DAY DREAM -Sweet Tears 01-

 まるでその涙は、自分を見てくれ、という悲鳴のようだった。

*               *

 通勤ラッシュも過ぎたというのに、新宿駅は相変わらず人が多い。
 だが、その人混みを越えて、静雄は直ぐにその姿を見つけ出すことができた。
 改札を出て正面の壁際で、壁に背を預けて立ち、いつもの得体の知れない笑みを口元に刻んで携帯電話を弄っている。
 その様子は誰かを待っているようにも見えるし、単に時間潰しをしているだけにも見える。が、不意に一瞬だけ画面を離れて、心許(こころもと)なげに宙を彷徨った視線を静雄は見逃さなかった。
 携帯電話の画面から目線を外し、また戻す。そのほんの数秒間だけ浮かんだ表情は、殆ど無表情に近い。
 毒を含んだニヤニヤ笑いを浮かべていない、清廉にさえ見えるただひたすらに綺麗に整ったその顔が、臨也の素顔なのだと静雄が知ったのは、まだほんの二ヶ月ほど前のことだ。

「臨也」

 近付き、声をかけると、やっと気付いたかのように顔を上げる。その表情は、もういつもの臨也だった。
「待たせたか?」
「そうでもないよ。メールもらってから家を出たから。ついさっき、来たところ。それでも俺を待たせるなんて何者だって感じだけどね、シズちゃん」
 肩をすくめながら、そんな風に嫌味たっぷりに言ってくる。
 だが、それに腹が立たないのは、つい先程、うつむき加減に彷徨った視線を見たからだ。
 表情には何も浮かんではいなくとも、虚空を見つめた瞳は、どこか不安げにも見えたし、戸惑い、困惑しているようにも見えた。
 おそらく、と静雄は思う。臨也にしてみれば、こんな風に待ち合わせをしていることが信じられない、という気分なのだろう。
 自分はタチの悪い夢を見ているのではないか。否、悪い夢ならまだいい、これが現実だったらどうすればいいのか。
 そんな風に戸惑っている瞳は、これまでに何度も目の当たりにしてきた。だから、分かるのだ。
 つい先頃、恋人になったばかりのこの男は、天邪鬼であると同時に、物事に対してひどく懐疑的な性格をしており、相手が静雄ともなれば、それにより一層の拍車がかかる。
 そういう厄介な相手と二ヶ月余りの間、じっくりと向き合って静雄が学習したのは、臨也の口は本人とは別物と思え、ということだった。

 万人が認めるところだろうが、とにかく臨也の口は、よく動く。
 それこそ別の生き物ではないかと思うほどに、ぺらぺらと静雄の神経を逆撫でする言葉を吐き続ける。
 しかし、羅列された語数の百分の一も、そこに本心は含まれていないのだ。むしろ、本心とは正反対か、全く関係のない、あるいは只の嫌味といった無価値な言葉ばかりで折原臨也という男の吐く言葉は構成されている。
 そんなものに惑わされていたら、臨也の本心など全く掴めない。先頃そう気付いた静雄は、ならばと、臨也の言葉にではなく、目の色や面を一瞬かすめる表情、ささやかな仕草といった諸々に意識を集中するよう気持ちを切り替えた。
 たとえば、玄関先で自分を出迎えた時の目の動き。手土産を渡した時の表情。画面に見入る横顔。
 そんなものを一つ一つ丹念に集め、組み立ててゆくうちに見えてきたのは。
 単にひねくれ過ぎて、感情表現に不器用過ぎる、同い年の男だった。

「悪かったな、待たせて」
 まったくこいつは、と思いながらも、確かに待たせたのは申し訳ないと感じるから、静雄は謝る。
 すると、臨也はそれだけで一瞬、黙り込む。そして、それ以上の嫌味を思いつかなかったのか、気まぐれを起こしたかのように、体の向きを変えた。
「別にいいけどさ。それより移動しようよ。いつまでもここに立っていても仕方がないし」
「おう」
「リクエスト通り、店は適当に選んでおいたよ。無難に居酒屋にしたけど、いい?」
「飯が食えて話ができりゃ、どこでもいい」
「──そういうとこ、シズちゃんって本当に大雑把だよね。もう少しマメにならないとさあ、色々困るよ? 会社で飲み会の手配とか任されることないの? 一番下っ端なんだろ」
「ねぇよ。飲み屋ならトムさんがすげえ詳しいし、顔も利くからな。俺は呼ばれたらついてくだけだ」
「……あ、そ。つまりシズちゃんの会社の人は、シズちゃんの使い方をよーっく分かってるわけだ。良かったね、いい上司に恵まれてさ。あ、でも、それには俺も一部、貢献してるわけじゃん。感謝してもらわないと。今日の晩飯代、奢ってもらってもいいくらいだよねぇ」
「……臨也」
 歩きながら、溜息混じりに静雄は名前を呼ぶ。
「ん? 何かな? 奢ってくれる気になった?」
「あのな、今のお前相手にキレる気はねぇが、よりによって一番ムカつく話を持ち出してくんな」
「え、何。また命令形?」
「じゃねーっつうの。俺と二人で歩いて間が持たねえってのは分かるけどよ、もう少し話のネタを選べ。手前とこうして一緒にいるとはいえ、俺は過去に手前がやったことを許す気はねぇんだからな。それをわざわざ蒸し返すな」
「──許す気ないなんて、シズちゃん、心狭いね」
「手前のしたことは、許す許さないの範疇を超えてんだよ。とにかく店に着くまでの間くらい、黙ってるか、話すにしてももう少しマシなネタにしろ」
「あれ、店に着いたら良いわけ?」
「だから、言ってんだろ。差し向かいで話す分には、お前の話はムカつかねぇんだよ」
「……今だって、隣りにいるじゃん」
「お前の顔ばっかり見て歩いてたら、人や電信柱にぶつかるだろうが」
「───…」
 何それ、と臨也は呟くが、それ以上の言葉は続かない。
 やっと静かになったか、と思いながら、静雄は本来の言いたかったことを唇に乗せた。

「お前の選んだ店に、文句なんかつけねぇよ。お前のことだから、どうせ口コミサイトとかで色々調べたんだろ。そんだけのことしてくれたのに、お前に店を選んどけっつった俺が、何か言うわけねえだろ」

 静雄相手の場合に限ってのことだが、臨也の口数がいつもにも増して多く、内容もウザい場合は、大概、何かを懸念している時──都合の悪い何かがバレそうになっている時か、あるいは静雄の反応を気にしている時、だった。
 自分が追い詰められるような言葉を防ぐために、静雄が口を開く前に神経を逆撫でする言葉を並べ立て、主導権を握って有耶無耶にしてしまおうとする。
 両想いになってからまだ日が浅いが、その際にやたらと言葉でごねられたことに加え、それ以前の付き合いが相当に長いこともあって、そういう臨也の癖に静雄は既に気付いている。
 そして、今の場合のターゲットは、これから行こうとしている店だと話の流れから直感していた。
 臨也のことだから、おそらくネットや自分の協力者を駆使して、新宿駅界隈の店を虱潰しに調べたのに違いない。自分の好みと静雄の好みを考え、そうして選びに選んだ店だが、だからといって、静雄が気に入るとは限らない。
 そんな不安と、不安を感じていることそのものに対する苛立ちが、やたらと攻撃的な言葉を選ばせているのに違いなかった。

「──俺の選んだ店に文句つけたら、もう二度とシズちゃんとは一緒に御飯食べないし、飲みにも行かないよ。ていうか、もう、うちのマンションにも入れてやんない」
「だから、言わねぇっつってんだろ」
 いつもは嫌味なほど滑らかに返す言葉が一瞬遅れるのは、何か図星を言われた時か、予想していなかったことを言われた時。
 パターンを理解してしまえば、何とも分かりやすい。だからといって、扱いやすいわけではなかったが、そんなことは最初から承知しているので気にならない。
「で、店はどの辺なんだ」
「もう直ぐだよ。看板が出てるはず……あ、あれだね」
 前方を見晴るかした臨也がわずかに目を細めて、細い路地の入り口にある立て看板を指差した。
「駅からそんなに遠くないな」
「わざと近くにしたんだよ。シズちゃん、池袋まで帰んなきゃいけないだろ。気遣ってやったんだから感謝してよ」
 三秒の間だけ、静雄はその言葉の意味を考える。
 何の裏も含んではいなさそうだが、逆にそれは、終電間際まで飲むこともできる、という意味も含んでいるのではないだろうか。
 かつて毎日のように池袋の街で殺し合いを繰り広げ、サイモンにどつかれては二人で渋々肩を並べ、露西亜寿司で遅い夕食をとっていた頃、時折、日本酒やビールがカウンター上に載ることもあったから、互いの酒量は一応、知っている。
 一言で言えば、臨也は酒に強い。が、静雄はそれ以上だ。並の人間なら泥酔か、あるいは急性アルコール中毒になりそうな量を飲んでも、ほろ酔い程度にしかならない。
 加えて、池袋最強の異名を取る静雄が、酒を飲んで夜道を歩いていたところで、危険なことなど何一つない。
 つまり、普通なら心配しなければならないような飲酒による問題は、静雄の身には最初から起こり得ないのである。
 なのに、わざわざ駅の近くの店を選び、それを口に出すとは。
 そのことを指摘するべきか否か、一秒だけ迷った後。
「そりゃ助かるな」
 短く静雄は応じた。
 指摘すれば、臨也はまたあれこれ混ぜっ返し、言い返してくる。関係が変わる前まではムカつくばかりだったそれも、今はどちらかというと面白かったりするのだが、やはり面倒には変わりない。
 だったら、意図してか否かはともかくも、微妙に可愛い気配のする発言を心の中で楽しんでおこう、と思う。
 こういうの、ムッツリっていうのか?、と自問する静雄の隣りで、言い返されなかったことが面白くないのか、あるいは、自分の失言に気付いたのか、軽く眉をそびやかした臨也は、面白くもなさそうな表情で「こっち」と、立て看板の表示に従って細い路地を曲がった。
 ───以前からは考えられねぇよな。
 触れそうな距離、と言うほどではないが、右肩の直ぐ横に臨也のコートのファーがある。
 不意に静雄の裡で、今更ながらに、臨也とこうして歩いていることに対する不思議さが勝ってきて。
 人生なんて分かんねぇもんだな、と静雄は、何とはなしに、あの夜から今日までのことを思い返した。

*               *

 手のひらが触れている肌は、こんな冷え込んできている初冬の雨の夜だというのに、ひどく熱かった。
 やべぇんじゃねえのかコレ、と思う間にも、臨也は街灯の光を受けてきらきらと反射する、まだうっすらと濡れた瞳で、挑発的に見上げてくる。
「……俺が何言ったって、信じないくせに」
「手前が信じられるような真似をしたことが、これまで一度でもあるかよ」
「───…」
 馬鹿か、と思いながら言い返すと、さすがに返す言葉がないのか、黙り込む。
 その様子に本格的に呆れながら、頬に当てていた手を額にずらした。すると、手のひらに感じる熱は更に熱い。
「熱、上がってきてんじゃねぇのか。さっきより熱い感じするぞ」
「この状況で下がるわけないだろ、シズちゃんじゃあるまいし」
 この期に及んで、まだ言い返す。その根性には脱帽するものの、はっきり言ってウザい。とっとと根を上げればいいものをと思いながらも、静雄は相手は病人なのだと懸命に気持ちを落ち着かせた。
 ぷちっと潰してやりたくてたまらない天敵であっても、病人を殴るのは卑怯者のすることだ。人間、やっていいことといけないことがある。
 鎮静剤代わりに、幽とトムの顔や言葉を思い浮かべ、どうにか落ち着いたところで、口を開いた。
「……ったく、手前は、俺を怒らせたいのか怒らせたくねえのか、一体どっちなんだ」
「二者択一なら、怒らせたいに決まってるだろ、勿論」
「なんで決まってんだ」
「──普通なんて、面白くも何ともないじゃん」
「手前は一体、どこまで歪んでんだ」
 一体どういう理屈か。ここまでくると呆れるしかない。
 だが、臨也は更に言葉を重ねてくる。
「俺が歪んでなかったら、シズちゃんは俺に気付きもしなかっただろ。歪みまくった俺はシズちゃんが大嫌いで、自分の手でどうにかしたくてたまらなくて、そんな俺をシズちゃんは大嫌い。相性ぴったりじゃないか」
 病人相手なので、大人しく聞きはした。が、内容のあまりの馬鹿馬鹿しさに、静雄はそれ以上の忍耐を放棄することに決める。
 ここにいるのは、ただの熱でおかしくなった病人だ。まともに話を聞いても仕方がない。
 そう結論付けて、溜息混じりに額に触れたままだった手を離し、臨也の胴体に移動させる。
「どこがだよ。……ったく、暴れんなよ」
「へ?」
 一応、そんな風に一声だけかけてから、背負い投げにも似た要領で素早く自分の体を反転させ、背中にに担ぎ上げた。
「え、うわっ、シズちゃん!?」
「新羅んとこ行く。手前、さっきから言ってることが支離滅裂だぞ。薬もらって飲んで、寝ちまえ」
「そんなの自力で行けるよ! 下ろしてってば!」
「下りられるもんなら下りてみろ。ヘロヘロのくせに」
 途端、ぎゃあぎゃあと騒ぎ出した臨也には取り合わず、細い両脚をがっちりとホールドして歩き出す。
 ───細い、っつーか、軽い、な。
 さすがに女子よりは体重があるが、それにしても身長の割には随分と軽く感じる。普段、喧嘩相手を投げまくっているから、成年男性の平均体重は経験則的に分かっているのだが、それと照らし合わせても、明らかに軽い。
 こいつ、まともに食ってんのか?、と至極当たり前の疑問を抱いた時、首筋にことんと重みと熱を感じた。
 どうやら潰れたらしい。
「……一体、何やってんだかな……」
 自分と相手とに呟いて。
 静雄は荷物を背負ったまま、勝手知ったる街の中を知人のマンション目指して歩いた。

 

「うん、脈拍や血圧は少し高いけど正常。呼吸音も綺麗だし、ただの風邪だね」
 深夜とまではいかなくとも十分に遅い時刻に尋ねた友人は、多少の嫌味は言ったものの、静雄が背に負っているものの正体に気付いた途端、目を丸くしつつも診察室に招き入れてくれた。
「あと睡眠不足と、ちょっと栄養も不足気味かな。まあ、過労気味で免疫が低下してるところに、風邪の菌を拾ったものだから、ちょっと症状が重くなったんだと思うよ」
「つーより、三十九度近い熱出してんのに、雨降ってる街をふらふらしてるって時点でおかしいだろ。風邪の診察より、こいつの頭の中身を見てやった方がいいんじゃねぇのか」
「まあ、僕としては是非とも解剖してみたい気はするけどね。でも、臨也のは不治の中二病だよ。治療法も処方箋も無し。本人を治療するより、周囲が諦めた方が早いだろうな」
「……マジで馬鹿だろ、こいつ」
「正にその通り。大いに賛同するよ。──で、診察は終わったから、コレ、持って帰ってくれるかい」
 新羅のその言葉に、思わず静雄は目を剥く。
「──は?」
「だって、うちは入院設備はないからね。この手術台に寝かせとくくらいはできないでもないけど、布団も予備はないから、多分、明日の朝には、こじらせて肺炎起こしてると思うよ」
「手前、医者だろ!?」
「ブッブー。俺は立派な闇医者だよ。つまり、医者としての倫理観なんかに縛られる必要なんかないんだ。だって免許自体がないんだから、医師法なんて関係ない。そして、自由人の私の意見としては、たかが風邪程度で臨也なんかを大事な大事なセルティとの愛の巣に泊めたくない」
「──じゃあ、コレどうすんだ」
「だから、持って帰ってって。臨也のマンションの場所は知ってるだろ、その前にでも捨てといたらいいよ。まあ、もう少し親切心出して、部屋まで運んでやってもいいかもしれないけど」
「……そういうわけには、いかねぇだろ。こんな熱出してんだし。いくらノミ蟲でも、このまま死んだら後味悪ぃ」
「じゃあ、静雄の家にお持ち帰りしたら?」
「────」
 新羅の暴言に、しかし即座に言い返さなかったのは、既にその可能性を考えてしまっていたからだった。
 本来なら論外のことではある。だが、高熱を出して唸っている者を見捨てるのは、たとえそれが臨也であっても、どうしても気が引ける。
 それに──付け加えるならば、一つ、気になることもある。
「……チッ、仕方ねぇな」
「え、本当に連れて帰るの?」
「手前が言ったんだろうが、それしかねぇって」
「いやまあ、そうだけど。でも前代未聞、驚天動地だよ。確かに、新宿に行くより君のアパートの方が遥かに近いけどさ」
 驚きに目を丸くする旧友に、静雄は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「こんだけ熱出して唸ってりゃ、さすがのノミ蟲も悪さはできねぇだろ。ってことは、熱出してる間は、害はねぇってことだ。……それに、気になることもあるしな」
「気になること?」
「ああ」
 うなずき、煙草を吸いたいな、と思う。だが、診察室は禁煙だ。
 諦めて、静雄は口を開いた。
「さっきな、こいつが妙なことを言ってやがったんだよ。──不公平だってな。傷付くのも苦しむのも自分ばっかりだって」
「──へえ」
「熱に浮かされた馬鹿の戯言(ざれごと)っつーには、何か様子がおかしくてよ……。何つーか、必死、に見えた」
「それはそれは」
 感心したように新羅が相槌を打つ。
 確かに、必死、などという形容は折原臨也という男には決して相応しくない。
 だが、霧雨の中で臨也の目から零れ落ちた涙は、多分、本物だった。少なくとも、静雄にはそう見えたのだ。
「不公平、ねえ。まあ、臨也から見たら、そうなのかもしれないね」
 白衣の両腕を胸の前で組んで、新羅は診察台に軽く体重を預ける。
「──分かるのか?」
「いいや、臨也が何を考えてるかなんて、知ったことじゃないよ。でも、八年以上も端から見ていればね。
 臨也は君を潰すために全身全霊を使ってるのに、君は潰れない。一人で進化し続けている君に、どんなに頭が切れても肉体的には並みの臨也は、決して互角にはなれないんだよ。
 その状況を臨也なら、不公平と呼ぶかもしれない。俺に言わせれば、仔鼠が巨大な岩に戦いを挑んでいるようなもので、そもそもが常識外れの気狂い沙汰、不公平もへったくれもないんだけどさ」
「───…」
 新羅の言ったことを考えながら、静雄は診察台を兼ねた手術台の上の臨也を見つめる。
 ぐったりと意識を失った臨也の頬は赤らみ、細い眉はかすかにしかめられて、薄く開かれた唇からは浅く速い呼吸が絶え間なく零れ落ちている。
 確かに、馬鹿の所業だった。
 誰もが恐れ、目を背ける平和島静雄という存在に、飽きもせず八年以上もナイフ一本と、その頭脳だけで立ち向かい続けてくる。改めて考えてみれば、なんと愚かな行動だろうか。
 だが、愚かな行動を何よりも嫌っているはずなのに、臨也は決してそれを止めない。
 止めないばかりか、今夜、心底悔しそうに不公平だと、苦しいと訴えてきたのだ。
 その言葉が意味する真意は何か。
 一見、狂人のような行動の底には、一体どんな感情があって彼を突き動かしているというのか。
 初めて静雄は、そのことに意識を向ける。
「……こいつは一体、何をしてぇんだ?」
「さぁね。その答えは臨也しか知らないよ。というわけで、テイクアウトするのなら、さっさと連れて行ってもらえるかな。そろそろセルティが仕事から帰ってくる予定の時間なんだ」
「──分かった」
 これ以上、ここで新羅相手に問答していても、欲しい答えは得られない。
 うなずいて臨也を担ぎ上げる。
「じゃあな、世話になった。診療代は、こいつからボッタクってやってくれ」
「勿論、そのつもりだよ」
 そして、玄関先まで新羅に見送られ、静雄は再び臨也を背に負って、今度は自分のアパートへと帰った。

 

 臨也の熱は、新羅が打ってくれた解熱剤の効果も有り、一旦は下がったが、明け方には薬の効果が切れたのか、再び上がり、その時点で、静雄は今日、出勤することを諦めた。
 ノミ蟲如きのために仕事を休むなど、業腹(ごうはら)もいいところだが、自分のアパートで熱を出して唸っている人間を放置してゆくわけには行かない。そうした挙句、帰宅してノミ蟲の死骸を見つけるよりは、有休を一つ潰す方が、まだマシだった。
 苦虫を噛み潰しながら、携帯電話を持ってキッチンに移動し、トムに電話をかける。
 朝七時を過ぎたところで、ちょっと早いかと思ったが、出勤時間は八時半であり、洒落者のトムは身支度に時間をかけることを静雄は知っている。思った通り、四回目のコールでトムは電話に出てくれた。
『おう、どした?』
「おはようございます。朝早くからすみません」
『いや、もう起きてたしよ。で、なんだ? お前がかけてくるなんて珍しい』
「あ、はい。その、急で申し訳ないんすけど、今日、休ませてもらえないですか」
『ん? 何か急用か?』
「はい。ちょっと知り合いが熱出して寝込んじまって……。他に看病してやる奴、居ないみたいなんで。こんな理由で休むのは申し訳ないんすけど……」
『ああ、そういう話か。まあ、しゃーねえわな。分かった、俺から社長には言っとく』
「すみません」
『いいっていいって。お前が弱ってるダチを見捨てることとか絶対できねぇ奴だってのは、よく分かってるしな。まあ最近、休みも取ってなかったし、お前もついでにゆっくりすればいいさ』
「すみません、ありがとうございます」
『おう。じゃあな、ダチにもお大事にって言っといてくれや』
 そんな風に軽く笑って、通話が切られる。
 携帯電話を下ろしながら、静雄は、ほう、と吐息を漏らした。
 これまでに有休を取ったことは何度かあるが、こんな理由で欠勤したことは一度もない。ましてや、その原因が臨也ということもあって、必要以上に緊張してしまった。
 クソッと舌打ちしながら、奥の部屋に戻り、問題のノミ蟲を見下ろす。
 熱が辛いのだろう。意識はないのに、やはり眉は軽くしかめられていて、ひえぴたを貼った額には汗が浮いている。
 だが、汗が出るということは、熱自体は快方に向かっているということだ。
 昨夜、新羅のマンションに担ぎ込んだ時は、熱は高いのに肌は乾いていた。あの時はまだ熱が上昇中で、しかしピークは薬で抑えられているうちに過ぎたということなのだろう。
 そんなことを思いながら布団の傍らに屈み込み、そっと額に落ちかかる前髪に触れると、汗に濡れた地肌が指先を掠めた。
「この分だと、体も汗だくだろうな」
 呟き、布団の端から除いている黒いインナーに指先を触れると、案の定、じっとりと湿っている。
「仕方ねぇな」
 溜息混じりに立ち上がり、点けてあったストーブの火力を最大にして、押入れの衣装ケースから下ろして間もないシャツとトレーナーパジャマを取り出す。
 それから、バスルームの方へ行き、タオルを熱めの湯で絞った。
「ったく、この借りは返せよ、ノミ蟲くんよぉ」
 ぶつぶつとぼやきながら額に浮いた汗を拭いてやり、乱暴にならないように一応気をつけつつ、汗に濡れた服を脱がせて着替えさせる。
 その際に、ちらりと下着に目をやったものの、まさかそこまで着替えさせられたら憤死するだろうと、手は触れなかった。
 汗で湿っているのは気持ち悪いだろうが、静雄とて、意識のないうちに他人の手で下着を着替えさせられたら、その相手を殴り殺す自信がある。そして、そこまでの羞恥プレイを他人に強制するほど、静雄は残酷な性格でもなかった。
 そうして元通りに布団に寝かせてやり、ひえぴたを新しいものに取り替えてやる。
 一連の世話の間に触れた肌はやはり熱かったが、昨夜に比べれば随分とマシで、三十八度ちょっとくらいか、と思いながら、静雄は脱がせた服を洗濯するべく立ち上がる。
 熱はもうそれほど高くもないのに、これだけのことをしても目が覚めないというのは、それだけ体が休息を欲しているのだろう。
 一体どれだけ不摂生していたのかと呆れながら、静雄は洗濯機に洗濯物と洗剤を放り込み、スタートボタンを押した。

to be continued...

シズちゃん視点。
ほぼフルサイズに近いダイジェスト版で、少しだけ続きます。

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