cat-and-dog 2

「シズちゃんがお酒強いなんてぇ、俺、知らないんですけどー」
「俺だって教えた覚えはねぇよ」
 ぞんざいに答えながら、向かい側の席で半分潰れかけている臨也を静雄は見下ろす。
 そうして、どうしてこんなことになっているのかと、改めて記憶をたどった。

 今夜もホストクラブの客引きとして普通に働き、その間に五本のプラカードを破壊した。それもまた通常運転だ。深夜になればなるほど訳の分からない因縁を吹っ掛けてくる酔っ払いは増えるし、臨也も二時間に一回は店の表へと出てくる。
 そんな連中に絡まれてキレずにいるのは不可能だったし、プラカードを壊さずに済ませることも、また難事だった。
 だから、そこまでは普通だったのだが、今夜に限っては臨也が妙な賭けを持ちかけてきていたのである。
 『合計で四本以上のプラカードを閉店までに壊したら、焼き肉を奢る。』
 それを承諾したつもりなど静雄はこれっぽっちもなかったが、抗議して聞く臨也でもないし、ケツの穴が小さいんだねとせせら笑われたら、そこから先は売り言葉に買い言葉だった。
 そして今、明け方まで営業している焼き肉屋で、何故か臨也が潰れかけ、くだを巻いている。
 まったくもって、訳が分からなかった。

「ずるーい。なんで隠してたの、酒に強いって」
「隠してねぇよ。手前の前で飲む機会がなかっただけだろうが」
 接客係の臨也と違い、営業時間中、店の外に出ている静雄が酒を口にする機会などまずない。だからが、互いの酒癖を知るはずもないのは当然のことである。
 だが、臨也には納得できないらしい。
「もー、絶対に弱いと思ったのに……」
「なんでだよ」
「なんとなくー。イメェジー」
 テーブルに懐いた姿勢で語尾を伸ばして喋る臨也に、ぐだぐだだなと静雄は思う。
 その姿の方が、静雄にしてみればむしろ意外だった。
 ホストクラブのナンバーワンであるのだから、臨也は当然、勤務時間中にも常に酒を口にしている。
 だが、これまでの半年間、静雄は臨也が酔い乱れたところを見たことがなかった。よほど酒に強いのか、飲んでいるふりをして実は殆ど飲んでいないのか、どちらかだろうとぼんやり思っていたのだが、どうやら後者であったらしい。
 決して弱くはないのだろうが、焼き肉屋で焼酎のロックを数杯空けただけで、この様である。勤務時間中からの累積があるとしても、格別に強いとは言えないようだった。
 対して、静雄はと言えば、本来の体質は酒には強くないのだと思っている。
 何しろ、初めて飲酒をした時にはコップ一杯のビールでひっくり返ったのだ。
 だが、やたらと回復と機能強化に長けた特異体質の肉体は、アルコールを摂取する度にパワーアップしていくらしく、前回の飲酒と同じ酒量であれば決して酔うことはない。
 特に酒が好きというわけではなかったから、大してありがたい話でもなく、むしろ、半端な量ではほろ酔いにすらなれないことの方が最近となっては何となく寂しかった。

「ほんと、ずるい。俺に隠してること、まだいっぱいあるでしょー?」
「隠すも何も、話すようなことなんざありゃしねぇよ」
 毎日仕事をして、飯を食って寝る。静雄の生活は絵に書いたような単純さだ。
 喧嘩の多さや、それが原因での転職の多さは世間並みから大きく外れてしまっているが、だからといって他人に語れるような人生を送ってきたわけではない。
 だが、臨也の追求は執拗だった。
「あるよー。たとえばぁ、そのグラサンとかー、ジッポーとかー」
「あ?」
「借金持ちの君にしたらぁ、たっかいブランドでしょー? それ、誰にもらったの?」
 少々怪しい呂律で問われて、静雄は眉をしかめる。
 それについては、今夜の営業開始からそれほどは経っていない時間帯にも言われたような気がする。
 その時は、手前には関係ないとか何とか言ってかわしたはずだったが、意外にも臨也の中では根の深い謎だったのだろうか。
 確かに、今の静雄の経済的状況からすれば、分不相応な品々である。違和感を覚えるには十分だったのかもしれない。
 だが、答える必要性は、やはりどこにも見つけられなかった。
「手前には関係ねぇ」
 甘いオレンジブロッサムのグラスを傾けながら、突っぱねる。
 が、
「まーた、そう言って意地悪するー」
 その声が意外なほど近くで聞こえて、静雄はぎょっとなった。

 二人が居る席は、掘り炬燵形式の個室だった。
 七輪の載った四角いテーブルを挟んで向かい合っていたはずなのに、いつの間にか臨也が九十度の角度、というより、殆ど真横にまでにじり寄ってきている。
 そして、その爪先まで磨き抜かれた形のいい手が、すうっと静雄の顔に向かって伸びてきて、何をするつもりなのかと身構えた静雄に、臨也は悪戯っぽく微笑みかけ。

 静雄の頬に手を添えて、素早く唇を奪った。

 ちゅ…、と可愛らしいリップ音を立てて臨也の唇が離れてゆく。
「キスしちゃった」
 実に嬉しそうな邪気のない笑顔で言って、臨也は小さく首をかしげる。
「あんまり煙草の匂い、しないね?」
「そりゃあ、これだけ飲み食いしてりゃあな。俺は食ってる間は吸わねぇ……って、違うだろ! 手前、何しやがる!!」
「キスだよー」
 シズちゃん知らないの?、と言うのと同時に、臨也はまた顔を近付ける。
「じゃあ、キスも知らないかわいそうなシズちゃんにー、俺が教えてあげるー」
「要らねえっつーの!」
 ぐいと肩を押して突っぱねれば、元々の膂力の差もある上に、相手は酔っ払いである。臨也は簡単にころんと畳の上に転がった。
「シズちゃんのケチーぃ」
「そういう問題じゃねえ!!」
「減るもんじゃなし……」
「減る!!」
 精神力は確実に減る。
 そう思いながら、相手が離れたことにほっとして静雄は一つ息をつく。
 そして、臨也を見やれば、起き上がってくる気配はなく。
「畳って気持ちいいよねぇ。うち、畳の部屋ないからさー」
「そうかよ、そりゃ良かったな」
「うん」
 相変わらず、普段の取り澄ました顔はどこに蒸発したのかと思うほど緩んだ表情で、臨也はうなずいた。
 やっと静かになった、と煙草を取り出し、火をつけて一吸いして。
 まったく、何が教えてあげるだ、人のことをキスも知らねぇ童貞みたいに言うんじゃねぇと心の中で文句を付けながら、そのままゆっくりと煙草をくゆらせていた静雄は、はっと我に返り、臨也を振り返った。
「おい臨也! 寝るんじゃねえよ!!」
 肩を揺さぶったが、既に時遅しである。
 畳に転がったまま、酔っ払いは安らかな寝息を立て、実に気持ち良さそうに寝入っていた。
「こら!」
 二度三度と身体を揺らしても、目覚める気配はない。こうなると、アルコールは麻酔と変わりなく、ある程度酔いが醒めるまでは目も覚めないと見てよかった。
「俺は手前のうちなんざ知らねーぞ!」
 この焼肉屋は臨也の知り合いの店のようだったが、だからといって常連客の住所など知るまいし、間もなく閉店時間であるのに放置していかれても迷惑だろう。
 かといって、自分達の勤務先であるホストクラブも、とうに無人となって施錠されているはずである。
「……連れて帰れってのか?」
 路上に放り出しておいても凍死する季節ではないし、実際、この街には酔い潰れた人間が路肩に転がっていることも、それほど珍しくはない。
 だが、臨也はこの街では名の知れたホストだ。一目につく所に放置して帰れば、店長に雷を落とされるのは静雄に決まっていた。
 どれ程考えても、他に選択肢などない。
 うんざりした目で静雄は気持ち良さそうに寝こけている臨也を見つめ、深い溜息をついた。

*               *

 意識のない人間は重いというが、桁外れの膂力を持つ静雄にしてみれば、臨也の体重など猫の仔と大差ない。
 ナンバーワンホストを背中に背負って、店が借り上げているアパートの一室に帰り着いた静雄は、臨也をラグを敷いたフローリングに転がし、自分はシャワーを浴びた。
 一晩分の汗を流し、少しすっきりしたところで室内に戻れば、相変わらず臨也はすうすうと眠っている。
 焼肉屋に入った時点でジャケットは脱ぎ、シャツの襟元のボタンも外していたから、寝苦しいということはないだろう。
 今の季節なら、服さえ着ていれば毛布無しで寝ても風邪を引くということは、まずあるまい。ならば、このまま起きるまで放置で良いか、と静雄は判断する。
 そして、臨也の傍らにどかりと腰を下ろした。
「──寝てると全然印象違うんだな」
 彼が際立って整った顔をしていることは、初対面の時から認識している。
 だが、余程相性が悪いのか、勤務初日から喧嘩続きであるため、嫌味なニヤニヤ笑いの方が印象に先立ってしまうのだ。
 しかし、今、静雄の目の前にいる臨也の顔は、いっそ優しげと形容できるほどに穏やかで美しかった。
 輪郭は綺麗な卵形で、髪の毛は絹のような艶のある漆黒。肌はすべすべの陶器のようで、睫毛は長く生え揃っている。
 小さめの鼻は真っ直ぐに筋が通り、品の良い形の唇はうっすらと開かれて、白真珠のような歯が微かに覗いている様は、まるでキスを誘っているかのようだった。
「この顔でにっこり笑われたら、そりゃあ客も騙されるよなぁ」
 顔ばかりでなく、臨也は話術も立つ。話題が豊富な上に人の心理を読むのも得意なようで、実に的確に相手の求める、静雄に対しては気分を逆撫でする言葉を発するのだ。
 静雄はホストクラブに勤めるのは初めての経験だったが、彼が並みのホストとは全く違う存在であることは、その姿を見た瞬間に分かった。
 シックな内装の店内で、天井から吊るされた巨大なシャンデリアのさざめく光に照らされた臨也は、人外のものかと見まごう程だった。──もっとも、その錯覚は五秒後、彼が嫌味ったらしく微笑んで口を開いた瞬間に霧散したが。
「こうやって黙ってりゃあな……」
 呟き、手を伸ばして臨也の髪に触れる。
 癖のない黒髪は、少しだけひんやりとした感触でさらさらと指の間を流れ、触れているだけでも気持ちよかった。
 しばらくの間、寝顔を見つめて。
 それからおもむろに床に手を付き、顔を近付ける。
「────」
 触れるだけのキスは、特に何の感慨ももたらさなかった。
 ほんのり温かくて、やわらかい。それだけだ。
「やっぱ起きてる時じゃねぇと、報復にはならねぇか」
 先程は突然のことであったし、明らかに冗談であったから、驚きもしたし気を悪くもしたが、男同士である、ということには、取り立てて違和感も嫌悪感もない。
 同性愛もこの街では珍しいものではないこともあるだろうが、それ以上に、臨也が相手だからだろう。
 臨也の見た目に女っぽいところは微塵もないが、彼ほどに蠱惑的な容姿をしていると、それに晒される側は性別など関係なくなってくるのだ。
 こうして目を閉じていれば、まるで無垢な聖人。一度目覚めれば、まるで性悪な悪魔。その相反する魅力は、半年間いがみ合い続けている静雄でさえ認めないわけにはいかない。
「続きは明日だな」
 小さく呟いて、静雄は立ち上がり、寝支度を始める。
 半日も過ぎて目が覚めれば、途端に臨也は何かしらの嫌味を言ってくるだろう。
 想像するだけでもうんざりするが、大人しくしおらしい彼など気色悪いだけである。となれば、静雄としては売られた喧嘩は買うだけだった。
「とりあえず、キスの分だけは返さねぇとな」
 たかが唇が触れ合ったくらいで、初心な小娘のように騒ぐつもりはないが、やられっぱなしは全く性に合わない。
 少なくとも倍にして返してやろうと心に決め、狭いシングルベッドの上で静雄は目を閉じる。
 カーテンの向こうでは既に空は白んできている。
 一晩中輝き続けた不夜城も朝の光に沈み、夜まで束の間の休息にたゆたい始めている中、静雄はゆっくりと深い眠りの中に落ちていった。
 

End.

なんとなく勢いで、シズちゃん視点です。
もう1回、続くかな?

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