方に、道端の植え込みの下でうずくまっていたのを、どうしても放っておけなかったのである。
 だが、あいにく静雄が住んでいた池袋のアパートはペット禁止だったため、臨也と相談(というには少々揉めたが)した上で、二人で新しく部屋を借りることにしたのだ。
 部屋を手配して引っ越したのは、まだ極最近のことで、二人が一緒に暮らし始めてからは、まだ二週間にもならない。
 しかし、一年以上付き合い、デートは殆ど臨也の部屋での家デートだった二人にしてみれば、帰る所が一緒の部屋になっただけで、特に何かが大きく変わったわけではなく、これまでのところ問題らしい問題は一つも起きておらず、二人の生活は平穏そのものだった。
「猫って耳がいいんだってさ。車のエンジン音とか足音とかで、飼い主が帰ってくるのをちゃんと分かるんだって」
 言いながら臨也は手を伸ばし、静雄からサクラを受取る。そして、サクラを抱いたまま、静雄が右手に持っていた紙袋の中を上から覗き込んだ。
「今日は何?」
「いちご大福。今年はまだ食ってなかったと思ってよ」
「あー、そういえば俺も食べてないかも。そろそろシーズン終わりだよねぇ」
「ああ、駄目だったら柏餅で手を打とうと思ってたんだけどな。まだあった」
「ま、年中売ってる店もないわけじゃないしね。そういう店では買いたくないけど」
 じゃあ食後のお茶菓子に、と臨也はその紙袋をも静雄から取り上げ、至近距離から静雄を見上げた。
「で? 何か忘れてない、シズちゃん?」
「忘れてねぇよ。言う暇がなかっただけだ。……ただいま」
 臨也の催促に苦笑しながら静雄は答え、そして触れるだけの軽いキスを交わす。すると、臨也は満足げに笑んで、静雄から離れた。
「とりあえず着替えてきなよ。で、夕食の支度、手伝って」
「おう」
 一足先にリビングへと戻ってゆく臨也の後を追って、静雄も奥へ向かう。
 十畳以上の広さのあるリビングには、ソファーとテーブル、テレビやオーディオのセットが置いてはあるが、まだ物が少なく、モデルルームのような雰囲気が残っている。
 向かって右側にダイニングキッチンがあり、あとは洋間が三部屋と、二人で暮らすには十分過ぎるほどに広い間取りのこの部屋が、いわゆる二人の愛の巣だった。

 二人暮らしなのに三部屋、というのは二人の微妙なこだわりである。
 内訳は、寝室とそれぞれの私室であり、普段使っているのは、はっきりいって寝室だけだ。
 静雄は自室に閉じこもるタイプではないし、臨也もまた、仕事は以前と同じ事務所でしており、この部屋には持ち込まないと最初に約束しているため、わざわざ部屋にこもる理由はない。
 にも関わらず、それぞれに部屋を用意したのは、喧嘩をした時の避難場所としてだった。
 とにかく愛情はあっても二人の性格は水と油であり、相手に少々腹を立てるレベルの小さな喧嘩は、付き合い始めてからのこの一年間で幾度もしている。頻度で言えば月に一回近い。
 そんな関係であるのに、それぞれの私室がなかったら、喧嘩をした場合、家の外に出て行くしか選択肢がなくなる。それはまずいだろう、というのが二人の一致した意見だった。
 内鍵のかかる自室があれば、とりあえずはそこに篭城すれば良いし、鍵本体をリビングに置いておけば、相手が餓死する前に救出できる。
 静雄の方は、家賃的に少し贅沢なのではないかと気にしたのだが、臨也と暮らすためには必要な経費だと直ぐに割り切り、渋い顔をしたのは物件探しのほんの初期だけだった。
 そして、今のところは部屋の内鍵を使うこともなく、二人と一匹は仲良く暮らしている。
 何もかもに満足の日々是好日、というのが今の彼らを表す言葉だった。

 静雄が綿ニットの長袖Tシャツにジーパンというラフな格好に着替えてキッチンに行くと、臨也は既に鼻歌交じりにコンロの前に立っていた。
「あ、シズちゃん。春キャベツの和え物作って。胡麻ダレのやつ。俺は、サワラとアサリと摘み菜をやるからさ」
「……お前、一番面倒くさい奴を俺に押し付けただろ」
「えー、そんなことないよー。俺は三品、シズちゃんは一品。俺の方は味付け三種類もしなきゃならないんだよ?」
「煮魚や澄まし汁の味付けに、どんだけ手間かける気だ」
 サワラの煮つけは、煮汁の味付けをきっちり決めて魚を放り込むだけ、アサリの澄まし汁は、出汁不要で塩加減をきっちり決めるだけ、摘み菜のおひたしは、出汁としょうゆと酒とみりんを合わせて煮立てれば終わりと、手順としてはややこしいことなど一つもない。
 対して、春キャベツの和え物は、大きいまま茹でたキャベツの葉をザク切りし、人参と油抜きした油揚げを細く刻んでさっと湯がき、胡麻と酢と酒と砂糖と醤油を合わせてタレを作り、全部を混ぜ合わせるという手数の多さである。
「俺、油揚げより錦糸卵混ぜるほうが好みなんだけど」
「贅沢言うんなら手前で作れ」
 手元を覗き込んできて注文を付ける臨也に眉をしかめながらも、静雄は熟練の主婦の手際の良さで、あっという間に野菜を刻み、次から次へと具の下ごしらえを済ませてゆく。
 そうしてタレを合わせる頃には、臨也もまた、持ち前の勘の良さで塩加減を一発で決めて料理を仕上げてゆき、全四品の春らしい料理が出来上がったのは、ほぼ同時だった。
「うーん、見事な春御膳。二人だといいのは、こういう時だよね。一人だとこれだけの品数、作らないしさ」
「まぁな」
 お互いに自炊はしていたが、所詮は男の料理で、普段はさほど手をかけたものを作っていたわけではない。一汁一菜におまけがつく程度が常だったのだから、一緒に暮らし始めてからの献立の充実振りは、大いなる進歩というべきであるのだろう。
 何となく満足して、二人はテーブルにつき、いただきます、と手を合わせる。勿論、その前にサクラに新しい餌を出してやることも忘れない。
「あ、アサリの塩加減ばっちり。さすが俺だよね」
「言ってろ。……まぁ美味いけどな」
「シズちゃんの和え物も美味しい。俺、この味好きなんだよね。お母さんからの直伝だっけ?」
「ああ。一人暮らし始めてからも食いたかったからよ、電話して作り方教えてもらった」
「へえ。シズちゃんのお母さんも嬉しかったんじゃない? 図体のでかくなった息子が、そういう可愛い理由で電話してきてくれるのはさ」
「そんなもんか? つーか、可愛いって何だ」
「えー、可愛いじゃん。とにかく、そういうものらしいよ、世間では」
「あ、サワラも美味いな」
「シズちゃんのリクで煮付けにしたんだからね。でも、サワラが出回ると、春だなーって気がする」
「おう。次は塩焼きな」
「はいはい」
 食事というものは所詮、毎日繰り返すものであり、その最中の話題は、当然ながら大したことを話すわけではない。今日の客のおかしなエピソードだとか、コンビニの新商品だとか、そんな他愛ない話題ばかりだったが、二人で作った料理を口に運びながらの会話は、不思議に話の種が尽きなかった。
 気がつけば、全ての皿は綺麗に空になり、食後のお茶が欲しくなってくる。
「いちご大福は、リビングで食べようよ。今日、幽君のドラマあるし」
「そうだな」
 どちらともなくうなずき合って立ち上がり、二人は阿吽の呼吸で片付けを始める。
 この辺りは、単に付き合っていた頃から変わらないため、互いに慣れたものだ。片方が皿を洗い、片方がテーブルを拭き、コンロ周りを簡単に磨く。そうして分担して作業すれば、終わるのはあっという間だった。
「シズちゃん、お茶は緑茶? ほうじ茶?」
「どっちでもいい」
「じゃあ、緑茶淹れて」
 ねだられて、はいはいと静雄は戸棚に歩み寄り、茶筒を手に取る。
 他の飲み物は大概の場合、独特のこだわりがあるらしい臨也が淹れるのだが、緑茶は絶対にシズちゃんが入れたやつの方が美味しい、という臨也の主張により、静雄の担当ということになっている。
 静雄自身は何の工夫もなく淹れているだけなのだが、恋人がそれを美味しいと褒めてくれれば、勿論悪い気はしない。
 とはいえ、自分の淹れ方のどこがいいのかはさっぱり分からなかったから、いつもと同じ適当な手順で沸騰した湯を軽く冷まし、急須に注いで二杯分の緑茶を淹れた。
 二人の湯飲みは柄違いのお揃いで、同棲を始める直前に臨也がどこかで買ってきたものだ。何とか焼、という上等の物らしいが、静雄にはそういう違いは余りよく分からない。というより、興味そのものがない。
 ただ、渋い地の色に青い染料(臨也のは臙脂色の染料)でさりげなく模様が描かれている感じが気に入っているのと、あと、それを買ってきて披露した時の臨也の浮かれ具合が可愛かったため、この二つの湯飲みを使う時は、いつも気持ちが丸く、優しい気分になった。

 実際、一緒に暮らすことを決めた時の臨也の浮かれっぷりは、大したものだった。
 本人は普通に振る舞っているつもりだっただろうが、静雄に向ける笑顔は四割増、声のトーンは高い上に言葉数もいつもにも増して多い、おまけに次から次に新居用の日用品を買ってくるとなれば、本心はダダ漏れに等しい。
 半月程度あった準備期間中、静雄は「そんなに俺と暮らしたかったのか」と何度も呆れたが、一方で、そんな臨也が可愛くなかったといえば嘘になる。
 そして、一緒に暮らし始めてみれば、更にその思いは増した。
 具体的に話を聞いたわけではないが、臨也が同棲をしたがったのは、静雄と一緒に居る時間を少しでも長くしたかったからであるらしく、朝起きて「おはよう」と言葉を交わし、この部屋からそれぞれに仕事に出て、夜には帰り、都合が合う限りは一緒に食事を作って食べて、同じベッドで寝る、それだけのことに一々嬉しそうな顔をするのである。
 以前に、シズちゃんが居ればそれでいい、と言われたことがあるが、これほどの想いだったとは静雄も思っていなかっただけに、驚きもしたし、もっと早い段階で臨也の気持ちを真剣に汲んでやらなかった自分を反省もした。
 そして、その分、静雄が反省を込めて臨也を甘やかせば、臨也の態度が更に嬉しげに浮かれたものになるのは、もはや自然の摂理である。
 そんな新婚さながらの遣り取りを十日余りも繰り返した結果、今や二人の生活は、氷砂糖を煮溶かして蜂蜜をたっぷり加え、更に煮詰めたような代物に成り果てているというのが実情だった。

 静雄が二つの湯飲みを持ってリビングに行けば、臨也はソファーに陣取り、早速、小さな紙箱を開けていた。
「あ、可愛い可愛い」
 四つ並んだ小ぶりのいちご大福に目を細めて、隣りに腰を下ろした静雄に笑みを向ける。
「はい、一つどーぞ」
「買ってきたのは俺だぞ」
 いかにも自分のもののように箱を差し出す臨也に苦笑しながら、静雄はいちご大福を摘んで取り上げた。
 ふくふくしたやわらかな感触は、可愛らしい丸い外観と相まって、食べる前からその甘酸っぱさを予感させる。
「じゃあ、いただきまーす」
 自分もまた、一つを指先に取り上げた臨也は、機嫌よく口に運ぶ。そして、軽く食(は)んでから 満足げに笑った。
 そんな臨也を横目で見ながら、静雄もまた、ぱくりと大福を口に運ぶ。小ぶりのそれは二口で消えたが、甘酸っぱい余韻はしばらくの間、口の中に残った。
「久しぶりに食べると美味しいなぁ。もう一個ずつ、どうしよう?」
「二つ食べたって、どうっていうことねぇだろ。小せぇし」
「まあね。明日だと水分が出て、不味くなっちゃう気もするし」
 食べたらその分、明日動けばいいか、と呟いて、臨也は湯呑みを手に取る。
 そして、ちょうど良い温度加減の茶を啜って、また満足げな表情になった。
「何?」
 その一連の様子を眺めていた静雄の視線に気付いて、臨也は振り向く。
「いや、物食ってる時のお前、可愛いと思ってよ」
「またそれ?」
 静雄が正直に思っていることを述べると、臨也は小さく肩をすくめた。
「もう聞き飽きたよ。たまには違うこと言えないわけ?」
「可愛いもんは可愛い以外に言いようはねぇだろ」
「だからさぁ……」
 シズちゃんて、どこまで単純馬鹿なの、と言いながら、臨也は手の中の湯呑みを小さく回す。
 そうするうちに、平然としていた頬にも微かに赤みが差してきて、ああやっぱり可愛いな、と静雄は微笑む。
 静雄の「可愛い」という言葉に慣れてきているのは事実だろう。以前のように真っ赤になって固まるようなことは、最近ではもう無い。だが、恥ずかしくも嬉しくも無い、というわけではないのだ。
 そして、そんな臨也を見ると、静雄はひどく大切にしてやりたくなる。
 相手がノミ蟲で、世間では相変わらずきな臭いことばかりしている奴だということを分かっていても、うんと甘やかしてやりたいだの、嬉しそうに笑う顔を見たいだのと思ってしまうのだ。
 こういうのを末期症状というんだろうな、と思わないでもなかったが、結局は感情の問題である。自分でもどうしようもなかった。
 そんないちご大福にも勝る甘い感情に浸っている静雄の膝に、いつの間に寄ってきたのか、ちりん、と小さな鈴の音を立ててサクラが飛び乗ってくる。
 猫に鈴を付けるのは、聴覚の良い彼らにとってあまり良いことではないらしいが、何しろ真っ黒な仔猫である。暗闇ではどこに居るのか全く分からないし、狭い隙間に入っていってしまうことも多いため、身動きしただけで居場所の分かる鈴は、飼い主にとっては必須アイテムなのだ。
 そして、これは性能とは全く関係のないことだが、サクラの漆黒のビロードのような艶やかな毛皮に、赤い首輪と金色の鈴は、これ以上ないというほどによく似合った。
「お?」
 静雄が目を丸くしている間に、サクラは静雄の膝の上でうろうろと数度、位置を変え、ほどなく静雄の腹部にぺったりと体の側面をつけるようにして、手足を畳んで座る。
 そのまま、ゴロゴロと喉を鳴らし始めたサクラの頭を、隣りから手を伸ばした臨也が指先でつつくように撫でた。
「ったく……なんでサクラはシズちゃんの膝にばっかり行くんだよ」
「そりゃあ、お前の方が細くて安定性悪いせいじゃねぇの?」
 サクラはまだ小さいため、臨也の膝の上でも簡単に載れるが、どちらが寛げるかといえば、多少なりとも太腿に幅のある静雄の方に軍配が上がるだろう。
「あと体温だって俺の方が高ぇし。猫はあったかいとこが好きなんだろ」
「──そりゃそうかもしれないけどさぁ」
 正論を告げる静雄に、不満げに口元を小さく曲げて、臨也はサクラの頭をつつく。だが、そのタッチはあくまでも優しいものだったため、サクラは嫌がるどころか、もっと撫でてと言わんばかりに顎を上げた。
「……図々しいよ、お前」
 文句を付けながらも、臨也はサクラの顎を指先で撫でてやる。
 気持ちいいのか、サクラは顔の向きを変えたり、頭を上げたり下げたりしつつ、小さな頭部全体を満遍なく臨也に撫でさせ、それから、御苦労様と言いたいのか、それとも御礼の毛づくろいのつもりなのか、臨也の指先を舐めた。
「猫って本当に訳分かんない生き物だよね」
 可愛いけどさ、とサクラの背中を軽く二、三度撫でてから臨也は手を引く。
 そんな臨也の髪を、今度は静雄が手を伸ばして、やわらかく梳くように撫でた。
「お前だって、訳分かんねぇよ。サクラ見てると、時々、お前見てるような気になる」
「──猫と一緒にしないでよ」
「一緒にはしてねぇけど、まあ、似たようなもんだろ」
「こんなに人間らしい俺を捕まえて、失礼だよ。君こそ犬っぽいくせに」
「俺が?」
「うん。大型犬ぽい。だってシズちゃん、トムさんとか幽君に、ここで待ってろって言われたら、何日でも待ってるだろ」
 その微妙な形容に、静雄はわずかに眉を動かす。
「お前が言っても、待ってるぜ」
 どうして自分の名前を出さないのだと、含みを込めて言ってやれば、臨也は小さく言葉に詰まったようだった。
「……俺が何日も待たせたら、怒るくせに」
「そりゃ心配するからな」
「っ……」
 付き合い始めてから一年以上経つのに、未だに臨也は時々、言葉の使い方が上手くなくなる。そういう物言いをしたら、静雄がどういう答えを返すか、考えずとも分かりそうなものなのに、自分から落とし穴に落ちてゆくことが少なくないのだ。
 うっすらと目元を赤く染めて、懸命に言葉を探しているらしい臨也に、静雄は、本当にしょうがねぇ奴、と微笑む。
「でも、サクラ飼ってみて初めて分かったけどよ。猫も、ちゃんと懐くだろ」
 玄関まで見送ったり、出迎えたり、甘えたり。
 気まぐれで、ふいと離れていってしまったり、別に誰かの膝の上でなくとも、温かくてやわらかな場所ならどこでも御機嫌だったり、自分勝手なところはあるが、しかし、好きな人のことはきちんと認識して区別している。
 そう思いながら、静雄は首を傾けて、臨也に触れるだけの小さなキスをした。
「──お前だって、俺が帰るのをちゃんと待っててくれるだろ」
 至近距離で目を覗き込んで言えば、光の加減で紅く透けるセピアの瞳が、分かりやすく揺れて。
 ほんの少しだけ悔しそうに臨也は一瞬、目を伏せてから、顔を上げて静雄の胸元を掴み、今度は自分から静雄にキスをした。
 そして、表情を隠すように静雄の肩口に顔を埋める。
「──待ってるに決まってるだろ」
 でなければ一緒に暮らしたいなんて言うもんか、と小さく訴えてくる臨也を、静雄は膝の上のサクラを気にしながら手を伸ばして抱き締める。
 そして、細い背中をゆっくりと撫でた。
「俺は絶対、この部屋に帰ってくるからよ。お前も、きちんと帰ってこいよな」
「……他にどこに帰るんだよ」
 そんなひねた物言いで返してくる臨也に微笑んで、静雄は右手の親指で、そっと臨也の頬を撫でる。細い顎をやわらかく持ち上げると、臨也は逆らわなかった。
 うっすらと顔を赤くして、拗ねたような目で静雄を見上げる。その表情が可愛くてたまらず、ゆっくりと口接けると、臨也は目を閉じて静雄の首筋に両腕を回した。
 好き。離れないで。ずっと一緒に居て。
 そんな分かりやすい、そして、かけがえのない想いを触れ合った箇所全てで交わし、互いの隅々まで染み透るのを感じてから、そっと離れる。
 綺麗に睫毛の揃った目を開けた臨也は、静雄を見上げ、それから、切なさを滲ませた顔で身動きしてソファーに背を預けた後、静雄の肩に甘えるように寄りかかった。
 ぴったりと体の側面にくっついてくる臨也の体温に、やっぱり猫だな、と静雄は小さく微笑む。膝の上にサクラ、隣りに臨也ではまったく身動きが取れないが、それが嫌などころか、むしろ満ち足りた気分になる。
 そんな風に甘い思いに浸っていると、ねえ、と臨也が小さな声で呼んだ。
「そろそろ幽君のドラマ、始まっちゃうよ」
「録画してあるだろ」
「してあるけど、TVを付けてあげるくらいしなよ」
「今夜くらい、別にいいさ」
 そう言ってやると、臨也は黙り込む。
 臨也が以前から、幽に対し、微妙な感情を抱いていることは知っている。兄弟愛を邪魔する気はないにせよ、自分以外の誰かが静雄に大事にされていることが、どうしても心に引っかかるのだろう。
 一方、静雄の方は、九瑠璃や舞流をはじめとして臨也の周囲に居る誰に対しても、そういった嫉妬めいた感情を抱いたことはないが、それは結局のところ、臨也が他に、身をもって庇いたいと思うような相手を持っていないことを知っているからだ。
 警戒心の強い臨也は、決して他人を自分の内側には入れない。静雄が唯一の例外なのである。
 対して静雄は、幽にトムにヴァローナに社長にと、いざとなったら身を盾にして守りたい相手が幾人もいる。
 臨也はそういう静雄を咎めないが、本心としては自分だけを大切にして欲しいのだろうし、静雄が他人を見るたび、ほのかな寂しさや嫉妬を感じるのだろう。
 好意を寄せてくれる人を大事だと思う自分を変えることは、静雄にはできない。だが、そのことで臨也が複雑な感情を覚えるのであれば、その分、大切にして甘やかしてやりたかった。
 そんな思いで、今夜は弟のことはいい、と告げてやれば、少し沈黙した後、臨也がそっと手を伸ばしてきて静雄の手に触れる。
 手の甲に自分の手を重ね、指を絡ませては外し、静雄の指を摘んだり撫でたり、子供のように一人遊びをして。
「シズちゃん」
 名前を呼んだ。
「ん?」
 臨也の手の温度は、静雄に比べると幾分低い。冷たいというほどではないが、ほのかな温もりを帯びている程度で、体温の高い静雄にしてみれば、その温度が心地いい。
「あのさぁ、明後日からゴールデンウィークだけど」
「ああ」
 少し言いにくそうにしたその前置きだけで、臨也が何を言いたいのか察して、静雄は応じた。
「四日なら、休みもらってあるぜ。他の日は仕事だけどな」
 そう告げてやると、臨也は驚いたように顔を上げて静雄を見つめた。珍しくも、綺麗な顔立ちにくっきりと驚愕の色が浮かんでいる。
「──覚えてたの?」
「なんで忘れるんだよ」
「だって、シズちゃんだし」
「バーカ。冬にお前がインフルエンザで寝込んだ時に約束しただろ」
「したけど」
「俺は一度約束したことは忘れねぇよ」
 それほど記憶力がいい方だとは思っていないが、誰かと何かを約束をしたら、それは忘れない。特にメモを取るわけではないが、くっきりと脳内に残る性質なのだ。
「行きたい場所があるんなら、早いとこ決めとけよ。GWだから、どこでも混んでるだろうけど、お前の誕生日くらい、お前の好きなとこに付き合ってやるからよ」
「────」
 実に分かりやすく絶句して、臨也は静雄を見つめる。
 明らかに飽和状態になってしまっている臨也に、静雄は苦笑した。そして、そのなめらかな頬を、やわらかく撫でてやる。
「おい、大丈夫か?」
 普段はうざいことが多い割に、臨也は甘えることがあまり上手くない。
 原因は、その捻くれた性格と物の考え方のせいなのだろうが、ともかく彼自身が想定した反応よりも糖度の高い反応を静雄が返すと、許容限度を超えてしまい、固まるのだ。
 最近は「可愛い」という言葉同様、幾分慣れたらしく、その回数も減ってきたが、それでもまだまだ事あるごとに固ゆで卵になって静雄を楽しませる。
 今も、じわじわと頬に赤らみが刺し、どう反応を返せばいいのか分からないでいるらしい、うろたえた光が綺麗な色の目の中を踊っていて、静雄は苦笑したまま、そっと唇にバードキスを落とした。
「まるで俺が普段、全然優しくねぇような反応してんじゃねーよ」
 いつもこんなもんだろ、と言えば、更に臨也はじわりと赤くなる。
「そ…うかもしれないけど、」
「お前が好きだって、何度言わせれば納得するんだ?」
「……それも知ってる、けど」
「けど、何だよ?」
 優しく苛めて問い詰めてやれば、臨也ひどくうろたえたように数度、忙しなくまばたきしてから、まなざしを恨めしげなものに変えて、静雄をねめつけた。
「──シズちゃんて、結構性格悪いよね」
「お前相手限定でな」
 否定せずに応じると、臨也は更に悔しそうな顔になる。が、諦めたのか、ぽてんと静雄の肩口に額をぶつけた。
「……どこかに出かけるとかより、うちでDVD借りてきて見る方がいい」
「いいぜ」
 確かに、出かけるのが楽しくないわけではないが、家に引きこもれば、ずっと二人でくっついていられる。
 ひどく可愛らしい、分かりやすい臨也の望みに、静雄は笑ってうなずいた。
「朝と昼は俺が飯作ってやるけどよ、夜はどうする? それくらい、その辺に食いに行くか?」
 いつもよりちょっといい食材や酒やデザートを用意して、家で食べるのも勿論悪くない。
 だが、昨年付き合い始めてまだ間もない頃の臨也の誕生日に、二人で居酒屋に出かけて飲み食いした、たったそれだけのことが、おかしなくらい楽しくて幸せだった記憶は、昨日のことのように心に残っている。
 そのことを思いながら問いかければ、臨也もまた、同じ事を思ったのだろう。少し考えた後、首を縦に振った。
「じゃあ、行きたい店決めとけよ」
「……そんなこと言って、俺が馬鹿高い店を選んだら、どうするんだよ」
「お前はそういう真似、しねぇだろ」
 格式が無駄に高い店は、静雄は居心地が悪く楽しめない。そういうことを分かっているのだろう、臨也が選ぶ店は、いつも程々に混んだ居酒屋や、ほっこりした雰囲気のレストランなど、芯から居心地がいいと思える店ばかりだった。
「お前の選ぶ店、俺は好きだぜ。美味いし、値段も高過ぎねぇし」
「───…」
 そう告げてやると、臨也は静雄の肩口に顔を埋めたまま、静雄のシャツをぎゅっと掴む。
 その小さな仕草が、静雄の心を毎回、鷲掴みすることなど気付いてもいないのだろう。
「臨也」
 可愛くて愛おしくて仕方がない。そんな想いを込めて名前を呼ぶ。と、うん、と小さな声が返った。
 そして、そっと顔を上げさせてやれば、臨也はひどく無防備な、甘い表情で静雄を見上げる。
 互いの目を見つめ、それからどちらともなく顔を寄せて目を閉じ、唇を重ねた。
 甘く優しい温もりと感触に溺れながら、ゆっくりとキスを深めてゆけば、静雄の膝の上にいたサクラが安眠を妨害されたのか、起き上がって軽い仕草で静雄から下りた。それを幸いとばかりに、静雄は体の向きを変え、臨也を抱き寄せる。
 臨也も抗わず、細い体はしっくりと静雄の腕の中に納まった。
「……ん、…ふ…っ、シ、ズちゃ……」
「ん……」
 角度を変えるたびに、臨也の唇からは甘い声が零れて静雄を煽る。
 湧き上がる感情のままに求め、求められるキスは随分と長く続いたが、やがて夢中になり過ぎて酸素が足りなくなったのを機に、二人はゆっくりと名残を惜しみながら唇を離した。
 だが、ぴったりと寄り添った身体は熱を帯び、相手を求めて疼き出している。
 言葉にせずとも互いの欲望を感じ取りながら、臨也が、先程までは静雄の膝にいたサクラを気にして視線を走らせる。と、仔猫はソファーの端の方、お気に入りのふかふかクッションの上で、我関せずとばかりに丸くなって眠っていて。
 臨也の視線を追った静雄も、そんなサクラを見て、思わず相好を崩した。
「猫ってのは、本当に手がかからねぇな」
「甘ったれだけどね」
 二人して笑って、また触れ合うだけのキスを交わす。
「――そろそろ寝る用意、するか?」
「うん。……風呂の順番、どうする?」
「俺は別に、後でも先でも」
「そう。──じゃあ、」
 少しだけ考える素振りをした後、臨也は意識してか否か、やや上目遣いで静雄を見上げた。
「一緒に入る?」
 その思いがけない申し出に、静雄は一瞬驚く。
 これまでに経験がなかったわけではないが、二人で一緒にバスルームに入れば、ただ身体を洗って済むわけがない。ゆえに、のぼせるから嫌だ、というのが臨也の基本スタンスだったのだが、どうやら今夜は違うらしい。
 だが、このまま離れがたい気持ちは静雄も同じだったから、直ぐにうなずいた。
「おう」
 答えながら、こめかみにキスを落とすと、臨也はくすぐったそうに目を細める。
 そして、わずかに伸び上がって静雄の唇を軽くついばむようにキスし、両腕を静雄の首筋に回してぎゅうと抱きついた。
 大好き、と言葉でなく告げてくる仕草に、静雄もまた、細い身体を優しく抱き締める。
 ここからバスルームに辿り着くまでもまだ相当に時間がかかりそうだったが、それもまた愛おしい一時のうちであり、二人の甘く幸せな夜は始まったばかりだった。

End.

おろ様とのメールの遣り取りから生まれました、プレ臨誕小説。
新婚さんいらっしゃいの蜜月静臨。
愛でていただければ幸いです。

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