LOVE IS WAR

 そっと優しいキスが降ってくる。その温かな感触を臨也は喜びと共に受け止めた。
 交際を始めて、かれこれ二年。共に暮らして十ヶ月。指輪を交換して八ヶ月。
 それだけの月日を共に過ごしていれば、キスなど最早、日常茶飯事で、一日に何度しているか知れたものではない。
 だが、たとえ幾分かは惰性に流れていたとしても、キスはキスだ。
 キスをする直前の静雄が自分を見る瞳の色も、優しかったり激しかったりする舌や唇の動きも、キスの後のうっとりと甘く溺れるような余韻の中で見る静雄の顔も、どれもこれも馬鹿みたいに臨也は好きだった。
 加えて、夜の寝室で交わすキスには、更に秘密めいた意味が加わる。
 自然に期待が胸に湧き上がるのを感じながら、静雄の首筋に両腕を回そうとした途端。
 触れた時と同じように、そっと唇が離された。
「──シズちゃん?」
 場所は寝室、それもベッドサイドに並んで腰を下ろしている状態である。
 ならば、このまま自分も相手もないくらいに蕩け合い、貪り合うべきではないのか。そう思いながら静雄を見つめると、静雄はキスをする前と同じ、ひどく優しい目の色のまま、臨也の頭を軽く撫でる。
 そのいかにも他意のなさげな優しい仕草に、臨也は相手の意図を悟って、きつく眉をしかめた。
「……ねえ、シズちゃん?」
「ん?」
「まさか、今夜もしないつもり……?」
 半ば意図的に声を低めた問いかけに、静雄は僅かに眉を動かす。
「──不満か?」
「当たり前だろ!」
 間髪入れずに言い返せば、静雄は少しだけ考えるような目をした。
 が、もう一度、ぽんと臨也の頭を撫でて。
「諦めろ」
 さらりと言われた言葉に、臨也は思わず柳眉を逆立てる。
「はぁ!?」
 思い切り不満げな声になったが、構ったことではない。大事なのは、己の主張をはっきりと相手に伝えることだった。
「諦めろって何だよ!! 一体、何日してないと思ってるわけ!?」
「何日って……お前が寝込んでからだから、十日間くらいか?」
「そうだよ! いくらインフルエンザに罹ったって言ったって、十日もあれば回復するっての……!!」

 臨也が毎年恒例になりつつあるインフルエンザに罹ったのは、先月の終わり、静雄の誕生日の直前のことである。
 セオリー通りに三日間高熱を出したものの、その後はゆっくりと回復に向かって、今はほぼ完全に復調している。
 にもかかわらず、この目の前の朴念仁は。

「でもまだ、完璧には戻ってねえだろ。この辺の肉、落ちたまんまだし」
 するりと指先に首筋を撫でられて、そのくすぐったいような微妙な感触に、臨也は小さく息を詰める。
「…っ…、こんなとこ、元から脂肪なんてついてないよ!」
「ンなことねぇよ。元々細かったのが、更に細くなってるっつーの」
「細いったって、所詮、男の首だよ!? 女の子に比べたら遥かにしっかりしてるっての!」
「それは否定しねえけどな。でも、まだ体重が戻り切ってねぇのは事実だろ」
「あと一キロかそこらだよ! 水でもたらふく飲めば戻る数値だろ!」
「それは只の水ぶくれだろ。体重が戻ったとは言わねえよ」
 臨也が何と言ってもいなしつつ、静雄は再度、ぽんと臨也の頭を撫でる。
「とにかく、今夜はしねえ。諦めて寝ろ」
 きっぱりと言い切られ、臨也は苛立ちが極限に達するのを感じた。
 思わず、無理矢理にでも跨ってその気にさせてやろうかと思った時。
「言っとくが、俺を無理やりにその気にさせようとしやがったら、両手両脚を縛り上げてやるからな」
 男は、メンタル面が性感に強く影響する女性と違い、直接的な刺激を受ければ簡単に欲情してしまう。それをよく分かっているからこその静雄の牽制だったが、もともと不機嫌MAXである臨也の臍を曲げさせるには十分過ぎた。
「……へーえ。そんなにシズちゃんは俺としたくないわけだ?」
 低くドスの効いた臨也の物言いに、静雄は耳聡く反応する。
「したくないとは言ってねぇだろ。今夜はしないっつっただけだ」
「でも、NOはNOだよね?」
 あ、そう。それならいいよ。
 そう心の中で呟きながら、臨也は静雄から離れ、広いクイーンサイズのベッドの上を横切った向こう側、自分の定位置の羽毛布団にもぐり込む。
「おい、臨也」
「うるさいよ、シズちゃん。今夜はもう寝るんだろ」
 静雄に背を向けながら、つんと言い返せば、静雄が小さく溜息をつくのが聞こえて。
 臨也は目を閉じて、ぐっと手のひらを握り締めた。
 別に臨也も性欲の権化というわけではない。むしろ、性欲はそれほど強い方ではないだろう。
 だが、静雄とのSEXは素直に好きだった。
 最愛の恋人と触れ合い、身体を繋げて歓びを分かち合うことが幸せでなかったら、何を幸せというのか。
 だからこそ、やっと体調が戻ってきたと確信できた今夜は抱き合いたかったというのに。
 臨也の体調が優れなかった間中、静雄はひたすらに臨也を甘やかしてくれた。
 気遣うように触れる手指や宥めるようなキスは、ひたすらに優しくて、不調にあえぐ心に染みたけれど、もどかしく物足りなかったのも事実なのだ。
 夕飯の時には、完全に食欲を取り戻した臨也を見て、静雄も元気になったなと喜んでいてくれたから、てっきり今夜はするものだと思っていたのに。
 おそらく静雄としては、用心のためにもう一晩二晩、我慢しようという腹なのだろう。
 それくらいのことは分からないわけではない。
 けれど。
(シズちゃんの馬鹿……!!)
 パートナーがOKだと言っているんだから、男なら据え膳を喰らえ、と心の中で恨み言を連ねながら、臨也はどうにかして眠ろうと務める。
 その背後では、静雄が同じようにベッドにもぐり込み、肩まで布団を引き上げる気配がして。
「……おやすみ」
 低く告げられた言葉に、臨也はきゅっと唇を噛み締めた。





「手前……いい加減、機嫌直せよな」
「は? 何のこと?」
 俺は全然機嫌悪くないけれど?、とにっこり笑って返してやれば、静雄は苦虫を噛み潰したような顔になる。
 その顔を見上げながら、臨也は腹立ちを綺麗に押し隠して、いつもと何ら変わらない調子で続けた。
「ごめんね、このところ忙しくってさあ。今日もすごく眠いんだよ」
 目の下、ちょっと隈ができちゃってるし、というのは決して嘘ではない。
 仕事柄、パソコンのモニターや携帯電話の画面を見ている時間はかなり長い上に、最近の眠りは時間はともかくも、浅くて熟睡した感じがないのだ。
 ゆえに、ごく薄くではあるが目の下の血色が悪くなってしまっているのである。
「俺だってしたくないわけじゃないけど、多分、今やったら途中で寝ちゃうと思うんだよね」
 だから、ごめん、とすまなさそうな笑顔を向ければ、静雄がもう何も言えなくなることを、臨也は良く知っていた。
「じゃあね、俺、もう寝るから。シズちゃんも夜更かししちゃ駄目だよ」
 言いながら、ひらひらと右手を振り、ダブルベッドの自分のスペースにもぐり込む。
 そして、数分後に静雄が溜息をつきつつ、隣りにもぐり込んでくるのを感じていれば、不意に静雄の腕が身体に回され、背後から抱き締められた。
「──しないよ?」
「……分かってるっての」
 それでも、と抱き込んでくる腕の温かさに、臨也は少しだけ迷ってから身体の力を抜く。
 触れ合っている背中や肩、脚から静雄の体温が伝わってくる。低体温気味の臨也には、その温かさが心地良い。
 けれど、パジャマ越しでなければもっと、と考えて、臨也は慌てて思考がその先に進むのを押さえ込んだ。
 身体の奥がきゅっと疼くような感覚がしたが、気にしてはいけないと自分に言い聞かせて目を閉じる。
 ───馬鹿な意地を張っているのは重々承知していた。
 臨也が体調不良を理由に、静雄とのSEXを拒み始めてから、かれこれ五日。
 原因は極単純──病後の臨也の体を気遣って、静雄が据え膳を食わなかった。それだけのことである。
 だが、臨也は猛烈に腹を立てたのだ。それこそ、こんな馬鹿げた性的ストライキを始めてしまうくらいには。
 そして、生来の捻くれて負けず嫌いな性格ゆえに、一度張り始めてしまった意地は容易なことでは崩すことができず、結果、臨也は触れ合いたいのに触れ合えないという二律背反を自ら生み出して、欲求不満を持て余す羽目に陥っていた。
(何もかも全部、シズちゃんが悪いんだ。バーカ、おたんこなす、唐変木)
 そう心の中で呟き、なじりながらも、背面に感じる静雄の体温を感じ取ろうと臨也の心身はさざめいてしまう。
 ───こんな風に抱き締めるのではなく、いっそのこと力尽くで奪ってくれたら。
 そうしたら、もう馬鹿な意地など張る必要はなくなるのにと、つい考えずにはいられない。
 その膂力に任せて強引に組み敷かれたら、こちらも力の限りに縋り付いて、その背に、その肩に爪を立て、噛みついてやるのに。
 けれど、妙なところで優し過ぎる静雄は、臨也が自ら受け入れる意思表示をしない限り、決して無理強いはしてこない。
 その代わりに、こんな風に抱き締めてくるのだ。もういい加減に機嫌を直せと。馬鹿な真似をしていても大事にしたいと思うくらいには大切なのだと。
(シズちゃんの馬鹿……)
 心の中でもう一度、そう呟いて。
 全身を包む静雄の体温と匂いに誘い込まれるように、臨也はゆらゆらと浅い眠りに落ちていった。






「──はぁ」
 カレンダーの日付を眺めて、臨也は一つ溜息をつく。
 仕事中にも何度も溜息をついては、波江に辛気臭い鬱陶しいと散々にののしられたが、知ったことではない。零れるものは零れるのだ。
「まさか、バレンタインまで続くとはね……」
 軽い気持ち、ではないにしても、ちょっとした苛立ちから始まった臨也のストライキは、既に一週間に及び、今日はもう二月十四日、バレンタインデーである。
 つまり、足掛け三週間も静雄とはSEXをしていない計算だった。
 無論、臨也自身もそう簡単に折れるつもりでストライキを始めたわけではない。だが、さすがに半月以上も空白が続くとは思っていなかった。
 もっと早い段階で静雄が宥めにかかってくるか、あるいはキレるかするだろうと踏んでいたのだ。しかし、常に臨也の予想の斜め上空をいく恋人が、そんな臨也が勝手に想定したセオリー通りに動くはずはなく。
 毎晩、ただ臨也を抱き枕よろしく腕の中に閉じ込めて眠るだけで、それ以上のことを強要してくるそぶりは何一つないまま、今日という日になってしまったのである。
「でもさあ、今更どんな顔で折れたらいいわけ?」
 臨也とて木石ではない。気分の上ではとっくに根を上げていたし、ストライキを始めた次の日には触れ合いたくてたまらなくなっていた。
 にもかかわらず、ストライキを継続したのは一重に意地ゆえだ。
 実に馬鹿な話である。
 だが、その底の浅さゆえに、返って臨也自身には解決不能な事態となってしまっているのは否めなかった。自分で張った意地を自分でへし折れるほど、臨也は器用ではないのだ。
「シズちゃんが力ずくで襲ってきてくれれば、全部解決するんだよ、ホント」
 そんな身勝手な呟きを零しながら、臨也は自分の薬指に嵌まったプラチナのリングを弄る。
 そもそもどうして、こんなことになったのか。
「なんであの時、俺はあんなに腹を立てたんだっけ……?」
 今更ながらに、臨也はあの夜のことを振り返ってみる。
 会話としては、何ということもない。静雄が「今夜はしない」と言っただけのことである。
 なのに、どうして自分はあれ程までにも怒ったのか。
「……いや、怒ったっていうより拗ねたっていう方が正しいのかも」
 あの夜、臨也は久しぶりに静雄と抱き合えると思っていた。だが、静雄はそれを拒んだ。臨也の体調がまだ万全ではないという理由で。
「……あれかな。楽しみにしてたデートをドタキャンされたとか、そういう感じにちょっと似てるかな」
 十日ぶりの快楽を共に味わい、甘い幸せに浸りたかったのに、駄目だと言われた。
 加えて、大丈夫だと言っているのに、それを否定された。
 そんな二重の意味で、水を差されて腹が立ったし、それに。
「少し悲しかった、のかも……」
 ぽつりと呟きが零れる。
 もとより臨也はプライドが天に届くほどにも高い。ゆえに、否定されれば反射的に腹を立て、相手を叩きのめすことを考え始める。
 だが、それとは近いようで遠い場所で、静雄に拒絶されれば悲しくなる、という密やかな事実があった。
 静雄と楽しみたいと思って口にしたことを駄目だと言われたら、プライドや意地とは全く別のところで、純粋に寂しいし、悲しい。恋をしているのだから、その感情は当然のものだ。
 けれど、そのプライドの高さゆえに、寂しさも悲しさも、感情の表面に昇る時には怒りへと変じてしまうのである。
 思えば昔からそうだった、と臨也はソファーに座ったまま、膝を抱えた。
 臨也は長い間、静雄に対する自分の想いを自覚しなかったが、その理由は、この無駄に高いプライドと、それを守ろうとする無意識の感情の動きに起因している。
 意のままにならない、愛してくれない相手を愛していると認めるのは、臨也の性格上、至難の技だったのだ。それよりも、苦しい切ない想いを怒りや憎しみに変じる方が、遥かに簡単だったから、まだ十五歳だった臨也の深層心理はそちらを選んだのである。
 そのねじくれた心理は静雄が臨也を愛してくれたことでほぼ解消したが、高いプライドは未だ健在であるために、時々こんな齟齬が起きてしまう。
「シズちゃんが俺のことを思って言ってくれてたのは、分かってたのになあ……」
 宝物のように大切にしてくれているからこそ、あの夜、静雄は臨也を抱こうとはしなかった。病み上がりの体に、ほんの僅かでも負担を強いることを厭(いと)ったのだ。
 けれど、臨也の感情は、恋人の気遣いよりも、期待していた喜びを奪われ、平気だと主張するのを否定されたことの方に反応してしまった。
 静雄の配慮は理解していながら、それでも尚、拒絶された悲しさ寂しさの裏返しで、腹を立てずにはいられなかったのだ。
「……よくシズちゃんは怒らなかったよね……」
 静雄の懐に入れた相手に対する呆れるほどの寛容さに改めて感じ入りながら、これからどうしよう、と臨也は考え、ローテーブルの上にまなざしを向ける。
 そこにあるのは、小さな紙袋だった。
 幾らストライキ中とはいえ、イベントをないがしろにするのは臨也の信条に反する。
 ゆえに、ちゃんとチョコレートは吟味の上に吟味を重ねて何日も前から用意してあるのだが、しかし、上手く渡せるかどうか。
「ごめん、って言えればいいんだろうけど……」
 静雄と恋人同士という関係になって二年余りが経過した今も、臨也は自分の非を認めて謝るということが苦手だった。
 軽い調子で気持ちを込めずになら、幾らでも謝罪の台詞を言える。だが、本心から悔いて謝ったことは、これまで二十数年生きてきた中で、数えるほどしかない。
 だが、こんな馬鹿げた状況は、もういい加減に終わりにしたかった。
 静雄は臨也の態度に怒りこそしないが、拗ねた臨也を持て余し、どう対処すればいいのか困惑しているのは、一緒に暮らしていれば否が応でも伝わってくる。
 そして、臨也もまた、静雄に余計なことを言わせないよう常に言動にはぐらかしを含めているため、日常のやり取りも何かと不自然かつ、ぎこちなくなってしまっている。
 自分が始めたこととはいえ、さすがにもう限界だった。
「──うん、シズちゃんが帰ってきたら謝ろう」
 上手く言えるかどうか自信はないが、きちんと向き合えば、勘のいい静雄のことだ。必ず臨也の気持ちを汲み取ってくれるだろう。
 そしてチョコを渡して、仲直りをすればいい。
 そう心に決めると、少しだけ気持ちが楽になった。
「あー、でも本当に俺、どんだけシズちゃんを好きなんだって話だよね」
 静雄の言動に一喜一憂して、気分が上昇したり沈み込んだりを繰り返して。
 そんな極々平凡な恋を一体何年続けているのだろうと思うと、自分のことながら呆れるようなくすぐったいような奇妙な気分だった。
 これが他人事だったら面白いだけなのに、と思いつつ、抱えた膝に顎を乗せ、ぼんやりと時間が流れるのに任せていると。
 ソファーの端のクッションの上でずっと眠っていたサクラが、ぴくりと反応して頭を上げた。
 三角耳をそばだて、おもむろに起き上がって軽く伸びをしてから、フローリングの上にぴょんと降りる。そのまま尻尾を真っ直ぐに立てて、とことことドアに向かって歩いてゆくのに、臨也は恋人の帰宅を知った。
 それから待つこと一分。
 玄関のドアを開け閉めする音が聞こえ、ほどなくリビングのドアが開く。
 途端に、待ち構えていたサクラがニャァと鳴いた。
「ただいま、サクラ」
 長身をかがめ、足元に体を擦り付けてくる黒猫を静雄は軽く撫でる。それから、顔を上げて臨也を見た。
「おかえり、シズちゃん」
「おう」
 ストライキ中とはいえ、目に見える様な喧嘩をしているわけではない。むしろ、日常は変わりのないよう装っていたから、朝晩の挨拶もこの三週間、欠かしたことはなかった。
 臨也がソファーから立ち上がり、歩み寄れば、肩に軽く手を添えられて触れるだけのキスが唇に落とされる。
 そして、至近距離で目を合わせて。
 あのさシズちゃん、と呼びかけようとした時。
「これ、やる」
 おもむろに小さな紙袋を差し出された。
「へ?」
 見れば、見慣れたロゴは静雄の気に入りの池袋にあるパティスリーのものである。だが、紙袋の大きさからすると、プリンや杏仁プリンといったアントルメ(生ケーキ)ではない。
 受け取り、そっと中を覗き込むと。
 艶のある赤い包装紙でラッピングされた、小さな箱が収められていた。
「食いもんで釣るわけじゃねぇけどよ。それやるから、いい加減に機嫌直せ」
「────」
「今日はバレンタインだろ。幾ら何でも、こんな日まで喧嘩続ける必要ねぇだろうが」
「……喧嘩、じゃないけど」
 でも、と思いながら臨也は箱の中の小さな包みをじっと覗き込む。
 きゅう、と胸の奥が引き攣れるように疼くのは、切なさだろうか。それとも愛おしさだろうか。
「どんな顔して買ったの、これ」
「別に普通だ。普段からこの店で、しょっちゅうケーキ買ってるからな。それに今年は男からチョコやるのも流行なんだろ?」
「──よくそんな流行、知ってたね」
「トムさんがな、言ってた。目当てのキャバクラの女の子にチョコ贈るっつって張り切ってたんだよ」
「へえ」
 それならありそうな話だ、と臨也は納得して背後を振り返る。
 そして、ローテーブルに歩み寄り、置いてあった紙袋の中から有名ショコラティエの綺麗にラッピングされた小箱を取り上げて。
 再び、静雄の前に立った。
「はい、シズちゃん。これは俺から」
「──おう」
 ありがとな、と静雄は低く告げて臨也が差し出したチョコレートを、当たり前のように受け取る。
 それだけのことに馬鹿みたいにほっとしながら、臨也は静雄にゆっくりと抱き付いた。
 外回りで冷たくなったダウンジャケットの感触を確かめるように、ぎゅっと抱き締めると、同じように背を抱き締められる。
「ごめんね、シズちゃん」
 その言葉は不思議なほど自然に口から滑り出た。
「おう」
 すると、静雄もほっとしたのか、大きく息をつき、それから臨也を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。
 そのまま大きな手のひらに背や髪を撫でられる優しい感触に、臨也はそっと目を閉じて、静雄の胸に体重を預けた。
「……ねえ、どうして俺がストライキしてる間、怒らなかったの」
「どうしてって……具合の悪い奴相手に怒れるかよ」
「インフルエンザの前後はともかくも、最近は別に具合は悪くなかったよ? それなりに仕事は忙しかったけど体調崩すほどじゃなかったし……てっきり気付いてるもんだと思ってたけど」
 静雄の少々意外な答えに、臨也はきょとんとしながら問い返す。
 が、返ってきた答えは、「バーカ」だった。
「一昨日辺りからは確かに本調子に戻ってたみたいだけどな。それまではずっと、何してても体の切れがなかったんだよ。自覚なかったのか?」
「ええー?」
「インフルエンザの熱が下がった後は五日間くらいマジでひどかったし、その後も、いつ見てもちょっとだるそうでよ。そんな奴に手を出せるかよ」
「……でも、シズちゃんもやりたがってたじゃん」
 この一週間ほどの夜のやり取りを思い出しつつ、そう言えば、それにもまた否定が返ってきた。
「やりたがってねぇよ。俺は機嫌直せとしか言った覚えはねえ。お前がいつも先取りして、今夜はしたくないって言ってやがっただけだ」
「……そうだっけ」
「そうだっての」
 馬鹿野郎、と罵言と同時に、こつんと額をぶつけられる。特に痛くもないそれは、甘い感触を臨也に残しただけだった。
 至近距離で静雄の顔を見つめながら、思い返せば、確かに体調は万全とは言い難かったかもしれない、と臨也は思う。
 体がそこはかとなくだるいのは欲求不満で眠りが浅いせいだと思っていたが、もしかしたら逆で、体調が優れなかったから眠りも浅かったのかもしれない。
 静雄はそれに気付いていて、だからこそ毎晩、抱き締めて眠ってくれていたのだろうか。
 早く元気になれ、ついでに機嫌も直せと念じながら。
「ったく、俺の身にもなれっつーんだ」
「……エッチなこと、したかった?」
「したくねえわけねぇだろ、馬鹿。でも、お前が具合悪そうにしてりゃ萎えるんだよ。なのに、手前は訳の分からねえ拗ね方しやがって」
「それはまあ、ねえ」
「まあ、最初の俺の言い方も悪かったとは思うけどな。ああいう言い方したら、お前がキレるのは分かり切った話だし。さすがにこれだけ臍曲げるとは思ってなかったけどよ」
「……腹が立ったんだよ。俺はいやらしいことする気満々だったのに、シズちゃんが据え膳食おうとしなかったからさ」
「人のせいにするな、って言いたいとこだけどな。仕方ねぇから、半分は俺のせいってことにしておいてやる」
「あと半分は俺のせい?」
「当然だろ」
 きっぱりと言い切られて。
 何となくおかしくなって、臨也はくすりと笑う。そして静雄の首筋に甘えるように額を擦り付けた。
「──いいよ。仕方ないから、それで」
「仕方ないって、お前が言う台詞じゃねえだろ」
 そう言いながらも、静雄の声も笑っていて。
 静雄の長い指が臨也の顎の辺りをくすぐった。
「なんか今の仕草、サクラそっくりだったぜ。やっぱりお前、猫なんじゃねぇの?」
「はぁ? 何それ。失礼だよ」
 動物にたとえられたことに眉をしかめて見上げれば、静雄はひどく優しく笑んだ瞳でこちらを見つめていて。
 反射的に臨也は、まあいいか、と思ってしまった。
「──じゃあ今度、猫耳でもつけてみる?」
「要らねえよ、馬鹿」
 頭の沸いたような提案をしてみれば、静雄はくっと笑う。
「お前が普段の真っ黒黒すけじゃねえ恰好をしてんのは、新鮮で嫌いじゃねえけどな。コスプレの趣味は俺にはねぇよ」
「ふーん。じゃあ、ナース服とか着なくてもいいわけ?」
「お前にミニスカ履かせてどうすんだよ。どっちかっつーと、シャツ一枚とかそっちの方がいい」
「彼シャツ?」
「おう。お前が俺のパジャマの上を着ると、袖口から半分、手が出るだろ。あれは結構クるぜ。あと、そのぶかぶかの袖を腕まくりして朝飯作ってるのとかな。ああいうの、萌えっつーんかな」
「そうだねえ」
 うなずきながら、そうだったのか、と臨也は目からウロコが落ちる気分だった。
 静雄はSEXそのものは好きなようだし、実際に強い。だが、これまであからさまなフェチを示すことは殆どなかった。
 とにかく臨也に触ることが好きなことと、臨也の性感を高めるためならかなりの技巧を駆使することも厭わないことは、これまでの経験で分かっていたが、それ以上の萌えポイントについては不明のままだったのである。
 だが、まさか彼シャツが好みだったとは。
 臨也自身も勿論、多少は挑発の意味を込めて静雄のパジャマを着たりしていたが、実のところは単に手に取ったのが静雄のパジャマで、自分のを拾い上げるのが面倒くさかっただけの場合が殆どだっただけに、これはちょっとした衝撃の事実だった。
 しかし、
「でもさ、シズちゃんって熟女っていうか、むっちり系のお姉さん好きだろ? ナース服とかには萌えないわけ?」
 静雄の本来の女性の好みがどんなものか承知している臨也としては、その辺りが少々不思議で、つい突っ込んで尋ねてしまう。
 すると、静雄は案外真面目に答えた。
「まあ、その辺はな。AVとかで見る分には嫌いじゃねぇよ。でも、お前がミニスカ着てもなぁ。肉付きが悪すぎんだろ。俺は、痩せぎすな女は好みじゃねえんだよ」
「……でも、そう言う割には、シズちゃんは俺の脚、好きだよね?」
 SEXの度に散々に撫で回されるのに、嫌いと言われては到底納得できない。そんな思いで突っ込めば、おう、とあっさりした返事が返る。
「お前はお前だろ。お前の生足を見れば、条件反射で反応するに決まってんだよ。惚れてんだから。でも、だからってミニスカはかせて女装させたら、更に萌えるかって言ったら違うんだよ。お前だって、俺がミニスカはいたとこ、見たいか?」
 そう問われて。
 思わず想像してしまった臨也は、目一杯眉をしかめた。
「気色悪いね、ものすごく。鳥肌立った」
「だろうが」
「幽君は女装しても綺麗だったから、シズちゃんも化粧すれば、結構な美女になると思うし、脚だって脛毛を剃ってストッキング履けば、細いからそれなりに綺麗に見えると思うんだよ。でも、それで萌えるかって言われたら無理。ネタとしては面白いけど、とっとと脱いでって言いたくなるだろうね、きっと」
「そういうことだ」
 うなずきながら、静雄は臨也の肩に手を置き、二人の間に少しだけ距離を作って、まじまじと臨也の全身を眺める。
「まあ、お前は細いし、俺よりは女装も似合うだろうけどよ」
 静雄の視線がつま先まで下がり、また戻ってくる。そのことにくすぐったさを覚えながら、臨也は笑った。
「嫌だよ、スカート履くなんて。宴会芸じゃあるまいし」
「分かってるっての。俺だって別に見たくねえし。第一、その身長でハイヒール履いたら百八十センチ超えるだろ。いくら美人でもデカすぎるぞ」
「えー、モデル体型じゃん。パリコレに出ようと思ったら、女でも最低百八十センチは要るよ?」
「俺はそんな女とは付き合いたくねえよ。まあ、キスはしやすいかもしれないけどな」
 そう言い、臨也の顎を指先で軽くすくい上げるようにして、静雄は唇を重ねる。臨也も、そのまま静雄の首筋に両腕を回してキスに応えた。
 数度ついばむように口接けてから、深く深く互いを繋ぎ、絡ませ合う。
 久しぶりのきちんとしたキスは何もかも蕩けるように甘くて、唇を離した後も、うっとりと余韻に溺れながら静雄を見上げると、そんな臨也に静雄は淡く笑んだ。
「続きはメシ食ってからな」
「……おなか空いてるの?」
「当たり前だ。もう八時だぞ。三時にマックでシェイク飲んだ後は、何にも食ってねえんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、御飯にしようか」
「おう。今夜はカレーだろ。さっきから匂いが気になって仕方ねえ」
 言いながら、静雄は小さく鼻をうごめかす。だが、彼でなくとも部屋中に漂うスパイシーな香りには、玄関に入った瞬間に気付くだろう。
 給食の時間の小学生のような表情を見せる恋人にくすりと笑いながら、臨也は静雄の顔を覗き込む。
「今日はね、スペシャルだよ。野菜たっぷりのカレーにハンバーグと目玉焼きのせ」
 目玉焼きはこれから作るんだけど、と告げれば、静雄は目をまばたかせた後、面白げな表情を浮かべた。
「お前も食いもんで釣る気満々だったんじゃねえか、臨也君よぉ」
「そりゃまあ、バレンタインデーだしね」
 意地を張るのにもいい加減飽きていたのだと、臨也は肩をすくめて笑う。
「ほら、一緒に御飯の支度しようよ。ハンバーグと目玉焼き、焼かないと」
「──おう」
 臨也が差し出した右手に、静雄は当たり前のことのように左手を重ねてきて。
 その薬指に、いつもと変わりなくプラチナリングが光っていることにひどく満足して、臨也は温かな手をぎゅっと握り締め、共にダイニングキッチンへと向かった。

End.

2012年バレンタイン作品。
前回の残念ネタを引きずってます……w

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