NOISE×MAZE  06:恋の病につける薬なし

『残念ながら、これを修理しようとすると基盤の取り換えになってしまいますので、うちとしましては買い替えをお勧めいたします』

「……どういうことです」
 電話越しに、すまなさそうというには事務的な口調で言われた言葉に、臨也は小さく眉をひそめて問い返した。

『つまりですね、中を開けてみましたところ、基盤のハンダが一部溶けてしまっていたので、もう使い物にならないんですよ。……お客様のご利用記録を拝見した限りでは、連続使用時間がかなり長いようですから、メーカーが想定している以上の負荷がかかってしまったのだと思います』

 ハンダが溶けた?
 亜鉛と錫の合金であるハンダは融点が低い。
 だからこそ中学の技術の授業でも実技が取り入れられているのだが、しかし、はたして携帯電話の基板に使われているハンダが溶けるなどということが起き得るのか。
 だが、現に電話口のサービスセンターの担当者は、そう抜かしている。そして、それを疑う理由も反論する理由も、臨也にはなかった。

『そういうわけで本体データの吸い出しも不可能なんです。MSDカードは返却できますので、そちらにバックアップが取ってありましたら、アドレスなどは新しい端末に移植できるのですが』
「いえ、アドレスは元からほんの数件しか登録してませんから、MSDごとその携帯はそちらで廃棄してもらえますか。子供に与えてあったもので、重要なデータは何も入ってませんので」
『分かりました。では、こちらの端末は責任をもって処分いたしますので、新しいものをお求めの際は通販をご利用になられるか、お近くのステーションまで御足労をお願い致します』
「分かりました。では」

 携帯電話を耳から離して、電源ボタンを切り。
 臨也は、手の中の小さな端末をじっと睨みつけた。
 そうして何秒、あるいは何分が経ったのか。
 少なくともたっぷり一分は経過した後、「ねえねえ」と声質ばかりは臨也そっくりの声が呼んだ。

「俺の携帯、どうなったの?」

 くるんと丸く見開いた目に少しばかりの心配を浮かべながら、サイケが肩ごしに振り返った臨也の顔を覗き込んでくる。
 自分と同じ光を受けると赤く透ける瞳を至近距離で見つめ、どうしたものかと一秒ばかり考えてから、臨也は正直に事実を口にした。
「うーん、直すのはちょっと難しいってさ」
「ええっ!?」
 告げた途端、サイケの瞳が衝撃に見開かれる。
 顔立ちは同じはずなのに、幾分年齢が若いせいか、それとも表情のせいか、サイケの目は臨也の目よりも大きいように感じられる。それが、更に丸く大きくなって、呆然と臨也を見詰めた。
「……じゃあ、じゃあ俺、どうしたらいいの? 津軽と電話できなくなっちゃう……!」
 三十秒ばかりの呆然自失を通り越すと、途端にサイケの表情がふにゃりと泣き出しそうに歪む。
 否、大きな瞳は早くも潤み始めていて、臨也は内心、溜息をつかざるを得なかった。

 サイケが、携帯電話が壊れた、とアザレアピンクの端末を臨也の元に持ってきたのは昨日朝のことである。
 手に取って確認してみれば、確かに電源ボタンを押しても起動しなかったので、臨也はそのまま購入店に持ち込み、修理を依頼した。その回答が、今の電話である。
 一言でいえば、再起不能。
 新しいものを買って下さい。そういう話だった。

「携帯電話は、また同じのを買ってあげるよ。でもね、サイケ」

 臨也は、彼らしくもなくサイケには甘い。甘いという自覚は、本人にもある。
 だが、それも仕方がないと自分に言い訳してしまうくらいに、サイケは可愛いのだ。
 といっても臨也には、自分と同じ姿形のものを愛でる趣味はなかったから、外見上のことは問題ではない。中身の部分が、驚くほどにサイケは素直で可愛いのである。
 臨也にしてみれば、長年、自分と容姿は似ているものの痛い言動ばかりする妹たちに手を焼いてきた分、妹たち以上に自分と相似した……というよりは、そっくり同じ遺伝子配列をもっているはずのサイケの無垢さは驚き以外の何物でもなかった。
 これが他人であれば、それこそ狼の群れのど真ん中に放り込んで、行く末をじっくりと観察するところだが、そもそも自分のクローンである以上、サイケの危機は臨也自身の危険にも繋がってしまう。
 ゆえに、必然的に庇護せざるを得ない状況になったのだが、そうして傍に置いてみれば、サイケは本当に素直に臨也に懐いて。
 ついつい臨也も、痛い妹たちより遥かに可愛いと思ってしまうほどには情が湧いてしまったのである。
 そんなわけで、臨也はプライベートでは他の誰に対しても発揮しない忍耐強さで、サイケに告げた。

「今回、お前の携帯が壊れたのは、はっきり言って使い過ぎ。毎日、朝から晩まで津軽と電話してただろ。……注意してなかった俺も、まずかったけど」

 臨也が知る限り、サイケと津軽の通話は、会えない日にはそれこそ「おはようからおやすみまで」だった。
 昨日、サイケの携帯電話を修理に出した後に利用明細を調べて気付いたのだが、二人が会えない日の一日の通話時間は平均して十五時間だった。しかも、ほぼ休みなしの連続使用である。はっきり言って有り得ない。
 会える日には多少、通話時間は減るが、静雄が津軽を連れてやって来るのは大体が深夜の一歩手前だ。やはり、朝から会えるまで十時間以上は通話している。
 そんなわけで、購入してから一ヶ月余りでの不具合は、明らかに使い過ぎが原因ではないのかと臨也も思っていたから、正直なところ、サービスセンターからの電話の内容は予想を裏切るものではなかった。
 まさか基盤が融けたとまでは考えてはいなかったが。

「だってえ……」
 臨也に極々軽くではあるが叱られて、サイケの瞳が更に潤む。
「津軽に会えないの、寂しいんだもん。電話切っちゃったら津軽がどこにもいなくなっちゃう気がして……」
「津軽はちゃんとシズちゃんのボロアパートに居るし、電話切ったからってサイケのこと忘れるわけじゃない。それくらいはお前も分かってるだろ」
「分かってるけど……」
 とうとうほろりとサイケの目から涙が零れた。
 悲しげにうつむき、津軽、と呟きながら、後から後から零れ落ちる涙を子供っぽい仕草で手で拭う。
「そんな風にこすったら肌を傷めるだろ。ほら」
 溜息をつきながら臨也は手近にあったティッシュボックスから三枚ほどまとめて抜き取り、サイケに手渡す。
 するとサイケは、鼻をぐすぐすと鳴らしながら素直にティッシュで涙を押さえた。
 そんなサイケを眺めやりながら、まったく、と臨也は溜息をつく。

 一体何がどうなって、あの静雄のクローンに自分のクローンが惚れたのか、未だにさっぱり分からない。
 自分たちは一目で互いの本質に気付いて、出会った瞬間から殺し合いだったというのに、クローンズは一目惚れときた。まったくもって有り得ない。
 ただ、遺伝子が同じとはいえ、サイケと津軽はネブラの研究室というオリジナルとはかけ離れた環境で、しかも一般社会から隔離されて育った。
 そういう意味では、津軽とサイケはオリジナルの二人とは全くの別人である。それこそ全く別々に育った一卵性双生児のようなものだ。
 そして、その純粋培養ゆえにサイケは勿論のこと、津軽も恐ろしく素直で従順な性格をしている。
 人懐っこいサイケに比べると内向的な津軽は、口数は多くはないが、きちんと相手の言葉には耳を傾けるし、必要なことはきちんと相手の目を見て言う。
 そして、静雄のような怪力はない代わりに──つまり結論から言うと、静雄のキレやすい性格は遺伝的なものではなく彼自身の個性で偶発的なものなのだろう──、驚くほどに愛情深く忍耐強い。
 分かりやすい愛情表現を貪欲なまでに求めるサイケには、彼を可愛いと思う臨也ですら時にはうんざりするのに、津軽は何時間でも何日でもそれに付き合い続け、サイケを甘やかし続ける。
 それは、自分とは似ても似つかないサイケに対する驚きと同じく、静雄が静雄でなければこんなにも違うのか、という感動を臨也に呼び起こすほどだった。
 だから臨也も、静雄がこんなに可愛い性格をしていたら簡単に手駒になってくれただろうに、と思う一方で、津軽を利用しようという気にはならない。
 もとより静雄に対しては、彼の身内を狙ってどうこうというような(静雄の反応が目に見えるという意味で)面白くない真似をする気はなかったし、まあ将来的にはどうか分からないという保留付きではあるが、今現在としては、サイケの恋人である津軽は、自分の身内でもあると臨也は認識している。
 そんな理由で、現在の臨也の中の津軽の位置づけはサイケに準ずるものになっているのだが、しかし、だからといって、二人のバカップルぶりに辟易していないというわけでもない。
 どちらかというと平和島幽を彷彿とさせる忍耐強過ぎる津軽の性格が、もう少しでも静雄のキレやすさを受け継いでいれば、と時折思わずにはいられないというのが正直な心情だった。

「……ねえ臨也」
 二人のクローンについて考えを巡らせていた臨也に、ひとまず涙の止まったらしいサイケが、まだしょんぼりモードのまま呼びかける。
「何」
 勿論のことながら、臨也は深くも考えずに返事をした。
 臨也と同じ遺伝子をもっている以上、サイケは決して馬鹿ではない。
 だが、臨也のような思考回路の使い方をしないサイケの言葉には裏はないし、意図的に臨也を困らせようとすることもない。
 だから、また何を思いついたのやら、と言動の予測のつかない幼児に対するような気分で答えたのだが。
 サイケは付けられたその通称の通り、サイケデリックだった。



「どうして臨也はシズちゃんと一緒に住まないの?」



「は……あ?」
 サイケという名前が付けられた意味を、はっきり言って臨也はこの瞬間まで理解していなかった。
 少し前に、どうして日本人のクローンに対して、そんな奇妙な通称が与えられたのか新羅に訪ねたことはあるのだが、返ってきた答えは「そりゃあ彼がサイケデリックだからだよ」という答えになっていない代物だった。
 だが、今ははっきりその意味が分かる。
 突拍子もない。
 奇天烈。
 確かにサイケデリックとしか言いようがない。

「シズちゃんがここに居てくれたら、津軽も一緒に居てくれるでしょ。そうしたら俺はいっつも津軽と一緒に居られるんだよ。どうして、臨也はシズちゃんと一緒に住まないの?」

 サイケは、臨也と同じ造りの脳細胞を使っていないわけでは決してない。
 使う方向が臨也と全く違うだけで、ある意味では二人の思考は非常によく似ている。
 自分の欲望を満たしたいがために猛進することに疑問など持たない。その一点においては、二人は全く一緒なのだ。
 しかし、と自分を棚上げして臨也は思わずにはいられなかった。
 欲求に素直なのにも程がある、と。

「シズちゃんとなんて一緒に住めるわけないだろ!!」

 思わず自制を忘れ、声を荒げて臨也は叫ぶ。
 その剣幕にサイケは驚いて目を丸くしたが、それだけだった。泣き出しもせずに、心底不思議そうに首をかしげる。
「どうして? だってシズちゃん、電車が無くなっちゃったらいつも泊まってくし、御飯も一緒に食べてるでしょ。どうして一緒に暮らせないの?」
「たまに来て泊まるのと、一緒に暮らすのとは全然違うだろ!」
「違わないよ。先週だってシズちゃんと津軽、三回も泊まっていったよ? 一日おきとか二日続けてとかに泊まるのと一緒に暮らすのと、どれくらいの差があるの?」
「通いと同居じゃ、月と地球くらいの距離があるんだよ。暗くて深い、どうやっても越えられない溝があるんだ」
「ないよそんなの。全然」
「ある!」
「ないもん! 一緒にご飯食べて、同じ屋根の下で寝るだけじゃない。シズちゃんが、行ってきますってお仕事に行って、ただいまーってここに帰ってくるだけじゃない!」
「その『だけ』が大問題なんだよ!!」

 毎日毎日朝夕、休日は朝から晩まで、どちらかが出かけない限り一緒。
 想像するだけで虫酸(むしず)が走る。
 絶対に、何があっても、恒久的に、永遠に、無理だった。

  「シズちゃんとなんて、死んだってお断りだ」
「そんなの変だよ。一番最初にシズちゃんにご飯作ってあげて、泊まっていけばって言ったの、臨也じゃないか」
「あーそうだね、そうだったね。俺の一生の過ちだ。黒歴史だよ、認めてもいい」
 むしろ過去の俺を呪い殺す。そんな気分で臨也は投げやりに言い捨てる。
 そして、サイケは臨也のそんな内心を感じ取ったらしい。
「……もういいよ、臨也の馬鹿!!」
 むくれて、つんとそっぽを向き、すたすたとソファーに歩み寄っていって、ソファーの隅っこで足を抱えてうずくまる。サイケお得意の、拗ね拗ねポーズだ。
 横目でその様子を見ながら、勝手に拗ねてろ、と臨也は心の中で呟く。
 平和島静雄と一緒に暮らす?
 死んだって御免だった。

*               *


「ねえねえシズちゃん」
 その夜、静雄が津軽と共に臨也のマンションを訪れたのは、いつもより早い午後八時半前だった。
 夕食は食べずに来たという二人に、同じくまだ食事を済ませていなかった臨也は渋々四人分を作り──勿論、静雄にも手伝わせながら。料理ができると分かった以上、ただ座らせておいてはやらない──、一同に食べさせる。
 そうして食後のお茶を飲んでいる最中に、サイケの冒頭のセリフは発せられた。
「おい、サイケ」
 サイケが何を言おうとしているのか。そんなものは予知の才能などなくても想像がつく。
 いささか焦って名を呼んだ臨也など綺麗に無視して、サイケは言葉を続けた。

「どうしてシズちゃんは、ここで一緒に住まないの?」

「は……あ?」
 サイケの爆弾発言に対する静雄の反応は、非常にムカつく一方で安心することながら、昼間の臨也と全く同じだった。
 しかし、他の誰かに言われたのなら、ほぼ漏れなくキレるだろう静雄も、『子供』かつ『身内』のカテゴリーに入るサイケに対しては沸点が高い。
 いっそブチ切れて、サイケを心底怯えさせて出入り禁止になればいいのに、という臨也の心情などまるで気付かない様子で、静雄は眉をしかめたまま首をかしげた。
「何だ、いきなり」
「あのね、俺の携帯、壊れちゃったでしょ? 原因は電話のし過ぎなんだって」
「ああ、らしいな。津軽から聞いた」
「それでね、新しいのは買ってもらったけど、またすぐに壊れちゃうと思うの。俺、どうしても津軽と繋がっていたいし。最初のうちは割と平気だったけど、津軽のことどんどん好きになるから、電話切るのもどんどん寂しくなってきて、今は夜寝る前に電話を切るのがすっごく悲しいんだよ」
「あー、まあ、そんなもんかな」
「うん。でもそんな風にずーっと電話してたら、また携帯がすぐに壊れちゃうかもでしょ? そういうの勿体ないし、俺も悲しいし。だからね、考えたの」
「……津軽と一緒に暮らせば、携帯は壊れねえってか」
「うん。なのにね、臨也はダメだって言うの。シズちゃんもダメって言う……?」
 うるっと大きな目を潤ませて、サイケは雨に濡れた捨て子猫のような風情で、テーブル越しに静雄を見上げる。
 ちょっと待てそれは反則技だぞ!、と臨也が心の中の声を上げるまでもなく、静雄ははっきりと困った顔になった。
「一緒に暮らす、っつってもなあ」

「ちょっとシズちゃん!」

 思わず待ったをかける。
 と、静雄はサイケに対するのとは全く違う、ひどく嫌そうな顔で臨也を見た。
「何だよ」
「大昔、高校時代の俺の泣き落としには全然反応しなかったのに、サイケの泣き落としには心を揺らすってどういうことだよ!? 同じ顔だろ!?」
「はあ? 馬鹿言え。どこが一緒だよ」
「はあ? シズちゃんこそ何言ってんだよ。サイケは俺のクローンだよ? 同じ顔に決まってるだろ?」
「じゃあ、手前には俺と津軽が一緒の顔に見えんのか?」
「それは……」

 見える、とは言えなかった。
 瓜二つだと分かってはいるが、静雄と津軽とでは表情が違う。
 もっとも臨也とサイケほどの差はないから、黙っている分には雰囲気もよく似ているのだが、しかし、津軽の表情は、静雄よりはどこか温和でやわらかい。
 だから、どれほど顔の造りが似ていようと臨也は二人を混同することはなかったし、見間違えることもなかった。

「だろうが。顔立ちは一緒かもしれねえが、お前とサイケとじゃ全然違うんだよ」
 そう言い、静雄はサイケに向き直る。
「確かに一緒に暮らした方が、お前たちはいいだろうけどな。俺はなあ。池袋まで歩いて通えないこともないけどよ……。社長にはいっぱい迷惑かけてっから、この上、通勤手当までくれとは言えねえし」
「え、ちょっと待ってよ、シズちゃん」
「──いちいちうるせぇな。何だよ」
「何だよはこっちの台詞だってば。今の台詞、どういうこと? 問題は通勤手当なんかじゃないだろ? 一緒に暮らすについての反論はないわけ?」
「──別に」
 ない、と言い切られて、臨也は唖然とする。
 反論がない?
 無いとはどういうことだ。自分たちは不倶戴天の敵同士ではないのか。池袋に足を踏み入れるたび、道路標識を片手に鬼の形相で迫ってくるのは、一体どこのどいつだというのか。
 しかし、静雄はごく当たり前のように臨也に向かって告げた。
「津軽を昼間、一人にしとくのも可哀想だと思ってたしな。こいつらが一緒に暮らせるんなら、その方がいいだろ」
「バカップルの二人は良くても、俺たちはどうなんだよ! 俺だよ? 君の大嫌いなノミ蟲と、どうして一緒に暮らせると思うんだ!?」
「……暮らせなくはないんじゃねえのか?」
「はああっ?」
「だってよ、現に俺はこうしてこの部屋に出入りしてるが、ここでなら手前にムカつくこともゼロじゃないにせよ、多くはねえし。手前の飯は美味いし、手前も俺の飯を食ってるだろ。それが毎日になっても、何とかなるんじゃないのか」

 駄目だ、と臨也は思った。
 今の静雄は化け物というより、むしろ動物だった。この生き物は、野生の本能でしか物を考えてない。所詮、毎食無事に食べられれば良いのだ。
 この野生動物め!!、と歯ぎしりしながら、臨也は反論の言葉を探す。
 怒り心頭に達して、即座に言葉が出てこないというのは本当に久しぶりの経験だった。
 言うまでもなく、この世に生を受けて二十四年、臨也にそんな思いをさせたのは、後にも先にもこの世に唯一人、平和島静雄だけである。
 そして、その野生動物は臨也の煩悶に気付くはずもなく。

「まあ、どっちにしたって、ここの家主はお前だしな。駄目だっつーんなら……」
 うーんと首をかしげて、静雄はサイケと津軽を等分に眺める。



「お前ら、うちに来るか?」



「はああああっ!?」
 今度こそ盛大に臨也は異論の声を上げる。
 しかし、誰にも省みてはもらえることはなく。
「え? シズちゃんのおうち?」
「……いいのか」
 サイケと津軽は、どちらも驚きと期待を込めて静雄を見上げる。すると、静雄は彼が最近よくする表情で笑った。
「うちは狭いし、ボロいけどな。あと一人くらいなら布団敷いて寝れるだろ」
「ホント? いいの?」
「おう。あ、でも布団は持って来いよ。さすがに三人分はないからな」
「行く行く、お布団持って行く! ありがとうシズちゃん!!」
「そん代わり、狭いとかボロいとか文句言うなよ。──あー、でも布団はどうすっかな。抱えては電車に乗れねえだろうし、セルティにこんな嵩張るもんを頼むのも悪いし……」
 しばし首をひねった後、あ、そうだとばかりに静雄は携帯電話を取り出し、一つの番号にかけ始める。
 幸か不幸か、それはすぐに繋がったようだった。

「おう、門田か? 久しぶりだな。ちょっと頼みてえことがあってよ。今、車出せるか? ……ああ、悪い。今、臨也ンとこのマンションに居るんだが、そっから俺のアパートまで運んでもらいたいもんがあるんだ。……嵩張ってるが、悪いもんじゃねえよ。説明はちょっとめんどくせえから、来てもらって実物見てもらった方が早ぇんだが……おう、頼むぜ。今度、ロシア寿司奢らせてもらうからよ。じゃあ、ニ十分後な。マンションの玄関で待ってるからよ」

 そして、静雄は通話を切り。
「門田っつー俺の知り合いが車回してくれるそうだ。サイケ、布団以外にも居るもんがあったら荷造りしろ。着替えとか歯ブラシとかな」
「うん! あ、津軽も手伝って!」
「ああ」
 二人は慌ただしく立ち上がり、パタパタとニ階に向かって駆けてゆく。
 その足音を聞いて、臨也はやっと我に返った。
「何勝手なことやってんだよシズちゃん!!」
「──何って、手前が同居を渋ってるからだろ。手前が嫌だっつーんなら、俺んちに来させるしかねえじゃねえか」
「どうしてそういう理屈になるわけ!?」
「どうしてならねえんだよ? 二人は一緒に居たい、お前は同居は嫌だ、残ってる選択肢は俺のアパートだけだろうが」
「シズちゃんの理屈はおかしい! なんでそうなるんだよ! そもそも、これまで通りで何が悪いっていうわけ!?」
「だから、それじゃああの二人の携帯が壊れ続けるってことだろ。電話代だってタダじゃねえんだし。だったら、一緒に居てやれるようにすんのは保護者の責任じゃねえのか」
 保護者の責任って何だ!、と喚きたかったが、臨也の理性が押しとどめる。

 確かに、静雄の理屈のすべてがおかしいというわけではないのだ。
 津軽とサイケが離れられない、津軽と静雄、サイケと臨也も離れられないというのなら、四人が一緒に暮らすというのは確かに合理的ではある。
 しかし、それは内二人が不倶戴天の旧敵同士でなければ、という前提付きだ。
 そして静雄の提案は、明らかに臨也の存在を無視している。臨也としては、黙って賛成するわけにはプライドに懸けてもいかなかった。

「そもそも、どうしてサイケだけ連れて行こうとするわけ? 俺の存在は最初から無視って、滅茶苦茶ムカつくんだけど」
「どうせ手前は、うちになんか来ねえだろ。断ると分かり切ってるもんを誘うかよ」
「そりゃ行くわけないよ! だけど、世の中には社交辞令ってもんがあるんだよ。あ、シズちゃんは知らないかな、社交辞令なんて高度な常識は。これまで一度だってまともな社会生活なんか送れた試しがないもんねえ」
 思い切り嘲笑うような調子で言い放つと、静雄のこめかみにみるみるうちに青筋が浮き上がり、ぴくぴくと震え始める。
「……手前、俺を怒らせたいのか? この家賃が馬鹿高そうな部屋を跡形もなく破壊して欲しいのか? だったら、素直にそう言いやがれ!!」
 そして、静雄が重い楓材のダイニングテーブルをひっくり返すべく端に手をかけ、臨也も応戦するために立ち上がりかけたその時。

「シズちゃーん、用意できたよー」

 救いの天使だか空気破壊の天使だかが、興奮に上気した満面の笑顔でダイニングキッチンに現れた。
「──おう、早かったな」
「津軽がいっぱい手伝ってくれたもん」
 えへへ、とサイケは嬉しげに隣りの恋人を見上げる。津軽もまた、いつもの無口ながら優しい目でサイケを見つめ、相変わらずクローンズの間にはハートマークしか飛び交ってはいない。
 そして、気分の変化が異様に早い静雄は、それだけで臨也への怒りが殺(そ)がれたらしく、テーブルから手を離して立ち上がった。
「よし、じゃあ行くか。忘れ物があれば、また取りに来ればいいからよ」
 そう言いながらダイニングを出てゆきかけて、あ、と静雄は臨也を振り返る。
「言い忘れてたが、日に一度はサイケに会いに来てやれよ。どうせ俺のアパートの場所は知ってんだろ。そん時だけは池袋に来ても、目をつぶってやるからよ」
 それだけ告げて、じゃあな、と静雄は先に言った二人を追って出てゆく。
 ほどなく玄関のドアがしまる音が遠く聞こえて。
 臨也は茫然と、一人きりになったダイニングキッチンで目をまばたかせた。

「……何これ。イジメ? 新しい手口の嫌がらせ?」

 呟いてみても、返る返事などありはしない。
 そして、いつになく主導権を奪われっぱなしだった臨也が我に返り、怒り狂いながら自分をぼっちにした三人に対して復讐の計画を練り始めるまでには、更に三十分ほどの時間を必要としたのだった。

to be contineud...

臨也ぼっち作戦発動。
続く次号。

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